2009.4.12

昨日の金曜日で、叡のワークショップもめでたく最初の一週間が終わり、また、復活祭の前祝をしようとポーランド人のアグネッツィカの部屋に皆で集まること になった。旧い石造りの建物の狭い入り口を入ると目の前に螺旋階段があり、誰かが「7階よ」と叫んだ。やれやれ、黙々グルグル昇りつめた屋根裏部屋がアグ ネッツィカの部屋。台所の流し台と、食卓と、ちいさなソファーが二つ。去年10月に結婚したばかりの彼女の可愛い愛の巣だ。その狭い部屋にフランス人、ブ ラジル人、ポーランド人、イスラエル人、イラン人、ポルトガル人、インドネシア人、日本人のみんなで14人の仲間が集った。復活の日には、ゆで卵に絵を描 くというポーランドの習わしにならって、大皿に一杯もられたゆで卵を思い思いに彩色する。様々な色に塗られた卵を見ながら、ああだこうだと、たわいないこ とを言い合って楽しむ平和なひと時。
ユダヤ人のヤイルは、今はイラン人のモハマッドやブラジル人のミッシェルと一緒に住んでいるが、将来イラン,シリアには行くことは絶対にないし、モハマッ ドもイスラエルに来ることはない,と言い、CNDCでのダンスのコースが終わっても、両親の住むイエルサレムに帰らない、と強調した。
去年10月に結婚したばかりのアグネッツィカも、故郷ポーランドに帰ることはないと言う。「自分は5人兄妹だが,両親もバラバラでみんなひとりひとり。 ポーランドには孤児がいっぱいいる。どうやったら家族が集まれるの?インドネシア生まれの自分に彼はフランス人の家庭に貰われて、とてもいい人間関係をも つことができたの。ヒサコ、結婚生活は勉強よね。男女の愛は長く続かないかもしれないけど、でも人間関係は勉強よね」と、既に彼との別れを予感して、でも 必死にそれを否定しているかのように,真剣なまなざしで問いかける。
クリチバ生まれのミッシェルは、去年私がブラジルに行ったと言うと,とても喜んでくれが、直ぐに「ブラジルを旅行するのは難しいでしょ?」と訊いて来た。 「なぜ?」「ブラジルはとても広いし、皮膚の色もみんな違うし・・・。ヒサコが行ったブラジリアってどんなところ?」と逆に質問されてしまった。
小さな空間に身を寄せ合って歓談しながらも、みんなそれぞれ故郷をでて,内に苦しみを秘めながら、他者との出会いに確かな絆を求めているようにみえた。ここには現代地球のひとつの小さな縮図のような空間があった。

2009.4.10

今日は朝から雨。CNDCの財務担当(私が勝手にそう思っているだけだが)のデビットが昼食を一緒にと誘ってくれたので、部屋から5分の所にあるCNDC の旧校舎の稽古場まで出掛けて行く。旧い石造りの大きな建物の中ある広い稽古場は、天井が高く、がっちりとしていて、なんと“踊る”のにふさわしい空間な のだろうか!しかもこの広さで12人の生徒とは!素晴らしいなぁ~。
簡単な食事を共にしながら、デッビトが国立振付センター(コンテンポラリー・ナショナル・ダンス・センター)について話してくれた。フランス国内に、この ようなセンターが19カ所あり、すべてがコンテンポラリーダンスだけの施設だそうだ。中でもアンジェンセンターが一番大きく、1、2年制があり、全世界か ら生徒が集まってくるそうだ。来週は旧校者の稽古場で、2年制の入学オーディションがあるという。なんと200人の若者がやって来て、そのうち入学できる のは僅か12人。授業料は無料、と聞いて吃驚!
叡のクラスにきている生徒はポーランド、ブラジル、ポルトガル、フランス、日本、イスラエル,イランの七カ国からなる。なんとイランとイスラエルと言う政 治的には対立関係にある人たちが、ここで一緒に学んでいるのだ。ここでのワークショップは戦争に負けないだけの強度が要求されている。

