グリュス・ゴット!

思いつくまま気の向くまま、頭の中のおそうじをするように・・・今年初めてのブログです。
長田弘さんの「ウイーン、旧市街の小路にて」という詩のなかに、
グリュス・ゴット!/挨拶のなかに神さまのいる街。
という一節を見つけて、嬉しくなった。「グリュス・ゴット」とは、今から34年前の春、私が家族と共にシュッツトガルトに渡って初めて知った挨拶の言葉だ。「神さま、こんにちわ」なんとステキな、なんと美しい響きなのだろう。それからの5年のドイツ生活の間、友だちでも、八百屋さん、魚屋さん、郵便局、銀行、学校、お隣さん、市電の運転手さんなどなど、いつでも何処でも人との出会いは「グリュス・ゴット」から始まった。
5年後日本に戻ってから、20年近く経った2005年春、叡の振付けの仕事で、一ヶ月ベルリンに滞在する機会があった。久しぶりのドイツというので、私は胸をわくわくさせながら、集まったベルリン在住の若いダンサーたちに向かって、大きな声で「グリュス・ゴット」と挨拶すると、「ヒサコガ、グリュス・ゴット、デスッテ!」とみんなに大笑いされてしまった。何がおかしいのかなぁ?ともじもじしていると、ルノワールの少女を想わせるダンサーのひとりコリーナが、私の耳元で「ベルリンでは、誰もグリュス・ゴットとは言わないの」と囁いて慰めてくれた。でもどうして言わないの、こんなにステキな挨拶の言葉を・・・。
その一ヶ月、私たちはブランデンブルグ門の南の旧東ベルリン側にあるアパートの8階に滞在した。5月19日ベルリン到着の翌朝、北の窓から外を覗くと、灰色の四角形のコンクリートの立方体が整然と幾つも並んでいて、立方体と立方体の間には、細い通路が縦横に走っているのが見えた。上から見ると、同じ大きさの四角形だけが並んで見えるが、立方体に差した影を見ると、高さは微妙に異なっているようだ。一体これは何だろう? コンクリートに挟まれた狭い通路をひたすら歩く人がみえる。若い夫婦が子どもを石の上で遊ばせている。前も後ろもないような、終っているようで終っていない、なにもない空間。
それは、5月12日に完成したばかりのホロコースト記念碑だった。そして、6月1日、イスラエルのシャロン首相が記念碑に訪れるというので、前日から私たちがいる建物の周辺は厳戒態勢にはいった。稽古場で、コリーナは私に「ヒサコ、明日は絶対に窓を開けて外を見てはダメ。即座に拳銃で撃たれるわよ」と厳重に忠告してくれた。翌日私は、忠告を守って窓を開けずにガラス越しに外を覗いて見た。至る所に警察官や兵士たちが配置されていて、地上では警察犬が植え込みをせっせっと嗅ぎ回り、ビルの屋上からは、銃を携えた兵士たちが双眼鏡を覗いてまわりの様子を伺っている。あまりの物々しさに、その必要も無いのに、私はしばらくの間、物音を立てないように息を潜めてていた。
ベルリン在住のダンサー8人に振り付けた叡の作品「蜃気楼」の初演は、ブランデンブルク門から続いて広がる ティーアガルテンの中の世界文化の家で行なわれた。終演後、コリーナは私に「私の父も母もドイツ人。私は時々自分がドイツ人であるのが恥ずかしく思うの・・・」と話した。私は心の中で、えっ、何で?と思ったが、その時私は、20代の若いコリーナが背負っている存在の重荷を受け止める言葉を見つけることができなかった。
翌日日本に向かう飛行機の中で、コリーナの顔を思い浮かべながら、「コリーナ、あなたのなかの神さまにこんにちわ。グリュス・ゴット!」とつぶやいてみた。

秋の日

どうなることやら、と思っていた「笠井叡 日本国憲法を踊る」も先週の日曜日に無事終わった。その日は、奇しくも大野一雄先生のお誕生日。台風一過の翌日、澄み切った秋の空から「カサイサン、カサイサン(生前大野先生は,アキラをそう呼んでいた)もっと静かに、静かに、ゆっくり、ゆっくり・・・」などと呟かれていたのではないだろうか。取りあえず、多くの方にご覧頂き、感謝、感謝。
秋になると、5年間暮らしたドイツのStuttgartが無性に恋しくなる。透明に張りつめた空気の中で、Silber Wald(銀の森)の樹々の葉は、黄金色に染まり、その1枚1枚の重なりの隙き間から、美しく淡い陽の光が差し込む。冬支度に入る前の秋の一日、子どもたちのお楽しみ、Strasse Fest(ご近所祭りとでも言おうか)が行なわれる。隣近所のお父さんたちは、協力してテントを張り、グリルの炭火を熾して肉を焼く準備をする。とりどりの秋の実りの果実で、おいしいケーキを焼くのは、お母さんの仕事。一時の楽しみが過ぎ去ると、冬が一気にやってくる。
もうかれこれ30年以上まえの風景。でも秋になると、その時の空気の冷たさ、匂い、光の色,風の音が、からだのなかに蘇って・・・などと、心地いい秋の陽だまりで夢想に耽っていると、名古屋の中村眞貴子さんからメールが届いた。
曰く「いよいよ、『蝶たちのコロナ』の名古屋公演です」そうだ!名古屋で初めての天使館オイリュトミー公演が、間もなく幕開きする。
11月8日(金) 18:30開場/19:00開演 愛知芸術文化センター小ホール 前売り2700円 当日3000円
30年前のある秋の日、シュツッガルト・オイリュトメイム日本公演で来日された、叡のオイリュトミーの師、故エルゼ・クリンク女史は、叡の舞踏の師である故大野一雄先生と対面なさった。対極の、偉大なふたりの師。このおふたりも透明な秋空のむこうで、静かに幕開きを待っていらっしゃるような・・・。
乞うご期待!!

笠井叡 日本国憲法を踊る

9月末の、琵琶湖合宿のテーマも「日本国憲法」だった。今度は、カラダで「日本国憲法]を踊るという。果たしてどうなる事か。
40歳の若さで青函連絡船洞爺丸の海難事故に遭い、あえなく亡くなった叡のお父さん(寅年生まれなので寅雄という)は、ごく普通の家に育った人らしいが、誰に聞いても、頭がとびきりよく、当時最年少で司法試験に合格し、裁判官になった。今、タンスの上に置いてある法衣を着た寅雄さんの遺影を見ても、我が三男と同じくらいの歳とは思えないほど、立派に見える。その奥さん、つまり、叡のお母さんの話によると、めっぽう頑固で厳しい人だったという。そのころ、ターザン遊びに熱中していたアキラ少年は、よく寅雄さんにお目玉を食らったらしい。寅雄お父さんにとって叡は長男。法律学者ならまだしも、まさかダンサーになろうとは!!
朝の食卓で、私が「寅雄さんが生きていらしたら、憲法について聞きたいわね]と言うと、叡は「地上の法は宇宙の法。宇宙の法は地上の法。寅雄さんと僕は同類項だ」と言いながら、抗がん剤を服用する。ヤレヤレ、どうなることやら・・・・。

琵琶湖合宿

今年4月9日、叡が胃癌の診断を受けてから、ほぼ半年が過ぎた。叡の癌のおかげ、と言ってはなんだが、今では、三分の一になった叡の胃袋を上手く満たすには、どんな食べ物がいいのかなど、料理上手な友達からの様々な食材や、アドバイスを頂いて、私のもっとも苦手な分野のお料理に挑戦しながら、新鮮な発見に喜んだりしている。叡の癌のおかげで気づいたことが、もうひとつ。それまで、フツウに「ガン」と発していた単語が、急に身内に乗り込んで来てからというもの、世の中に「ガン」という単語が如何に多く渦巻いていることか、ということに気づいた。新聞、雑誌、単行本、「ガン」の叩き売りのように「ガン」という単語が飛び回わっている。これぞガンの治療法、ガンの撲滅、ガンからの生還、ガンの花道・・・。ガン患者は、ガン情報でガンじがらめにされてしまう。冗談を言っている場合ではない。
昨日から、琵琶湖湖畔での合宿にやって来た。全国から30人以上の方が参加している。「オイリュトミーにより、日本国憲法をカラダの中から、創りだす」が今回のテーマだ。今日問題の憲法改正のことを考えながら、ふと「人は生まれた瞬間から、死をカラダの中で育て始める」というフレーズを思い出した。人は、生きる権利とカラダの中で豊かな死を育む権利があるのに、そのどちらも同時に奪ってしまう戦争は、最悪の行為で、絶対に許せない。たとえ、病気といえども、自分のカラダの中の死を育む時間を与えられることは幸いではないか。

旅は続く

昨夜、大雨の中、トゥールーズのガロンヌ劇場のアトリエでの「Spiel」公演が、無事に終わった。1ヶ月滞在したフランスともこれで、今暫くはお別れ。
次は、いよいよ日本公演だ。これから、ユウコとパリに向かい、ドゴール空港から成田に・・・・。

トゥールーズへ

フランス滞在も残り3日。いよいよ日本かぁ、と考えると、うれしいような、さみしいような、恐ろしいような、複雑な気分になる。
昨日、アンジェからトゥールーズにやって来た。照明のオーグスタンも一緒なのでありがたい。アキラと二人だけだったら、情けないことにオオゴトなのです。アンジェからナント駅、そこで飛行機に乗りかえてトゥールーズまで、およそ1時間。アンジェからトゥールーズまでの間に、晴れ、曇り、風、雹、雨・・・・。なんと忙しい天気の変わりよう。ナントで大粒の雨と風で吹き飛ばされそうになりながら、駅前のタクシーに乗ると、外の強風とは裏腹に、滑るように走り出した車の中で、ドライバーとオーグスタンの会話が始まった。フロントガラスを叩き付ける雨粒を眺めていると、遠くの空の雲間から薄日が射し、青空が見える。また、強い雨。車の中では、オーグスタンとドライバーの二人のおしゃべりが続いている。まるで、美しい室内楽を聴いているようなフランス語の響きの優しさが耳元に心地よい。幸せなひととき。
トーゥルーズに飛行機が到着したとき、オーグスタンは「ヒサコ、ここはアンジェより寒いよ。上着を着たほうがいい」と言ってくれた。本当だ。外に出ると真冬のような寒さ。もう直き春を迎えようとしていたアンジェとは大違い。南フランスとはいえども、ここはピレネー山脈の麓ですものね。
照明のオーグスタン、音響のマチュー、通訳のユウコ、制作のエステル。私の子どものような年の若いみんなが、不良品で修理不可能になった私のカラダを支えてくれている。ありがたいこと。

