2008.10.24

先週から今週にかけて、硝子体手術のために入退院を繰り返し、おまけに叡の91歳になる母親も腰痛のために入院するといった、妙に慌ただしい週だった。
留守の間の新聞を整理している時、「キラキラ光る洞爺丸の船底」という記事に目が止まった。10月22日の朝日の夕刊である。それは新聞記者の評伝「記者 風伝」という連載で、その夕刊は、1954年9月台風15号が北海道に接近し26日夜青函連絡船「洞爺丸」沈没させて、死者・行方不明者1156人に及 ぶ、  タイタニック号に続く戦後最大の海難事故の記事を書いた当時の記者疋田桂一郎を取り上げていた。
すでに半世紀以上も前のこの事故に、なぜ私が強く惹かれるのかと言えば、この1156人の内の1人は叡の父親だからである。当時41歳の叡の父は札幌の高 等裁判所の判事をしていた。義父寅雄の頭の良さは、笠井家の親類縁者の中でも定評で、彼は尋常小学校を卒業してからは独学で二十歳そこそこで司法官試験に 合格したそうだ。若い義父が三角帽子を冠り法衣を着け裁判官姿で緊張した面持ちで撮った記念写真を見た事がある。
義母に聞くと、彼はたいへんな勉強家で、気難し屋で、かんしゃく持ちで、情熱家で、声がひときわ大きかったそうだ。(なにかドストエフスキーを思わせ る!)仕事仲間とお酒を飲むと、必ず大声で「五木の子守唄」や「安来節」等を歌って陽気になり、そばで聴いている西欧音楽一辺倒の義母は、恥ずかしさで背 中が固くなり冷や汗が出たそうだ。
叡が10歳の時に洞爺丸事件が起こった。小学5年生だった叡は、その日の朝、家を出て学校に向かう時、東京に出張に出かける支度をする父親の姿を窓ガラス を通してみた。それが父を見た最期だったそうだ。急きょ函館に向かった母の留守中、ラジオで流れる乗船名簿の氏名の中に父の名前を聴き取り、今朝行かない ようになぜ止めなかったのか、と深く悔んだと言う。家にいる時は、いつも机に向かって書き物をしているというのが、叡にとっての父親像らしい。夕方陽が暮 れるまで、戸外でターザンごっこに夢中の長男である叡を、父はどのように見ていたのだろうか?いたずらをすると、半端でない叱られ方をしたのよ、と義母が 話してくれた。長男にはとりわけ厳しかったのかもしれない。3人の子どもたちの教育は東京でということから、生前に義父が準備していた国分寺に今私たちは 住み、天使館もそこにある。
「キラキラ日ざしに光る洞爺丸の船底は何かたわいがなく無造作ないたずらのあととしか思えなかった」と1954年9月27日の朝日新聞の夕刊に疋田桂一郎記者は書いた。