300グラム

今日から九月、朝夕少しは涼しくなったのだろうか?
夏 真っ盛りのお盆に手術を受けて、九月三日に抜糸。そして、数日後には極暑の夏をすっぽり通り越して、秋の日常に戻ることになる。
歩いてみると、やはり左膝は重たい。人口関節と私の関節の重さは、どのくらい違うのかな?
ずっと以前、「21グラム」という映画を観た。ストーリーは全く忘れてしまったが、タイトルの「21グラム」とは、人の命(魂)の重さのことを言っていて「なるほど、魂もグラムであらわすことができるのか。面白いね。でも、人の命は地球より重い、と言った人もいたな」などなど思い出した。
澁澤龍彦の「高丘親王航海記」で、親王が虎に喰われて天竺に飛んで行ってしまった後に、地上に残された親王の骨は「プラスチックのように薄くて軽い骨だった」という。
すべてを肯定して包み込む宇宙大に広い魂をもつ親王の、この世のカラダの骨は、硬質な薄いプラスチックのようだったとは。さすが澁澤さん❣️
さて、人口関節と私の関節の重さは? 先生にお聞きしたら、両方とも、およそ300グラムくらい、と教えて頂いた。
300グラムといえば、1束100グラムのよもぎ蕎麦が三束、一本50グラムのササミが6 本。ご飯二杯……。頭に浮かぶのは、食べ物ばかり。
それから、先生は「1年くらいしたら、自分の脚のようになりますよ」と言われた。
もともと、ポンコツ車。まだまだこの地上で、焦らず、のんびり、ゆっくり走って行かねば!

チンのだし巻き玉子

入院生活も今日で二週間目。久し振りにチンが顔をみせた。チンとはイヌの呼び名ではない。長男の爾示(ちかし)のこと。我が家では、三兄弟の間で、お兄ちゃんとか、ちいにいちゃんとか呼んだ試しがない。幼い頃から、ちかしはチン。れいじはレイボウ。みつたけはミツ。
ドイツに住み始めて直ぐに、お向かいに住むベルガー家と親しくなった。その家のひとり息子クヌーツが、れいじと同い年(8才)ですぐに仲良しになった。クヌーツのお母さん、バーバラは、突然日本から来た言葉も知らない三人の男の子たちを、温かく優しく受け入れてくれてた。
ある日、クヌーツがわがままを言った時、バーバラが「クヌーツ!私の言うことを聞きなさい」ときっぱりと言った声を今でも覚えている。その時とっさに、私は幼い我が子に向かって、自分のことを「ワタシ」とはっきり言うだろうか?と心の中で思った。きっと私だったら「おかあさんの言うことを聞きなさい!」と言うだろう。また、クヌーツが自分のことを「クヌーツはね…」と言ったのを聞いたことはなかった。さすがドイツ人と感心したがけど…。日本のお母さんである私には、なかなか出来ないことだったのを思い出す。
さて今日、チンは手製のだし巻き玉子を見舞いに持って来てくれた。どこでどう覚えたのか、意外と美味しい。
〜 私は、あなたに、だし巻き玉子をおしえたことはありません〜のに。
あれ以来、バーバラは私にとってかけがいのない友人で、地球の反対側から私のリウマチを案じて、毎年電話をくれる。
クヌーツは、内科のお医者さまになり、スイスで開業している。

リハビリ室で

膝に人口関節を埋め込んで、10日経った。歩くと左脚に重たいゴムの輪っかをはめているようで思うようにいかない。両親から与えられた生来の体に、全く異なる素材の物質を入れたのだから、そう簡単には馴染まないだろう。
リハビリ室で、リウマチを患っている10歳年上の女の方と出会った。彼女は、首に頭部を支えるカラーをして車椅子に座り、 変形した指や腕のリハビリに、黙々と、無表情で励んでおられた。 ひとしきり作業が終わると、リハビリの先生が、彼女の前にA4の紙を置いて鉛筆を手渡した。
「お耳は遠いのですが、病室からお迎えがあるまで、いつもこうして百人一首のうたを書かれるのですよ。もう何枚目かしら」と、リハビリの先生が言った。紙の右端から細かい字で、びっしりと書かれているのが見えた。
翌日、私が歩行器で、車椅子に座ったその人の前を通りかかると、 大きな声で呼びかけられた。
「歩けていいね。私は両膝が人口関節、ももの脇にも人工の骨、嫌だねぇ〜」と言って、カラーを付けた顔をまっすぐに向けて、横目で私を見て、ニッコリ笑った。
おおきな瞳の中から、無邪気なこどものもつ、茶目っ気たっぷりの明るい光が飛び出してきた。
素敵な人だ!

頸椎固定術を受けた時のこと

20年くらい前の3月の初め、秋葉原の三井記念病院で頸椎の手術を受けた。外が白々と明け始めた頃、手術用の衣を着せられビニールのキャップを被って、病室に運ばれたストレッチーの上に寝かされて待っていると、若い麻酔科の先生がベットの脇にやって来て、こう言った。
「笠井さん、術前に顎の写真を撮らせてください。お顔は隠しますし、お名前も出しません。それから、もし麻酔が掛からなかったら、残念ですが、お部屋にもどってきます」
今から、自分の首の手術に臨もうと覚悟を決めていた時、どう答えればいいのだろう。
もし手術ができなかったら、今まで耐えて来たあの激しい頭痛を一生抱えていかなければならないのか…と言う思いが、無感動に脳裏をよぎったのを覚えている。
手術室に運ばれると、麻酔科の先生たちが、カメラを用意したり、私の口内をしらべたり、忙しく動き回っている様子だったが、突然、「何している、患者が怖がっているではなななな…」という大声を聞いた途端、意識を失った。
遠くから私を呼ぶ声がする。「手術は終わったよ」と耳元で聞こえた。
さて、それからが大変。助手の先生に説明では、手術は、頸椎を開けて頭蓋骨を正常な位置に戻し、私のお尻から接着剤として軟骨をとって頸椎に埋め込んだだけです。特別なことはしていません。脳味噌は、お豆腐屋さんのお豆腐のように水の中に浮いています。頭は重たいから、頸椎としっかりとくっつく迄、決して動かさないように!とのことだった。
頭と胸を長方形の角材状態にするために、次は、ハローベストという簡単な鎧のようなものを上半身に付け、頭には鉄の冠(?)のようなものをビスで額に直接埋め込んで(ビックリ!血も出ないし、痛くもない)、頭と胴体を支柱で繋げた。つまり、建築中の足場のようなものだ。
足場状態のままベッド上で数週間。土曜日には必ず、足場がゆるくならないように、先生がベストのネジを工具で締めてくれた。
ベッドから離れて歩行器で歩き出した頃は、もうすっかり春爛漫。11階の病室から下の歩道を眺めると、新しいランドセルを右に左に揺らしながら、走っていくピカピカの一年生が見えた。
そして、五月のある日、リハビリの先生が「笠井さん、外にいきましょう!」という言葉に誘われて、足場状態の自分の姿も顧みず、数ヶ月振りに戸外に出た。
太陽はきらめき、爽やかな風は都会の街路樹に触れながら、新緑の香りをわたしの体に満たしてくれた。
なんと素晴らしいことだろうか!
あの感動からもう随分ったった。今でも私の頸椎は働いてくれている。

痛みを数値で表したら

その痛みを数値で表したら、どれくらい?と入院前のアンケートで聞かれた。果たして、痛みを数値で表すことができるのだろうか?いちばん痛い時が10で、今は3くらいかな、といい加減に答える。
そこで思い出したのは、ドイツで生活し始めたドイツ語もままならない頃、子どたちが病気をした時だ。
5歳になるミツタケが風邪をひいたとき、近所にDr.ブルーメ(訳すと、お花先生)という中年の女医さんのところに連れて行った。柔らかく包むように「どうしたの?あたまが痛いの?どう痛いか言ってみてごらん」と、それはそれは温かな声でミツタケの顔を覗き込んだ。
そばにいた私も、ひやぁーどうしよう、と内心慌てた。
頭がキリキリ痛い、ズキズキ痛い、ガンガン痛い、シクシク痛い、キューキュー痛い、、、、人によって表現はまちまちだ。果たしてドイツ語でなんと言ったらいいのだろう。絶体絶命。その時、どのようにDr.、ブルーメに説明したかすっかり忘れてたが、自分に身体の状態を外国のお医者さまに伝えるのは、とても難しいということだ。まして子どもにいたっては!
万国共通の数値で痛みを表せれば、便利かもしれないが、趣がない。
キリキリ ズキズキ ガンガン モヤモヤ シクシク ジンジン ムカムカ、、、、、
カラダから溢れ出てくる痛みのリアリティが感じられ、痛む人と繋がれる気がす。
今日も病室の窓からは、美しい青空が見えた。

病室の窓から空を見る

15日の午後、無事手術を終えた。術前の先生のお話によると、私に膝はかなり面白い膝で、これほどグラグラしているのは珍しい、ということだ。最後に、「お願いなのですが、今回の笠井さんの手術で、骨を削った時に出る骨の粉を研究のために頂けないでしょうか?」と言われた。 私は「どうぞ、どうぞ、リウマチに苦しむ人たちに少しでもお役に立てれば、なによりのこと」と言った。
これまでも、血液や膝に溜まる水を、何度も病理学研究所に提供してきた。今日では、随分とリウマチに関して研究が進み明るい見通しになってきたようだ。嬉しいことだ。
カラダが壊れていくに従って、心が軽くなり・・・
空の青が美しい!

お盆に入院

昨日(8月14日)国立相模原病院に入院した。そして、今日の午後、左膝の人工関節手術を受ける。世の中、お盆休みというのに、私のために執刀して下さる先生は大変だなぁ〜などと、余計なことを思いながら、ベッド上で今これを書いている。
先日終わった 「土方巽幻風景」に続き、10月10、11日の、笠井瑞丈×上村なおかダンス公演の振り付け、年明けの「高丘親王航海記」の稽古と、この猛暑の中、天使館は大賑わい。
そのように忙しいダンサーたちを尻目に、1ヶ月入院とは、申し訳ないとは思うものの、まだまだ旅は続きそう。私のカラダも部品交換し修理すれば、まだまだ走れそうだ。
久し振りに我が家を離れて、病室の窓から見る夏の空は新鮮だ。
ひかりは、秋を確実に秋に傾いている。与えられた時間をゆっくり楽しもう。

旅のはじまり

昭和35 年夏。国分寺の杜は蝉の声に満たされ、紺碧の空に輝く太陽が・・・
こうして始まった旅の情景。
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夏の記憶


目覚めると
おおきな夏の青空が
リウマチで歪んだ
わたしの カラダの内側に
するりと入り
70年前の夏の朝が
今日の朝と重なる
幼い目に映った
あの青空
顔より大きく切った  くし形のスイカ
甘い香りが あたりに漂い
小さな口もとから
赤い果汁が
溢れ出る
洗濯したての 白い
木綿のワンピースの胸元が
真っ赤に染まる
容赦なく
照りつける
真夏の太陽の光は
夢中でスイカに食らいつく
穢れを知らない子どもらの皮膚を
じりじりと  焼く
ひまわりの黄色い花弁に目が眩み
ミツバチが  ぶんぶん唸る
スイカの種飛ばし
「一番遠くに飛ばしたのは  だあ〜れ?」
明るい声が
遥か彼方に 木霊する
無限の時間の凝固
畑の中の
野うさぎの滑走
一匹のトカゲが
焼けた石の上を
走った
未来から 記憶の風がふいてくる
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夏の空に向かって