リタ

ポルトガル人のリタが、アキラのワークショップを受けるのは2回目だ。3年前の1回目のワークショップの時にも、彼女は参加していた。もともと彼女は幼稚園の先生志望だったが、当時CNDCの芸術監督だったエマニュエル・ユインがポルトガルでダンス公演を行なった際に、たまたまエマニュエルのお嬢さんのベビーシッターをやったのがきっかけで、CNDCのエッセイコースに参加するようになった、と話してくれた。参加者のほとんどの国籍は異なり、個性の強い若い男女の集まりの中で、彼女は、いかにも初心で、素直で、目に入るもの全てが新鮮であるかのように大きな瞳を輝かしながら、はにかんでいる少女に見えた。
当時、そんなリタが、急に「去年、私独りで日本を旅しました」と話しかけられてびっくりした。思わず「どこを、どうやって?」と聞くと「四国のほうです。日本の方はとても親切で、暖かく、一軒の農家を訪ねると、必ず泊まって行きなさい、と言われ、次の日はその家の知り合いのうちを紹介してくれました。毎日、感謝の気持ちでいっぱいになりながら、何の心配もなく旅が出来ました。日本は本当にいい国ですね。今度は東京に行きます」それは大変!! ちょっと待って、と私は心の内で叫んでしまった。
それより数年前、「花粉革命」公演でポルトガルのファロに行った時のことを思い出した。初夏の頃だったか、イベリア半島の南端の港町ファロは、小さな箱庭のように可愛らしく、街の至る所で見られる合歓の木は、美しい薄紫色の花がたくさん咲いて、時折の海風に街中に甘い香りを漂わせていた。
日本とは全く異質な幻想的なファロの街。でもなぜか懐かしかった。
さて、今回のリタ、可愛らしいから美しいに変身し、はっきりとした口調で「来年は日本に行きます」と言った。そして「でもポルトガルは今、経済的に危機に瀕しています。スペインも、ギリシャも。ポルトガルは小さい国で・・・・」と悲しそうに付け加えた。私は心の内で「でも大丈夫、リタ、あなたなら。だって、その昔日本人が初めてあったヨーロッパの人は、あなたの祖先だったんですから」と言いながら、いつの間にか、時空を超えた遠い国との繋がりに想いは広がる。

クラウディア

イタリア人のダンサーで振付家のクラウディアは、美術学校の先生をしている。今回彼女の生徒たちも、アキラのワークショップに参加した。ブラジル人、ポルトガル人、フランス人など国籍もさまざまだ。毎日、クラウディアはアキラのワークショップを見にきて、熱心にノートをとったり、輪になってみんなで話し合う時には、一緒に仲間に入って静かに生徒たちの意見に耳を傾け、稽古の休憩のときは、アキラの課題を上手く動けない生徒に、そっと動き方を教えたりしていた。
お国のことを聞くと「23歳の時に、私はイタリアを捨ててフランスに来ました。随分長いこと国には帰ったことがありませんでしたが、最近は家族に逢いに、時々帰ります」と言い「イタリアにいると、早く結婚して、家庭を持って・・・と言われて、自分らしく生きられなかったので」と付け足した。「イタリアのどちらですか?」と聞くと「アドリア海に面した北イタリア」とだけ言った。須賀敦子さんの「トリエステ」或はリルケの「ドゥイノ」あたりだろうか。国を捨ててパリに向かう気持ちも分からなくもない。今では、2、3の親しいイタリアの友人とイタリア語で話す以外は、母国語はほとんど使わないそうだ。
CNDCの廊下で、クラウディアにばったり出会い、アキラがインチキイタリア語で「トスカ」の名曲「星は光りぬ」を朗々と(?)歌うと、彼女は直ぐに続けて、美しいイタリア語で情熱的に歌い上げた。
漆黒の髪をひっめにして、ミリタリー風の黒皮のジャケットをぴったりと着込み、細身のパンツルックのクラウディアは、とてもかっこいい。でも、生徒達に囲まれて話しているクラウディアは、紛れもない世話好きのイタリア人。彼女の黒い瞳の奥にはイタリア人特有の明るい情熱が秘められている。

通訳のユウコさん

昨日、CNDCでのアキラのワークショップ終了。通訳のユウコさんが用意してくれた遅いランチのカレーライスを、ワークショップ生とみんなで食べ(美味しかったこと!!)、3時から我が屋根裏部屋の食堂で、エマニュエル、マチュー、映像作家のジュディット、ユウコ、私たちの6人が円卓を囲み、ミーティング。ユウコさんは、6時にはアンジェ駅から列車に乗って、もう直き3歳になるカイトちゃんとご主人のアントワーヌさんが待つパリに帰らなければならない。外は大雨だ。3年目に突入した「Spiel」の今後の育て方がテーマだ。日本語とフランス語を全く違和感を感じさせず、日本人とフランス人の考え方の違いのややこしい話を、お相撲の行司さながら、素早く公平に通訳して裁いて行くユウコさんの手腕に感心する。
そのユウコさん、CNDCのワークショップの初日、何やら怒って現れた。聞くと、カイトちやんが通う保育園では、週1回お母さんが持ち回りで子ども達の保育をする決まりがある。保母さんの人数も少なく済み、その分保育料も安くなる。ママ保母か、なるほど、なるほど。私の子育ての頃もあったかな、そんな考え。
ユウコさんは仕事で、ママ保母が出来ない場合を考えて、他の人のママ保母を引き受けて、10時間のママ保母貯金をした。そこで今回のアンジェでの仕事で、替わってあげた人にママ保母をお願いすると、あっけなく「ワタシ、イソガシイノヨネ、アナタ、オシゴト、Good luck!!」と言われたそうだ。「なにが、グッド・ラックよ。日本人だったら、ゴメンナサイ、と言うわよね」とユウコさん。全くその通り。
国が違い、言葉が違う者同士が、ひとつの舞台作品を創っていくことは、至難の業だ。それは、子どもを育てて行くのに似ている。3歳になった「Spiel」も、次第に自我意識が目覚めてきた。これからどのように育って行くか楽しみであるとともに、ますますミーティングの大切さが身にしみてくる。

土方さんの思い出

私が初めてアンジェに来たのは、2010年の春のことだ。アンジュ城の近辺の路地には、小さな商店が並んでいて、お気に入りの店(小さな小物の店とか、文房具屋さんなど)を見つけると、何度も足を運んで、お土産選びを楽しんだものだ。今回もまた、おなじ店に行ってみたが、何故か様子が違う。細かい品物が多くあり、どれもこれも日本で見るのと同じ様なもの。つまらないなぁ。
昨日、我々の屋根裏部屋の食堂で、アキラがエマニュエルとマチュウの3時間のインタヴューを受ける。通訳のユウコさんが、「パリは4度だったけど、アンジェは暖かいわね」と言いながら入ってきた。食堂の四角い窓ガラスを通して、久しぶりに淡い陽の光が差し込んで、窓辺に置いた黄色のチュウーリップが美しい。静かな日曜日の昼下がり、インタヴューが始まった。
「犯罪ダンス、暗黒ブヨウ、暗黒ブトウ、ブトウ、マルキ・ド・サド、ジャン・ジュネ、アンドレ・ブルトン、ロートレアモン、フランス革命、ヒジカタタツミ、オオノカズオ・・・・」
エマニュエルのフランス語とユウコさんの日本語を聞きながら、遠くに見えるブルーの空を眺めていたら、急に、50年前にタイムスリップ。
その日、私とアキラと土方巽さんは、虎ノ門ホールで高井富子さんの舞台を観た後、銀座のコックドールの2階にいた。大工さん刈りの土方さんは、白いワイシャツを着ていた。アキラはその日、高井さんの舞台で一緒に踊ったので、空腹に任せて、早速ビフテキを注文すると、すかさず土方さんは「ボク、サラダ」とウエイトレスに言った。「さすがにダンサー。自分のカラダのこと考えている」とその時私は大いに感心したのだが、実はその時お金がなかったのだと、後で判明した。土方さんがまだ30代の後半で、私たちが20代の若造だった頃のこと。あの頃は、お金がなくてもよく遊び、よくしゃべり、よく呑んだ。たのしかったな。
銀座通りに面したコックドールの店の、白いレースのカーテンの向こうの夜の銀座の光。金が無くても「王者の雰囲気」の土方巽。

サンナゼール

サンナゼールには正味2日しかいなかったが、奇妙な印象の町だった。
サンナゼールは、第2次世界大戦でドイツ軍に占領され、終戦間際アメリカ軍によって解放されたが、町は完全に壊滅したと言う。今でも埠頭には、占領時にドイツ軍が造った分厚いコンクリートの潜水艦造営場の壁が残されている。いや、残ってしまっていると言ったほうがあたっているかもしれない。なぜなら、今でもこの怪物の様な物体を壊すには、莫大な費用を要するらしい。なにしろ、爆撃でむき出しになったコンクリートの中を見ると、埋め込まれている鉄筋の数が半端ではない。というわけで、サンナゼール市では、これを負の遺産として残すことにした。
そして、道路を挟んで対面するように、素晴らしい現代的な劇場がある。アートの町の誕生だ。
戦争をするのも人間であり、芸術をするのも人間だ。
中世から続いている古城の町アンジェに戻ってきて、サンナゼール市で感じた痛みと希望が奇妙に入り交じった印象がますます鮮明になっていく。
そんなサンナゼールで「Spiel」公演が出来てよかった。たった1回の舞台だったが、とりわけその日のエマニュエルは美しかった。

踊り子人生

昨日の午後、アンジェから新幹線で1時間、大西洋に面した漁港St.Nazaireにやって来た。エステルが用意してくれた1等車の座席には、パリから乗ってきたと思われる上品な老婦人がふたりが既に座っていて、ポニーテールの髪型で、白いフレームの鼻眼鏡をかけたアキラをチラッと横目で見て、二人で目を合わせフフと笑った。パリのモンマルトル辺りならいざ知らず、こんな片田舎のフランスでは、アキラが国籍不明、年齢不詳の人物に思われるのは当然で、私はむしろ、アキラを見るフランス人の反応を見るのが愉しい。
どんよりとした灰色の冬空がどこまでも続き、列車は、溢れる勢いで流れる水嵩の増した川の側を走って行く。30分もするとナントに到着。昔高校生の頃、ナントの公会議なんて教科書に出てきたなぁ、などとぼんやり考えていると、灰色だった遠くの地平線が、白み始めて薄日が射してきた。雨が止んだのだ。
ティー・ファクトリーの平井さんに、鶴屋南北戯曲賞をお受けになった川村毅さんへのお祝いのメールを送ったら、返事を頂いた。そこに、「おふたりとも、旅の人生ですね」とあった。思い返せば、50年前、アキラがキャバレーのショーで、日本各地を旅していた時と今と、さほど変わりはない。
踊り子人生、自由が何より!だ。さて今夜のSt.Nazaireの「Spiel」は・・・・。新しい時がやってくる。

踊り子は自由が何より

昨年暮れ、エマニュエルは、8年間努めたCNDCの芸術監督をめでたく退任した。彼女自身はもう少しCNDCで仕事を続けたかったらしい。留任の運動もあったらしい。でもいいではないか、ダンサーに肩書きは必要ない。踊り子は自由が何より。
そのように自由になったエマニュエルとアキラのデュオ「Spiel」を5月17、18、19日吾妻橋のアサヒ・アートスクエアで公演する。乞うご期待である。

アンジェに雪が降る

アンジェに来て1週間経った。昨夜4回目の『Spiel』の公演を済ませた後、バーでワインを一杯と、という若いスタッフたちに、「またあしたね!」と挨拶を交わして、CNDCを後にした。体の中に燠のように残っている今日のパフォーマンスの余韻が、戸外の冷気に触れていっそう鮮明に甦る。
メーヌ川を挟んで、コンクリートで出来た大きな四角形の現代建築物CNDCの対岸に、今日フランスで現存する城で、もっとも古いアンジェ城が、崖の上に微かなイルミネーションに照らされて、夢のように浮かび上がって見える。なんと美しいことか!なんと清楚なことか!・・・・1000年前には、堅牢なこの城塞で、多くの人々が戦い、夥しい血が流され、どんなにか残虐な殺戮が繰り返されてきたかというのに。
静まり返った石畳の道を歩く自分の足音を聴きながら、心の中で、隣で黙々と歩いているアキラに向かって「今日の舞台面白かった」と呟いた。
お互いの探り合いから始まったエマニュエルとアキラの「SPIEL」の作品創りも、もう4年になろうか。不思議なことに、次第に二人の顔が相似形になってきたではないか。夥しい未生の言葉を流しながら、新しい何かが生まれてくるように。
そして今朝、起きてみると雪が降っていた。昨夜帰り際に、通訳のYUKOさんが「明日は雪ですから、5時15分にエマニュエルが車で迎えにいきます」と言っていたっけ。今夜がCNDCでの「SPIEL」最後の公演だ。

