自爆テロは最終自己表現か 13

バガヴァッド・ギ―タ―が述べているのは、ただ次の一点だけです。この世界において「過ぎ去りゆくもの」と「永遠にとどまるもの」、この区別を、人間に立てられるか、という点においてだけです。そして、バガヴァッド・ギ―タ―において語られているのは、仮象の世界、見せかけの世界、演じられた世界は過ぎ去りゆくのであり、「留まるもの」とは、このマーヤを生み出した主体、すなわち神我(プルシャ)の内にあるものだけなのです。十八章で、再びこの仮象を越えるために三種の成分(グナ)について、クリシュナは次のように述べます。
差別されたものの中に無差別のものを認める、その知識を純質性のものと知れ。
他方、一切万物中に  各種さまざまの状態を、、
個別的に認知するその知識、、その知識を激質性のものと知れ。
しかし、根拠なく、一つの結果物に、あたかもそれが全体であるかのように執着し、
真相に関与しない,狭少な「知識」、それは翳質性のものといわれる。
純質性とは、記憶から全く解放された思考、歴史的な中で培われた記憶によって生じるものから全く自由な思考、自らが判断するのではなく、観察対象そのもの中から、認識内容が立ち現れてくる思考のことです。激質性とは、社会常識、記憶、固定した一般的な価値観、習慣的な思考に結びついたり、特定のイデオロギーから生ずるものの考え方です。翳質は、主観的な思考内容だけが絶対であり、他からやってくるところの思考を一切拒絶し、自分の内的な世界の中のみを現実と捉えています。これらの三つの成分は神聖なバガヴァットに由来するものであるけれども、これによって、世界がマーヤ、仮象に変ええられたのです。だから人間は覚醒した時に、この三つの成分を超えよ、とクリシュナはいうのです。けれども、クリシュナの言説の中で最も重要なのは、三種の成分を超えることによって人間が無行為になってはならないと言うのです。人間が地上でなすべきこと、その人間に与えられた行為を遂行しなければならない、たとえ世界がマーヤであっても、そのマーヤの中で身体の根本原質と結びついている義務を遂行しなければならないというのです。人間は抽象的に地上に存在するのではなく、一人一人の人間に与えられた、地上での役割というものがあるというのです。それが、古代インドにおいては、四ヴァルナ制度と呼ばれているものです。この四ヴァルナ制度についてクリシュナは、人間はこの三種の成分から 永遠に解放されなければならないけれども、しかし、この三種の成分は地上の宇宙的根源である「根本原質」から生じたものであって、この根本現実から解放されるものは天上の神々においても、いないというのです。
原物質(プラクリティー)から生じたこれら三種の成分から解放されているような存在者は、地上にも、あるいはまた、天上の神々の間にもいない。
祭官(バラモン)と武士((クシャトリア)と庶民(ヴァ―イシャ)と,並びに奴婢(シュードラ)主の、アルジェナよ、
行為は(おのおのの)の特性に  優勢な成分によって区別される。
ここで述べる根本原質(プラクリティー)とは、宇宙を一つの生命体として考えるならば、その生命の中に作用している生命法則のことです。そしてその法則には神々も支配を受けるというのです。もし宇宙にこの根本原質(プラクリティー)が働かないとするならば、宇宙は抽象的な理念に終わり、そこにに具体的な生命は現れてきません。ちょうど、眼に見えない神々の働きが眼に見える形を取るためには、地上の物質を必要とするように、根本原質は宇宙を一つの生命体に変えるための四つの力なのです。この四つの力とは天火水地(光・熱・水・土)の働きのことです。この四つの力は物質世界が存在しなくても神々の世界の土台をなしている四つの力です。そして、四ヴァルナ制度は、この四つの力から誕生したのです。
天  祭官(バラモン)
火  武士(クシャトリア)
水  庶民(ヴァ―イシャ)
地  奴婢(シュードラ)
天とは、宇宙を一人の人間と考えた場合の、「自我」にあたる存在です。宇宙のすべての運行の目的、方向性を担っている存在です。そしてこの「天」の働きを、具体的に運動に変えるときに、「火」の働きが生じます。その火をさらに具体的な個々の働きに向けて、動かしていくのが「水」の働きであり、「地」とは、それらを地上の世界に向けて、固定しようとする働きです。それらの個々の働きについてバガヴァッド・ギ―タ―では次のように述べています。
理論知、実践知、信仰は、(その)特性から生じた祭官(バラモン)の行為である。
勇敢、活気、堅忍、熟達  また戦闘において退却せぬこと、
施与、および支配的性格は、(その)特性から生じた武士(クシャトリア)の行為である。  
農耕と牧牛と商業とは、  (その)特性から生じた庶民(ヴァ―イシャ)の行為である。
また、奴婢(シュードラ)にとっては、奉仕的行為が、(その)特性から生じたものである。
そしてクリシュナはその根本原質から定められている行為をなすものは、決して罪に陥らないと述べ、そしてこの「生得の行為」はたとえ完全に遂行できす、欠陥があったとしても、放棄してはならないと述べるのです。クリシュナは次のごとく語ります。
アルジェナよ、汝ば「武士クシャトリア」という特性から生じる、自己の行為によって拘束されている。
何時が迷妄の故に、為したくないと思うことを、意志に反しても、汝は為すであろう。
主宰神は一切万物の 心臓の中に、アルジェナ、住まっている。幻術(マーヤ)によって、「人形を操る」器具につけられた(ような)万物を動き回らせつつ。
