及川廣信先生のこと

及川廣信先生が、9月5日93歳で旅立たれた。先生とは、生前一度だけお目にかかっただけなのに、私の心にはなぜか先生が住んでいた。というのは、国分寺の北口にあった伊庭野眼科の伊庭野先生は、及川先生のお姉さまだったからだかもしれない。天使館を造り、子育て真っ最中の頃、生来眼が弱い私は、目に異常をきたすと直ぐに伊庭野先生に診ていただいていた。先生は、私が大野先生や土方さんと面識があると知ると、とても嬉しそうに弟の及川先生のことを話してくれた。
「あの子はね、優しくて、明るくて、とてもひょうきんで………よく私の息子を相手に、面白い話をして笑わせたり………。フランスに留学する時、友だちを信頼してお金を預けて行ったのに、その友だちがお金を持って逃げてしまって、彼はスッカラカン。人がよすぎたのね。当時外国送金はとても難しく、真っ黒に塗りつぶした新聞紙にドル札を包み込んでフランスに送ってやったものだわ」
伊庭野先生のお話ぶりは、まるで目に入れても痛くない愛する我が子のことを話す母親のようだった。小柄な伊庭野先生は、ノリのきいた白衣を着て、キュッと締まったブラウスの襟元にブローチを付け、背筋を真っ直ぐに伸ばして診療室の中で素早く的確に治療してくださった。優しさと温かさと冷静な判断力と厳格さをあわせ持った上品で素敵なお医者さまであり、若い私にとって憧れの女性だった。
何がきっかけだったのか知らないが、三男のミツタケがダンスを始めた頃、暫くの間、及川先生の稽古場に通っていたことがあった。随分年を経たつい先日のこと、ミツタケが、ふとその当時の及川先生のことを口にした。稽古の前に受講料をお渡しすると、先生は稽古の後でいつも「これで帰りに美味しいものでも食べなさい」と言って受講料をそっと返してくれたそうだ。それを聞いて数日後、先生の訃報を知った。
私の大切な人生の先輩たち。いつまでも先を歩いてくれていると思っていたのに、私のカラダのなかに温かなぬくもりをそっと残して消えてしまった。
心もとなくさみしいけど、この温もりに感謝して育みながら、大切に先に進もう。