ここで私たちは、戦争の二つの方向性を明瞭に見て取ることになります。それは騎士道的な精神がまだ生きているところの戦争と、もはやそのようなものが消滅し、政治的、経済的、植民地的目的を有する戦争です。例えば近代戦争において、そのような二つの側面はもちろん明瞭に分かれているわけではなく、その戦争への根本的な衝動の中には、古代的騎士道的な衝動は生きていながらも、それは深く無意識に沈んでいて、具体的には、経済的政治的なるものがその表面に強く表れておいる、と言わなければなりません。太平洋戦争を日本の王道主義とアメリカ及びヨーロッパの覇道主義との戦いという側面で見るとするならば、八紘一宇のような思想に支えられた日本の軍部の中に、天皇による国体思想に支えられた騎士道精神は、明瞭に生きていたといえます。あるいはヒットラーにおける第三帝国の国家社会主義の淵源をたどっていくならば、すでに述べましたように、ヤーコプ・ベーメのような西洋の伝統的な神智学とドイツ騎士道精神を結びつけたツーレ協会にまで至ります。そしてこのような近代戦争の有する二つの側面が源をたどっていくならば、それらは歴史上に現れた様々な戦争の中にその痕跡は、存在するでしょう。数百年にわたるキリスト教世界からイスラム世界に向けての十字軍はその典型であり、その騎士道的な精神がその前面に出ていた戦争といえます。
もちろん一言で神聖戦争或いは騎士道的戦争といっても、その国や地域によってそのあり方は全く多様に変化しています。バガヴァッド・ギ―タ―に語られているような プルシャ一元論に貫かれた神聖戦争においては、その根幹に、戦うクシャトリアそのものに、「知識の祭祀」が要求され、その知識の祭祀の一つの実践的な形態として、戦争そのものが成り立ち得るのです。けれども、このような一元論的祭祀形態を持たないカトリック的なキリスト教においては、神と人間は完全に分離し、カソリック教会の存在なしには、それらを結びつけることができなくなります。そのことによって、二つの世界を導く教会が、絶大な権力を有するようになります。