人性三分説の観点から考えるならば人間は霊と魂と体からなるものであり、純質・激質・翳質の働きは魂の三つの側面を表している。純質は、個的な欲望から解放された共感の働きに満たされています。激質は強い欲望と願望、共感と反感の二つに支配されています。翳質は「智」から離れ、本能と一体になった魂ですが、この三つの働きに支配されている限り、人間において、仮象と実象の区別をつけることは、全くできません。古代インドで発達したサーンキャ哲学は、まずこの三つの働きを人間が認識し、それを乗り越えた時に、その魂は神々の魂に結びつくことができると説くのです。そしてこの三つの成分の消滅は、知識による「祭き」よって完成される、とクリシュナ語るのです。
仮に汝がすべての悪人の中の最も悪業の者であるとしても、
ただ知識の舟によって、汝は、 一切の罪「の大海」を渡りきるであろう。
あたかも点せられた火が、 薪を 灰に化してしまうように、アルジェナ
知識という火も、同様に、一切の行為を灰にする。
何となれば、知識に匹敵する 浄化具はこの世に存在しないから。
人がこの三つの成分を乗り越えるには、布施や信仰や様々な祭儀を通してなされるけれども、それらにもまして「知識の祭き」にほど重要なものはない、と述べ、その一切をバガヴァッド・ギ―タ―は説き明かしています。この知識とは、物質の世界に法則が存在するように、心の世界にも毀つこぼすことのできない法則が存在し、それはコトバと結びついて、人間のすべての行為の中に染み込んでゆき、人間が行為の結果に束縛されることなく、その行為を神々の働きと、一つに結ぶのです。だから、クリシュナは、戦争において、「武士は戦え、殺せ、そして勝利を勝ち取れ」と、アルジェナを鼓舞するのです。戦争という人間の最も悲惨で残虐な行為も、火が薪を燃やすように、知識よって、それを浄化することができると語るのです。
ここでクリシュナは「戦争」という宇宙の現象に対して、最も重要なことを述べています。人間は戦争という出来事に対して、様々な思い、イメージを有しているが、ここで述べているのは、人間から眺められた戦争ではなく、神々から眺められた戦争です。そこでは人間的な感情や思い込みや記憶によってとらえられた戦争についての判断ではなくて、神々の「悪を必要とする創造行為」としての戦争です。それは、「悪の可能態」が「悪の事実態」に変容していく神々の行為が地上歴史の中に入って来る、ということであるとするならば、その具体的な出来事としての戦争は、決して宇宙から消滅しないかもしれません。けれども、その人間が神々の行為の一切の結果から自由になりうるためには、知識が必要であるというのです。
現在の歴史的な過程において、このような神々によって捉えられた戦争へついでの判断が正しいか否か、それを受け入れられるか否かということを、今は脇において、何故クリシュナがそのように語るのかを考えてみたいのです。現在、人間にとって、戦争というのは、人類最大の悲劇ですが、一方それは神々から人間に課せられた最大の挑戦状であり、人間はそれを克服しなければならないものとしてとらえているが、このような人間の判断における戦争は、人類の過去の長年にわたる歴史の中で培われてきた、思いや記憶の中から生じてきたところの判断です。けれども神々は、戦争を通して宇宙を創造するという、もう一方の思いがあります。私が思うに、バガヴァッド・ギ―タ―は、サーンキャ哲学を論じるために、このバタラ族の王位継承問題を取り上げたのではなく、サーンキャ哲学という「智の総体」と悪の結びつきを、このような仕方で述べているのだろう、と思うのです。ここで描かれているのは、バタラ族の王位継承問題という前堤の中で、サーンキャ哲学を語るのではなく、行為と超行為、戦争と超戦争という対立関係、さらに言えば、神の戦争から人間の戦争へ至る過程の中で、神々が人間に何を託しているかを、アルジェナとクリシュナの問答の中に流し込んでいるのです。
ここで最大の問題に突き当たります。確かに戦争は、神話の時代、神々によって始められたのは、事実です。そして、ここでクリシュナが述べているように、神は悪を必要とする創造行為を行っている事も、否定できない事実です。ですから、そのような戦争のとらえ方が正しいか正しくないかよりも、そのような事実がまずあるということに、私たちの目を向けなければならないのでしょう。神話の時代において戦争は、最高の祭儀です。天地は戦争によって開闢したのです。そして今、これら戦争を肯定する神々の言葉に対して、人間の側からいくらでも異議申し立てをすることはできるのですが、悪を必要とする創造の結果、現在の歴史や人間や文化が存在するとするならば、人類そのものは神々の戦争の落とし子といわなければなりません。ですから、今はまず、その事実が与える意味を解き明かし、それが現在の私たちにとって、戦争を如何にに判断し、それをどう方向づけ、それを判断していくかを、考えていかなければならないのです。