今日、たまたま書庫の中から見つけた,昭和44年の11月に行われた三島由紀夫と石原慎太郎の対談を読んだ。
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石原 三島さん,変な質問をしますけど,日本では共和制はありえないですか。
三島 あり得ないって、そうさせてはいけないでしょ。.あなたが共和制を主張したら、おれはあんたを殺す 。
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この対談がなされてから、44年の年月が過ぎ去った。今改めて、この自民党の憲法改正草案の時期に、「日本国憲法」を読んでつくづく感じるのは、この憲法が、フランスの人権宣言を元にしているということ以上に、例えば、マルキ・ド・サドがヴァスティーユ牢獄の中で書いた「フランス人よ、共和主義者たらんとすれば、今一息だ。」という言葉に至るまで、日本国憲法の中で謳われている「自由、平等、博愛」の根は深い、といういことである。
地球上で、日本ほど共和制から遠い国はない。なぜなら、ここには天皇制が存在するからである。日本国憲法は、このマルキ・ド・サドの言葉にまで根を降ろしている共和制理想主義と、天皇制という、北と南のふたつの極を、奇跡的に結び合わせているのだ。
この両極を結びつけることは、言葉の領域ではもはや不可能である。再び言葉をカラダに戻すときに、カラダの中でのみ、この二つの極は出会うことができる。「日本国憲法を踊る」というのは、この一点に賭られている。