早春の風に乗って、青空に向かって飛んで行った詩人の片山令子さん。
夏の空は、いかがですか?
真っ白なフワフワの雲。いつの日か、国立の大学通りの喫茶店で一緒に食べたアイスクリームのように美味しそう!!
朝起きると、まず二階のベランダから空を眺めます。爽やかな空気の中で、風のそよぎに触れながら、鳥の声を耳にしながら、令子さんのコトバを想うのです。
空はやがてみんなの住むところ
ひとびとの精神(スピリッツ)が
生きているところ。                       ー空の時間ー
そして、私は、いつの間にか空の人になった令子さんに「おはよう!ご機嫌いかが?」と、夏の空に向かって呼びかけます。
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ドイツの子ども手当

今日の朝日の「天声人語」にドイツのことが書いてあった。
「ここ数年、多くの難民を受け入れたドイツの判断には驚かされた。そして現地を訪れて感じたのは、来た人を受容する構えが存在することだ」
2018年から遡ること38年前の春、家族5人でシュッツトガルトに移り住んだ頃、ドイツでは、ボートピープルと呼ばれるベトナム難民を多く受け入れていた。10才だった長男のチカシの初めての外国人の友だちも、母親が老人ホームで働いているベトナム人の男の子で、すぐに仲良しになり、子どもたちの素晴らしい親和力に勇気づけられたのを思い出す。
それともう一つ、思いがけずびっくりしたことは、シュッツトガルト市からこども手当(Kinder Geld )が、毎月支給されることになったこと、しかも三人の息子たち全員に!
もう忘れてしまったが、当時国分寺市からは、三男が生まれた時に一回だけ少額のお祝い金を貰ったように記憶している。レイジとチカシの時は、何もなかったと思う。
日本でもここ数年の間に、子ども手当については議論されて制度も整ってきたのだろうが、およそ40年前のドイツにはまだまだ及んでいない。なにしろ、ドイツに留学しにやって来た外国人の家族の子どもたちみんなに、子供手当を出すなんて‼️(確か、支給金も下の子になるに従って高額になる)それによって、どんなにか助けられたことか。感謝しても余りがある。今から思うと、確かな経済的な保証も持たず、家族五人でドイツに行くなんて、何と無謀なことをしたものか、と我ながら呆れるばかりで、むしろドイツ国家の方が、私たちのような在り様に驚いていたのではないだろうか。
「来た人を受容する構えが存在する」を読んで、さすがドイツ、と嬉しくなった。

シンプルに生きていこう!

4CCE17A5-759A-47CD-B895-C07F18ED8CA7最近、歩行が危うくなってきた。それもそうだよなぁ、もう40年以上もリウマチと一緒にいきてきたのだもの。
その昔、リウマチ友の会(今でもあるのだろうか)の会報誌に、リウマチとは「二割の人はすぐ治り、二割の人は死に至り、六割の人は緩慢な病状を繰り返しながら、次第に骨が変形していく病気」のように書かれていたのを思い出した。
とすれば、私はその六割のうちに入っていたのだろう。これからも、少しずつカラダが壊れていくのだろうか、などと思い悩んでも、自分の十字架は自分で背負わなければなるまい。
ポンコツクルマを運転するのは私だ。これからは、重たくて、暗くて、憂鬱な、複雑なものは全て捨てて、明るく、楽しい、美しいものをいっぱい載せて、幼い頃そうであったように、シンプルに生きていこう。

サボテンさんと私の手

写真家の石内都さんが、私のリウマチで変型した手を撮った写真を見て、作家の黒川創さんが「サボテンと重なって見える」と言ったのを受けて、石内さんが「そうだね、サボテンさんも人間も生きているという意味ではあまり変わらないから」と答えているのを、何処かで読んだ。
サボテンさんと私の手。畸形でも働きものの私の手。今は、唯一右手に人差し指だけが働き手。ペンは持てないけど、曲がった人差し指がパソコンのキーボードを打ってくれる。ありがたい。時々「ガンバレ!」と自分の手に声援を送る。
サボテンが大きくなるのも、私の手が次第に変型していくのも、生きてる証。
アキラに、いまの私の手を撮ってもらおう。
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「ひかりのはこ」

また一人、天使館で出会ってから、ともに同じ時を生きてきた詩人の片山令子さんが、先に逝ってしまった。
今日、片山健さんから、かねてより病気療養中の令子さんが、今年3月22日、68歳でお亡くなりになったこと、故人の意向で病気のことは知らせなかったこと、あいさつもできずこの世を去ったことで、悲しい思いをさせてしまったことのお詫びのお葉書を頂いた。
今年の初め、令子さんが発行しているリーフレット「ひかりのはこ  9」が、ポストに届いた。
・・・
眼が今の世界を見ながら
過ぎた日の情景を思い出している時
ふたつの映像が重なった世界を
見ているのではないだろうか。
そして今の映像が過ぎた日の映像に
キラキラと今の輝きを移していく。
今は直ぐに総て過去になるけど
過ぎた日々は感情によって幾度も
今になり続けることが出来る。
うれしかったこと
美しかったこと
尊敬したひと可愛かったひと
風のように颯爽としていたひとを
たくさん生き生きと思い出す。
・・・
愛情に包まれたまま眠っている過去を
今に生まれかわらせる。
眼の窓を開けたまま
今と今と今を
過去に写し続けることによって。
美しい日々  ひと  出来事を
思い出すことによって。
あたらしく今を作り続ける
わたしという窓のある世界。
「窓のある世界」から
2018年1月5日発行    画=片山健     発行者・著者=片山令子
ひかりの箱を開けると、真珠のように美しい言葉たちがこぼれてくる。
目には見えないけど、嗚呼、令子さん。あなたの温もりが私を包んでくれる。

ライラック

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1239B2CC-EC74-4CBD-BF15-5E5FA811C7EA今から38年前、家族でドイツに移住したのは、日本では初夏の風が吹き始めた四月中旬。コーリアエアラインの南回り三十時間、やっと目的地の シュトゥットガルトに着いた時は、夜もとっぷり更けた真夜中だった。次の日、家族みんなで迎えたドイツの朝 のなんと清々しかったことか!整然と立ち並んだ大きな家の庭は、どこも色とりどりの春の草花が咲き揃い、家を囲む針葉樹の間から薄紫、ピンク、白のライラックの花が美しいグラデーションを見せてくれる。子どもたちは、長旅の疲れも忘れて、ワイワイと外に飛び出した。
オオ寒い!ひかりは春の明るさなのに、空気は冬の冷たさだ。そして、3日目の朝、私たちの住むリーデンベルク一帯は、真っ白な雪で覆われていた。すると、近所に住むドイツ人パゾットさんの一人息子のロベルト君が、日本人家族がやってきたと知り、直ぐに我が家に訪れ「雪でフリーダー(ライラック)が全部折れてしまった。これからリアカーに積んで売りに行くけど、一緒手伝ってくれない?」と、子どもたちを誘いに来た。さすがドイツ人!びっくりもしたが、その意志の強さと優しさに共鳴したのか、チカシは言葉が全くわからないまま喜んでロベルト君について行ってしまった。
帰宅したチカシに聞くと、二人して大声で「フリーダーはいらんかねぇ〜、フリーダーはいらんかね〜」と叫びながら町中回ったけど、一本も売れなかった。でも楽しかったよ。と寒さで真っ赤になった顔をほころばせたのを見て、よし、これで異国の地ドイツでみんなで暮らしていけるぞ、と私の心も決まった。
今年の冬、庭にライラックの苗を植えた。栄養不足で貧しい我が家の庭に、これまで何度も試したけど、可哀想にいつも枯らしてしまっていたのに、どうしたことか四月になって急に暖かさが続いてきたら、なんと、しっかりした新芽が生まれてきたではないか!これからは、遅ればせながら、世話を怠らないようにしなくては・・・・
果たして、何色の花が咲いてくれるのだろうか?

テルプシコール通信

テルプシコールの秦さんから、テルプシコール通信2018年3月4月 が送られてきた。
「春一番の声とともに花粉嵐の吹き狂う今日この頃ですが・・・・」と始まる秦さんの挨拶文と一緒に、舞踏新人シリーズ第46弾の チラシが入っていた。チラシの裏面には、テルプシコール 企画「舞踏新人シリーズ出演者列記  」(第1弾〜第45 弾)とあって、’85.10/17〜20から2017.10/25〜29 までの全作品名と出演者の名前が列挙されている。数えてみると全部で165作品あった。
驚いたことに165作品全てにユニークな賞が与えられていて、その賞の名前が奮っている。 「半分からのROMAN」という作品には「はにかみのトライアル賞」。他に「仮装バナナのかけ違い賞」「煩悩童子  ・汗斗賞」「月見て狂へ賞」「夢見るマシュマロ童女賞」などなど。
ひとつ一つ丁寧に読んでいくと、実際に観ていないのに、舞台のかおり、色、雰囲気が目のなかに浮かんでくるから不思議だ。 30 年以上にわたって、続ているこのシリーズの出演者の中には、既に故人となられた方も数人いらっしゃる。
毎回送ってくださるテルプシコール通信も、今回No. 165。編集も発送も秦さんの手作業。人にも時代にも阿ることのない意志の強さと爽やかさがある。踊る人たちを深いところで支える温かな眼差しを感じる。
2018年4月19日(木)〜22日(日) は、舞踏新人シリーズ第46弾がやってくる  。

新しい春

82BDCDBC-11ED-4ACE-B435-251A0B46A2BF朝早く、二階のベランダに出ると、あちこちで鳥の鳴き声がする。深呼吸すると冷たい空気が、未だ覚めやらない私のカラダの内の隅々まで、サッと広がる。 エーイと伸びをして、遥か彼方からやって来る今日という新しい春を迎える。

一足先に、嬉しい春の日

朝、ベランダに出ると湿った空気の中にほのかな春の匂いを感じる。うれしいな!
昼食後、国立で行われる「オイリュトミーとピアノの会」に出かけた。隣町という事もあってか、のんびりし過ぎ、慌ててタクシーを頼み、アキアと会場に向かった。国分寺に住みはじめて かれこれ半世紀、バスに乗って子どもたちと一緒に、何度国立・国分寺を往復したことか。たまらん坂から大学通り、桜通りを横切って富士見台 団地入口まで。間に合った!
定方まことさんのオイリュトミー、上田早智子さんのピアノで、R.シューマン「子どもの情景」 W.A.モーツァルト「きらきら星変奏曲」(「ねえ、ママ聞いて」の主題による12の変奏曲)をかわいい子どもたち、子育て真っ最中のお母さんたちと一緒に観た。
樹々の枝もふくらみはじめ……嬉しい一日。