年の終わりから始まりへ

いつの間にか、国分寺の杜から聴こえていた除夜の鐘が、八幡さまの大太鼓の音に変わっている。志村ふくみ先生から頂いた先生の『薔薇のことぶれ』—リルケ書簡ーを読んでいるうちに、ふと気が付くと2012年が過ぎ、新しい年が明けていた。
およそ100年前に書かれたリルケの、妻クララに、タクシス夫人に、ルー・ザロメに、その他詩人が出会った女性たちに宛てたおびただしい数の手紙。どれもこれも驚くほど美しく、深く、正直な言葉の数々。
私は、志村先生の著書からいつも多くのことを学ぶ。『薔薇のことぶれ』の前に出された『晩祷』—リルケを読むーを読みながら、本を読むということは、正直に自分に向うことなんだ、ということを教えて頂いた。あと数年で70歳にならんとする時まで、こんなことがわからなかった自分にあきれる。
「自分の考えを自分の言葉で書け」(吉田秀和)という言葉を引いて「自分の言葉とは自分の生き様そのものだと思った時、そこにリルケがいた」という先生の文章を読んだとき、ふと肩が軽くなったような気がした。
さて、あれこれ思い巡らしているうちに、丑三つ時に家を出て、御岳山にご来光を拝みに向った叡と禮示は、無事に山の頂きに着いたかな。

雪が降る

もう直き、1月23日が過ぎ、24日がやってくる。外は雪だ。部屋を暗くすると、私の机の前の窓を通して、お隣の本多さんの広いお庭が、真っ白に浮び上がって見える。窓を開けると、冷たい空気がきもちいい。寒いけど美しい。
昨年の暮れ、人から頂いた、黒川創著・西村伊作伝「きれいな風貌」を読んで、明治43年(1910)に起った大逆事件で検挙された人たちの中のひとり大石誠之助は、西村伊作の叔父さんであると初めて知った。そして、101年前の1月18日に死刑宣告を受けて、そして今日24日12名の被告の刑が執行された。宣告を受けて、たった一週間後のことだ。大寒の寒い日に、今日みたいに雪が降っていただろうか。
言論の自由、思想の自由が無かった時代の言葉の重さを想う。

山本さんの言葉

エッセイストの山本ふみこさんから頂いた本「そなえることは、へらすこと。」(メディアファクトリー)を読んだ。日常の暮らしの中で(特に、この度の大震災のあと)著者が、感じたり思ったりしていることが、明快、率直な言葉で綴られている。読んでいるいるうちに「そうね、そうよ、そうそう・・・」と私自身が書いているような気分になっているから不思議だ。そして、毎日の生活の中で、忘れていたり、気がつかないで通りすぎている事柄などを気付かせてくれる。山本さんの言葉がすぅーと私の身体に入ってきて心地いい。
最近、誰かと話していても、心の中でー言葉が届いていないなーと思うようなことが多くなった。もちろんこの状況は一方的な問題ではない。相手の人も同じことを感じているだろう。ますます話す言葉が空虚になり、ひととひとの間が薄れてきて、遠くなって行く。
山本さんの本の中に次のような文章を見つけた。
―けれども東日本大震災のあと・・・・与えられた物をすべて生かすことが、わたしがわが胸のなかで自分相手にした約束なのだった。
そんな山本さんの言葉に触れて、私の心に何時の時か読んだリルケの詩句が浮かんだ。
私は自分を配慮する。すると 私の中に 家が立っている。
私は自分を見張りする、すると私の中に見張りの牧(まき)がある。
愛を受ける者に私が成ると、美しい自然の姿が 私に凭れて憩い、そしてそれが 心ゆくまで泣いて泣き止む。(片山敏彦訳)
山本さんの本の中で、人間に無関心だった物たちが、植物が、自然が、山本さんの言葉に触れて復活する。

石井恭二さんの訃報

11月30日の夕方、現代思潮新社の川辺さんから、現代思潮社元社主の石井恭二さんの訃報が届けられた。享年83歳。特にこの一年叡の心にはいつも石井さんのことが気になっていたようで、「今度一度訪ねようね」と口にしていただけに、思いがけない訃報に接して、最期のお別れも逸してしまい、叡にとってはことのほか無念な思いだろう。
石井恭二さんが出版したマルキ・ド・サド作/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』が、発禁処分になり、石井さんはわいせつ文書販売等の罪に問われ、裁判が始まったのが1961年、69年に最高裁で有罪が決定された。その係争中の8年間は、火山のマグマが噴出し続けるようなエネルギーが、世の中に渦巻いていた。当時まだ20代だった叡は、大野一雄先生の稽古場で踊りの稽古を始め、土方巽さんと出会い、それまでのダンスの概念をひっくり返すような土方さんの舞台を共に体験し、澁澤龍彦さんはじめ多くの芸術家、詩人などと知り合うことができた。
どういう経緯かすっかり忘れたが、多分1970年頃のことだと思う。ある日、当時石井さんがお住まいだった小日向にお宅に招待され伺うと、そこにはすでに、埴谷雄高さん、澁澤龍彦さん、龍子夫人が集まっておられた。石井さんが「本日は平安朝時代の食事を嗜む集いです」との挨拶があり、石井さん自らひとつひとつ供される食事の品々の説明があった。私は、珍しい食べ物にびっくりしたり、戸惑ったりしながら、一方で、その場で交わされる会話のおもしろさに引き込まれ、その場の心地良さは今でも思い出せるが、もったいないことにその時に何が話されていたのかすっかり忘れてしまった。まだまだ未熟な私だった。
数少ない叡の著作のうち、『天使論』1972『聖霊舞踏』1977『神々の黄昏』1979 の3冊は、石井さんの元から生まれた。その後、すでに現代思潮社を退かれておられたが、石井さんの計らいで、写真集『銀河革命』を現代思潮新社から2004年に上梓した。
前を歩いていてくれた人が、いつの間にか消えて行く。その人の存在のぬくもりだけを私の心の中に残して。決して消えない存在のぬくもり。なんと素晴らしいことか。
「ありがとぉ〜」いくら叫んでも、すでに言葉はとどかない。

明日は日本へ。

いよいよ明日は日本に帰る。
今年の春、多くのひとをのみこんだ日本の大地にふる雪を、痛ましいほど白いと感じたのはついこの間のこと。早くも再び雪の季節が巡ってくる。
5月にフランスのアンジェとアネシー、7月にはイタリアのトスカーニャ、9月はハンガリーのブダペスト、そして今回のニューヨークのブルックリン。いつでも何処でも人々の生活があり、様々な意識が重なりあい、混じりあい、やがて、時間が厚い層となっていく。行く先々でその厚い時間の層に身を沈める。生きる源がそこにあるような気がする。
今月25日は叡の68歳の誕生日。ダンスを始めて50年。未来から吹いてくる新しい風を受けながら、叡は今、CAVEのスタジオで今回最後のワークショップをしている。

「NOBODY’S MONEY」

昨夜(18日)DNA(Dancc New Amsterdam)で、叡のソロ作品「NOBODY’MONEY」を上演した。公演後のアーティスト・トークで、インタビュアーのヒメナが、今回の作品に付いて質問し、叡が「お金は、所有するものではなくて、血液のように必要なところに流れるもの・・・」と口にすると、会場から大きな拍手が起こった。
この数日間公演の準備でDNAに来ると、いつも前の舗道をプラカードを掲げた人たちが行進していたり、目まぐるしく行き交う車の流れを警官たちが交通規制をしていたり、物々しい警戒態勢が続いていた、ニューヨーク市民の不満が渦を巻いて至る所に溢れている。
今日は19日(土)。私たちが、BROOKLYNにいるのも残り二日。ベッドフォード・アベニューの街路樹もすっかり落葉して、冬の淡いブルーの空が遠くの方まで広がって見える。空気が冷たい。やがて華やかなクリスマスがやってくる。
でも、冬のニューヨークは毎年凍死者がでるほど寒いとシゲさんが言っていた。孤独に暮らすお年寄りたち、病気の人たち、職を失った人たち、ちいさな子どもたち・・・凍るように冷たい大都会の中で、この格差社会をどのように生きていけばいいのだろうか?

11月のBROOKLYNつづき5

11月16日夕方4時半。今日は朝から小雨が降っている。ここの部屋は6階にあり、ベランダを通して正面に、マンハッタンに渡る橋が見え、橋に平行して電車が走っている。今すべてが灰色の風景の中で、電車の四角い車窓と車のライトだけがオレンジ色に輝き、忙しく行き交っているのが見える。雪片でも落ちてきそうだ。
昨日の夕方、18日に叡がパフォーマンスをするDNAのスタジオに照明の打ち合わせに行った。打ち合わせが終わり、スタジオの前でシゲさんの車を待ちながら上空を見ると、ヘリコプターの明かりが遠くに動いているのが見えた。10分ほどで来るから、と言ったシゲさんの車を待つこと30分以上。すっかり夜になり、目の前の公園の銀杏の葉がイルミネーションにを受けて、金色に輝いている。どうしたのだろう、といよいよ心配になりだした時、シゲさんの車がやってきた。車に乗ると、シゲさんは「今日は警察が、先月からの反格差のを訴える座り込みの人たちを強制退去させたので、ものすごい交通制限で、なかなか来られなかったんです。心配したでしょう」と言った。それで、ヘリコプターも飛んでいたんだな。
今朝インターネットで朝日新聞を見ると、金色の銀杏の木の前に並んだ警官たちの写真があった。DNAの前の公園に、多くの人がテントを張って座り込みをしていたのだ。200人も逮捕されたという。
ニューヨークに来ると、いつもマンハッタンの繁華街をブラブラ歩いて、本屋を覗いたり、MOMAに行ったり、しゃれた喫茶店に入ったり、何となくニューヨークを楽しむ気分になったものだが、今回はそんな気分になれないのはなぜだろう。
世界が猛スピードで動いているのを感じる。何処に向かっているのだろうか。

11月のBROOKLYN4

今年の8月の末、MacBookAirを買った。海外にでる時、荷物が少しでも軽くあってほしいからだ。と言うと、いかにもパソコンを自由に使いこなしてるように聞こえるが、まったくそうではない。闇の中を行き当たりばったりしていると、偶然に先に進む道にぶつかるといようなものだ。
20年ぐらい前、あるグループの雑誌を独りで編集するはめになった。それより以前、大学卒業後しばらくの間、昭森社という出版社で「本の手帖」や「詩と批評」などの編集に携わっていたことがあるとはいうものの、何から何まで独りで本を作るのは初めて。さて困った。そこで、当時既に一般に広く使われていたワープロを購入し、国分寺北口にあるワープロ塾に入門。夏の暑い盛り、3ヶ月の講習を受けた。やってみると、なかなか面白い。ワープロで原稿を打ち込み、編集から割り付けまでして印刷屋に入稿し、いよいよ印刷屋から第一号の新しい雑誌が手元に届いた時は、ひとり内心ほくほくと嬉しかったのを忘れない。
それから間もなく、ワープロは廃れ、パソコンが取って替わった。今や、どこにいても、どこにいくにも、パソコンは必需品となる。
勿論、ここBROOKLYNにも8月の末に買ったMacBookAirを持ってきた。そして既に「わたしのMac」は大活躍。東京からのメールを受信し、即返信。スケジュールのこと、助成金申請書類のこと、公演やワークショップの問い合わせ等々、「わたしのAirMac」がすべてを記憶していてくれて、何事もリアルタイムに処理してくれ、滞りなく事を進めてくれる。だが、まてよ。突然「わたしのMac」が真っ黒に固まってしまったらどうしよう。
自分で買ったパソコンに自分自身が吸い取られる。ゆゆしきことだ。
人は努力する限り、迷うものだ・・・とは彼のゲーテ先生のお言葉。えい!「わたしのMac」なんか放っといて、美しい冬のベッドフォード・アベニュウを散歩に出よう。

