カラダの食べ物

今日は春の嵐。日本中が荒れていると天気予報が言っている。外出自粛が続いているので、訪れる人もなく静かな一日。この時とばかり、アキラは専ら机に向かって何か書いている。
この家に引っ越した時に、本棚の上段に置いたままの箱を取ってもらった。中身は、書きかけのノート数冊。雑草だらけの私の頭の中が出てきたような恐ろしさ。
お気に入りの詩句あり、意味不明の言葉、ニーチェ、シュタイナー、万葉集の歌、食料品の買い物メモ、ダンス公演の感想、思いついた言葉、友人とのアポイントメント、自分勝手な哲学まがいの気取った論考、ある日の日記………目まぐるしく、全く統一感がないではないか。頭の中の雑草は老化現象ではないらしい。恐る恐る読んでみる。
昭和52年2月5日(土)晴
……夜、大野先生の稽古に行く……ある部屋に入ると、真っ黄色な蝶がいて、いっせいにヒラヒラと飛んだ。腐敗した死体。蝶に喰われた肉体。蝶を踊るときには、蝶であってはならない。あてどもなく広がっていくイメージ……。自由であるはずの肉体が、こうも硬直して動かない。
帰り、豊田行きの電車の中に、すす汚れた中学生が一人座っていた。どこまでいくのだろうか。アメリカ人の酔客が、車内で大騒ぎしているのに目もくれず、彼自身でも抱えきれないほどのものを背負っているかのようだ。涙が出てくる。家に着くまで少年の面影が消えなかった。電車を降りる時、持っていたチョコレートをあげればよかった、と今でも悔やまれる。
 
子育て真っ最中の1年間、上星川の大野先生の稽古場に通っていた頃のこと。若かった。翌年春、リウマチの診断を受けた。以来「言葉」が、私のカラダの食べ物、いのち、ダンスになる。

書きかけのノート類
書きかけのノート類