バーバラからの手紙

ニューヨークから戻って数日後、フライブルクに住むバーバラからパック郵便が届いた。開けると、中から木綿の大判のハンカチ3枚(淡いブルーと白の格子の地に濃紺の小さな花をあしらったもの。青と白を基調にした幾何学模様のもの。白地にバイエルンの民族衣装を着た子どもの刺繍がしてあるもの)とカードが出てきた。いかにもバーバラ好みの清楚なものばかりだ。カードには、ブルーブラックのインクで、バーバラのおしゃべりがそのまま文字になっているような筆跡のドイツ語がびっしりと並んでいる。やれやれ、私はドイツ人ではないのよ、と心の中で彼女に文句を言いながらも、私はベッドにひっくり返って、文字から聞こえてくる彼女の声に耳を澄まし、文面を何度も何度も眺めていると、まるで曇りガラスが透けてきたように、書いてあることが見えてきた。
「今年の夏フライブルク町は、 die Dirude-Mode(バイエルン地方のファッション)が大流行り。それで首に巻くハンカチを多く見かけたのよ。その度にあなたがいつも首に布を巻いていたのを思い浮かべ、あなたがニューヨークに行く時とか、ローマに来る時に、どんなのがいいかしらと思ってね・・・」書いてある。ニューヨークから帰国した後だから、ちょっと間に合わなかったけど、私がニューヨークに行くことを、バーバラはどうして分かったのかしら? 続いて「夏の間息子家族と一緒に過ごして、少々くたびれて・・・」と愚痴をこぼしながらも「私、去年の秋から今まで、イラン、アフガニスタンから逃れてきたの難民の親子(母と娘と男の子3人)の援助をしたのよ。世界のおおきな課題ですもの。その親子にとっては、ここは全く新しく、無条件に異なった暮らしですからとても大変。その上、母親は36歳、その長女は22歳!!これから、彼女たちはどのように生きて行くのかを思うと、私はとても耐えられなかったわ。でも、母親と娘と3人の男の子たちは、困難にとても勇敢に立ち向かっていったわ。今では、彼らがどこにいるか誰も知らない。難民との接触は禁じられているから。だから私は、全て上手く行きますようにと祈るしかできないの」そして最後に私たち家族に向かって「楽しい時でも、苦しい時でも、いつもしっかりと立っているように—あなたがたがいつもそうであったように—その光は天のためにあり、我々の目はその光のためにある」と結んだ。
1980年4月、私たち一家が国分寺から、当時西ドイツのシュトゥットガルト市イゾルデクルツ通り52番地にやってきた時、お向かい住んでいたのがバーバラだった。私たちがドイツから帰国して30年以上経った今でも、たとへば、国分寺駅前を歩いている時に、突然私の脳裏にピピッとバーバラのことが過ると、その日の晩、リリーンと電話が鳴り「ヒサコ、バーバラよ」と、明るく懐かしい声が飛び込んでくる。不思議なことに、そんなことが度々起こる。
私にとってバーバラは、一番遠くにいて、一番近くにいる友。さあ頑張って、ドイツ語で手紙の返事を書こう。

選挙戦

いよいよ今日から衆議院選が始まる。秋晴れのさ爽やかな空気の中に、候補者たちの高らかな声が行き交うことだろう。
『枕草子』にこんな言葉があるーうちとくあじきもの。えせ者。さるは、よしと人に言はるる人よりも裏無くぞ身ゆる。—さすが、清少納言。
私は、今日からニューヨークへ。あちらの秋の空はどうかな・・・・?

脳と身体

美術家の横尾忠則さんが、誰でも密かに抱えている自分の身体的欠陥に対してのコンプレックスのことを「脳を身体の支配下に置いた」ところから発生する「一種の思い込み」にすぎない。だから「脳が自分だと思う前に身体こそ『我なり』と認めればいい」と書かれていたのを読んで、然り、と同感し、私の身体的欠陥だらけの身体に「それが私よ」と言わせてみると、いっぺんに体が軽くなり、勇気が湧いてきた。・・・カラダの中を微風が吹き渡り、おおきな樹木がわさわさと揺れて、いつの間にかカラダが宙に浮き、青空に向かって飛んでいる・・・私のカラダの器に、脳から生み出されてくる思い込みが、脈々と流れ込む。
横尾さんの言葉「コンプレックスはコレステロールみたいになくても困る、多くても困る程度のまあ生活必需品だと思えばいいのです」ですって。自分に何かを思い込ませるというのも、案外、いいもんだ。ひょっとすると、これがダンスの初歩かも・・・?
 

あっぱれ、100歳! 

「90歳。何がめでたい」とは、佐藤愛子さんが書かれた本の題名だが、我が姑の君子さんは、今年5月でめでたく100歳を迎え、先月の敬老の日に、国から銀杯と安倍晋三首相の賞状・東京都から江戸漆器の箱と小池百合子都知事の賞状・国分寺市からウールの膝掛けなど、お祝いの品々が届いた。そこで、秋晴れの今日、アキラはその品々を持って、介護施設に君子さんを訪ねた。100歳に近づくに従って、さすがに携帯で電話してくる回数が減ってきたので、家を出るとき「『あなた誰?』と言われるかも」と、いささか自信のないアキラだっが・・・・。
お母さんは、元気、元気!何の問題はない。持参したお祝いの、銀杯と晋三さんの賞状は要らない。百合子都知事の賞状と漆器の箱、市からの膝掛けは要る、とはっきりしている。日頃は、村上春樹とか五木寛之の本を読んでいると言った(すごいね!でも、ホントかな?)。ヒサコのことは忘れてないよ。お母さんからは「今度、何時宇宙に帰るの?何時、宇宙からくるの?何処の宇宙に行くの?宇宙に赤道はあるの?宇宙は面白いところだよね・・・・」など、宇宙の質問が尽きない。100歳過ぎてから、体は車いす生活になったけど、頭の中は宇宙大に広がりつつある。というのがアキラの訪問報告。そして、最後に「どうも150歳くらいまで大丈夫」と自分で言っていたよ、と付け加えた。
100歳、あっぱれ、あっぱれ。

昭森社の森谷さん

「春の訪れ」を書いてから、もう「秋の訪れ」が来てしまった。春から初夏、盛夏から晩夏。私は一体何をしていたのだろうか。
9月初め、横浜能楽堂での「左右左」公演が終わったので、久しぶりにアキラと神保町の岩波ホールに映画を観に行った。始まるまでにまだ時間があるので、伝説の喫茶店「ラドリオ」でお茶することに決めた。
大通りとすずらん通りの間にある狭い露路のデコボコの石畳に足を踏み入れると、突然50年前の自分が思い出されて、懐かしいというより不思議な気持ちに襲われた。露路の突き当たりは三省堂の裏口、左側に赤提灯の飲み屋、軽食のチャボ、珈琲ミロンガ、その隣が森谷さんの昭森社。左側に富山房、喫茶ラドリオと並んでいる。昭森社は、私が大学を卒業して、昭和43年3月アキラと結婚するまでの1年間通った出版社。森谷さんは、私たちの結婚式に参列してくださり、その1年後の昭和44年3月71歳で、旅立たれた。
私の手元にある森谷さんが戦前から亡くなるまで出版し続けた雑誌「本の手帖」の、没後出版された別冊「本の手帖」森谷均追悼文集を読むと、堀口大学、西脇順三郎、埴谷雄高、里見勝蔵、安西均、田村隆一、草野心平、大岡信、折目博子、高田俊子、多田智満子・・・戦前から戦後、昭和の時代にキラ星のように活躍した多くの作家、詩人、芸術家たちが心から森谷さんに感謝し、哀悼の言葉を寄せている。今ではその多くが旅立たれたが、今日でもなお輝き続けている。
森谷さんがガンで日大病院に入院していると知ったときすぐに私はお見舞いに行った。布団の上に、ゲラ刷りや原稿をいっぱい置いて「本の手帖」の校正をしてらした森谷さんは、私の顔をみると、鼻眼鏡の奥から、いつものおおきな眼をニコッとさせて「遠くから来てくれてありがとう。喉が乾いたろう。これを食べなさい」とナースが持ってきたおやつのアイスを私に差し出した。それから「さあ、おしごと、おしごと」と面白おかしく、茶目っ気たっぷりの言い方で言うので、私は思わず「プゥ』と吹き出してしまった。まだまだ、私は子どもだった。
森谷さんは、詩を愛する前に詩を愛する人を愛し、芸術を愛する前に芸術を愛する人を愛した人だ。当時の私は、不覚にも、森谷さんの、深くおおきく暖かい芸術宇宙の片隅で、無意識に心地よく、ふわふわと眠っていたようだ。
そして、先日50年振りに、狭い露路の中程の2階にある窓(当時その窓のところに私のデスクがあった)を見上げた時、森谷さんの優しさが、ふと私の体を通り過ぎた。もう直き私は73歳。森谷さんのこの世の歳を越えて、やっと目覚めてきたのだろうか。
「久子クン、まだまだ駄目だよ。こちらの世界はもっと大変」と嬉しそうな森谷さん。
どうぞ、どうぞ、お酒をこよなく愛する森谷さん。そちらで、たくさんの詩人、芸術家と、心おきなく酒宴を愉しんでいてください。やっと目覚めてきた私です。もう少し、広く世の中のことを目に入れていきたいと思いますので・・・・。まっていてくださぁ〜い。

春の訪れ 

「須賀敦子の手紙 1975-1997年 友人への55 通」を読んだ。須賀敦子さんの私信がそのままの形(便箋、絵葉書、AEROGRAMME、美しいお菓子の包み紙、切手etc)で印刷されていて、友に語りかける言葉がブルーブラックのインクで、会話をしているように、呼吸するように、流れるように、美しく、綴られている。
読書のこと、仕事のこと、草花のこと、日々の生活のこと、嬉しいこと、悲しいこと・・・よもや一冊の本になって多くの人の目に触れるなんて、生前の須賀さんは思ってもみなかっただろう。
「須賀敦子さぁ〜ん、彼方の世界から見ていてくださぁ〜い。『国は病みつづけけていますが・・・日差しが春の訪れを知らせています』とあなたに書いた詩人の言葉に、ふとイタリアの南の野に咲きはじめるプリムラ想い出したと、お書きになったのは、1997年2月18日の2回目の癌の化学療法を受ける前日の手紙でしたね。そしてその1年後の春、あなたは旅立って行かれました。
今日は、2017年1月27日金曜日です。世界は病みつづけていますが、日差しは春の訪れを知らせています。昨秋家の庭に植えた球根の芽が、緩んだ霜柱の間から世界を覗きはじめました。もう直ぐ春がやってきます。では、つつがなく」

雪の翌日

昨日、東京に雪が降った。11月の東京の雪は、実に50数年振りだそうだ。そして今日、初冬の透明な青空に太陽が輝いている。11月25日はアキラの73回目の誕生日。
 Tomb la neige
 ゆきぃ〜はふる〜〜 あなたは こないい〜〜  
 