バガヴァッド・ギ―タ―が述べているのは、ただ次の一点だけです。この世界において「過ぎ去りゆくもの」と「永遠にとどまるもの」、この区別を、人間に立てられるか、という点においてだけです。そして、バガヴァッド・ギ―タ―において語られているのは、仮象の世界、見せかけの世界、演じられた世界は過ぎ去りゆくのであり、「留まるもの」とは、このマーヤを生み出した主体、すなわち神我(プルシャ)の内にあるものだけなのです。十八章で、再びこの仮象を越えるために三種の成分(グナ)について、クリシュナは次のように述べます。
差別されたものの中に無差別のものを認める、その知識を純質性のものと知れ。
他方、一切万物中に  各種さまざまの状態を、、
個別的に認知するその知識、、その知識を激質性のものと知れ。
しかし、根拠なく、一つの結果物に、あたかもそれが全体であるかのように執着し、
真相に関与しない,狭少な「知識」、それは翳質性のものといわれる。
純質性とは、記憶から全く解放された思考、歴史的な中で培われた記憶によって生じるものから全く自由な思考、自らが判断するのではなく、観察対象そのもの中から、認識内容が立ち現れてくる思考のことです。激質性とは、社会常識、記憶、固定した一般的な価値観、習慣的な思考に結びついたり、特定のイデオロギーから生ずるものの考え方です。翳質は、主観的な思考内容だけが絶対であり、他からやってくるところの思考を一切拒絶し、自分の内的な世界の中のみを現実と捉えています。これらの三つの成分は神聖なバガヴァットに由来するものであるけれども、これによって、世界がマーヤ、仮象に変ええられたのです。だから人間は覚醒した時に、この三つの成分を超えよ、とクリシュナはいうのです。けれども、クリシュナの言説の中で最も重要なのは、三種の成分を超えることによって人間が無行為になってはならないと言うのです。人間が地上でなすべきこと、その人間に与えられた行為を遂行しなければならない、たとえ世界がマーヤであっても、そのマーヤの中で身体の根本原質と結びついている義務を遂行しなければならないというのです。人間は抽象的に地上に存在するのではなく、一人一人の人間に与えられた、地上での役割というものがあるというのです。それが、古代インドにおいては、四ヴァルナ制度と呼ばれているものです。この四ヴァルナ制度についてクリシュナは、人間はこの三種の成分から 永遠に解放されなければならないけれども、しかし、この三種の成分は地上の宇宙的根源である「根本原質」から生じたものであって、この根本現実から解放されるものは天上の神々においても、いないというのです。
原物質(プラクリティー)から生じたこれら三種の成分から解放されているような存在者は、地上にも、あるいはまた、天上の神々の間にもいない。
祭官(バラモン)と武士((クシャトリア)と庶民(ヴァ―イシャ)と,並びに奴婢(シュードラ)主の、アルジェナよ、
行為は(おのおのの)の特性に  優勢な成分によって区別される。
ここで述べる根本原質(プラクリティー)とは、宇宙を一つの生命体として考えるならば、その生命の中に作用している生命法則のことです。そしてその法則には神々も支配を受けるというのです。もし宇宙にこの根本原質(プラクリティー)が働かないとするならば、宇宙は抽象的な理念に終わり、そこにに具体的な生命は現れてきません。ちょうど、眼に見えない神々の働きが眼に見える形を取るためには、地上の物質を必要とするように、根本原質は宇宙を一つの生命体に変えるための四つの力なのです。この四つの力とは天火水地(光・熱・水・土)の働きのことです。この四つの力は物質世界が存在しなくても神々の世界の土台をなしている四つの力です。そして、四ヴァルナ制度は、この四つの力から誕生したのです。
天  祭官(バラモン)
火  武士(クシャトリア)
水  庶民(ヴァ―イシャ)
地  奴婢(シュードラ)
天とは、宇宙を一人の人間と考えた場合の、「自我」にあたる存在です。宇宙のすべての運行の目的、方向性を担っている存在です。そしてこの「天」の働きを、具体的に運動に変えるときに、「火」の働きが生じます。その火をさらに具体的な個々の働きに向けて、動かしていくのが「水」の働きであり、「地」とは、それらを地上の世界に向けて、固定しようとする働きです。それらの個々の働きについてバガヴァッド・ギ―タ―では次のように述べています。
理論知、実践知、信仰は、(その)特性から生じた祭官(バラモン)の行為である。
勇敢、活気、堅忍、熟達  また戦闘において退却せぬこと、
施与、および支配的性格は、(その)特性から生じた武士(クシャトリア)の行為である。  
農耕と牧牛と商業とは、  (その)特性から生じた庶民(ヴァ―イシャ)の行為である。
また、奴婢(シュードラ)にとっては、奉仕的行為が、(その)特性から生じたものである。
そしてクリシュナはその根本原質から定められている行為をなすものは、決して罪に陥らないと述べ、そしてこの「生得の行為」はたとえ完全に遂行できす、欠陥があったとしても、放棄してはならないと述べるのです。クリシュナは次のごとく語ります。
アルジェナよ、汝ば「武士クシャトリア」という特性から生じる、自己の行為によって拘束されている。
何時が迷妄の故に、為したくないと思うことを、意志に反しても、汝は為すであろう。
主宰神は一切万物の 心臓の中に、アルジェナ、住まっている。幻術(マーヤ)によって、「人形を操る」器具につけられた(ような)万物を動き回らせつつ。