マニ教は紀元後三世紀頃ササン朝ペルシャに生じ、ユダヤ教やキリスト教またグノーシス派等の世界観も結びついた二元論的宗教です。それは光と闇、善と悪、霊と物質等の二つの原理によって世界が支えられており、そこでは善と同様に悪そのものに、一つの自律した存在が、与えられています。
キリスト教の玄義である父と子と聖霊の三位一体において、「父」は、古代的な律法の世界との結びつきを、「子」なるイエス・キリストにおいては、信仰の世界と結びつき、「聖霊」はキリストが昇天した後に、世界に与えられたキリストに替わる救済の力を表していますが、マニは自身をこのキリスト亡き後のパラクレートと考えていたのです。このパラクレート存在とは、全く新しい「魂」の力を人類史の中にもたらすという意味を持っていますが、その存在のことをマニは、「寡婦の子」と呼んだのです。すなわち、自分にはもはや父はいない「やもめの子」であるという意味です。ここで言う「父」とは宇宙を導く霊の働きのことですが、パラクレートとしての「寡婦の子」においては、もはや宇宙を導く霊は直接、人間に働くのではなく、魂の中に自分自身の自我と結びついた救済の力が生じるという意味です。この救済の力としての自我は「自律した悪」に向かうことができます。それは悪を自身の内から、消去するのではなく悪と完全に対峙し続ける事によってです。マニ教が語る伝説とは、そのように光の国と闇の国が存在し、対峙しあっているのですが、光の国は満ち足りていて、そこには善だけが存在しています。この光の国に始めに戦争しかけたのは、闇の国ですが、闇の国は光の国を征服することができず、その結果、闇の国は光の国によって罰を受けることになったのです。その罰とは宇宙から闇の国を葬り去ることではなく、光の国はその光の一部分を闇の国に投げ込み、闇が光の中を生きるという無限の試練が与えられたです。この闇にまじった光の中から人類が生じました。ですから、ここで人類が担った課題とは、悪と完全に融合することによって悪を克服するという試練なのです。悪は解放されなければならないのですが、それは闇の国が自身を克服することによってです。そしてこのことがマニ教においては宇宙創造と人間の歴史の無限の過程なのです。
私たちは外的対象を一つの実体として眺め続け、それによって、一切の人生を形成していますが、その限りにおいて、創造は決して始まらないのです。外界のすべてが仮象であって、その仮象に向かって、常に内なる能動的な力が働き続けることによって、そこに宇宙創造の無限の熱が現れるのですが、この無限の「悪の可能態」としての仮象の世界が、悪の事実態にまでもたらされるというのが、宇宙創造の現実です。それに意味において、マニ教の伝説は、過去の伝説ではなくて、現在進行形なのです。
あの人間は限りなく犯人のように思えるが、犯人ではない、、、
これは限りなく生きているように見えるが、死んでいる、、、
神のように美しいが、神ではない、、、
悪の働きの根源とは、この仮象の世界を実体にすりかえる力です。私たちの人生、歴史、文化、自然界の中には限りなくこの仮象が実体として存在し続け、その事を基盤にしてしばし私たちは生きる目的や根拠を作り出しているのです。そして、進んでこの無限に「そのように思える」仮象の中にとどまろうとするのです。そしてこの無限の積み重ねの結果、「悪の可能態」が完全な「悪の事実態」に移行していくことによって、神の創造行為は一つの極へ向かって無限に高められていくのです。これは神々が人間に与えた最高の挑戦状のようなものかもしれません。神々が宇宙創造の始まりに自身を取り囲んでいる「悪の可能態」としての「仮象の世界」に対峙し続けることによって、「創造の熱」を生み出したように、現在、人類が新しい「公転」を始めようとするならば、マニ教的な天地開闢の時間を今、この日常生活の中に持ち込まなければならないのです。もし世界が完全に一元的であるならば、人間は、いかなる悪をも行いうる可能性を有しません。どんな悪も善にしかならないのです。反対に、宇宙が完全に二元的で善悪が対峙し続ける限りにおいて、人間は悪を選ぼうが善を選ぼうが、それはどちらでも同じです。完璧な二元論に絶対的な価値を決定することなどできないからです。
けれどもマニ教が一元論であるか、二元論であるか、三元論であるが、それは、どうでもいのです。人間の「能動的な働き」とは、思想の一切を宇宙的事実から生み出すのではなくて、自分自身の内部から生み出すことができるからです。人間は二元論を一元論にする力があります。一元論であっても反対に二元論として、人間を組み立てることができます。もはや、人間の思想は外界に依存する必要は全くないのです。自身の内部から、何を生み出すかだけです。その意味において、たとえマニ教が完全な二元論を展開しているとしても、人間がその善悪二元論をカラダにどう引き受けるかだけが問題なのです。それは全能なる神が「可能態としての悪」に向かいつつ、その能動性が外界に全く依存していないのと同じです。例えばルドルフ・シュタイナーはマニ教のこの二元論を、次のようにとらえています。もし宇宙が善の一元世界であるならば、破壊も悪も破滅も存在せず、永遠の光だけです。もし人間がその光の王国の中に、そのまま創造されたとするならば、人間に、神が行ったのと同等の言葉の力、宇宙創造力を移転させることなど決してできないのです。そこで神は何を行ったか・・・・・・・・・神は永遠の悪を「演じ続けた」のです。神は永遠に「悪の仮面」をつけ続けたのです。神は悪を演じ続けることによって、人間に宇宙創造の力を伝達した、というのです。「悪の劇場宇宙」・・・これを仕組んだのが神々であるというのです。もし、人間がこの悪の演劇構造に目覚めなかったとするなら、宇宙はそのまま奈落に落ちてゆくでしょう。悪はもともと実体としては存在し得ない「虚」のものです。善は外側に何者も依存しない能動性に満ちた存在です。すべてのものを「内部から」創造するのです。そして悪が善と同じく「能動性」を持ち得るとするならば、それは、「可能態としての悪」なのです。「演じられた悪」なのです。善はそれ自体では停止しています。宇宙の創造においては、「演じられた悪」が先に活動を始めることによってのみ、光は活動することができるからです。光だけでは活動できないのです。その虚構を実の悪に変えてしまってのは、人間です。ですから、マニ教の善悪二元論を、人間のカラダを通して描こうとするならば、「全能」と「演じられた悪」の二つなのです。そして、この事を古代インドにおいて、壮大な叙事詩として描いているのが、「バガヴァッド・ギ―タ―」です。