アダモの「Tomb la neige」をアキラが舞台で踊ったのは、いつのことだったけ。確か40年ぐらい前の12月、もうじきクリスマスというので、我が3人のわんぱく小僧たちは、サンタさんが何を持ってきてくれるか、日がな一日お祈りしたり、いい子になったり、大賑わい。そんなお祭り騒ぎのようななかで、アキラはひたすら、迫り来るソロ公演の作品創りに没頭。ついに衣装が決まらず、本番の日の朝を迎えた。えい、これでいこう!とアキラが選んだのは、いつも着ている膝が抜けかけよれよれのコールテンのズボンととっくりの黒のセーター。つまり、普段着。
いつものカサイさんがそのまま、当時有楽町にあった第一生命ホールの舞台に現れ、アダモを踊った。
舞踊評論家の故市川雅さんが、その踊りをとても喜んで「なんと笠井は膝が抜けたコールテンのズボンで登場したよ」おかしそうに、笑って言われたそうな。
背水の陣の普段着も、聞くところによると、結構評判が良かったらしいので、ひとまず安心。
ところで、アダモとアキラはともに1943年11月生まれ。しかも、アキラの大好きなシチリアで生まれたそうだ。
 Tomb la neige
Tu ne viendras pas ce soir
 ・・・・・・・
時が過ぎても、雪が降るとアダモの歌声が聴こえる。
哀しく、切なく、恋人を想う歌声。
歳はとっても、いつまでも心はロマンティストでありたいなぁ〜。 

雨あがりの散歩

2、3日前の夕方、日がな一日降り続いた雨があがり、湿気を含んだ蒸し暑さの中を、アキラと散歩に出掛けた。空一面に広がった灰色の雲の向こう側が、地球の陰に隠れようとしていた陽の光に照らされて、灰色の空一面が一瞬ピンクに染まり、次の瞬間、仄かなピンク色は消え失せ、再びグレイの空に変わった。気がつくと辺りはもうすっかり夜になっていた。
9月も残り3日。今日もどんよりと曇り空で蒸し暑い一日。秋は何時来るのだろうか。
 もう私の眼は、陽の當っているあの丘に行っている、
 まだ踏み出したばかりの道に先立ち。
 すると私たちの掴むことのできなかったものが、
 あざやかな姿を浮かべて、遠くから私たちを掴む―
 そして私たちがそれに達しないうちに私たちを
 殆どまだ自分でも気付かぬ私たちへと変えてしまう。
 私たちの合図に応じて彼方からも合図が来る・・・
 だが私たちはただ吹寄せる向かい風を感じるばかり。  『散歩』リルケ (高安國世訳)

来年100歳になるキミコさんのお話

来年5月に、目出度く100歳を迎えるアキラのお母さんのキミコさんは、毎日朝と晩、今住んでいる老人ホームから私の携帯に電話をして来る。
「ちょっと、お声を聞きたくて。ここではお友だちがいないの。何時来て下さる?えっ?何日?私、ダイアリー(キミコさんはカレンダーのことをダイアリーと言う)を持っていないから、日にちが分からないの。今度来る時、ダイアリーを持ってきて下さる?それと、甘いお菓子。見つかると取られてしまうから、あなたのポケットにそっと入れて。それから、私の部屋のずっと向こうに、オーケストラの人がいて、その人と話すのがとても面白いの。私はマーラーが好き。だからマーラーの話しをするのよ。ウイーンに行った時、私マーラーの家に行ったの。彼が作曲するときの机を触ったわ・・・・。私の部屋から、大きな木が見えてとても美しいわ。それであなたは今どこ・・・?私ひとりで彼の部屋に行ったの。静かでステキなお部屋。繪が飾ってあったわ・・・」と脈絡のない話しに「そうね。この次はダイアリーを持って行くわ。一口羊羹をポケットに隠してね。待っててね」と私は返事をする。
そして、大きな羽飾りのついた帽子を冠り、世紀末のウィーンの街をグスタフ・マーラーと腕をくんで歩く淑女を夢想するキミコさんを想像する。今や、半分イメージ世界の住人になったキミコさんは、時空を超えて何処へでも飛んで行く。キミコさんの携帯電話のおしゃべりはつきない。
イマジネーションの力は、素晴らしい!!

いつも思うこと

東京国立近代美術館に行く道すがら、いつも思うことがある。国分寺から中央線で中野まで、中野で地下鉄に乗り換えて竹橋まで、とすこぶる快適な直線コース。ところが地上に出るまでの階段の、あとわずか2、3段という所で、手すりが突然なくなる。そこまでふうふういいながら階段を上って来て、はてどうしたものやら、と困ってしまう。頸椎や足首の固定手術を受けたおかげで、バランスが極めて不安定な私にとって、階段の手すりがあってこそ、ひとりで美術館に行けるというのに。たった50センチほどのことなのにケチだな、といつも思う。
ついでにもう一つ。京王線の初台駅から新国立劇場の小劇場に向っていた時、後ろから大勢の人が押し寄せてきて、手すりにしがみついて階段を上っている私の脇を、足早に駆け上って行く。大劇場の開演時間が迫っているようだ。「ああ、せめて地下から地上に出られる身障者用のエレベーターがあったらいいなぁ、恐ろしい思いをせずに、楽しく観劇に向えるのに」といつも思う。

育世さんの「きちんと立ってまっすぐ歩きたいと思っている」を観た。

1週間前、黒田育世さんの新作公演「きちんと立ってまっすぐ歩きたいと思っている」を観た。チラシの墨絵のように、育世さんの脚がギューンと天に向かって弧を描き、カラダの内から音が聞こえ、色が現れ、花が咲きはじめ、微風がそっと吹き抜け・・・無音の空間が、いつの間にか、人間の温かさで満たされていた。心地いいのでずっと観ていたいなぁ、と思った。
昨日でオイリュトミーシューレ天使館の夏休みも終わり、2学期が始まった。
そして、マリアピアが、9月の半ばまで、一緒にオイリュトミーの授業を受けるためにローマからやって来た。彼女は、自ら一年かけてローマ在住の日本人ダイスケさんと共に翻訳し出版した「UN LIBRO CHIAMATO CORPO」(「カラダという書物」イタリア語版)を持ってきてくれた。初めにマリアピアの挨拶文があり、舞台写真、索引も含めると259頁に及ぶ大著。でも、悲しいかな、私はイタリア語が読めない。ゴメンナサイ。
マリアピアは「アキラサンノカンガエハ、イタリアジンニハ、アタラシイデス。ムズカシイ。デモ、トテモオモシロイデス!!」と面白そうに微笑んだ。その大きな黒い瞳の眼差しは、温かく魅力的で、十数年前に出会った時と少しも変わらない。何時でも何処でも、若い彼女が、私を心地よく包んでくれるのだ。
Grazie Maria Pia D’Orazi!!

暑い夏の日に

毎日の新聞で、ちょっと気になって切り取った記事が箱一杯に詰まっているので、思い切って大学ノートに貼付けてスクラップブックを作ってみた。その中の2006年10月7日の朝日新聞夕刊に、米国ペンシルベニア州にあるアーミッシュ=キーワード=の学校で、銃で撃たれて死亡した5人の女児の埋葬の記事があった。
「『私から撃って下さい』。亡くなった中で最年長だったマリアン・フィッシャーさん(13)は、教室に残された10人の女児を容疑者が撃  つつもりとわかったとき、そう進み出た。」マリアンさんの妹バービーさん(11)も、姉に続いて「『その次は私を」』と続けたという。2人は、より小さな子どもたちを助けたい一心だだったという。」
”事実は小説より奇なり”とは言うけど、でもねぇ〜・・・などと思いながら、セピア色に変色した新聞の切り抜きを、とりあえず大学ノートに貼付けた。  

手紙(1981.1.9) ミツの災難

ドイツ語もままならないうちに、Stuttgartに住み始めてまず困ったことは、子どもが病気になった時だ。羊のように温かく優しい目をしたフラウ・ブルーメ(近所に住む老女医さん)に、「で、どんな具合なの?」と聞かれて、どう言っていいのか、私の方がドキドキする始末。Kopfweh(頭痛)とか、Bauchschmerzen(胃痛)などの単語は、勉強して覚えていたが、どの様に痛むのかを伝えられない。日本にいる時は、お腹が「キリキリ痛い」とか「キューっと痛い」とか、頭が「ガンガン痛い」「ズキズキ痛い」、背中が「ゾクゾクする」などと言って、お医者さまに、ある程度痛みの状況を分かってもらっていた。その時、日本語の痛みを表す豊富なオノマトペの存在の素晴らしさに、初めて感謝した。果たして、ドイツ語にもその様なオノマトペがあるのだろうか?ドイツ滞在中、ドイツ人の友人が「頭が、ズキン、ズキン痛い」とか「肌がヒリヒリする」などと言っているのを聞いたことがない。
1981.1.9。
全く慌ただしく、クリスマス、お正月が過ぎてしまいました。お母さんも随分と忙しい暮れのスケジュール、大丈夫でしたか?大晦日の日、日本の真夜中の12時を目がけて、こちらの夕方5時にお電話しようと思っていました。その日の昼、日本人の友だちが来られて、豆腐とか、ひじきとか、切り干し大根とかを煮て、みんなで昼食を頂いていたら、ミツタケがもの凄い声で泣き出して、足の裏に縫い針が刺さったと言って、自分でその縫い針を抜いて持ってきました。見ると、3センチ位の長さの針の頭の方の1.5センチ位のところで折れていて、その先が見当たりません。みんなで懸命に探しましたが、見つからず、アキラがミツの足裏を押してみると、どうやら、残りの1.5センチは足の中にあるようです。大晦日の夕方ですし、何所の病院に行っていいかも分からず、途方に暮れていましたら、アキラが、メッサーを消毒してミツの足裏を切開するなどと、恐ろしいことを申します。そこで私は、迷うことなく幼稚園の先生・フラウ・マイヤーに電話で病院を聞きましたら、直ぐに、先生の息子さんが飛んできて下さり、救急病院に連れて行ってくれました。やれやれです。一緒に行ったアキラによりますと、レントゲンの結果、骨まで針が届いているけど、幸わい骨の中まで入っていないので、直ぐに麻酔をして切開することになったのですが、大量の血が噴き出して、針の在処が探れないので、遂に、足の内部を映すカメラを通して針の影を追いつつ、医者がモニターテレビを見ながら無事に針をとったそうです。アキラがメッサーで切開したら、どうなっていたことか、ぞっとします。その時アキラもかなり動転していたのです。そんなこんなで、みんなで年越しそばを食べたら、すっかり疲れてしまい、お電話するのを忘れてしまったのです。
夜中の12時に、子どもたちを起こして、ジルベスターの花火をご近所さんと楽しみました。ミツも針を抜いたら痛みもなくすっかり元気になり、お正月から飛び回っています。私の方は、お正月休みで気が緩み、時々寝込んだりしていますが、きっと怠け病で、朝、是非子どもたちを起こして学校に出さなくては、という意気込みがあると、リウマチの朝の痛みも何とか乗り越えられるようです。最近、ドイツでも全てが値上がりして、ますます生活は厳しくなり、その上、外国人に対する圧力が強くなり、日本人が寄ると、話題は一つ、滞在許可の問題です。外国に住むということは、自分の家ではなく、他所の家に住まわせてもらっているということ。日本にいた時には、思いもしなかったことが、だんだんと透けて見えてきて、様々なことを考えさせられます。ではまた。久子

