軽井沢から国分寺の我がねぐらに戻って………やっと、カラダと心が静かになった。明日はもう立秋………桜の樹々の蝉たちの、一際真に迫った大合唱………分バスの石の椅子に座って遠く青空を眺めるていると………雄大な浅間山の上を一時も止まることなく、悠々と流れていく雲たち………爽やかな草原の風に揺ら揺らなびいている草花たち………が目に浮かぶ………昨日は泡のようにきえて………ヒサコサン、マエヲムイテ!………誰かがどこかで呟いた。
そうだ、旅の後は大洗濯。洗濯機が洗濯し、干すのはアキラ、たたむのは私の役目。ボンヤリしてはいられない。赤ちゃんみたいに小さくて、マシュマロみたいに柔らかく、サボテンみたいな形の私の手………ガンバレ、ガンバレ………と言いながら………丁寧に畳んでいく………いつになったら終わるのだろう………。
洗濯畳みの後は(天使館の明かりがついて、オイリュトミー講座が始まった)、私はフランシス・ジャムの純粋で美しい詩を取り出して読む。
「ぼくが死んだら………」
ぼくが死んだら、青い目の、小さな昆虫たちと同じ色の、
水の炎の青さの目のおまえ、ぼくが心から愛し、
『生きている花たち』の中の鳶尾(いちはつ)のような少女よ、
おまえはやってきてやさしくぼくの手を取るだろう。
おまえはぼくを連れて行くだろう、あの小道へ。
おまえは裸ではないが、でもぼくの薔薇よ、
おまえの清らかな首すじは
モーヴ色のブラウスの中で花咲くだろう。
ぼくたちは額にだってキスしないだろう。
ただ、手を取り合って、灰色の蜘蛛が虹を織る
さわやかな木苺に沿って
蜜のように甘い沈黙をつくるだろう。
そしてときおり、おまえはぼくの悲しみがいっそう大きくなるのを感じとって
ぼくの手をおまえのほっそりしたてのなかにいっそう強く握りしめるだろう。
ーそして、二人とも嵐の下のリラのように切なくなって、
何もわからなくなってしまう……何もわからなくなってしまうだろう………
(1887) 手塚伸一訳