ミイラを作っていたエジプト人は、この世よりも彼方の世界の方が、はるかにリアリティがあったらしい。
その後、リアリティは物の世界の方に移動したけれど、再び今日おいて、ゆっくりと歴史は、死者たちの世界の中に入っていっているのだろう。この世に生まれるということ。それは自分の中の差別意識を克服する、ということか知れない。生と死、男と女、私とあなた、この差別を乗り越えなければならない。
先日の講演会で、賃金契約は、人類最後の奴隷制度と言ったけれど、賃金契約に変わる分担契約は、完璧な社会保障制度が一方に存在しなければならない。「所得のために働くのではなく、社会の必要に応じて働く人間になりうるようにするためには、どのようにしたらよいのでしょぷか?」と先月の舞台で、踊った。
分担契約というのは、多分意識の問題である。だから、賃金契約による労働であっても、意識の上で分担契約と思えれば、ちょうど死と生とが、重なっていると思えるならば、二元論を越えられるように、賃金契約の労働意識も超えられるかもしれない。