自爆テロは最終自己表現か 18

純粋な「祭り」としての太古の神聖戦争、それはほとんど今日文献としては、残っていないでしょう。けれどもそのような神々と人間との結びつきの中において行われた、この純粋な祭りとしての戦争が、まず人類の歴史の黎明に存在していたのです。天界の天火水地の中に占めるそれぞれの神々によって、地上の事柄が方向付けられます。いわゆる「神々の集会」です。けれども、そこにおいて、戦争という現象は生じません。そこにでは、一つの空間の中に無数の矛盾するものが共存し得るからです。けれども、この共存された空間の中にあるものを、地上に実現させようとすると、神々は人間に戦争を託すのです。なぜなら地上においては、決して一つの空間にはひとつの国、ひとつの神殿、一人の女性に対しては一人の男性しか結びつくことができないからです。例えば、これはすでに「キュプリア」等の文献の中で明らかにされているように、トロイア戦争はまず、神々の集会において、次のような決定がなされたことによって生じた、と述べられています。ゼウスの神は地上の人口があまりに増えすぎたために、それを調節しなければならず、そこで秩序の女神であるテミスと話し合いを重ねた結果、地上で戦争を起こさせ、そこで人間の大半を死滅させるに至らしめる決意をした、と述べられています。そこでどのようにこの戦争は地上において生じたかと言いますと、あるオリンポスの神々の婚儀の席に招待されなかった戦いの女神であるエリスは、怒って、この神々の座の中に黄金の林檎を投げいれ、この林檎を最も美しい女神に捧げるといいます。そこで、この林檎をめぐって、三人の女神であるへ―ラー、アテーナ、アフロディーテの間に激しい対立が起こりますが、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかを、地上のトロイアの王子パリスにゆだねるのです。これは神々による「演じられた悪」です。この「演じられた悪」におけるひとつのの林檎が、天上と地上の戦争の接点です。
天上で一つの林檎は神々に共有されますが、地上では、たった一人の人間しかそれを所有することはできないのです。そこでこの三人の女神は、それぞれパリスに「演劇的に」言い寄ります。へ―ラーは、パリスに世界を支配する力を、アテナはいかなる戦争にも勝利することのできる力を、そしてアフロディーテば最も美しい女性を与える、と約束するのです。パリスはこのアフロディーテの誘惑により、スパルタ王メネラーオスの妃ヘレネ―を奪い去って、トロイに戻ります。ギリシャのアカイア軍はヘレネ―を取り戻すために、十万の軍隊をトロイアに集結し、トロイ戦争が生じるのです。この戦争はその意味では、神々の人口調節の意図が戦争となって、地上に現れ、その間に、三人の女神の様々な「台詞」が飛び交います。これは神々と人間の両方において進められた戦争です。トロイ戦争の時代、神と人間は決して二元的に分離した存在ではなく、互いに心の中で、会話しながら生きていました。トロイ戦争は、神々と人間が一体となって行った戦争です。
けれども、このような文献としては残っていない、それ以前の神話的戦争においては、さらにこの神々と人間の結びつきは強く、そこにおいての戦争の勝敗はすべて神々に委ねられ、人間においては、全身でその戦いという行為に没頭するのです。いわば戦争はひとつの神々の意図を受け取るための、壮大な誓約(うけひ)なのです。勝利者には、その地に属する土地や財貨が与えられますが、それらの物的なるものが直接戦争の目的ではありません。結果としてそれを、人間は神からの贈り物として、受け取っているのです。これらの戦争においては両軍ともに、最前線のところで、始めに神声を発する女性軍団が神々からの言葉を受け取って戦争舞踊を舞い、その次に武器をとっての殺害です。この殺害は華々しい衣裳をともない、仰々しく残酷であればあるほど美しいのです。それは単なる殺害ではなく、「芸術化された殺害」です。
このことを考える上で私たちはまず、ジョルジュ・バタイユの戦争論について耳を傾けるべきでしょう。ジョルジュ・バタイユは戦争の本質は、政治的に勝つことのみを第一義的な目的とした暴力では決してなく、それ自身人間の本質であるエロティシズムの「祭りの側面」を有しているというのです。
「「クラウゼヴィッツは騎士道的伝統の軍隊に反対して、敵の力を容赦なく粉砕する必要を力説した。=戦争とは暴力行為であって、この暴力の行使は限界がないのである。=と彼は言う。全体的に見れば、このような傾向は旧派がいまだに郷愁を捨てきれずにいる儀式的な過去の時代から以後、徐々に近代世界において、勝利を占めつつあるといえる。」(ジョルジュ・バタイユ
著「エロティシズム」澁澤龍彦訳 二見書房)
確かに現代人が持つ戦争のイメージはクラウゼヴィッツ以降の政治的経済的な戦争のイメージで覆い尽くされています。そのようなイメージから古代的な、或いはクリシュナアルジェナ語ったような「祭りとしての戦争」は、深い無意識の地平の中に押しやられています。