役立たずの私に与えられた贅沢な時間

年の瀬も押し迫まった今頃は、毎年、窓拭き、空調の掃除、戸棚の掃除、日頃ほったらかしの庭掃除など、太陽の傾きを横目で見ながら、一日中大掃除に明け暮れしていたものだが、雑巾も絞れず、しゃがむことも出来なず、包丁も握れない‥…ああ、情けない全く役立たず私………でも自分の頭の中の大掃除はできるよね。暖かな冬陽が差し込む居間の椅子に座って、日頃の積読本を読むことにしよう。なんという贅沢な時間な時間が与えられたことか!
黒川創「鶴見俊輔伝」を読み始める。約550頁の私の手には負えないほどの分厚さだ。最初の一節「福岡県門司生まれの秋山清という十八歳の若者は、………六本木の新聞店に住み込んで、配達の仕事を始めたばかりだった」という文章を読んで、いっきに頭の中に懐かしい思い出が蘇った。
1967年頃、神田神保町の出版社昭森社で編集の見習いをしていた頃、社主の森谷さんのところによく訪れるお客さまの中に小柄なおじさんがいた。お帰りになった後「あいつは詩人でね。ああ見えても筋金入りのアナーキストだ。また木遣が上手くてね」と森谷さんが教えてくれた。それから間もなく、なぜかそのおじさんと一緒に新宿歌舞伎町の飲み屋で一杯。その時の記憶は鮮明だ。江戸の鳶職を思わせる粋でいなせ浴衣掛け。突然木遣を歌い出した。張りのある美しい歌声。世の中の右も左も分からない当時23歳の私にとって、40歳以上も年上の秋山清は、そばにいて温かく寛く心地いいおじいちゃんのような人だった。
その先「鶴見俊輔伝」を読むと「有島武郎に続き‥‥大杉栄も死ぬ。その二人の死は、秋山清という若者を震撼させた。これなどがきっかけとなり、まもなく、彼は『詩らしきもの』を書きはじめる」と書かれていた。
関東大震災の大正12年、鶴見俊輔はまだ1歳だった。第二次世界大戦の末期に生まれの私の頭の中で、時空がどんどん広がっていく。大正から昭和、平成27年鶴見俊輔の死、そして、令和………。
面白い‼️ 役立たずの私に与えられた贅沢な時間。感謝、感謝。