手紙(1980.12.8) おばあちゃんのお迎え

演出家の倉本聰さんが「昔は節約が善だった。靴下に穴があけばお袋が夜なべして繕ってくれた。その靴下にはお袋の愛情がこもっていた」と言われたのを新聞で読んで、そういえば、35年前ドイツに住み始めて、日本に帰るまでの私の夜なべ仕事は、3人の男の子たちの靴下の繕いだった、と懐かしく思い出した。当時ドイツは、衣料品がとても高く、品質も悪く、直ぐに穴があく男の子の靴下などは、買っていられなかった。寒く長いドイツの冬を越すには、しっかりとした靴と暖かい靴下は必需品だ。私も実家の母のまねをして、靴下の中に電球を突っ込んで、次から次と繕ったものだ。当て布が何枚も重ねた靴下を穿くと、足の裏がもぞもぞするらしい。でも、彼らはそのもぞもぞ感が結構気に入ったようで、たまに新品の靴下を穿くと「もぞもぞの方が暖かくていいよ」とまで言うようになった。「お袋の愛情」なんて、心温まるはなしではない。ただ、何枚も布が重なり、生地が厚くなったので暖かかったのだろう。
さて、クリスマスにおばあちゃんがStuttgartにやって来ることなり、国分寺で一緒に住んでいた大おばあちゃん・春子さん(当時94歳位)は、熱海の伯母さん(おばあちゃんのお姉さん)のところに行くことになったようです。当時は介護保険制度もなく、ましてやショートステイの施設などもなく、親の介護はもっぱら家族同士で協力して担っていた。
1890年12月8日(月)
30日付けの手紙を6日の土曜日に受け取りました。春子おばあちゃんが、無事に熱海に着かれたのを知って、本当に安心しました。暖かいところで冬を過ごされるのは何よりです。でも、国分寺でたった独りで、お母さんは淋しいでしょうね。国分寺の家は寒いし・・・灯油は、相変わらず生協から買えるのですか?くれぐれも火に気を付けて下さいね。それから、天使館で稽古する人たちも、冬の稽古場はとても冷たいので、もし必要なら、原田さんにお金をお渡しして、あたらしい耐震装置付きの安全なストーブを買うようにお願いして下さい。バーラーのストーブは、もう古く、芯がよくないし、匂いがしますから。稽古後、ストーブを消し忘れないように注意して下さい。さて、お母さんがドイツに着かれる17日のことですが、アキラは、オイリュトメイムの学期末公演に加えて、新年早々Stuttgartで小さな舞踏公演することになり、その準備で毎日稽古です。子どもたちは学校なので、お迎えは私が必ず行きますので安心して下さい。こちらを朝4時の汽車でフランクフルトに向います。待ち合わせの場所は、ルフトハンザ出発階のロビーの前です。子どもたちは、おばあちゃんの来るが待ち遠しくてたまりません。お向かいのフラウ・ベルガーにケーキの焼き方を教わっておきますね。こちらは、1週間降り続いた雪も、今日は明るい太陽の光のもとで、キラキラ輝いています。時折、空からハラハラと雪の結晶が舞い降りてきます。新聞、ラジオがないので人から聞くのみですが、零下の寒さのようです。夜になると、黒々とした森の上に、凍てついた夜空が広がり冬の星々が美しく煌めきます。ホワイト・クリスマスが楽しみです。どうぞ、お気を付けてお出掛け下さい。みんなで待っています。久子

手紙(1980.12.2) コルマールからバーゼルへの旅

それにしても、今年(2016年)のお正月は、何と暖かなお正月だったことか!この一年、みんなの心も、このように温かでありますように。
1980.12.2 夜
今やっと、3人がベッドの中で、スヤスヤ寝たところです。今日の昼間は、ミツの友達のフィリップとトビアスが来て、一緒にハンバーグのランチ。午後はお向かいのクヌーツと森でそり遊び。一日が終わる頃はくたくたです。今日はとても冷たい日でした。11月の異常とも言える暖かな日々も、山崎さんと二人で旅行に出る28日の朝から、急に冷え込み、巨大な雪将軍の到来です。でも私たちは、コルマール、そしてバーゼルの2泊3日の旅に、山崎さんの車(通称ヤマザキクルマ)で出発しました。どこまでも続く雪原の中を、アウトバーンにのって、ひたすら南へ、南へと向い、コルマールのウンターリンデン美術館に着き、イーゼンハイムの祭壇画の前に座った時は、ふたりとも念願が叶って、唯々感激。言葉も交わさず、ただボォーとしてしまいました。11月の末の冷たい雪の日なので、冷えきった石の会堂には人気もなく、回廊をあるく私たちの足音だけが聞こえる、静かなひと時でした。(とにかく凄い! このキリスト磔刑図。子どもたちを家に残して、思いきって独り離れて出掛けてきて、本当によかった)その日は、アルザス地方の山間の村のホテルに一泊し、翌朝、次の目的地、ベックリンの「死の島」があるバーゼル美術館に向いました。バーゼルの街は、丁度クリスマス前のアドベントの第一週とあって、とても賑やかで、雪で真っ白になった旧い美しい町並みを歩いて楽しみました。ベックリンの「死の島」は、以前画集で見た時、なぜかとても魅かれた絵で、いつか本物を見たいと思っていたので、とても嬉しかったです。そして再び、アウトバーンにのってStuttgartへ。夜遅く全てが凍てついた中を、我が家に戻ると、子どもたちはもうスヤスヤ。お母さんからのお手紙が届いていました。ありがとう。
また書きます。取り急ぎご報告まで。 久子

手紙(1980.11.21) クリスマスにおばあちゃんがやって来る!

早くも、今日はおおつごもり。日に日に時間の速度に付いて行けなくなる。それにしても何と明るく暖かな年の暮れだろうか。来年は、内も外も明るく暖かな年になりますように。
さて35年前のこと。10月25日にアキラが一時帰国しStuttgartの戻り、その年のクリスマスには、おばあちゃんが日本からやってくる事になった。
1980年11月21日(木曜日)
アキラの突然の帰国、短い間で慌ただしく、大変お世話さまでした。さて、今度はお母さん、12月17日の飛行機の正確な時間をお知らせ下さい。必ず、お迎えに行きます。クリスマスに欲しい物は、いろいろありますがあまり重くない程度に、おもち、ふじっ子、漬け物など。でも、おばあちゃんがこちらに来られる事が、子どもたちへの最大のプレゼントですから、ご無理のないように。チカシは「おばあちゃんが独りで来るのは大変だから、本なんかは、送ってくれればいいよね」と言っています。毛糸はこちらにありますし、編み棒も持っていますが、編み物の本が是非欲しいです。こちらは、11月初めは、とても寒い日がありましたが、ここ1週間は、暖かく、春のようで、少々不安です。また何時あの寒さがやってくるのか、と思うとです。チカシもレイジも元気に学校に通っています。レイジも来週からは、11時45分までになります。週3時間/ロシア語、2時間/英語、2時間/宗教、その他は、手芸、音楽です。ロシア語は全く分かりませんから、レイジが授業で聴いてきた言葉と動作を合わせて「それは、人形の事じゃない?」とか「取る、じゃない?」とかみんなで想像ごっこをして遊んでいます。「立て」のことは「スタイヨット」、英語の「stand up」にちょっと似ているね、などと、言ったりして。チカシのHaupt Unterricht(基本授業)は、ドイツ語文法で、とても難しく、チカシだけ別の老婦人の先生が、個人指導してくれます(レイジも15分、1対1で教わります)。日本人の友達も「よかったね!」と喜んでくれました。みんな私たちの子どもたちの事を、とても心配してくれています。ドイツに長くいらっしゃる柳さんの奥さんに話したら、「それはとても恵まれていて、人によっては、学校に馴染めず、遂に辞めさせたり、外人労働者の子どもたちだけと遊ぶので、ドイツ語を覚えられず、親子共々円形脱毛症になったりして、とても苦しんでいる方もいます」と言っておられました。チカシは、昨日から週一度、フラウ・ウールバッハにドイツ語の読み方を教えて頂く事になり、今、グリム童話を読んでいます。日本語の本も少しは読んで欲しいのですが、そちらは相変わらず「明日のジョー」に夢中。親も子も闘争の日々です。そこで、月末に山崎さんと二人でだけで、コルマールに行ってもいいという事になり、久しぶりに、子ども3人から離れられるので、バンザ〜イです。その様子はまた手紙に書きます。お元気で。久子

手紙(1980.10.25)ヨーロッパでの初めての秋

1980年10月17日付けの手紙を読むと、その翌年のエルゼ・クリンク・オイリュトミーグルッペの日本公演ツアーの下準備のために、アキラが同月25日アエロフロートで2週間ほど帰国する事になり、その際にお母さんにお願いごとを書いている。今、読み返してみると、これが嫁が姑に書く手紙か、とあきれるばかりだ。
アキラに持ってきてもらいたい物のリスト
1、母子手帳(和ダンスの小引き出しの一番右)2、ケーキの型(上の戸棚、円型とマドレーヌの型)3、子どもたちのソックス(短いもの)4、あれば、ミツとレイジのズボン下 5、歯痛止め 6、アキラの冬のパジャマ 7、コンタクトレンズ(ハード)の保存液 8 あずき、上新粉、白玉粉 6、コンスターチ(子どもたちがお団子が食べたいというので)7 「明日のジョー」8巻 8、カレーのもと。
まるで、離れ小島に漂流した家族が援助を求めて書いた手紙のようだ。日本でこの要求を引き受け、用意するお母さんも、またそれをトランクにつめて運ぶアキラも容易でない事だったでしょう。もう35年前の事、今更気がついても、遅い。
そして、10月25日の早朝、日本に向うアキラを市電の駅まで送って後、
1980年10月25日(土曜日)
重く垂れ込んだ灰色の寒空の下で、木々の葉は、真っ黄色に色づき、その鮮明な色合いは、美しいというより、むしろ哀しいまでの透明感があります。暖かく紅葉を愛でる日本の秋とは、ほど遠く、静かで冷たく硬い空気に支配された秋。これがヨーロッパの秋なのか、と思います。人びとは、厚手のオーバを着て、黙々と自分のなすべき事を行ない、自然は、大いなる力でもって、厳しい冬に向って、容赦なく時を進めます。夏、賑やかにさえずっていた黒ツグミの姿も、今は見ることはありません。窓から遠く、色づいた木々を眺めていると、リルケやヘッセの詩が、自然に体に染み込んできます。子どもたちは外に出ると、寒くて、もかけっこをしたり、木登りしたり、すこぶる元気ですからご安心下さい。
さて、アキラの急の帰国、びっくりなさった事でしょう。帰国する前は、風邪を引いたり、出掛けたり、何のお土産も用意できずごめんなさい。それに引き換え先の手紙では、お願いごとばかり並べて、申し訳ございません。もし可能であれば、というつもりですから、決してご無理をなさらないように。
ところで、お母さんはいつ頃こちらにいらっしゃいますか?クリスマスの頃は、きっと寒いでしょうけど、全く異なった自然の中に身を置くというのも、いいものです。ミツの幼稚園は、12月22日までです。そのに以前いらっしゃれば、ミツの送り迎えの様子、またチカシとレイジの学校にも行けると思います。マーケットでは、もう、クリスマスのろうそくとか、美しい飾り物が出ています。
みんな、おばあちゃんが来てくれるのを楽しみに待っています。どうぞ実り多い日々をお過ごし下さい。お大切に。久子
追伸:アキラへ、チカシがシャープペンシルの芯を父さんに頼めばよかった、と言っておりました。

