自爆テロは最終自己表現か 5

      鏡像
あなたが今一つの空間の中にいて、眼の前に大勢の人の歩いている姿を見ています。あなたがそれを知覚することができるのは、 眼 という感覚器官を通してです。当たり前のことですが、その大勢の歩いてる人が「生身のまま」で、あなたの体の中を通過することによって、あなたはその大勢の人の姿を、リアルなものとしてとらえているのではありません。あなたが受け取っているのは 、眼という感覚器官を通して、その姿を内的に知覚しているだけです。けれども、あなたが知覚しているものとは別に、具体的に生身の大勢の人間が眼という感覚器官の向こうを歩いている、ということも事実です。こうして感覚器官で知覚するということは、人間を内部と外部に完全に分断し、分裂させてしまいます。実際のところ、私たちは目の向こう側を歩いている、大勢の人たちの「存在そのもの」を、じかに確認しているわけではないのです。たとえそれを確認しようとして、それらの人々を手で触れてみたところで、それは、触角という感覚器官が働くだけであって、それらの人々そのものの存在では決してありません。それらの人々から何がしかが香ってきたとしましても、それは、その存在そのものではなく、嗅覚という感覚器官が働いているに過ぎません。人間は決して「外界それ自体」を、一度も見たことも聞いた事も触れたこともないのです。外界は常に感覚の向こう側に、あたかも永遠の謎かであるかのように、たゆだっているに過ぎません。生まれつき完全な盲目の人が存在するように、もし生まれつき完全に触角が働がない人間がいたとするなら、たとえ、その人は視覚や嗅覚が健全に働いているとしても、決して内界と外界を分けることはできません。目の前にある樹と自分の手を区別する事はできないのです。感覚が働くということは、同時そこに「感覚についての意識」が働きます。ですから、私たちは眼の前の「人の姿」を見ているのか、眼の前で「人の姿という意識」を見ているのか、判別つかないのです。「床」を見ているのか「床という意識」を見ているのか、「星空」を見ているのか、「星空という意識」を見てるのか、わからないのです。にもかかわらず、私たちは感覚を通して、そこにリアルな「床」や「星々」や「人間」という意識を有することができるのです。このようなリアルな意識は具体的な「床」や「星々」や「人間」に基づくものではなく、それらがバーチャル映像であろうと、さして変わりません。非常に精密な映像を通しても、そのようなリアルな意識を生み出すことができるわけですから。さらに、そのようなリアルな意識は、具体的な出来事やバーチャル映像に全く依存しなくても、自律的にカラダの中で生み出すことができます。つまり イマジネーション を通しても、そのようなリアルな意識は体の中に創造されます。このように、リアルな意識は外的な、具体的出来事をとうしても、反対にヴァーチャルなものを通しても、或いは、イマジネーションを通しても、形成されるわけです。そして私たち人間生活をしている時に、この三つの事柄をそれほど明瞭に分離しているわけではありません。
どうかこの三つの出来事を、一切の妥協を排して、徹底的に観察してください。そうすれば、そこに神々の創造の大きな秘密を解き明かすに違いありません。第1の場合は、物質と感覚器官との係りにおいて生じます。第2の場合は、感覚器官と表象を通して生じます。そして第3の場合にはイマジネーションとそれを受け取る自我との間において生じます。そして、そこにおいて共通しているのは、「リアルな意識」ということです。第1の場合のリアルな意識は自分で生み出したものではなくて、常に外界から「受動的」に与えられたものとして生じます。第2の場合には、感覚が表象と一体となって現れてきます。そして第3の場合には、すべて自分自身の内部でイマジネーションを形成することによって、自分の内部そのものから「能動的」に現れてきます。第1の場合には所与のものとして、第2の場合には、自然に生み出されるものとして、第3の場合には、能動的に形成されるものとして生じるのです。この三つのものの結びつきを理解する事を通して、神々の創造行為の核心に触れることができるのです。とりわけ、全能なる神が存在することによって生じる、「可能態としての悪」と、その悪を通して神々がいかに宇宙創造を行い、人間形成にまで至ったのかということが理解されるのです。人間の何気ない日常生活の中の中において、神々の創造行為と同等のものが、常に生じているのです。
これらのことは人間においても、一般動物とりわけ脊椎動物においても生じますが、その違いはそこに自我の働きが介入してるか否かということです。自我はその働きにおいて、非常に微妙であり、多様性に富んでいます。自我は自我そのものに働きかけることによって、「無我」にもなります。また、自我は無我と共存することができ、無我はしばしば自我を非常に強めることができ、反対に、自我そのものが、無我のありようを無限に変容させることができるのです。自我は欲望と結びつくことによって、すぐに利己主義的にもなりますし、その欲望が自分自身のためではなくて他者のために働こうとすると自我は利他主義的にもなります。ライオンや犬のような個々の動物そのものの中には、人間と同等の自我は存在しませんが、けれども、それらの動物は、同じ種の存在として、共通の群れの魂としての群魂を有しています。この群魂を通して通して、一つの種の動物においては、一つの共通の自我が働いているのです。このことは人間においても、共通です。個々の人間はそれぞれ固有の自我を持っていますが、同時に動物が一つの群魂を持っているように、群魂としての全体自我も有しています。違うのは動物においては、群魂だけが働くのに対して、人間は個体自我と群魂を共有することができます。
ここで再び、外界と内界が外的対象と表象に、感覚器官を通して分断され、分離している第一の意識について考えてみます。勿論、人間は、それを決して分離した状態とは考えておらず、ごく自然に表象と外的対象は、一致しているという前提のもとに生活してるわけです。けれども、この分離を明瞭に意識してしまった人間にとっては、ある瞬間から外的世界に生きること生きること全体が、すべて内界の出来事として、引き受けるべきであるという、大きな選択の前に立たされます。そこでは社会も大自然か宇宙もすべて自己の内部世界です。そして人間は決してこの感覚の向こう側の、いわゆる「物自体」をリアルに捕まえようとすると、一つの虚構の世界の中に入り込んでしまいます。その時、その外的対象は、そこに存在しているのではなく、「限りなく存在しているかのように思える虚存在」の姿を現し始めます。汽車が走る二本のメールが彼方のところであたかも、一点に重なっているように思える時に、その点を掴もうと思って走り始める人間のような感覚です。外的対象はそれを掴もうとすれば常に遠のいてゆく存在です。それは青空のブルー色を掴もうとするのと、同じです。あの青空のブルーはどこにも存在していません。ただ、ブルーが実体として空に存在しているかのように思えるのです。人間を取り巻く外界は、それを掴もうとするならば、常にそのような虚存在なのです。