11月のBROOLYNつづき3

私たちに部屋を貸してくれているエミリーのおばあさんは、台湾の人だそうだ。どうりで、シゲさんが初めて彼女を紹介してくれたとき、思わず日本語で挨拶しそうになったほどの親しみを覚えた。確か国分寺のどこかで出会ったことあるような・・・。そのエミリー「日本には、たった一週間だけしか行ったことがないの。東京と北海道の旭川と。北海道は雪が降っていて、とてもすてきだったわ。日本は大好き。食べ物もおいしいし。一週間じゃあ足りないわ。今度は彼と一緒にもっとながく行くわ、ゼッタイに」と最後を強調して言った。
エミリーの彼・ジュリアンは、お母さんがイギリス人。お父さんがケニア人。彼の彫りの深い顔は、浅黒く、黒い瞳が印象的だ。ふたりは、来年の2月にBROOKLYNのどこかにレストランをオープンするという。そのために、今は毎日店の改装をしている。今朝ジュリアンが早く出かけたのは、ニューヨーク中を回って、細かい物を選んでくるためだ。
そうかぁ。それでガッテン!私たちに大きな部屋を貸して、自分たちはリビングルームを簡単に仕切った狭い部屋(しかも、一方がベランダに面していてガラス張りなのに、カーテン無し)を寝室にして、少しでも資金をためよう。夢を実現するためには、少々不自由な思いも厭わない。なんとも頼もしい。
叡がワークショップをしているCAVEでも、コロンビア人のヒメナと日本人のシゲさんが一日中休む暇なく動き回って、スタジオを切り盛りしながら、自分たちの作品創りをしている。
世界的な経済破綻で、お先真っ暗な世の中でも、様々なところで出会いがあり、その出会いが様々な生き方を生み出していく。

11月のBROOKLYNつづき2

次男のれいじから「東京も急に冷え込んで、急遽布団を買いました」というメールが入った。寒いのはニューヨークばかりではない、冬ですものね。
昨日(12日)は、叡のワークショップがお休みなので、午後から散歩に出かけた。前日の寒さを想定して完全装備の態勢で外にでると、案外と寒くない。地下鉄のベッドフォード駅を目指して、ベッドフォード・アベニューを10ブロックほど、のんびりと歩く。初冬の穏やかな日差しのもとで、通りはウイークエンドの昼下がりを楽しむ人たちで賑わっている。11月の最終木曜日が感謝祭だという。それが過ぎると、町は一斉に降誕祭を迎える準備に取りかかるのだろう。途中、露天の古本屋さんで、ブランチ・フィッシャー・ライトの挿絵付きのマザー・グースの絵本を見つけた。
ベッドフォードの駅から地下鉄に乗り、3つ目ユニオン・スクウェアで乗り換え、グランドセントラルを通り越して、59番ストリート駅で降りた。地下鉄の階段を上ると、既に高層ビルの窓ガラスは夕陽を受けて、オレンジ色に輝いている。それから、マンハッタンを南北に走る有名な通り―3rdAve、レキシントンAve、パークAve、マジソンAve、5番街=を横切って、セントラル・パークまで。
実は、その日の朝「ボクは、やはり詩人だからね。セントラル・パークの紅葉がハラハラ散るのがみたいなぁ〜」と叡。「ハハァーン、リルケ張りね・・・」と内心思わず納得する。という訳で、セントラル・パークまでやって来たものの、公園内はどこもかしこも人だらけ。疲れ果て、ベンチに座り、木々の間から空を見上げると、薄紫から灰色そして藍色へと大都会は静かに暮れていく。二人とも寡黙になり目を瞑って、しばらくの間、遠くに響きわたる車のクラクションの音を耳にしていると、嗚呼、再びマンハッタンにいるんだ、と懐かしい思いが湧いてきて、時の流れの不思議が、疲れを忘れさせてくれた。
すっかり陽も落ちて、べッドフォード・アベニュウの帰り道、行きの露天の古本屋で見つけたマザーグースの絵本を7ドルで買い、叡は酒屋でイタリア産ワインを求め、ブロードウエイ・アベニュウ110の、エミリー&ジュリアンとの共同部屋にたどり着いて、無事ニューヨークの休日は終った。

11月のBROOKLYN つづき

11月11日(金)昨晩遅く、雨が降っていようだが、今朝はきれいに晴れ渡っている。私たちの居る部屋から、CAVEまでは7ブロックしか離れていない。パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませ、これまた簡単なお昼のお弁当を作って、外に出ると、ワァ〜寒いではないか。日差しは明るいが、空気は昨日までと打って変わり、グッと冷たい。
さて今回我々のBROOKLYNの滞在先は、前もってシゲさんがネットで探したエミリーさんという若い女性の部屋だ。彼女は我々の滞在中は、上の階に住むボーイフレンドのところで生活する、と聞いていた。まだ新築で、壁も真っ白、大きなリビング、ゆったりとした寝室。彼女はここを買ったそうだ。あの若さで,こんなご時世に、マンションの一室を購入するなんて。ハハァ〜ン、時々部屋を貸して、ローンの返済に充てるのだろう、と思いきや、昨日の昼間、大工さんがやってきて、5時間あまりで、広いリビングにドア付きの真っ白な壁を作り、あっという間に、エミリーの寝室が出来上がり!「今夜は上だけど、明日からここよ。よろしくね。バァ〜イ」とご機嫌で去っていった。「何と言ったか分かる?」と叡に聞いたが、答えはナシ。明日からこの部屋に住むのかしら・・・。
今日になって、事情が判明した。CAVEのワークショップから戻り、バスルームに入ると、何とエミリーの洗濯物がバスタブの上にいっぱい干してあるではないか。しかもボーイフレンドの物まである。これはどういうことか?と思う間もなく、大きな荷物を抱えて、エミリーと彼がやってきて、出来立ての小さな部屋に、すっぽりとふたりで収まってしまった。という訳で、これから日本に帰るまで、私たちのBROOKLYN滞在は、若いカップルと薄い壁を隔てての共同生活となったのである。これもまた愉し!!!

11月のBROOKLYN

今日は、11月10日(木)。ニューヨークに来て4日目だ。日付け変更線を通過してケネディー空港に向かう機内で、「現地は摂氏7度」というアナウンスがあった。やっぱり想像していた通りの寒さだ、と覚悟を決めて空港に降り立ち、迎えにきてくれたCAVEのシゲさんと外に出ると、ライトブルーの冬空のもと、空気はひんやりと気持ちがいい。それほど寒くなく、ああよかった!
2年前、叡と一緒にCAVEのワークショップに来たのは、確か梅雨の頃だったと思う。その年の初め、オバマさんがアメリカの大統領に就任した。「ブッシュが替わって、ニューヨークの空気も軽くなったよ」と、その時何人かの友人から聞いた。それからわずか2年しか経っていないのに、今や、日本に於いても世界に於いても、解決不可能な政治、経済、文化の諸問題が雪崩の勢いで襲いかかってくる。
そんな状況の中で、BROOKLYINにスタジオを持つシゲさんとヒメナの活動は、2年前よりますますエネルギシュだ。様々な国の若者たちが、CAVEの空間で自由に創造作業を繰り広げている。目まぐるしい時の変化の中にあっても、着々と豊かな空間が育っていく。なんと力強いことか!!
マンハッタン島の隣ブルックリンは、シゲさんが10数年前に住み始めた頃は、無法地帯だったそうだ。今では、摩天楼を誇るマンハッタンとは異なり穏やかな住宅街だ。そんなブルックリンでも、今回新しい高層ビルをいくつか見た。
「旧い建物に囲まれたブルックリンのよさが、だんだんなくなるのはさみしい」ポツリとシゲさんが呟いた。
「いやいやシゲさん、外がどんなに冷えても、内は燃え続けて欲しいわ」とわたしは、心の中で呟いた。

もう、11月!

気がついたら、今日はもう11月1日、霜月だ。
午前中、大森正秀さんから、9月下旬「血は特別のジュースだ」の公演のために訪れた、ハンガリーのブタペストでのスナップ写真が、数葉送られてきた。ドナウ川の岸辺に建つ大きな石像の前で、大森さんが撮ってくれた叡と私のツーショット(あの頃はまだまだ暑く、夏日が続いていた)。メルリン劇場の広間の大テーブルの横で、大野悦子さん、秦宣子さん、大森正秀さんとご一緒に一枚。フェスティバル「Japan is here」の開催中、参加者たちは皆、昼に夜にそのテーブルを囲んで食事を共にした。大市場の屋内にある八百屋さんの前で、禮示と秦さんと私。どれもこれも懐かしい。
あれから、京都、横浜と公演が続き、一昨日やっと九日間のエマニュエル・ユィンと叡の、森下スタジオでの稽古と公開デモンストレーション及び最終日のシンポジュームが終わった。
シンポジュームの席上でパネラーの一人から、「全身ダンサー」と称されたエマニュエルも、翌日の朝早く、二人のお嬢さんが待つフランスのアンジェに向かって飛び立った。「秋休みのほとんど、ママなしで過ごさせてしまったわ。せめて残りの二日間は子どもたちと一緒にいたいの」と言いながら・・・。
そして今夜、天使館では11月4日に国分寺の老人介護施設「すかやか」でのオイリュトミー・デモンストレーションの稽古が行われている。叡を交えてオイリュトミスト数名で、「すこやか」にショートステイしておられるご高齢者の皆さんにオイリュトミーを披露するという訳だ。初めての試み。楽しみでもあり、心配でもあり、緊張する。
大森正秀さんは写真とともに一言付け加えてくれた。「ニューヨークは雪とか。ニューヨークの路上で滑らないように・・・」と。優しいなぁ。来週の今頃は、ニューヨーク。寒いだろうなぁ。
11月は、外の闇が最も深まっていく季節。ひとの優しさが、心に光をともす。

「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」

叡の新作「血は特別のジュースだ」を携えてハンガリーに赴き、ブタペストのメルリン劇場での公演を終えて、東京に戻ったのが10月3日。中2日置いて6日に京都にやってきた。10日、京都造形芸術大学の春秋座で、この作品を本邦初演する。
春秋座公演の後、10月14、15、16日の3日間、笠井瑞丈と横浜赤レンガの企画による、叡の構成・振付・出演の新作「うつろ舟」と続き、更に、20日から30日まで、森下スタジオに於いて、フランスのアンジェ国立振付センターの芸術監督のエマニュエルとの公開稽古を行う。相変わらず、スケジュールは立て込んでいる。
とは言え、「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」は、同時に産声を上げた、全く似ていない双子。乞うご期待!!

