自爆テロは最終自己表現か 3

もし,神々この完全な光輝、完全な共感、完全な自由、完全な純粋性、破壊することもできないダイヤモンドよりも硬い砦を守り続けたとするなら、罪性は決して生じることなく、神はただ神であり続けたに違いありません。けれども,そこでは決して宇宙創造は行われません。宇宙創造を行うということは、この完璧な神性の中に罪性を担うことであり、更にその罪性を被造物の中に流し込んで封印することなのです。けれども、罪性、悪そのものは一体どのように生じたのでしょうか。このことを考える上で二つの概念を考えなければなりません。それは、「可能態」と「事実態」という概念です。「悪が生じる」ということは、悪が一つの事実として宇宙の中に「働く」ということです。けれども、「可能態」というのは、そこに悪そのものが生じているのではなく、無限に「生じ得る」可能性が存在するという意味です。この可能態としての悪はすでに宇宙を創造する以前の、神の完全性の中に存在しています。この「悪の可能態」を消去することは、神の完全性そのものが消去することを意味しています。可能態はある一つのものが存在すると同時に、生じるのです。「存在する」ということは「不在」ということを可能態としては、すでに有しているのです。そこで「不在という可能態」を消去することは存在そのもの消滅させること、を意味しています。神が創造するということは、この悪の可能態が悪の事実態へと変化していくことでもあります。宇宙が進化発展するということ、歴史が動き始めるということ、人間が誕生し成長するということは、すでにこの悪の可能態が事実態に変化していくことです。宇宙が誕生するということはすでに宇宙が「崩壊する」ということを意味しているのです。事実、天地創造というのは、悪の始まりでもあるのです。母親の胎内に誕生するということは、もうすでに同時に胎児の中で、破壊活動が始まってるのです。