自爆テロは最終自己表現か 17

祭祀において祀られるのは神であり、祀るのは、人間の側です。なぜならば、「祭り」は天と地との間の取り持ちであり、ここを祭ることができるのは人間だけです。このとき祀られる対象である神と結びついているプルシャと、祭りをとり行う側の人間にとってのプルシャのあり方は全く異なっています。プラクリティーに内在している天火水地の悪の可能態が四ヴァルナ制度によって、事実としての悪の変化し、そのことによって、戦争が無限に肯定された時に、人間はその高まりゆく暴力に対して祭ることのできる、もう一方のプルシャをまた人間の内部において、無現に積み上げていかなければならないからです。神々に結びついているプルシャは祭祀を必要としません。それは、プラクリティーと一体となっているプルシャです。その時、プルシャにとってプラクリティーが存在するかしないかは、問題ではないのです。ただ、そのプラクリティーは、プルシャを必要としています。そこには祭祀が存在しないからです。けれども人間にとって、知識の祭祀とはそのようなプルシャと一体となったプラクリティーを求める事ではなく、プラクリティーから流れ出る人間の殺人、戦争という暴力とプルシャを祭らなければならないのです。これは一体どのような意味でしょうか。
「クリシュナよ私は、判断を得た。私は疑惑を去り、確固としている。卿の言葉を私は実践しよう。」この言葉の具体的な内実は、戦争という暴力に対峙できる、プルシャのための祭祀が行われるということを意味しているのではなく、もはや一切の疑いを越えて戦争という暴力と自己を一体化することを意味しているのです。そしてこの戦争においてはもはや「勝つ」ということが目的ではなく、「戦争すること自体」に目的があるのです。すなわち、殺人や集団殺戮を行うことによって新しい領土を獲得することではなく、一切の行為の結果を捨てて、戦争という行為と自己が一体となることであり、それが祭りなのです。