手紙(1980.10.1) ミカエル祭の頃

クリスマス休暇で、日本に一時帰国したハノーバーに住む日本人の友人と電話で話した。
「今、ドイツもパリのテロ事件や難民受入れ問題で大変だけど、日本の報道とは、少し違うのよね。こちらでは、みんな、厳しい状況から逃れてきた人たちを快く受入れて、多くの市民が力を合わせて援助しているの。大半のドイツ人はそう思っていると思うわ」と言った。
そう言えば、家族でドイツに渡った時のことだ。驚いたことに、シュツットガルトに住み始めたその日から、3人の子どもたちの児童手当が市から支給されたのだ。外国人で、しかも学生の家族に、しかも3人の子ども全員に、児童手当(キンダーゲルト)が支給されるなんて、渡独前は思っても見なかった。その時ほど、人種を超えて子どもは守る、というドイツ人の意志を感じたことはない。今から、35年前のことだ。そのことを、ハノーバーの友人にすると、「今でも続いているの、それは」と、明るい声が返ってきた。
1980年10月1日
さて、先日の手紙にも書きましたが、レイジが遂に、学校から1時間かけて全行程を独りで帰ってきました。土曜日、ミツとスーパーの花屋で花を選んでいたら、市電の中に、赤いランドセルが見えたのです。よかった、よかった。ホッとしました。9月27日、28日は、ミツの幼稚園で,ミカエル祭がありました。その日、子どもたちの頭には、各々星、月、花の冠を冠り、手には、その年の収穫物を入れた小さなかごを持ち、一人一人、ミカエルの像の前に丁寧に並べていきます。うす紫のカペレの中に、秋の午後の柔らかな日差しが差し込み、おばさんとおじさんの奏でるフルートとトロンボーンの二重奏が、終始、静かな会堂に流れ、最後には、祭壇の前に、色とりどりの木の実、野菜、パン、果物が並び、それは美しい時間でした。ミツは、花の冠で、籠にはリンゴと葡萄と木の実を入れてあげました。それから、フラウ・マイヤーのこよなく美しい声で、ミカエルの話の歌い、子どもたちが輪になって、踊りました。翌28日は、学校の生徒のためのミカエル祭で、今度は、生徒たちが自分で作った弓と矢を持ってきて、庭に立てられた張りぼての龍を矢で射って、リンゴを貰うのです。その日もカペレでは、男の子と女の子のヴァイオリンとチェロの演奏があり、影絵の劇がありました。何から何まで初めての体験だったので、楽しく面白かったのですが、帰り際、数人のお母さんたちに囲まれて、質問されました。「あなたは、そんなに時間がないのですか?」と。何のことかと思ったら、レイジが独りで下校することを、とても心配してくれているのです。「大丈夫です」と答えたら、みんなびっくり。反対に、私が「車の送り迎えは何時までなさるのですか?」と尋ねたら「彼が独りで帰れるようになるまで」というお返事でした。私は、毎日レイジが独りで帰れるように訓練したのですが、その様な訓練は一切しないようです。自然に成長するのを待つということかもしれませんが、我が家の場合は、そんな悠長なことは言っていられないのです。きっと、日本のお母さんって「凄いなぁ」とドイツのお母さんは、さぞかしあきれたことでしょう。ではまた。お大切に。久子

手紙(80.9.26)秋のお祭り

11月13日の夜、パリで起きた同時多発テロ事件に、私の二人の友人が遭遇していたということを、後で聞いてびっくりした。ひとりはイタリア人で、もうひとりは日本人。二人ともたまたまパリに滞在していたという。二人とも無事だったからよかったとは言うものの、今では、何時何所で何が起こっても不思議ではない。そう思うと、35年前、家族5人で5年間ドイツで何事もなく暮らしていたころは、遥か昔のことに思えて来る。
言葉も出来ず、子どもたちの学校も決まらず、おまけにお金の蓄えもなく、それでも、「同じ地球の上、鬼が棲んでるわけでもあるまいし・・・」と言ってくれた人の言葉を信じて、自分でも、なんとかなるさ、と思い、夢をいっぱい膨らませて、ジャンプ!!それは、ついこの間の、たった35年前のことなのに、悲しいことに、なんと世の中は変わってしまったことだろうか。 
1980年9月26日
いよいよレイジが独りで下校する練習を始めました。まず私が、リーデンベルクから市電のシャロッテン駅まで下って、そこで、学校のあるクレアヴァルトの丘から、バスで下ってくるレイジと落ち合うことにしました。練習の初日の朝、霧の深い肌寒い日だったので、チカシと二人が登校してから、迎えにいくまでとても不安でしたが、待ち合わせの時間に駅で待っていると、赤いランドセルを背中に、小さな体をチョコチョコ揺らして、無事にレイジが階段を下りて来るではありませんか。なにしろ、途中で何事かが起こっても、連絡するすべを持っていないと思うと、ヒヤヒヤですが、兎に角実行する他ありません。明日からは、全行程独りで帰宅すると、彼は張り切っています。さて、明日は、ミツタケの幼稚園で感謝祭です。小さな籠に収穫物を入れて、子どもたちが幼稚園に持っていきます。そして、その翌日は、ミカエル祭。手作りの弓と矢で、ドラゴンと戦います。さて、今週の火曜日にオペラ座に、クシシュトフ・ペンデレツキのオペラ「失楽園」を観に行きました。6マルクで購入した天井桟敷の席から舞台を見下ろし、伝統あるヨーロッパのオペラ座の観客とオーケストラの雰囲気に感動しました。では、また書きます。お大切に、久子

手紙(80.9.21) 学費免除のお知らせ

Stuttgartから国分寺の母(アキラのお母さん)に送った手紙のほとんどが、簡易封筒(いわゆるミニレター)に書かれている。ドイツの簡易封筒は、確か文房具屋さんで、何枚もまとまった一冊を購入したように記憶している。ブルーのミニレターの上に、60ペニッヒと50ペニッヒ(ベルリンの壁崩壊前のマルクの時代)を貼って、投函した。日本からのお母さんからの手紙もミニレターで、郵便局で購入したレターの上に、既に切手の図柄と120円と印刷されていた。時々、簡易封筒を買い忘れ、封書で出した手紙は、50ペニッヒを3枚貼った。ミニレターが1マルク10で、封書が1マルク50というのが、高いか安いか分からないが、当時は、その1マルク10に、出来るだけ細かく生活の思いをのせて書き綴った様子がうかがえる。メールでリアルタイムで相手に思いを伝えられる今日とは、随分違う。
9月21日(日曜日)
9月に入って、こちらは再び夏のような暑さと晴天に恵まれています。・・・・・・・さて、チカシとレイジの学校が始まって2週間目の日曜日。日本に居たときと違って、週末の嬉しさはひとしお。土曜日は、ミツの幼稚園がお休みなので、二人で市電とバスに乗り、クレアヴァルトまでレイジを迎えに行き、帰りに3人でNanz(スーパーの名前)で、2日分の食料を買い、手分けして家まで運ぶのです。こちらでは、土曜日の12時から翌日曜日丸一日何処もかしこも店は閉まってしまうのです。おまけに、ドイツ人は、土日は家族揃ってお出掛けしたり、友人を招待したりして愉しむ日。安息日ですものね。我が家でも、土曜の晩は、翌日は寝坊できるとあって、親子共々何となく、うきうき気分で、トランプをして夜更かし。今朝は、何と10時に、ロベルト君の呼び鈴で起こされました。彼は、家族でシュベービッシュアルプに、くろイチゴ採りに行くので、チカシを誘いにきてくれたのです。チカシが大喜びで出掛けてしまった後、おいてきぼりのレイジとミツは大層不満顔。そこで、アキラがジルベール・ヴァルト(銀の森)に、二人を連れて、お弁当を持って出掛けました。そこで、やっと独りになった私の出番です。基本的に安息日には、仕事をしないのが礼儀のようですが、キリスト教徒ではない私は、そうもいかず、1週間のチリホコリをすっかり掃除しなければなりません。(平日はその時間はありません)兎に角、彼らが帰ってくる前に、すっかりと爽やかにしておこうと、また、明日からの毎日に備えて、大忙しです。
さて、チカシもレイジも毎日元気に学校に通っています。チカシの今のエポック授業(基本授業)は絵で、レイジは、1年生なので基本授業だけでお終い。11月からは、英語とロシア語を勉強するそうです。ミツのお迎えは、毎日ですが、レイジのお迎えは、そろそろ1人で帰れるようにしようと思います。ドイツ人に言わせれば「何と非常識な親か!!」と言うでしょうけど、致し方ありません。私のリウマチは、今のところ、週1回の注射とクスリで何とか治まっています。規則正しい生活が何よりで、友達が、音楽会や講演会に誘ってくれるのですが、自分の身体のことを考えると、積極的になれず、情けないです。他の人から見ると、とても元気そうに見えるのでしょうね。でも、外国生活で母親が病に伏したら、子どもたちはとても可哀想だし、折角の新しい生活が楽しくありませんものね。安全第一と考えています。という訳で、日本に居たときのように、寝込むことも無く、朝の痛みを我慢する程度です。ではまた書きます。久子
追伸:クレアヴァルト・ヴァルドルフシューレのチカシとレイジの学費は、全額免除というお知らせがありました。ありがたいことです!!

