自爆テロは最終自己表現か 8

バガヴァット・ギ―タ―
バガヴァッド・ギ―タ―は、紀元前六百年から四百年くらいの間にかけて描かれたと言われている、古代最大の叙事詩マハーバーラタの中の十七章からなる「神の歌」であり、筑摩書房の世界古典文学全集において、辻直四郎の編で出版されました。ここに引用する文章はすべてこの筑摩書房版からです。
古代インドにおいて、バタラ族の王位継承問題に端を発して、戦争が繰り広げられることになり、敵味方にわかれるものの、王位継承問題のために、互いに親兄弟親戚等の、血を分けたもの同士の壮絶きわめる戦争です。
「神の歌」はこの血族同士の戦いを前にして、アルジェナは武士でありながら、戦意を失い、もはや戦うことを断念しようとするのですが、それに対して、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナは、「汝は武士の本分を忘れることなく、たとえ血族であっても勇気を奮って戦え、戦い抜け、そして行為することによってのみ、行為を超えよ」という、神と人間の問答形式で語られています。そこに描かれている内容は、古今東西の哲学的思弁を一挙に超える、神的想像力と叡智に貫かれています。短い問答形式でありながら、神々の創造の秘密、神々の内部から立ち現れてくる能動的な創造力と、それらを取り囲んでいる仮象の世界との関わり、目に見える世界の中で立ち現れてくる、様々な妄想や論理や疑いを、一挙に超える道徳的想像力に満ち満ちています。
ここでは神が人間にコトバの鞭を打ちながら、「戦え・ば殺せ・立て・負けるな・戦争の中で汝は汝を乗り越えよ」と言うのです。まず、アルジェナは武器を取っての戦争を前にしながら、次のようにクリシュナに言います。
「戦おうとして目近くに立つ  この同族を見ては、クリシュナ
わしの手足は力を失い、  口もまた涸れはててしまう。
・・・・・・わしは立っていることができない。  わしの心はよろめくようだ。
そしてわしにはめでたくない  兆しが見える、クリシュナよ。
戦さにおいて同族を  殺して吉祥は予見されない。
わしは勝利を望まない、クリシュナ・・・・・・・・
彼らが(わしを)殺すとも、クリシュナ  彼らをわしは殺したくない。」
ガンジーの「無抵抗主義」にも通じるような、人間的なアルジェナの言葉に対して、クリシュナは、次のように言う。
「難事に際してこの弱気は、  どこからあなたに近づいてきたのか。・・・女々しくなってはいけない、アルジェナ  それはあなたにふさわしくない・・・卑小な心の弱弱いしさを  うち捨て去って、立たれよ  アルジェナ」
こうして二人の問答は始まるのですが、この「神の歌」は歴史的な戦争においてなされた対話ではなく、神々が宇宙創造を始めるた時の「仮象」「悪の可能態」と神の能動的な創造力との戦い と見なければなりません。それは、バガヴァッド・ギ―タ―全体を貫いている神々の 「智」です。この人間的な、「戦争をしたくない」、という心の働きと、「戦い抜け」という神の言葉は、人間のほうが善であり、神々の方が悪なのです。神は徹底的には「悪」を装っているのです。バガヴァッド・ギ―タ―における神は、戦争に関して「悪」の側に立って、人間に人間であることの本分を気づかせようとするのです。クリシュナはさらに続けて次のように言います。
汝は嘆くの要のないものについて嘆いた。  しかも思慮あるような言葉を語る。
死者のことをも生者のことをも、  見識ある人々は嘆きはしない。
しかし、実には、予はかって  存在しなかったことはない。汝も、ここにいる王たちも。
また、我々はみな、これから後  存在しなくなることもない。
クリシュナが始めに語るのは、人間には生も死も始めから存在しない、という一元世界であり、これをバガヴァッド・ギ―タ―では「神我」(プルシャ)と呼んでいます。「神我」というのは、一切の物質的なるもの、感覚的なものから離れた、すべてのものを「観る」だけの働きです。この働きの中には、すでに生も死も存在しないけれども、人間の本質はこの「観照者」の中にあると語ります。さらに、
