自爆テロは最終自己表現か 1

世界は美しい庭園です。広々とした大地が広がり、そこに無数の樹木が生え、樹木はその大地から無限の栄養分を吸い上げ、それは樹木の中で、光の樹液となって上に昇って行きます。そのその樹液は枝えだを充たし、その先には、様々な果実をつけます。一つの果実の中には、庭園のすべてが凝縮されています。「ひとつの薔薇の花が、美しく開花するとき、薔薇園すべてが光り輝く」という格言のどおり、一つの果実が実るということは、庭園全体が光り輝くことです。ヤーコプ・べーメの比喩を借りるならば、「庭園は大宇宙、樹の幹は星星、枝えだは火・空気・水・地の四大霊、そしてその果実は人間」です。ひとつの果実の中には、庭園のすべてが凝縮し、封印されています。芸術家としての神は宇宙を創造するとき、その自分自身のすべてを、人間という果実のなかに「自己封印」したのです。あたかも、大地や木の幹や枝枝は、この庭園全体を一つの果実の中に封印するために存在しているかのようです。一人の画家がキャンヴァスに絵を描く時、自己のすべてをそのキャンヴァスの中に流し込むとしても、描き終わったときに、その肉体的存在だけは、キャンヴァスの外に残ります。けれども、神々の創造行為は完璧です。自己のすべてを庭園と樹木とその果実の中に流しこみ、神は被造物のすべての中に自己を封印し、その姿を消滅させたのです。もはや、私たちは神の姿をどこにも見ることは、できません。神が自分の姿を形づくって、人間を創造したということは、その神の姿そのものが人間存在の中にすべて入り込んだからです。庭園の中に、樹木の幹の中に、枝の中に、そして果実の中に、一人の犯罪者が牢獄の中に幽閉されるように、神は自己を、庭園のすべての物の内部に幽閉したのです。「庭園は大宇宙、樹の幹は星々、枝えだは火・空気・水・地の四大霊、そしてその果実は人間」。だから、すべての人間存在の中に、すべての動物存在の中に、すべての植物・鉱物存在の中に神は、自己を封印したのです。自ら進んでこの幽閉を実行したのです。神の創造行為とは自己幽閉行為なのです。神はこの宇宙世紀において、みずから進んで囚われの身となり、その身を隠したのです。けれども、この神の自己幽閉は一度に、実現されたのではありません。はじめに、大宇宙としての庭園の中に自己を流し込んだ時、神は真空よりもやわらかい、父声と母声という声と一体となって、存在しました。まだ樹木が庭園に現れるより以前に、宇宙に存在したのは、ただ神々の声だけであり、神々はその声の中に、自己のすべてを移し入れたのです。だから声が神なのです。父声と母声が神々なのです。もし神が声の中に自己のすべてを移し入れなければ、神々の創造行為はけして成り立ちません。