エマニュエルとの恊働作業の始まり

5月2日の夕方、ANAでドゴール空港に降り、列車に乗り次いでほぼ一時間半アンジェに着いた時、駅にCNDC(国立コンテンポラリー振付センター)のアルノーが、雨の中を車で迎えにきてくれていた。2年振りのアンジェだ。宿舎は前と同じ、窓からゴチック教会の尖塔が見えるアパルトマンの一室。
翌日からCNDCで、叡とエマニュエルの稽古が始まる。思わず叡が「日本に持って行きたくなるような空間だ!」と口走ったほど、素晴らしい大リハーサル室には、叡とエマニュエルの他、音響担当のマチュー、照明のオーギュスティン、映像のカンタンとジュディットと通訳のまり子さんと私の8人。
エマニュエルは、CNDCの芸術監督、ダンサー、コレオグラファー、幼いふたりの娘たちの母親で、ポルトガル人のダンサーの奥さんでもあり、幾つもの顔をもつ、きわめて多忙で、有能な女性ではあるが、実際に会うと、アーティストというより、穏やかな親しみのある主婦というほうがしっくりする。そんな彼女が、一年ほど前から日本に来る度に、僅かな時間を割いて天使館を訪れて、叡との稽古を重ねてきた。
そのきっかけは、2年前の春のCNDCの招聘公演『花粉革命』を観て、叡の動きがどこから出てくるのか強い関心を持った彼女の、持ち前の知りたがりやの性格と物事に一途に向う彼女の意志力が強く働いた結果だ。そのようにしてエマニュエルの要望から、専ら彼女の提唱する『プレイ・バック』という稽古方法を用いて、ふたりの稽古が始まった。
今回私たちがアンジェに来たのは、今週末アネシーのダンスフェスティバルでふたりが踊ることになったからだ。しかし、エマニュエルがCNDCの大リハーサル室で叡と行なった稽古は、フェスティバルのための稽古ではなく、天使館の稽古と全く同じで、『プレイ・バック』、[プレイ・バック』の『プレイ・バック』・・・・。そして、動く時間と同じ時間をかけて、音響、照明、カメラのみんなと話し合い。それぞれが、動き、光、音を分析して言葉にする。それぞれがA4のノートに細かく書き付けて行く。ダンサー、照明、音響、稽古場にいる人が、自由に自分の時間を相手の時間に重ねて行く。初め、エマニュエルの知りたがりやの芽が頭をもたげてから、呼吸するように過去、未来、現在の時間の層が重なり合って、密度の濃い深い時間の流れになって行く。そんな稽古の流れから、アネシーでどんなものが生まれてくるのか、とても楽しみだ。叡にとっても、きっと未知の出会いを楽しみにしているだろう。エマニュエルとの恊働作業はこれからも続いていくだろう。

あの日から一ヶ月

今日は4月11日。東北関東大震災の日から一ヶ月経った。3月11日、私の乗った電車がJR西国分寺の駅に着いて、幸いにもドアが開いた時、地震が起った。電車を一台遅れて乗ったら、駅と駅の間で止まって、暫く待たされて、電車から線路に降り、最寄りの駅まで歩く羽目になっただろう。反対方向に乗った私の友人は、まさしくそうだった,と後で聞いた。
その日から暫くの間は、電車に乗るのが怖かった。中央線の高架線でストップしたらどうしよう、新宿の高層ビル内にいる時だったら・・・・。階段を下りるのも,走ることもままならない身体障害者の私は、きっと多くの人に迷惑をかけるだろう。みんなが逃げる時に,さぞかし邪魔になるだろう。たとえ無事だったとしても,帰宅難民になったら、私の脚で歩けるのは、一区間の半分位がせいぜいだろう。
3月11日、エフェソスオイリュトミーシューレの一学期が終了し、今日4月11日第二学期が始まった。この一ヶ月の間、毎日被災地の様子を知らせる新聞報道を読んで、概ね平常な生活の私の方が、むしろ被災された方々から励まされ、多くを与えられてきた。
今日,35年振りに出す文集「天使館 volⅡ」の見本刷りが届いた。原稿締め切りが3月10日。原稿が集まり、いざ編集割り付けに取りかかろうとした矢先に,震災が起った。「35年間分の日記をつけるつもりで」丁寧に自分とオイリュトミーについて記した原稿を寄せてくれた藤原和子さんは、いち早く「震災後に書いたとしたら、異なった文章になったでしょう」と言った。恐らく文集の大半の筆者が、同じような思いに駆られたに違いない。確かに,一瞬にして信じがたく多くの大切なものが失われてしまった。しかし、藤原さんが真摯に言葉に向った行為は、きっと失われることなく、宇宙の運行の中に組み込まれているだろう。
真摯に行為することが,少しでも光の方向に時を促す力になることを願って、4月27日、国立南口の大学通に面したお菓子屋さん「白十字」で19時から、『オイリュトミー・アーベント』というオイリュトミーの会をすることにした。ピアノ、ヴァイオリン、チェロのライブ演奏で、叡はじめ、7人のオイリュトミストが出演する。(ケーキ・お飲み物付きで2500円)

30年ぶりの手紙

昨日、叡のもとにスイスから一通の手紙が届いた。ドイツの友人クルツ・リヒターからだ。なんと30年ぶり。1980年の春、子どもたちと一緒に、西ドイツ(当時はまだ東西が分裂していた)のシュツットガルトに渡った直後、クルツは私達家族を車で、森の奥にある滝を見に連れて行ってくれた。彫りの深い顔に、あごひげを蓄え、長髪を頭の後ろで縛り、ヒッピーのようなジーンズ姿のカッコいいその青年は、とても優しく、突然コトバも通じない異国に連れてこられてしまった我が三人の息子たちも、おにいちゃんのように慕って、大喜びで、楽しく遊び、和やかで暖かい私達のドイツ生活の始まりをプレゼントしてくれた。私がクルツにあったのはその時一回だけで、叡もそれからは疎遠になり、30年間全く音信不通だった。
便りには「アキラ、元気かい。君の家族は無事か?日本は大変だね。今僕は、スザンネとポールと一緒にスイスの田舎に住んでいる。家はでっかい。君の家族も充分住めるよ」とだけ書いてあった。ポールは、きっとスザンネ(当時からの恋人)との間にできた息子だろう。
3月11日、一瞬にして多くの「いのち」が失われ、多くの方々の生活の根拠が消え去ってしまった。
あまりにも重い悲しい現実。失われていく見知らぬ人々の「いのち」―地球上のすべての「いのち」―が、私の「いのち」とともに在り、つながっているんだと、今になって本当に気づくなんて、なんと愚かで、遅すぎる私なんだろう。
今日は、昨年の秋から計画していた文集『天使館』の後書きを書くのに、コトバをさがして、丸一日かかってしまった。
ありがとう、クルツ。あなたのシンプルなコトバは、イノチのミズだよ。

細江英公先生のお祝いの会

「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」に、叡とともに出席した。会場となった新宿京王プラザホテルのエミネンスホールは、これまでの先生の偉大な功績をたたえて、各方面から集った多くの方々で賑わった。
会場で、詩人の白石かずこさん、故澁澤龍彦氏の夫人龍子さん、大野慶人さん、平凡社の清水壽明さん、溝端俊夫さん、故種村季弘氏のご子息や、故土方巽氏のお嬢さんガラさんなど、懐かしい方々にお目にかかった。
2003年の秋、川崎市岡本太郎美術館で開催された「肉体のシュルレアリスム」―舞踏家土方巽抄―展の、オープニングの日だったと思う。イベント会場に、細江先生が杖をつかれて入ってこられ、膝を庇うようにゆっくりと私の隣の空いている席にお座りになった。
私が膝の具合をおたずねすると、「膝がどうもねぇ。具合よくない」などとおっしゃる。私も経験があるので、きっとお辛いのだろうなぁ・・・と思っているうちに、取り壊されたアスベスト館の稽古場の床板を敷いて作った舞台に、故大野一雄先生が車椅子で登場。すると、前列の桟敷の観客たちが、一斉にカメラを取り出し、あちこちでシャッターを切り始める。その途端、それまで私の隣で、杖の頭に両手をのせて座っていた細江先生が、やおら杖を椅子の下に転がして、鞄から小さなカメラを取り出して、最前列のセンターめがけて、ベースに滑り込みする野球選手のように、その巨体を横滑りさせ、横になったままシャッターを押しはじめた。その敏捷さ、素早さを目の当たりにして、私は、なぜかとても嬉しくなったのを鮮明に覚えている。
お祝いの言葉に応えて、先生は「今私は79歳ですが、2039年までは仕事をして頑張ります」と話された。2039年は写真発明200年にあたるそうだ。
お話を聞きながら、また私はなぜか嬉しくなった。

ゆきがふる

数日前、新聞で死刑囚永田洋子さんが獄中で病死したとの記事を目にした時、こころのどこかが哀しく、また「そうだったの」とどこかが軽くなった。親戚でも友人でもない私が、凄惨なリンチ殺人の犯人の彼女を「洋子サン」と親しげに呼んでしまうのは、ただほぼ同じ時に生まれた二人の女の子が、ある時から一方は死刑囚となり、もう一方は結婚して母親となり、同じ時間を同じ空気を吸って生きてきた、という見えない繋がりを感じるからだと思う。
洋子サンが、1972年2月群馬県の山岳アジトで逮捕されてから、死刑囚となり、留置所の独房の中で病死する今年の2月5日までの40年間を、何を思い、何を見つめ、どのように生きていたか、私には想像できない。
きっと女学生だった頃の彼女は、平和な世界を願って、夢と希望をたくさんもっていたのだろうに。(私もそうだった。)その女の子が、どうしてあのような恐ろしい事件を起こしてしまったのだろうか? 極限状態、権力欲、男女問題、性格、嫉妬、いじめ、弱さ、虚栄心・・・。外側からは、どのようにでも言うことができようが、その当時、事件を新聞で読んだ私は、その事件の首謀者が、自分の年齢とたった2ヶ月しか違わない女性であると知って、何故か哀しみでいっぱいになったのを憶えている。
これから、この人はどうやって生きていくのだろうか? 独房の中で、死刑囚として自分の死に向かいながら、ひたすら犯した罪をカラダの中に深く刻印し、罪の償いをし続ける・・・。果たして罪を償いきれるのだろうか?
そんな風にして、子育てを始めたばかりの当時28歳の私の心の片隅に、洋子サンの存在が住み始めた。
今日、東京は珍しく雪。午後から「ザ・高円寺」に、今村昌平の「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」を観に行く。戦後25年の歴史のドキュメントタリー映画だ。安保闘争、学園紛争、ヘルメットをかぶった学生たちと機動隊とのはげしい攻防戦。火炎瓶が炸裂する。ゲバ棒をもつ洋子サンも、あの渦の中にいたのだ。それから2年も経たない2月、春を待つ冷たい山の中で・・・・。
国分寺に戻ると、雪はみぞれに変わっていた。そうだ!駅の花屋で梅の枝を買っていこう。もうすぐ春がくる。

再びミシマ

明日からシアターコクーンで始まる蜷川演出「ミシマダブル」の一方の芝居三島由紀夫の「我が友ヒットラー」のチケットの最後の一枚を買うことができた。もう一方の「サド公爵夫人」は既に完売。とても残念だが仕方が無い。
私はこの「サド公爵夫人」の初演を、新しく建った新宿紀伊国屋ホールで観た。40数年も前のことだ。もともと演劇が好きだったので、文学座の会員になったりして、信濃町で行なわれる文学座アトリエ公演にしばしば出向いたりしていた頃だが、この紀伊国屋ホールでの「サド公爵夫人」との出会いは、後にも先にも無いほど新鮮で衝撃的なものだった。何がどうして、と言葉では言い表し難い。今でも「サド公爵夫人」と思っただけでも、私のカラダの中に凛とした空気と香りが甦る。
女学生の頃に、この芝居を観ることができて本当によかった。

はるとなり

詩人の高橋睦郎さんが、朝日新聞に書かれた文章を読んで、春隣(はるとなり)ということばを教えて頂き、何かとてもうれしい気分になった。
何故だろう?睦郎さんは「春隣と呟くだけでなんとなく華やいだ気分になる・・・」と書かれている。ほんとうにそうだ。
先日、生協でライラックの苗木を買った。花が咲くまで3年はかかるらしい。我家の、狭くて日当りも悪い庭で、果たしてその苗木は育つのか、3年待てば、私が夢見ているような美しい花が咲くのだろうか?いささか心細い。
でも我が貧しい庭には、既に思いつくまま植えられた十二、三本の木々が、手入れも施されず、栄養も与えられず、負けずに頑張って生きている。そして、寒い冬の日に、そっと芽を膨らませはじめる。まるで、春はもうすぐ隣、と私に密かに教えてくれるかのように。
「はるとなり」の言葉のぬくもりは、目に見えないひかりのぬくもり、いのちのぬくもり。
毎朝、不細工な庭を眺め「世話もしないで、いただくばかり、ゴメンね」と心の中で呟いて、私の一日は始まる。

