今日は雨ふり。テアトロ新宿で若松孝ニの映画「実録・連合赤軍」をやっているという。見なければ、とちょっと心が動いたが、どうしようか。1972年の2月、当時100歳にならんとしていた叡のおばあちゃんは、あさま山荘人質事件のテレビ生中継を毎日連続ドラマを楽しむように見ているよ、と親戚のおばさんが言っていたのを思いだす。
その頃の私はどうだったのか。今日写真家になった長男はその年の2月3日に二歳になったばかり。前年の夏には一年がかりで建てた手造りの稽古場が完成、舞踏研究所「天使館」を設立。お金は無いけどエネルギー満々の若者たちが、何処からともなく「天使館」に集まってきて、叡を中心に週4回の踊りの稽古。同時に71年10月「丘の麓」青年座、72年1月「タンホイザー?氈v厚生年金小ホール、8月「三つの秘蹟のための舞踏会」厚生年金小ホール等々、と叡のソロ公演、天使館公演と、矢継ぎ早に制作していた頃のこと。みんな何かを創ることそれ自体に向ってエネルギーを集中し、行動することに自分の力を惜しむ者はいなかった。稽古場の中は完全に自由。何をしてもよかった。自分の“ことば”を身体で語り、他者の“ことば”身体で聴く。稽古の後は、お互いに口角沫を飛ばし議論し合い、終いには一触即発状態になったりもするが、必ず「まぁまぁ」と間に入る者がいたりして、その場は収まり、後は呑んだり食べてたり、なんのわだかまりも残らない。何と熱い空間と時間だったことか。恐らく連合赤軍の若者たちも、天使館に集まった若者たちの魂の有り様とさほど違わなかったのではあるまいか。
それにしても、仲間同志の殺し合いなんてなんと凄惨なことが起ってしまったのだろうか。同じ時代に同じように生きていた同世代の出来事であり、それを知った時の驚きと痛みは今でも変わらない。まして主犯格の永田洋子は私と同じ年であり、死刑を宣告されながらも今なお刑に服しつつ、私と同じ時代を生きている。