手紙(80.9.16)クレアヴァルト・ヴァルドルフシューレに入学の頃

9月16日
さて、こちらは、チカシとレイジが、目出度くヴァルドルフシューレに入学して、通い始めてから2週間経ちました。まず、入学式の日のことを書きますね。
その日は、家族5人揃って、クレアヴァルトのヴァルドルフシューレに行きました。学校の敷地に入ると、直ぐに10歳くらいの男の子たちが、駆け寄ってきて、チカシに「きみは、僕たちのクラスに入るんだよ。こいよ!」と言って、みんなでチカシの手を引っ張って、教室の方に連れて行ってしまいました。チカシの担任のライン先生が、5Bのクラスの子どもたちにチカシのことを既に話してくれていたみたい。5Bの教室を覗くと、コチコチに固まっているチカシの周りを、体が一回りも大きく見える男の子や女の子が取り囲み、あれこれと教えてくれている様子。チカシは分かっているのかなぁ、ドイツ語が通じているのかなぁ、などと心配してもどうしようもありません。まあなんとかなるわ、とあっさりとチカシを置き去りにして、4人でレイジの入学式場に行くと、ホールの舞台上に、新入生の両親、おじいちゃん、おばあちゃんなどの席があり、観客席に新入生と在校生たちが並び、対面していました。そこで、レイジは観客席に、アキラと私は、ミツを連れて舞台上に上がると、いよいよ式の始まり。上級生のヴァイオリン二重奏に続いて、先生のお話。そのお話の真っ只中、ミツが突然、話をしている先生の前にちょこちょこと出て行き、どこにレイジがいるのか舞台の上から探してい様子。観客席の生徒たちからはクスクスと笑い声。舞台上の先生、親たちは、ニコニコ顔。新入生の中に埋もれ、丸まっている小さなレイジは、と見ると、「ミッちゃん、やめてくれよぉ〜」と、顔を歪めて困り顔。面白い一幕でした。それから、クラス担任の発表があり、まず、A組の女の先生のクラスから、一人一人子どもの名前が呼ばれ、呼ばれた子どもは前に行って先生と握手します。レイジは緊張のあまり、上を向いたり、下を向いたり、ため息をついたり・・・。B組になって、ついに「REIJI KASAI」と呼ばれると、しっかりした足取りで前に進み、ヘルムート・リントハイマー先生と握手。目出度くヴァルドルフシューレの1年生に入学しました。やれやれです。
そして今や、毎朝、6時45分に、やっと白み始めた冷たい空気の中にふたりを追い出すと、勢いよく市電の駅までふたりして走って行きます。彼らにとって何より嬉しいのは、お菓子を持って学校に行けること。日本では考えられませんよね。そんな訳で、こちらは皆毎日忙しく、でも、元気です。日本の秋が懐かしいぃ〜!!
また書きます。お大切に。久子

手紙(1980.9.4) Stuttgartから国分寺へ

1980年4月19日に渡独し、家族5人で西ドイツのStuutgart Isolde-kurz str.52 で生活を始めた。ドイツ語も出来ず、飛行機にも初めて乗り、韓国→フィリピン→ドバイ→サウジアラビア→チューリッヒの南回りで約30時間の飛行。そこから列車で4時間。アキラが探してくれた家族5人の住処に着いたのは、夜もとっぷり暮れた真夜中だった。4月とはいえ、凍るような寒さのなかで見渡した夜空の星の煌めきの美しさは、忘れられない。それから、約5年半、真新しい日々の生活を書き綴り、国分寺に独り暮らす姑に送り続けた。
9月4日 夜9時30分
今やっと、3人をベットに入れたところ。レイジは既にスヤスヤ。ミツは1人でおしゃべりしています。昨日、不足の衣類についてのお葉書を頂いたので、早速今日デパートに行って、衣類を調べました。これから初めてのドイツの冬。どのくらいの寒いのか覚悟をしていますが、最初に日本から送った冬の衣類だけでは少々不安です。なにしろ4月から約5ヶ月経ちましたが、その間の子どもたちの成長はめざましく、ズボンなどは、3人とも既にツンツルテンです。欲しいものは、消耗が激しいズボン類とズボン下です。真冬のオーバーは、デパートの安売りを狙って、アノラックを買おうと思っています。9月中旬から、アキラのオイリュトミーシューレが始まり、子どもたちが、ヴァルドルフシューレに通い始めると、買い物に行き時間はなくなります。朝6時に起床。7時にチカシとレイジを送り出し、7時半にアキラが出掛け、8時半にミツを幼稚園に届け、直ぐに丘の向こうのクレアヴァルトのヴァルドルフシューレまで、市電とバスを乗り継いで,約1時間、10時までに、レイジを迎えにいきます。レイジを連れてトンボ帰りして、12時にミツを迎えに行きます。こちらは車社会ですから、親たちは全て自家用車で、低学年の子どもたちの送り迎えをするのが当たり前で、市電とバスで迎えに行く親は、たいそう珍しいようです。まして、日本人の小さな男の子ふたりが、朝は親なしで通って来るなんて!きっと、ドイツ人はあきれていることでしょう。でも致し方ありません。何時までレイジのお迎えが必要か、分かりませんが、当分はこのスケジュールで行きます。
さて家の方も大分部屋らしくなり必要な物も次第に揃ってきました。昨日は、子どもたちだけで、市電の5番に乗って、1時間以上かけて終点まで行きました。先日服部さんから、5番の終点にドイツ赤軍派の連中が入っていた刑務所があると聞いたので、チカシは見学に行きたくて行きたくて、弟たちを連れて行ったのです。夕方興奮して帰宅すると、「刑務所で、本桃の銃を見た」とか、途中下車して、ミツをトイレに連れて行ったとか・・・。家の中ではけんかばかりですが、外に出ると、頼りになるお兄ちゃんのようです。そのチカシ、お隣に住む、ローズマリ―という10歳の女の子と友達になり、彼女がお迎えに来ると、いそいそと出掛けて行きます。では、おやすみなさい。久子

手紙

来年5月の誕生日で99歳になるアキラのお母さんは、今老人介護施設で暮らしている。そのお母さんの、かつての部屋の押し入れの片隅から、四半世紀前に私がドイツからお母さん宛に書き送った手紙の数々がでてきた。丁度25年前の今頃書いた手紙。お母さん63歳。久子36歳。
1980年10月28日
買い物から帰ると、お母さんから手紙と小包が(毛布のカバーとスリッパ)が届いていました。小包を見ただけで元気百杯!!ありがとう。まずお母さんの質問に答え、私の希望を書きます。1)粉ふるいはこちらにもありますので、不要です。2)歯の痛み止めは、中山先生のがいいのですが、無理でしたら、セデスとかでも結構。3)クリスマスツリーの飾り。もし余裕があれば、ツリーも入れて下さい。こちらで、ツリーを買うと20マルク〜40マルク位で、まあ1年に一回のことだからと思いますが、生木を買うと、入れ物から土から、何から何まで用意しなければならず、この際、日本にあるイミテーションのツリーでがまん、がまん。3)食料品は、ラーメンがもうすぐなくなりますので、カレーのもとと一緒にお願いできますか?4)おろし金。ドイツにもありますが、日本の製品の方が使いやすいので。以上船便でお願いできますか?
さて、クリスマスにおばあちゃんが来るんだと、子どもたちは、今から首を長くして待っています。そこで、子どもたちへのクリスマスプレゼント。出来れば、美しく、面白い本を1冊づつ(もし重たければ、食料品と一緒に船便にして下さい)。ヴァルドルフ学校では、プラスティック製のもの、例えば、レゴのような物は、賛成しません。それがいいとか悪いとかではなくて、私は、折角こちらに来て、日本のガラクタがない状態なので、少しづつ、おもちゃを選んで子どもたちに与えようかと思います。先日、木製の電車とレールのセットを買ったら、3人とも大喜び。毎月少しづつ、電車もレールも増やしていくのも楽しみです。また、木製のチェス(高価ですが、長いこと使えます)、トランプ(とても美しい色の絵のもの)小さい機織機(ミツの幼稚園で使っていて、私も楽しめそう。ミツが特に好きそうで、クリスマスプレゼントの候補の一つ)木製のままごとセット、大工道具セットなどなど。見ているだけでも楽しいので、お母さんがいらしたら、是非一緒におもちゃ屋さんに行きましょうね。
アキラから聞いたと思いますが、ミツのお友だちのロビン君を毎週水曜日に預かる仕事を始めました。ロビンのお母さんのザビーネは、独りで子育てをしていて、強烈な人ですが、とても優しくて、面白い人。1日につき、25マルク。ランチから夕方6時まで。つきに100マルクになるかならないかですが、子どもたちにおもちゃを買ってやれるかもしれないので、頑張ります。それにザビーネが、大好きになったのです。
ところで、今日は、ドイツ滞在の先輩、Y夫人の家を訪問しました。もう1人在独の日本人の奥さんも加わって、あれこれとおしゃべりしましたが、ドイツに来てまだ間もない新参者の私は、会話について行かれず、話しを聞きながら、外国で日本人家族と付き合うのは、大変だと痛感しました。ともすると、とても狭い世界の中での人間関係になり、他の家庭の悪口の言い合いになりそうで、嫌な感じがしました。幸いにも、私の周りは、日本の若い人たちばかり。子持ち家庭は、我が家だけです。外国で暮らすということは、よほど心を開いて、大らかにならないと、まったく自分にプラスにならず、中途半端な日本人になる恐れがあるのでは、などと考えながら帰りました。今は、むしろ日本人である私が、どれだけ人間として外国人(ドイツ人に限らず)共通の意識を持ち得るかが、緊急課題です。ではまた。久子
読み返してみると、随分調子のいいことを言っているのに、我ながらあきれてしまった。国分寺で、家族6人で暮らしていて、突然、お母さん独り残して、5人で渡独。あれこれと、注文の多い料理店さながら、姑におねだりする嫁。ププラスティックは止めようと言いながら、大切なクリスマスに、イミテーションのクリスマスツリーでよしとする感覚。何と浅はかなことよ、とお恥ずかしいが、事実だからしかたがない。それにしても、ドイツ滞在の5年間、よく手紙を書き続けたと感心する。当時はパソコン、スカイプなど無かったし、国際電話はとても高くて、緊急時のみ使用。唯一の通信手段は手紙を書くことだった。今にして思えば、懐かしい時間の流れの中の暮らしだった。

ローマ・B&B「I PALADISI」のキッチンで

前回のブログを見ると、昨年秋のメキシコ公演から戻ってからの書いたものだった。それから今日まで何と8ヶ月の時間が、あっという間に過ぎ去り、今は、ローマのボローニャ広場駅の近くにあるB&B 「I PALADISI」のキッチンに座っている。もうここに来て10日が過ぎ去り、後4日でこことも「さよなら」するのだと思ったら、急に胸に迫るものがやって来た。私は、今までローマに、何回来ただろうか?
昨年5月にも、ここ「I PALADISI」のキッチンに座っていた。「蝶たちのコロナ」公演ののために12人のメンバーと共に滞在した。そして今年も再び、同じメンバーで「蝶たちのコロナ・イタリア語ヴァージョン」公演と、ワークショップのためにやって来た。ローマ側のメンバーであるマリアピア、サマンサ、アレクサンドラ、シュテファノ、シシリーに住む絹子、通訳のダイスケ。みんなと出会ってから既に15年以上過ぎた。毎回ローマに来ると、彼らと会い、食べ、呑み、おしゃべりをし、「またね!」と言って別れ、また当然のように再会を繰り返して来た。
また今回も「またね!」と言って、ハグして、次を約束して、別れるのだろうか。果たして、その次がくるのだろうか。
そんなことを、夢うつつの中で想い巡らしてると、ローマの友人、ローマの遺跡、空、風、街路樹、果物、パスタ、ワイン・・・が、はかりしれない大きな贈り物のように、圧倒的な勢いで私の身体の中に流れ込んでくる。情けないことに、リウマチの間接の変形に、加齢も加わって、次第に身体の不自由を感じて来た私に、果たしてその贈り物を受け止めることができるのだろうか、と思うと心もとないが、心の中で贈り物を開けると、不思議なことに不自由な身体が温かくなってくる。嬉しいな。感謝。感謝。