こ「の個我」は生ずることなく、  あるいはいつか死ぬこともない。一旦存在した後に、  また存在しなくなることもない。
不生、恒存、永遠の、  この太古より存するものは、
たとえ身体が毀損されても、  毀損されはしないのである。不生、不滅のこ「の個我」を  滅びず恒存すると知る人、その人は、アルジェナ  いかにして、  誰に殺さしめ、  誰を殺すか。
このクリシュナが語る「個我」とは、宇宙自我のことです。人間の本質はこの宇宙自我と同じであり、一旦存在するならば、決して消滅することはなく、殺されたり殺したりするという現象は、「限りなくそのように見える」仮象なのだ、アルジェナ、それに気づけ、というのです。クリシュナがここで語るのは、人間よ、その仮象を超えるならば、戦争しつつ戦争を、行為しつつその行為を超える、というのです。クリシュナがアルジェナに語るのは、お前はこの宇宙の「絶対矛盾」を引き受けなければならない、お前が弱気で単なる善の中に引きこもるならば、もっと大いなる悪にお前は引き渡されるであろう、というのです。「万物においては、初めは顕現せず、人間が知っているのは、その中間だけであり、そして終わりもまた、顕現しない、神はその始まりと終わりを知っている。人間はその中間だけしか知らないのだ。けれども、地上において真に生きようとする時には、この始めと終わりの顕現してないところに、至ろうとしなければならない、と言うのです。
それ故に、一切万物について、汝は嘆くべきではない。
さらに、自己の義務を考慮しても、汝ばおののくべきではない。
武士(クッシャトリア)にとっては、義務付けられた  戦争に勝るものは無いからである。
クリシュナが神そのものとして語り始めるのは、十二章以降ですが、すでにここにおいて、述べられている「正統なる戦争」は、現代的な言い方をするならば、国際法によって定められるのではなく、神的な根拠をがあると述べているのです。
この神的な根拠とは、宇宙創造の「根本的な矛盾」の中に、根を下ろしています。悪が存在しなければ宇宙創造、歴史は動かないという矛盾律が前提になっているのです。そしてこの矛盾律を引き受けるのは、 神の側ではなく、人間の側なのです。人間は仮象を実相と捉えており、
それらを乗り越えるものとして、バガヴァッド・ギ―タ―は、ここからサーンキャ哲学の内容に入っていきます。するとバガヴァッド・ギ―タ―全体は、サーンキャ哲学を描写するために描かれた「神の歌」であることがわかります。
ヴェーダは三成分(グナ)から、できているものも対象とする。三成分(グナ)できているものを離れよ  アルジェナ
グナとは仮象を実象に変える三つの成分のことであり、サーンキャ哲学ではそれを純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・翳質(タマス)といいます。クリシュナはこの三つの成分について第十四章で、次のように語るのです。
純質(サトヴァ)は無垢であるから、  照明し、患いのないものである。幸福への執着によって、また、アルジェナ  知識への執着によって束縛する。  
激質(ラジャス)は、欲望を本質とし、 渇愛と執着から生じると知れ。
それは行為への執着によって、アルジェナよ、  個我を束縛する
しかし  翳質(タマス)は、無知から生じ、  一切の個我をまどわすものと知れ。
不注意、怠惰、睡眠によって、  それは束縛する。  アルジェナよ。
純質は幸福に、激質は行為に、執着せしめる、アルジェナよ。
他方、翳質タマス)は、知識を蔽って、不注意に、実に、執着せしめる。
純質(サトヴァ)は、欲望からも記憶からも自由であり、あらゆる行動の根底に認識する力が働いています。激質(ラジャス)は強い共感と強い反感が存在し、認識を破壊するほどの強さがあります。翳質(タマス)は無知と感覚の眠りが強く働いています。アルジェナはこの身体から生じた三成分(グナ)が消滅するとき、個我は出生、死亡、老年、苦悩から解放されて、不死に到達するのだと語るのです。この純質・激質・翳質は人間の魂をひたすら純化することによって、仮象から実体へ移行しようとするのですが、同時に、その正反対の方向から、殺人を肯定する神々の声が宇宙に響き渡るのです。