アイカワサンの明かりは春の光

昨年の暮れ、相川正明さんがお亡くなりになった。それも突然に。まだ還暦を過ぎて間もないのに・・・。
年が明けた3日と4日のお通夜とご葬儀で、大勢の方が相川さんの急逝に驚きと哀しみの表情を隠せず、最期のお別れをした。
純白の棺にすっぽりと納まった相川さんの、だるまさんのように丸く大きなの顔のほっぺは、どう見ても赤ちゃんのように柔かく、可愛らしい。眺めていると滑稽なほど悲しく愛おしい。
「間違えて、死んじゃったんじゃあないの?アイカワクン」私は、心の中で呟いた。
彼は、明かりの人である前に踊る人だった。1973年の夏、TBSの裏にあった国際芸術家センターでの天使館公演『七つの封印』で、彼は踊った。天使館で一緒に稽古もし、舞台を創り、やがて、明かりを創る人になった彼は、叡の公演ではいつも照明を担当して、国内公演、海外ツアーの多くを共に体験してきた。時には厳しい舞台作りの現場にあっても、慶応大学でノヴァーリスをとりあげたという彼の大きな体のなかには、どこかに優しい美しいひかりを求めるロマンティストが住んでいた。
「カサイサン、ゲンキ?」と、会うといつも彼は言った。尻上がりのその言い方には、彼独特のイントネーションがあった。
喪主の挨拶に立たれた奥さまの千里さんは、「相川は闇が好きでした」と言われた。
相川さんの明かりは、あの大きなカラダの深い闇の中から差してくる魂の美しいひかり。
柔らかく温かい春の色。
今頃、あちらで大好きだったノヴァーリスと邂逅して、仲良く軽やかにひかりのダンスしているような気がする。
アイカワクン・・・また遇いましょうね!

天使館 VOL Ⅱ

先日、国分寺裏の雑木林を散歩している時、ふと「天使館」VOL  Ⅱを創ろう、と閃いた。「天使館」とは、天使館に稽古に来ている人たちの文章を集めて、私が編集して発行した小冊子のことだ。とは言うものの、VOL Ⅰが出たのは、今からかれこれ35年前のこと。次号を出そうと閃くまでに随分時間がかかったものだ。このテンポだと「天使館 VOL Ⅲ」を出そうと閃く頃は、私は百歳を超えることになろうか。
VOL Ⅰ の奥付けを見ると、発行日、昭和51年6月、発行部数/200部、分価/500円、発行所/天使館編集室、編集・発行人/笠井久子と記されている。目次には、その頃天使館で稽古していた人たち16人の名前が列んでいる。みんな20代から30代前半の若者たちだ。
わが家の庭に手作りの稽古場を建てて、そこを「天使館」と命名し、当時28歳だった叡が週に4回の舞踏の稽古を始めた時、集まってきた連中は、皆こぞって頑固、野性的、自己主張、自己顕示欲が強く、情熱的、真面目で議論好き、でも涙もろく、善くも悪くも社会に向かって突進していくエネルギーだけは、持ち合わせた熱血漢揃いだった。だから、昼間は樹木に囲まれた静かな天使館も、夜稽古が始まると、踊る人たちの熱気で、暗闇の中で赤くふくれあがっているように思えた。そんな時、閃いたのだ。みんなに文章を、体から紡ぎ出される言葉を書いてもらおう、と。そして、編集後記は、私が書いた。
「以前、ある舞踏家が『動物が自らの死を予感すると、人知れず姿を消す、それはまさしく動物の舞踏ですね』と語ったのを聞いたことがあります。成程、花はその花弁の一ひら一ひらを、与えられた存在そのものの形を十全に顕示しながら開花しますし、地中で時を待つ昆虫の姿にも、それ以外の何ものでもないという完璧な姿勢を見ることができます。(略)天使館が創られてから5年が経ちました。この間、多くの人がこの小さな稽古場で稽古してきました。「何を?」”動き”という簡単で明確な行為に於いて、それ以外何ものでもないという自分を見つけることは、恐らくもっとも簡単であり、且つもっとも困難なことでしょう。ここに収められた全てのエッセイは、各人の魂の記録として読まれるべきものであると信じています」
さて35年経った今、ふたたび「天使館」VOLⅡを創ろうと閃いた。
世の中の状況も、人々の意識も、猛烈なスピードで変化していく。

初めてのパレルモ

10月28日付け朝日新聞夕刊に「マフィアのナンバー2逮捕」という記事を読んだ。見出しの下に、南部シチリアを拠点とする犯罪組織「コーザ・ノストラ」のナンバー2、メッシーナ容疑者の顔写真が載ってる。38歳の彼は、11年の逃亡の末,逮捕直前まで、隠れ家で映画「ゴッドファーザー」を再現したゲームソフトで遊んでいたらしい。
私がこの記事に目を止めたのは、きっとその1ヶ月前の9月の末、パレルモ公演のためにシチリアのパレルモにいたからだ。
ナポリの国立考古学博物館の「ファルネーゼの部屋」での公演を終えてパレルモに向かう機内で、通訳の真人さんが教えてくれた。「パレルモ空港からリムジンバスに乗って暫く走ったら、右側にポールが見えます。そこを通る時、大抵のイタリア人は感情を露にします。ぼくの妻のダニエラなんて涙を流すんですよ」「ヘェ〜。なぜ?」「十数年前に、公然とマフィアと闘う判事さんがいたのですが、ある日彼が空港から市内に向かう途中、道路に埋め込まれた爆弾が炸裂し死んだのです。マフィアたちは、正確に判事の行動を計算して、道路からはるか離れた山間から判事の乗った車を双眼鏡で追跡して、爆弾にスイッチを入れたのです。その現場にポールを立てたんです」彼の話を聴きながら思わず、映画「ゴッドファザー」の、車が爆弾で木っ端みじんにぶっ飛ぶシーンが目に浮かんだ。
以前,イタリア人の友人から「シチリアに行ったら、マフィアという言葉は口にしない方がいいよ」と言われたことがあった。庶民の生活の隅々にまで,マフィアの力が及んでいるのだろう。たとえば、車を盗まれても,その筋の人に頼めば,翌日ちゃんと戻ってくる。そうしない限り、盗難事件は永遠に迷宮入り。しかし頼んだ限りは,永遠にその関係は切れなくなる。切ろうとすれば死を覚悟しなければならない。まさにコッポラの映画そのものだ。ファミリーの内と外の違いは、生きるか死ぬかの違いでもある。
私たちのパレルモ公演の主催者のジョゼッぺ・カニツォ氏は、弁護士という肩書きをもつ一方、「友愛」という標語のシチリア・ジャポネーゼ文化協会の会長を既に5年間も務める、実直で温厚な紳士である。
公演が終わって、ジョゼッぺ氏は、私たちと別れるとき「私は,イタリア人ではなくパレルモ人です。」ときっぱり言った。困難な問題があっても、誇りを持ってパレルモを愛している彼の熱い思いがそこにあった。
ローマ,ナポリ,シチリアと南に行くに従って,トマト,オレンジ,ワインの香りと色が濃くなっていくように,人々のカラダの内に流れる血液も、次第に濃縮されていくのだろうか。
ローマに戻り、「一番の問題は,イタリア人自身の内に、マフィア的要素があるということです」と言ったイタリアの友人の憂いを含んだ顔が、今でも深く印象に残っている。
狂ったように暑かった今年の夏、8月の末の「バッハのフーガの技法とオイリュトミ―」公演、9月10、11、12日の「カルミナ・ブラーナ」公演、引き続きナポリ、パレルモ、ローマ公演と、自然界にまけず劣らず、わたしの夏も熱かった。
国分寺の秋も、美しく深まっていく。やっと静かな時間を得て、これから何が生まれてくるのだろうかなどと思い巡らしている。

ブラヴォー!大野先生

横浜のBank ART Studio NYKで行われた「ブラヴォー!大野一雄の会」で、その実行委員会代表の写真家細江英公先生が、お話の後、ワイングラスを高々と捧げて、「ブラヴォー!」と一声を発すると、会場一杯に埋め尽くしていた参加者たちも一斉に「ブラヴォー、ブラヴォー」声を上げた。その瞬間、不思議な力を頂いたように感じたのは、私だけではないだろう。
大野先生の「ブラヴォー!」には思い出がある。1980年ナンシーの国際演劇祭で、先生が「ラ・アルヘンティーナ頌」を踊られた翌日のことだ。
丁度5月の聖霊降臨祭のころで、美しいナンシーの街角で「ブラヴォー」というどよめきの歓声が上がったのだ。人ごみの後ろから背伸びして見ると、角のカフェの中で、大野先生がコーヒーを飲んでいらした。
きっと昨夜先生の踊りを観た人々だろう。口々に先生の踊りを賞賛する言葉を囁き、笑みを浮かべ、次々と人々が集まってきた。やがて、大きな拍手とともに「ブラヴォー」の声が街中にこだまして、何時までも止まなかった。
そんな熱気の最中、カフェの中で、先生は私に向かって小さい声で話された。
「ワタシはね、キリストの足洗いのダンスをしたいのですよ」
先生がきっと、弟子の足を洗うイエスのことを話されたのだろう。外では、柔らかい新芽をいっぱいつけた街路樹が、春の陽のもとで眩しく輝き、「ブラヴォー」の歓声は、何処までも何処までも、さざ波のように広がっていく、何時までも、何時までも・・・。
昨夜の会では、ナンシーでのことを、昨日のように懐かしく思い出しながら、あらためて大野先生に思いを巡らし、感謝の気持に満たされた。美しい夜だった。

大野先生と月見草

確か、梅雨の頃だったと思う。大野先生のお父様がまだご存命でいらしたのだから、かれこれ40年以上前のことだ。
叡とふたりで、丘の中腹にある上星川の先生のお宅を訪ねた。先生は、大きなバケツに入った水を、庭の南側の斜面に何度も勢いよく撒いていた。その豪快な動きは、荒海に向かって網を投げかける漁師そのものだった。
食堂に戻られた先生は、「川で集めた月見草の種をネ、コウシテ蒔くと・・・」と言いながら、デミタスカップにコーヒーを注いで、ザラメを何杯も何杯も入れて、クゥーと飲み「梅雨が明けたらネ、ワタシは直ぐに山に行ってネ、コウシテ窓を開けて、空気を入れ替え、フトンを全ェ〜部、干してサ、生徒たちの夏休みの林間学校までに、用意スルワケデスヨ」と、長い首を私たちの方に突き出して囁いた。
その年の秋、叡は「丘の麓」という作品で、先生とのデュオをお願いした。先生は快諾してくださったが、当時の私たちは、衣装を用意するお金もなく、プロのデザイナーに頼む方策も持っていなかったので、苦肉の策で、洋裁未経験の私が作るはめになった。叡の希望は、もちろん女のドレスで、限りなくエレガントで・・・。果たして私に作れるだろうか?
紫のチゥール地を何枚も重ね、黒のベルベットを裁断して、どうにか形をこしらえて、仮縫いに上星川の稽古場に出向いた。試し着を何度お願いしただろう。でも、先生は少しも嫌な顔をなさらず、額に汗をにじませ、必死になっている私の横で、お母さんが自分のために明日の遠足の着物を縫ってくれているのを、楽しみに待っている子どものように、針を動かす私の指をいつまでも眺めていた。
長い金髪のカツラをかぶり、つけ睫毛と白粉とルージュで顔をつくり、決して上出来とはいえない私の仕立てた衣装を着込んで、風呂の手桶を小脇に抱えて登場すると、先生は、桶の中のドジョウを掴んで、パッパッと舞台の上にばらまき、踊り出した。勢いよくピチピチ跳ねるドジョウの上で、モーツアルトの嬉遊曲にのって、叡とのデュオが始まった。大野先生は、タンホイザーを恋する清らかな乙女エリザベートであり、彼を誘惑する官能的なヴェーヌスであった。
今宵は梅雨の晴れ間、夜空を流れる天の川の河原で、この世のカラダを脱いで、今、宇宙のカラダとなった大野先生は、パチッと花開く月見草と踊っているだろう。
すべて、何かが新しく生まれる瞬間は、エネルギシュであり、なんと魅惑に満ちていることか!
「舞踏」は、「舞踏」という名を付与される以前からあり、いつも新しく生まれ続けている。

