自爆テロは最終自己表現か 4

神々は単に、自己のすべてを人間の中に、歴史の中に、大自然の中に流出することによって、創造行為を行ったのではありません。神は自己の中に、「悪の可能態」を無限に拡大していくことによってのみ、創造行為を実現することができたのです。そこには、悪に対して、神々の最も意識的で、意図的で、意志的な働きが存在しています。天地創造の結果、やむを得ず、悪が生じてしまったのではないのです。まして、悪というものは、神々の中には存在しなかった、悪はただ物質の世界、霊界ではなく、感覚的な世界に人間が存在することによってのみ、現れてきたのだ、というのは、根本的な間違いです。人間が物質的な感性、物質的な満足を追い求める結果、悪が生じたのではないのです。神々は純粋無垢な光だけの存在である、神々は一切の汚れがなく、無垢で悪の可能態に触れた存在ではなく、それは完璧な全能なる存在として、一切の悪を消滅させる力である、その神々の光が地上に射してきたとき、人間が立ったその大地に黒々とその影が生じた、悪とはそのように人間が物質世界に立つことによってのみ、生じたのだと、と考えるとき、悪の根源にまでには決して至りません。悪は地上で生まれたのではなく、霊界において誕生したのです。そもそも、神々の根本的な創造行為そのものは、悪の無限の可能態を事実態に変えることによってのみ、生じたのです。神は自己の全能の中に、眠り続ける存在ではありません。神は全能であることそのものが、すでに「存在が不在を可能態として含む」ように、全能が「非全能の可能態であること」すなわち、悪の可能態を有していることを、自己の全能性以上に知り尽くした存在です。
ですから私たちは、悪の根源に至ろうとするならば、一切の肉体的な存在と物質的な存在を消去させ、感覚を超えた世界に悪そのもの実態をイメージすることができなければならないのです。悪が物質世界から自立した存在であるということを知らなければならないのです。このことは同時に、人間そのものの全体性にいえることです。人間は、決して唯物的な肉体そのものがすべてなのではなく、この肉体の中には、神々がその中に封印した、すべてのものが存在しています。そこでは霊的なるもの、魂的なるも、四大元素霊や物質世界そのものを生み出すことのできる神霊的力が体の中に封印されているのです。宇宙に存在するすべてのもの、庭園、樹の幹や枝枝が、物質的なるものと一体となって肉体を構成しています。ですから、悪が一切の肉体的なものから離れた、超感覚的な世界において自立した存在であるということを認識することは、自分自身の存在そのものが肉体から自由な、霊的、魂的に自立した存在であることを確信できなければならないのです。
神の全能は宇宙に存在するすべての物の内部にあって、一なる存在であること、大宇宙を一つの球形に例えるならば、その一なる球形が全宇宙と融合していることです。一が全なのです。そして神の有する「悪への可能態」とは、この「一が全であること」」の中に存在しています。なぜなら、そこには「一が全でない可能態」生じるからです。この全体から離れた一が利己主義を生じるのです。すべての悪は利己主義から生じます。人との間の、ささいな争いからに、世界大戦に至るまで、すべての破壊的な悪は、利己主義から生じます。そして悪を克服できるのは利己主義を克服することに以外ありません。そして、利己主義と利他主義が一切の矛盾を越えて、完璧に融合した存在が神なのです。神以外にこの利己主義と利他主義を宇宙的に完璧に融合した存在は、ありません。どんな人間といえども、この二つは完全に融合することができないのです。なぜなら、利己主義には、無限の悪を生み出すす力が存在するからです。人間にはこの無限の悪を克服する力はありません。ただ、その克服に向けて、無限に努力し続ける存在でしかないのです。ここで重要なのは、神は利他主義の存在ではないということです。そうではなくて利己主義と利他主義を矛盾なく融合させる無限の力をもった存在であるということです。利己主義なしに、神たり得ることは決してありません。なぜならば利己主義なしには、悪を生み出すことも悪を宇宙創造の力に変えることも決してできないからです。