自爆テロは最終自己表現か 2

始めに、どうかこのことを深く認識してください。神々による宇宙創造とは、被造物の中における自己封印であるということを。そして、神々はこの庭園と樹の幹と枝と果実の中に、自己の何一つ残らずすべて封印したということを。闇も光も、暖かさも冷たさも、悪も善も、時間も空間も、高さも低さも、過去も未来も、眠りと目覚めもすべてこの中に封印したのです。しかし何故、神々は創造行為を行わなければならなかったのですか。それは神々も人間と同じく、自己実現を果たさなければならないからです。自己の内部に眠っているものを、外に取り出さなければならないのです。そしてそれは被造物を作り出すことによってのみ、実現されるものです。創造することによってのみ、神は神たりえるのです。神々は決して完全に満ち足りた存在ではなく、創造するということは、覚醒するということであり、その覚醒ば無限覚醒に向かっての飛躍です。そしてこの「無限覚醒」とは、単に、ここに眠っているものを、揺り動かすだけではなく、それは同時に「眠り」を作り出すことであり、その作り出し「眠」の中で、再び新たに覚醒するのです。無限に覚醒を作り出すのです。神々が担ったこの無限覚醒に向けての飛躍。それはいかなるものによっても、償うことのできない宇宙的罪性。目覚めるということは、無限に罪性を引き受けることなのです。
創造物 に自己を封印するということは、被造物がその罪性を引き受けることです。「罪性への目覚め」はすでに大宇宙が生まれた瞬間、庭園全体に流れ込んだのです。そして、それは幹と枝におてさらに深められ、人間であるところの果実の中に入って、その最終形態を生じたのです。その罪性は、幹や枝においては決して実現されない、人間においてのみ生じる「悪の極北」です。この悪の顕現と引き換えに、神々は天地開闢を行いました。もし、この庭園全体を覆っている自己封印が解かれないとするならば、神々は被造物とともに、宇宙の奈落に落ちていくに違いありません。天地開闢は決して、予定調和の世界ではないのです。神々はこの「自己封印」に何かを、賭けたのです。
宇宙創造を始める以前の神は、一万個の太陽よりも光り輝く存在であり、すべてのものに無償の愛を注ぐ、共感共苦の魂であり、それは一万個の太陽よりも暖かく、そしてその運動性において、真空よりもやわらかい自由を有し、その純粋性において、雪よりも純白で、欲求、欲望、エゴイズムの片鱗もなく、そして神々の意志はいかなるものによってもこぼつことのできない、ダイヤモンド以上の硬質さに満ち満ちでいます。太陽よりも光り輝く意識の明瞭さ、いかなる苦しみも、共感に変えることのできる魂の豊かさ、真空よりもやわらかい魂の柔和さ、赤ん坊が 母親によせる雪よりも純白な信頼、悪より身を守るダイヤモンドよりも硬い砦。