大野一雄先生の死

6月1日18時、ローマのフリオカミロ劇場の二階にあるB&Bの部屋で、インターネットのニュース画面から、大野一雄先生の死を知った。私の中で突然時間がストップする。
先日5月29〜31日の3日間、叡は、ローマ在住の舞踏研究者でありジャーナリストのマリア・ピアと、“ヘリオガバログループ”のダンサーたちと一緒に12年にわたって共に培って来たBUTOHの稽古の集大成として、このグループのための叡の振付作品「ヘリオガバロ」に,自分もダンサーとして加わり、初めて舞台上で彼らとのコラボレーションを実現して、瑞々しい新しい果実が生まれたばかり。
当時大学生だったマリア・ピアは、1986年ローマで大野先生の舞台を観て、強い衝撃を受け、卒業論文に「舞踏家大野一雄」を書いた。以来舞踏のみならず日本文学、日本語、日本文化に深く真摯な情熱を傾け、自身の著作を通して日本の舞踏をイタリアに紹介し、また実際に、ローマで舞踏を志すイタリアのダンサーたちの活動の大きな担い手となった。そして、私たちは、その彼女を通して、“ヘリオガバログループ”(フラビオ、マダレーナ、ピントス、サマンタ、アレキサンドラ・・・)と出会った。
既に目に見えない大きな流れとなった大野一雄先生の舞踏が、国を超えて大洋に向かって広がっていく。
そしてなにより半世紀前、18歳の叡がダンサー大野一雄と出会わなかったら、今のダンサー笠井叡はなかっただろう。
静かに眠るローマの夜空に、今、悲しいほど星々が煌めいている。

5月のローマへ―「ヘリオガバロ」再演のために

またローマにやって来た。”来た”というより、”戻った”と言った方が、私にはぴったりくる。昨年の5月フランスのアンジェの帰りにローマとナポリに寄り、夏の盛り8月中旬から秋が初め10月までローマとナポリに滞在し、引き続いて今回の3週間ローマ滞在だ。日本国内でもこれほど頻繁に同じ所を訪ねることはない。もうローマには何度来ただろうか。
毎回、公演とワークショップのタイトなスケジュールなので、観光する時間はほとんどない。日本人観光客なら必ず観に行くであろうヴァチカン市内にある「システィーナ礼拝堂」のミケランジェロの天井画も、コロッセオの中も、リルケの好んだボルケーゼ宮殿の噴水もゆっくり観賞に行く機会は未だにない。世界の観光地ローマより先に、舞踏の研究者でありプロデューサーでもある、ローマのティブリティナ通りに住むジャーナリストのマリア・ピアと出会ったことが、私にとってこの都会との強い結びつきになっていることは確かだ。
今回は,「ヘリオガバロ」再演とオイリュトミ―公演の稽古を、はじめの1週間はマリア・ピアの家の近くにある演劇学校の稽古場で、公演までの1週間は、フリオカミロ劇場での稽古というスケジュール。前半はマリア・ピアの部屋、後半はフリオカミロ劇場の二階のルーマニア人マリオン経営のB&Bが宿になる。私にとっては双方とも、既に”勝手知ったる他人の家”の感がある。マリア・ピアの部屋は言うまでもなく、B&Bもお馴染みで、マリオンの愛犬、シャイな雌犬カミーラも待っていてくれる。近くのレストラン「スパッカ・ナポリ」の粋なウエイターとも顔なじみ。
ローマ市内には,未だ至る所で遺跡の発掘が行われている。現在発掘されているのはほんの僅かで、まだまだ地下には過去の遺産が眠っているそうだ。古代ローマの日常空間が、そのまま時間を超えて今日のローマの人々の日常空間となっている。古代ローマの無数の兵士たちが、凱旋行進で何度も歩いた石畳の上を、今私も歩ている。
今日ローマにある素晴らしい古代の建造物や彫像の数々は、当初は芸術を意図して創られたのではなく,古代ローマ人たちの命の生産物だった。人間の内に秘めたの偉大な生命のエネルギーから、美が抽出され、形に留まり続けたからこそ、それらは数千年経た今日の私たちを圧倒し魅了する。
ローマの5月。街路樹は明るい陽光を受けてキラキラ輝き、爽やかな微風が新芽をくすぐる。
稽古場の黒板に”The answer is blowing in wind”と誰かが書いていた。「ボブ・ディランよ」とマリア・ピアは呟いた。
私のカラダにマリア・ピアから、ピントスから、フラヴィオから,サマンタから・・・のローマの風が、古代ローマの香りを纏って広がっていく。

ボゴダへ

コロンビアのボゴダから帰って、もう2週間経ってしまった。やれやれ! 
コロンビアといえば、現在ニューヨークのブルックリンでダンス活動をしているヒメナの母国であり、パパタラの小池博史さんがお好きだという『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスの国でもある。
一度『百年の孤独』を読み始めたが、未だに頓挫したまま。その代わりに、「90歳を迎える記念すべき一夜を処女と淫らに過ごしたい!」との新潮社の本の帯のキャッチコピーに惹かれて、『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読んだが、なんと面白かった事か!
2006年4月叡の舞踏学校に入学するため初来日したヒメナは、東京に着いて自分が夢に描いていたのとあまりにも違うので、大粒の涙を流した。でも一夜明けると、彼女は早速中古自転車を買い込み、あちこち走り回りながら古道具屋を漁り、一日で生活必需品ー冷蔵庫、洗濯機、エアコン、その他諸々―を揃えてしまった。日本語はほとんど喋れないのに・・・。その行動力と早業に感心してしまった。彼女のエネルギーは何処から来るのだろうか?
イベロアメリカン国際演劇フェスティバルからの出演のオファーは、数年前から何回もあったが、何時もスケジュールが合わず、今回やっと実現した。出発前は、コロンビアはやっぱり遠いなぁ、とか、麻薬の国でしょ?・・・とか、いささか心配もあったが、丸一日かけて飛んでいってしまえば、案ずるより産むが易しである。
夜、やっとホテルに着き寝ると直ぐ翌朝8時半から記者会見があるという。なるほど、さすがヒメナの国だ。通訳のユキさんに聞いたのだが、大学は朝7時から、あるいは6時半から始まることもあるらしい。休日でも6時から道路工事が始まる。なんといっても、働き者の国らしい。
今回世界各国から170以上のカンパニーが、このフェスティバルに招かれているという。気が遠くなるような規模だ。ボゴダ市の複数の会場で同時に異なったパーフォーマンスが行われるというのに、どの会場も満員らしい。我々の「ヘリオガバロス幻想譚」の5回公演も、連日満員の盛況ぶり。誰がどうやってどう動ごいているのか皆目分からない。オープニングの日にプログラムが間に合わなくても、別に気にしない。そんな懐の大きさが、現地のスタッフの人たちのおおらかさや素朴さの中に見え隠れしている。だから、こんな大規模の芸術祭が出来るのだろう。些細な事は気にしない。シリアスな作品も、娯楽作品でも、劇場で戸外で、老若男女、持てる者持てない者、ともに大きな流れの中で一緒に流れていこうじゃないか・・・・。コトバでは通じないが、ココロは通じる。初めて出会った懐かしい人たちとの恊働作業。何なのだろうこれは!
とはいえ、標高2600mに位置するボゴダでの公演で、「ヘリオガバロス幻想譚」の3人のダンサーたちは、高地トレーニングするオリンピックのマラソン選手の気分を存分に味わった事だろう。

カチューシャおばさん

三石のおばさんがお亡くなりになったと、2、3日前に聞きました。
三石とは国分寺駅南口にある本屋さんのことで、おばさんとはその女主人のことです。
私の息子たちにおばさんの死を伝えると、みな一様にしんみりと黙りこくりました。
三石堂書店は、1969年に私が国分寺の叡の家に住み始める前からありました。
その頃の国分寺は、まだあちこちに藁葺き屋根もみられましたし、国分寺寺の裏のクヌギ林や広大な伽藍跡の原っぱは、自然のままで、夏になると泉から流れる清流に、ほたるがいっぱいやってきました。
高台に位置する国分寺駅前には、正面に古本屋さん、中華そば屋さん、ちょっと脇に「モンブラン」というお菓子屋さん、中央線を見下ろす線路際の道に美大生のたまり場カフェ「マントン」があり、改札を出て直ぐ右手に三石堂がありました。駅前とはいえ、とても静かでした。
パソコンも、ケイタイも、ファックスも、キャッシュカードも、アマゾンもありませんでしたので、我が家の本はもっぱら三石堂から、掛けで購入し、定期購読の雑誌、文学全集など発行されると直ぐにオートバイで届けてくれますので、とても調法でした。ですから毎月『暮しの手帖』や『婦人公論』筑摩書房の『現代日本文学大系』などを運んで来るオートバイの音が待ち遠しく、本を待つ喜びは一層でした。
三石のおばさんは、いつも花柄のスカーフをカチューシャにして帳場に座っていました。そのスタイルは一生変わらないものでした。
私が三人の幼い息子を連れて新宿の実家に里帰りする時、末息子を乳母車に乗せて、上の子二人を歩かせて、坂道をふうふうしながら上り、駅までたどり着くと、三石のおばさんは、必ず「置いていっていいよ」と言ってくれました。乳母車を店の横の端に、帰りまで置かせておいてくれるのです。本当に助かり有り難いことでした。
息子の話では、ドイツから帰国し、国分寺駅から電車で学校に通うようになって、雨の日に傘をもたずに三石堂の前を通りかかると、いつもおばさんが店から出てきて「忘れ物なの。さしていきな」と傘を手渡してから「お母さん元気?」と言ったそうです。
私は、おばさんについて名前も家族のことも何も知りません。いつもカチューシャをしているおばさん。ただそれだけです。
でも、カチューシャおばさんとは深い深いつながりがあり、今でも、これからも深くつながっているのです。
おばさん、国分寺駅がどんなに変わっても、いつも大空から見ていてくださいね。