あんな時代、こんな時代

先日、バレエの会の会場で、知らない方から「お帰りなさい。お元気そうですね」と声をかけられた。どうして、私がメキシコに行っていたのをご存知なのだろうか?一緒にいたなおかさんが「ツイッターで、ミツタケがヒサコサンの写真をアップしたからでしょう」と言う。帰り道、彼女はメキシコ版「ハヤサスラヒメ」のメンバーが、それぞれにFacebookやTwitterに載せた画像を見せてくれた。成田に向かう時、飛行場で、ホテルで、ホテルの食事、グアナファトの道路の様子、楽屋で・・・楽しく、面白く、懐かしい画面が、限りなく目に飛び込んで来た。数千キロ離れた所にいながら、リアルタイムで仲間同士が共通体験をもてるんだぁ!と今更ながら、びっくりした。私の頭の上に、どこにでも行ける目に見えないネットワークが張り巡らされていて、そのネットワークに乗ると遠くにいる友人とも直ぐにも繋がれる、と思うと嬉しくもあり、恐ろしくもある。
昔、家族で西ドイツに住んでいた頃(ベルリンの壁の崩壊より前のこと)、ある寒い冬の夜、町の電話ボックスの電話が壊れていて、日本人の誰かが10マルク(当時はマルクだった)入れて日本に電話すると、そのまんま日本と繋がりっぱなしになっている、という噂が聞こえて来た。「それ行け」とばかり電話ボックスに駆けつけると、既に日本人の留学生たちが長い列をなして、寒空の下に並んでいるではないか。遠く離れた故郷のお母さん、恋人の声を少しでも聴きたいと願う貧乏学生たちにとって、何よりの天の恵みだった。たった数分間のコトバのやり取りが、身体を温めてくれる。でも、受話器を置くと、瞬時にドイツに独りでいる自分に気づく。そして、凍てつく冬空に煌めく、無数の星を見上げながら、遠く離れた故郷の人たちとこの宇宙の中で、共に呼吸しているのを感じ、限りなく愛おしい気分に満たされる。こんな時代もあった。

コスモス

無事にメキシコ公演ツアーから戻って来た。10月11日メキシコに発つ前日に、アキラが庭に植えてくれた小さなコスモスの苗がどうなっているだろうかと心配していたが(というのも、13日には本年度最大級の台風19号が、関東甲信越に到来することになっていたので)、嬉しいことに、ピンク色のかわいい花がちらほらと、けなげにも風に吹かれているではないか。よく頑張ったね、と思わず話しかける。どのくらい激しい台風だったか想像できないが、庭の隅のゴミ箱のふたはすっ飛び、立てかけてあった掃除用具も倒れていたので、植えたばかりで、まだ大地にしっかり根を下ろさない幼いコスモスたちは、風雨に堪えるのに必死だったことだろう。コトバをもたない、こよなく愛おしい植物たち!
そして、我が家の桜の葉も色づき始めた。今年の冬から始まったメキシコ版「ハヤサスラヒメ」も、極暑の夏を経て、再び訪れる冬を前に終わり、新たに次の春に向けて、アキラの新作「今晩は荒れ模様」が既に始まり、再びカラダの内が静かに温まって来た。

メキシコ版「ハヤサスラヒメ」公演に向かって

横浜赤レンガで行なった、メキシコ版「ハヤサスラヒメ」のゲネプロも無事終わった。いよいよ12日に成田からメキシコに、39人のメンバーと共に飛び立つ。
ゲネプロの会場には、初演の時の大駱駝艦の男性4人のダンサーも駆けつけてくれた。舞台が終わってから、会場で、今回男性に代わって踊った女性ダンサー4人と大駱駝艦の4人、そこに、麿さんに代わってサスラヒメを踊ったミツタケも加わり、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、何やら楽しそうにおしゃべりをしている。がたいの大きいおにいちゃんたちが可愛い妹たちに向かって「しっかりやれよ、おまえたち!!メキシコ公演、がんばれよ、ボクたちが付いているからね」などと言っているのかな、何とも和やかで愉しい空気が流れてくる。それから、お決まりの写真撮影。そこに居合わせた多くの面々にカメラを向けられ、仲良く兄妹同士カメラにおさまっていた。
一昨年、50年来同い年の友人でありながら、交わることなく自分のおどりを踊り続けてきた麿さんとアキラが、同じ舞台で踊ること自体とてもびっくりした出来事だったが、それ以来とても自然に、若いダンサーたちの輪が広がって来た。私にとって、それは何より嬉しいことであり、楽しみだ。
39人という大人数と海外ツアー公演をするのは初めてで、どうなることやらと思っていたが、若い人たちのがんばりと明るさの溢れる空気の中にいると、自然と、まあ、何とかなるよ、とひどく楽観的になってくる。ありがたいことだ。
相変わらず、極楽トンボのヒサコサン、ガンバレヨ!!などと、ぶつぶつ呟きながら、すでに気分はメキシコに向かって・・・。

秋の日に

久しぶりに爽やかな秋の日。午前中、アキラに北口の美容院まで車で送ってもらう。途中、秋祭りの御神輿に出会ったり・・・気分もルンルン。ごま塩色の私の髪をカットしてくれるのは、二男のレイジと同い年の、最近ちょっとお腹が出てきた店長さん。「いつものように、短くしますか」というと素早い鋏さばきで、チョキチョキと手際がいい。「はい、如何ですか?」と後ろに鑑を当てて、カット具合を見せてくれる。えっ、もう終わり!と心で思いながらも「ありがとう」とにこやかに礼を言って、外に出ると、秋の陽が、軽くなった私の頭の上に溢れるように降って来た。
家に帰って、山本ふみこさんの「暮らしと台所の歳時記」を開と「9月13日〜17日ごろ セキレイが鳴きはじめるころ」とあった。鶺鴒って、どんな鳥だったっけ? 辞書を引くと「・・・水辺でみられ、スズメより大形。尾が長く上下に振る習性がある。・・・」なるほど。涼しくなると、活字が恋しくなるなぁ。

アルテミス

東京芸術劇場のシアターイーストで、「黒田育世とBATIKダンサーによる日替わりデュオ!」と銘打ったBATIKの公演を観た。まあ凄かった。昨年お母さんになられた育世さん、もう、以前の「おどりが踊りたいの」と叫び続ける女の子には戻れない。
ストラビンスキーの「春の祭典」の強烈な曲に乗ってダンスする彼女に、私は、いつの間にか、数年前ナポリ国立考古学博物館で観た古代メソポタミアのエフェソス神殿の女神アルテミスを重ねて観ていたような気がする。
ナポリ国立考古学博物館のディオニソスの間に置かれた漆黒のアルテミス像は、身体に多くの乳房と動物たちをくっ付けていた。ローマの友人は、それは乳房ではなく、牛の睾丸でもあると言い、アルテミスは、命を生み出す大地母神のような存在なの、と付け加えた。
また、ギリシア神話では、アポロンの双生の妹で、美しく若い、処女の狩人。ローマ神話では月の女神・・・などと話してくれた。
終演後、叡と一緒に楽屋を訪ねると、そこに現れたのは、エフェソスの女神ではなく、ニコニコ明るい顔をした、いつもと変わらない育世さん。傍らに、まるまるとした赤ちゃんを抱っこしたジロさん。この光景も,なんと素晴らしいことだろ!
秋のはじめ、幸先のいい、実りに恵まれた一日だった。

頭上に 極上を。

憎らしいほど暑い夏日がやっと収まって、爽やかな秋の日が始まった。
昼下がり、打ち合わせに来たハイウッドの高樹さんが「これ」と言って、大きな包みをアキラに差し出した。開けてみると、なんと、今アキラが一番欲しがっていた純白のパナマ帽ではないか。
2年前の夏、シシリー島のエリチェで、あまりの暑さに耐えきれず、道ばたで1000円で買った白い帽子が気に入り、冬でもかまわず愛用していたが、ついに先日へなへなになって、捨ててしまったという。いくらイタリアで買ったとは言え、夏の日よけの麦わら帽にすぎないのだが、型がどことなく粋なのだ。最近では、半ばアキラのトレードマークになっていた白いパナマ帽。それがなくなったとあっては、アキラの心中思いやられるなぁ〜と案じていた矢先のこと。
包みの中に、「あきら先生受賞おめでとうございます。BATIK一同心よりお祝い申し上げます」と書かれた薔薇の花形のメッセージカードと、Borsalinoの説明書が入っていた。どうも、今年の貰った、芸術選奨の文部科学大臣賞のお祝いのつもりらしい。若い女性のダンサーのみなさんの優しい心と勘のよさに感動する。
実は、昨年11月アキラは古希のお祝いに旧天使館の面々から、やはりBorsalinoの紳士帽をプレゼントされた。でもこれは焦げ茶の冬用。これで、夏冬いつでも安心になった。うれしいこと!!
曰く「頭上に 極上を。」

夏の終わり

子どもの頃、夏休みの始めは、時間のことなど考えもなく、毎朝目覚めると同時に飛び起きて、ひたすら遊びに没頭して過ごした。でも夏の終わりになると、突然時間との闘いが始まる。宿題だ!! 今日は8月31日。もうここまで来ると万事休す。不思議なことに、翌9月1日になると、思い詰めた気分もすっかり消えて、秋の新学期に向かって、久しぶりに友達に再会できるのが嬉しく、意欲が出て来る。
夏の終わり。子どもの頃はよかったね!!
さて、今の私。およそ40年にわたって付き合ってきたリウマチで、いよいよ指が変形してきて、今では、箸を持つのもやっと、ペンで字を書くのはとても困難、という情けない状況だが、幸いなことに、左右の人差し指だけは使用可能なので、パソコンの入力は出来る。
そこで「わが愛しい指よ、お前たちはいつまで私のために働いてくれるかしら・・・・」などとぶつぶつ言いながら、庭の桜の木の幹で、夏の終わりを告げるミンミンゼミのうるさい鳴き声を聴きながら、パソコンに向かっている。またブログ再開です。

三月になって

2月の大雪で庭に積もった雪が消えると、初冬に植えたムスカリの芽が並んで土から頭を出していた。春がくるのだなぁ〜、ホッとするのもつかの間、今日はまた冷雨の一日だ。
春になると、お花やさんの店先は、優しい淡い色合の、香り豊かな花々が溢れるほど並び、心もうきうきと街に繰り出して、映画でも観て、お茶でもして、などという気分になったものだが、そんな楽しい気分にならないのは、年のせいもあろうが、そうでもない。
3年前の3月11日の東日本大震災以来、的を得た言葉を見失い、言葉が相手に届かなくなり、次第に不安な気分が日々の基調となりつつある。
思えば、東京大空襲、地下鉄サリン事件、イラク戦争開始、東日本大震災、そして今日のウクライナ情勢悪化、なぜか全て3月に起こっている。
雪に覆われた冷たい大地から、健気に光に向かって伸びてくる小さな植物の芽を見ながら、R・シュタイナーの「魂のこよみ」を心に響かせてみる。
Im Licht, das aus Weltenhoehen/Der Seele machtvoll fliessen will,/Erscheine,lösend Seelenrätsel,/Der Weltendenkens Sicherheit,/Versammelnd seiner Strahlen Macht,/Im Menschenherezen
Liebe weckend.
宇宙の高みから力強く/魂の中へ流れこむひかり、/その光の中には魂の謎を解く/宇宙思考の確かさがある。/この光線の力を結集して/人の心の中に愛を目覚めさせよう。(高橋巖訳)