この黙示録的現代社会の特徴は、もう、すでに生も死も重なってしまったということだろう。
行き交へる男女が一瞬かさなれるはかなき情死をうつす硝子戸(春日井建)
このような硝子戸の世界において、天皇制の社会であろうと、共和制の国であろうと、もはや本質的な違いはないのかもしれない。もちろん言葉の上では、対極である。しかし、生と死が重なった社会は、どこか「劇場国家風」なのである。すべての人間が死の中から、生を演じているかのように。共和制であろうと、天皇制であろうと、演じられる台本の違いであるにすぎない。いずれにしても、どこかに虚構が忍び込んでいる。
そのような黙示録的社会において、憲法はその台本の筋書きの中にあるのか、劇場国家台本の外側にあるのだろうか。もし、憲法が台本の中に組み込まれているならば、憲法は単なる虚構に過ぎない。憲法が台本ではなく、台本を支える原理であり、劇場国家を支える原理であるならば、憲法は、生者の世界のみならず、死者の世界にも有効であろう。私にとって憲法とはそのようなものだ。憲法が劇場内の台本であるならば、ファシズムであろうが、共和制であろうが、無政府主義であろうが、結局は同じことなのである。そして、この生者にも死者にも有効な憲法とは、ただ、カラダの中から現在進行形で生み出される、言葉の領域、言葉の理念の中にしか、存在しないのかもしれない。