チカシクンの壷

今日の午前中のことです。
駅ビルの花屋さんに、桜の枝が売られていました。啓翁桜(?)と書かれていたと思います。
急に嬉しくなり、ひと枝買ってきて、食卓の上に置いてある「チカシクンの壷」に生けました。
「チカシクンの壷」とは、長男が14歳の頃、学校で創った陶器の壷のことです。
その頃、私たち一家5人は、西ドイツ(東西はまだ統一されていませんでした)のシュツッガルトに、住んでいました。
晩秋の頃だったと思います。3人の息子が通っていたクレアヴァルトにあるヴァルドルフシューレ(シュタイナー学校)で、大きなバザーが催されました。そこでは、生徒たちが長いことかかって創作した作品が売られます。開場いっぱいに並べられている作品はどれもこれも素晴らしい芸術品ばかりです。
親たちは、我が子の作品が誰かに買われてしまっては大変と、始まる前から会場の入り口にたむろして、開場するやいなや、それぞれ目的のコーナーめがけて急ぎ、大切な我が子の作品を買い上げた後は満足顔で、友人たちの作品をゆっくりと手にとったり、眺めたりしながら、買い物を楽しみます。マフラーや手袋、木製の鉛筆置き、籐籠、陶器の花瓶、刺繍入りのテーブルクロス、毛糸で織った袋・・・全て手作りの品物ですから、お値段も結構なものです。でも、短時間のうちに全てが売り切れました。
バザーの売り上げは、学校の修理費とか、校舎の建築費の一部になります。
シュタイナーシューレには、決まった学費の額はありません。親たちが収入に応じて自己申告するのです。お金持ちの人は、自分の子どもが一人しか学校に通っていなくても、よその子どもの学費分を出すことも可能ですし、収入の少ない家庭では、たとえ兄妹が多くても、納められうる額を申し出るのです。この学校では、お金は所有するものではなく、必要なところに必要なだけ流れなければならない、いわば血液のようなもの、というシュタイナーの考え方が息づいていました。
あれから四半世紀、世の中は凄まじい勢いで変化してきました。貧富の格差が救い難くなっている今日、新聞で「いのちを守る」経済という言葉を読みました。
素晴らしい科学技術の進歩の一方で、「いのちを守る」などという、人間にとって当然の事柄を、政治家が声高に発言しなければならない世の中をは、まったく病んでいます。地球というカラダの隅々にまで、新鮮な血液が流れていくようにするには、どうしたらいいのでしょう。
叡がエルゼ・クリンク女史の下でオイリュトミ―を学んでいた26年前、私たちに収入はありませんでした。でも、60マルクでチカシクンの壷を買えた時、本当にカラダが暖まり嬉しかったのを今でも忘れません。
小さな薄桃色の花をつけた啓翁桜は、チカシクンの壷にぴったりです。
もうじき春、あらためて「いのちが守る」ということ深く考えようと思います。

冬の朝

リウマチ患者にとって、朝は辛いものです。寒い冬の朝は、言うまでもありません。
一晩暖かな布団の中に、身体を静かに寝かせておいたお陰で、目覚めると、身体は外気の寒さで固まったゴムホースのようになっています。そこで、お風呂場までこわばった身体を運んで、温かいお湯につかります。すると、物体のようだった身体が、活きた身体に戻っていきます。頭の中も動き出します。
朝湯の中で、たとえば、セッションハウスの伊藤孝さんから頂いたお年賀状に「昨年末の政府の仕分け作業で、今年の公演活動は厳しくなりそうですが、そんなことに負けていられませんね」というような力強いお言葉があったのを思い出したり・・・
本当にそうだ。ダンサーは何も持たなくても、肉体というダンスの素材を持っている。ダンスの原点を考えるには、今がチャンスだ!などと、ダンサーでもない、おまけにリウマチで変形した手足の持ち主である私が、独り合点したり・・・
「芸術家は制作する作品の素材として、憧れ、希望、想像力、つまり全世界をもっている」とカフカの恋人ミレナが書いていた言葉が浮かんできたり・・・
身体いっぱいに想いを広げながら、私の冬の一日が始まります。

2009.9.2

8月18、19日の吉祥寺シアターでの公演「犀」を終えて、その翌々日からローマに来ている。フィミチーノ空港に迎えに来てくれたマダレーナが、あまりの 暑さに驚く私に、直ぐ「今日は38度。でもこれは週末まで。日曜日からは少し涼しくなるわ」と慰めてくれてから、今日はもう9月だ。一向に暑さは衰えな い。
今回叡が振付けをする“リオス”カンパニーとは、彼がマリア・ピアに招かれてローマのグレコ劇場で踊って以来10年の付き合いだ。その間、マダレーナは ジョルダーノと結婚するし、ピントスはアレキサンドラと別れ、ステファーノは、叡のローマでのワークショップにフランスのナンツから参加したカミーユを射 止め、フラヴィオはナポリのマリーテレーズに振られ・・・。ローマに来る度に、さまざまな人間ドラマの展開が待っている。が、ダンスカンパニーとしての “リオス”は一向変わらない。私にとって、そんな彼らは何とも言えず人間味があり、暖かく魅力ある仲間たちだ。
さて今回は一ヶ月かけて、叡が彼らのために振付け作品を創ることになり、猛暑の日々、連日7時間の稽古に励んでいる。一年前に叡が彼らに選んだテキスト は、先の吉祥寺シアターでの公演「犀」のテーマと同じアントナン・アルトーの「ヘリオガバルス―または戴冠せるアナーキスト」。
叡のソロ公演も何回か行なって馴染みが深くなっているテアトロ・フリオカミロで9月18、19日に本番を迎える。そして翌20日には、15日に日本から ローマにやってくる4人の男性オイリュトミストと叡が、吉祥寺シアターでの公演「犀」をフリオカミロで再演することになっている。
いよいよイタリアとの縁は深まるばかりだ。

2009.6.10

先日、CAVEのシゲさんと、バス通りのマンハッタン通りを曲がって、静かな住宅街の道を歩いていると、前方の角から全長8メートルもあろうかと思われる 長くてデッカいはしご車が、狭い四つ辻をぎりぎりに大回りしてノロノロ走って来た。シゲさんがいうには、消防署の運転手は勤務中何があっても車から離れて はならないそうだ。たとえドーナツ一つ買いに行くにしてもだ。ヘェ~ホントなの?マンガみたいな話だねぇ!すると図体のおおきなあの車、今どこに行くのだ ろう。タバコでも買いに行くのか?
Bedfordから地下鉄に乗ると必ず誰かが私に席を譲ってくれる。混んでいる時でも、席が空くと座ろうとする人を制して、遠くから私に手招きして「ここ に座れ」と合図を送ってくる。そのようにするのは、何故か老若男女を問わず黒人が多い。日本の優先席で席を譲られる時の雰囲気とは随分違う。
宿の女主はマルタというポーランド人。その名のごとく親切で働き者だ。初めは分からなかったのだが、なんと宿の主夫婦は、調度品で飾られた大きな寝室や居 間や書斎のある、我々に貸している部屋の真下の半地下に住んでいた。ある日マルタは、その半地下に私を連れて行き、そこから通じる中庭を見せて「ここに 座ってパソコンをおやりなさい。気持がいいわよ。いつでもどうぞ」と言ってくれた。狭い中庭にはクレマチスが今を盛りと咲いている。紫の濃淡が爽やかな風 に揺れて美しい。「ポーランドに、貰い子で育てた息子と娘がいて、もう二人とも家庭を持ち、孫も3人いるの。戦争前のポーランドは、ドイツになったりポー ランドになったり大変だったわ。ロシア語、ポーラン語、ドイツ語だけしか許されなくて。全く自由はなかった。でも今は夫と二人で世界のどこにでも出掛ける わ。ついこの間私たちキリマンジェロに登ったの」「えぇ!すごい」と話は尽きない。そしてマルタは「私たち、いろいろな人に出会うの好きなの。それはとて もいい事だわ」と結んだ。
4月フランスのアンジェで出会った人たちと異なった在り方をマルタの内に見た。欧米諸国と一言で言うけれど、“欧”と”米”とは全く異質だ。
さて、ニューヨーク在住の日本人はみな、ブッシュからオバマに変わって人々の気分が目に見えて明るくなったと言う。うれしいことだ。
前回のニューヨーク滞在はマンハッタンだったが、今回はカジュアルな地区Brooklyn(10年位前までは近寄ってはならない無法地帯だったそうだ)での2週間。摩天楼のニューヨークではなく、庶民の生活の中のニューヨークを感じる事ができた。

2009.6.4

昨日は独りでバスと地下鉄を使ってUnion Squareの本屋に行った。満足に英語も読めない私なのに、外国に来ると何故か足しげく本屋に行きたくなる。2年前、1ヶ月半ニューヨークに滞在した時 も、Union Sqにある本屋Barnes&Nobleにはよく通った。5番街にあるその支店にもよく行った。ゆったりした店内に、あちこち置いてある座り心地のよい椅 子に座って、書架から好きな本を持って来て、何時まで読んでいても(私の場合は、眺めていても)何も言われない。とても落ち着くし、何より静かなのがい い。勿論何も買わなくてもいい。2階にはコーヒーショップがあり、そこでも本を読んだり、友人と歓談したり、パソコンをしたりのなかなかいい空間だ。日本 の本屋に較べて天井が高いのは、人の気分に決定的な違いを与える。
昨日は午前中だったのでお客もまばらで、とてもいい時間を過ごし、ご機嫌で外にでた。目の前のUnionSqは市場で賑わっている。有機農法で穫れた野 菜、果物、いろいろな種類の植木や花々、パンやチーズなどの店屋がいっぱい並び、私はレモンとブルーベリーの手作りパウンドケーキを5ドルで買った。それ から地下鉄の入り口に来て、自動販売機にお札を入れると、スゥーとお札は消え、カードは出ず、レシートだけが出てきてた。さて困ったぞ!パウンドケーキを 買ってしまったし、財布の中はギリギリだ。降りてからのバスのカードが買えなくなる。部屋まで帰れない。思わず隣にいた二人連れのメキシコ人の女の人に助 けを求めると、二人で大声であれこれとスペイン語で話し合ったあと、自分の財布から、自動販売機に消えてしまった分のお金を私の手に握らせ、さっさと改札 から中に入り、横にある職員の通用門を内側から開けて、私においでと手招きする。私がそこを通るとものすごい勢いでアラームが鳴り出した。不法侵入だ。そ んな事をものともせずに、彼女たちは私をLラインの階段まで連れて行ってくれた。私がお金を返そうとすると、別の販売機でカードを買えという。自分たちは 出てきたレシートでお金返してもらうからという。助かった。Thank You!
地下鉄に乗り、渡されたお金を数えると1ドル少ない。なるほど、ちゃっかりしているなぁ~。でも彼女たちの親切は身にしみてありがたい。1ドルなんて安すぎるではないか。

2009.6.2

ニューヨークに来て1週間が過ぎた。フランスに行ったりイタリアに行ったり、旅ガラス的な生活が続いている。お陰で国分寺の我が家はいつも楽屋状態。もう40年以上このような状態なので、恐らくこの先もそれほど変わらないであろう。
マンハッタン島からハドソン川を渡ったブルックリンにあるヒメナとシゲさんのダンススタジオCAVEが今回の叡のワークショップの会場だ。
空港に迎えに来てくれたシゲさんの車で案内された最初の宿は、若い建築家夫婦の留守宅のアパートメントをそっくりそのまま借りたところで、寝室にはずらり と彼らの洋服がむき出しに吊り下がっており、キッチンの流し台には、出掛ける前に使ったと思われる食器が仕舞われずに置いてある。勝手によそのお宅に入り 込んだようで落ち着かない。が、一晩寝るともうすっかり自分の住処になった気分になるから面白い。
3日後、高校の歴史の先生をしているポーランド人夫妻のアパートの一階の部屋に引っ越す。家主の奥さんのロココ調の好みがあちこちにうかがえる部屋の棚 に、歓迎の印として花瓶に挿した純白の薔薇が置かれていた。私のような能天気な人間にとっては、少々気恥ずかしい部屋であるのだが。さて、どのようにこの 空間を自分のものにしようかな・・・・。
今日は久しぶりに叡がオフの日だ。天気もいいので、これからマンハッタンのユニオン・スクエアにある本屋にいこう。それから7時にみつたけと待ち合わせて、飯でもたらふく食わせよう。