手紙(1980.10.1) ミカエル祭の頃

クリスマス休暇で、日本に一時帰国したハノーバーに住む日本人の友人と電話で話した。
「今、ドイツもパリのテロ事件や難民受入れ問題で大変だけど、日本の報道とは、少し違うのよね。こちらでは、みんな、厳しい状況から逃れてきた人たちを快く受入れて、多くの市民が力を合わせて援助しているの。大半のドイツ人はそう思っていると思うわ」と言った。
そう言えば、家族でドイツに渡った時のことだ。驚いたことに、シュツットガルトに住み始めたその日から、3人の子どもたちの児童手当が市から支給されたのだ。外国人で、しかも学生の家族に、しかも3人の子ども全員に、児童手当(キンダーゲルト)が支給されるなんて、渡独前は思っても見なかった。その時ほど、人種を超えて子どもは守る、というドイツ人の意志を感じたことはない。今から、35年前のことだ。そのことを、ハノーバーの友人にすると、「今でも続いているの、それは」と、明るい声が返ってきた。
1980年10月1日
さて、先日の手紙にも書きましたが、レイジが遂に、学校から1時間かけて全行程を独りで帰ってきました。土曜日、ミツとスーパーの花屋で花を選んでいたら、市電の中に、赤いランドセルが見えたのです。よかった、よかった。ホッとしました。9月27日、28日は、ミツの幼稚園で,ミカエル祭がありました。その日、子どもたちの頭には、各々星、月、花の冠を冠り、手には、その年の収穫物を入れた小さなかごを持ち、一人一人、ミカエルの像の前に丁寧に並べていきます。うす紫のカペレの中に、秋の午後の柔らかな日差しが差し込み、おばさんとおじさんの奏でるフルートとトロンボーンの二重奏が、終始、静かな会堂に流れ、最後には、祭壇の前に、色とりどりの木の実、野菜、パン、果物が並び、それは美しい時間でした。ミツは、花の冠で、籠にはリンゴと葡萄と木の実を入れてあげました。それから、フラウ・マイヤーのこよなく美しい声で、ミカエルの話の歌い、子どもたちが輪になって、踊りました。翌28日は、学校の生徒のためのミカエル祭で、今度は、生徒たちが自分で作った弓と矢を持ってきて、庭に立てられた張りぼての龍を矢で射って、リンゴを貰うのです。その日もカペレでは、男の子と女の子のヴァイオリンとチェロの演奏があり、影絵の劇がありました。何から何まで初めての体験だったので、楽しく面白かったのですが、帰り際、数人のお母さんたちに囲まれて、質問されました。「あなたは、そんなに時間がないのですか?」と。何のことかと思ったら、レイジが独りで下校することを、とても心配してくれているのです。「大丈夫です」と答えたら、みんなびっくり。反対に、私が「車の送り迎えは何時までなさるのですか?」と尋ねたら「彼が独りで帰れるようになるまで」というお返事でした。私は、毎日レイジが独りで帰れるように訓練したのですが、その様な訓練は一切しないようです。自然に成長するのを待つということかもしれませんが、我が家の場合は、そんな悠長なことは言っていられないのです。きっと、日本のお母さんって「凄いなぁ」とドイツのお母さんは、さぞかしあきれたことでしょう。ではまた。お大切に。久子