2009.4.9

4日間行われた世田谷パブリックでのBATIK公演(叡の振付作品”バビロンの丘にいく”)楽日の翌3月30日早朝国分寺を出て、その日の夜フランスのア ンジェに着いた。4月1、2日と国立振付けセンター(CNDC)の劇場で叡のソロ公演『花粉革命』を行い、3日には日本から同行したスタッフたちが帰国 し、6日からCNDCでの叡の一ヶ月にわたるワークショップが始まっている。
夕食前、メール河岸を散歩した。もう7時をとうに過ぎているというのに、西の空にオレンジ色の太陽が不思議な輝きをして、河沿いの高台に位置するアンジェ 城の堅牢な石灰岩の城壁を照らしている。宇宙に貼付いたブルースカイ。純白の雲。復活祭を前にして漸く膨らみ始めた街路樹の新芽が、ひとつひとつくっきり と輪郭をあらわにして煌めいている。頭上から鋭い小鳥のさえずり。張りつめた空気に亀裂がはしる。時が動き、止まる。突然私のカラダに、懐かしい色、光、 響きが駆け巡った。30年前の私の初めてのヨーロッパ体験も、復活祭を前にした4月のことだった。それから5年間にわたる西欧の生活は、私に何をもたらし たのか?時空を超えて私の中に流れている光、色、空気、響き・・・。
これから3週間、言葉が通じないアンジェでどうしようかと、いささか心細かったが、まあいいだろう。
感覚が私に生命力を与えてくれる。

2009.2.20

1月初のアフリカ系アメリカ大統領オバマ政権誕生という輝かしいニュースから、我が家では三男瑞丈のニューヨークダンス留学、91歳になる叡の母の思いも よらない救急車での入院~転院~退院に続く介護の日々(あの年代特有の凄まじい不屈の精神力で既に快復)、さらに派遣切りやら振込詐欺やら特別給付金問題 やら、どうなっちゃんだろうかと他人事では済まされないテレビニュースとつき合いながら過ごしているうちに、もう二月もあとわずか、気がつくと数年前道路 脇に植えたクロッカスが二つ三つと咲いている。欠食児童みたいな蕾みだが何ともいじらしい。
もともと二月が大好きな私。早春、浅春、春寒、立春。春近し、春の目覚め、萌え出づ、萌葱色、啓蟄、”春よこい、春よこい、あるき始めたミヨチャンが、紅 い鼻緒のじょじょはいて”・・・と、とりとめもなく思い浮んでくる言葉からでも、光と色と匂いの予感をかんじる。まだ冷たく透明な大気の中で何かが蠢きは じめ、冬の間深く内に向かっていた五感が外に向かって開き始める。
かつての私の女学校では、春の修学旅行は奈良と京都だった。東海道本線の夜行で明け方の京都に着くと、直ぐバスで奈良に向かった。まだ吐く息が真っ白に変 わる冷たい外気の中を、高速で走るバスの車窓から見た大和の山々の春の曙のあまりの美しさ神々しさに、思わず「はるはあけぼの。やうやうしろくなり行く。 山ぎわはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と、古文で習った『枕草子』を口の中でもぐもぐ唱えているうちに、奈良に着く頃、密か にワープした私は平安時代の清少納言になっていた。
光の中に春の兆しが感じられる頃、街角の花屋さんに真黄色のラッパ水仙、白や紫のフリージャー、ピンクのスイトピーが揃う頃、いつもあの時の春のあけぼの の空の色合いが脳裏に浮かぶ。何かが生まれて来るという予感。すべてのものが愛おしく思われる瞬間。世の中を憂えることもなく自分の内なる予感にひたすら 耳を傾けていた女学生の頃が懐かしく思い出される。どんな世であったとしても、青春は美しく未知の予感に満たされてあってほしい。

2009.1.18

友人と岩波ホールでグルジア映画[懺悔」を観た。何処なのか,誰なのか,何時なのか、何も分からず話は進む。過酷な時代の暗部を、現実から離れて、イメー ジの白光のもと、出来事も人物も、時に滑稽に、軽やかに、時には深刻、残酷に、美しいカラー映像の中に映し出される。まるで、シュールリアリズムの絵画を 観ているようだ。映画が終わった時、アブラゼ監督が私に強く語りかけてきた。
“これは遠く離れた、見知らぬ国の過去の出来事ではないのだよ。何時の時代でも、何処でも問い続けなければらない人間の問題なのだ”と。
久しぶりに映画芸術の可能性に触れて、今年初の映画鑑賞はまずまずの滑り出しだった。
ただ一言,この映画のロシア語の題名は「パカヤーニエ(現象)」と言うそうだが、私にとってこの方がずっとしっくりする。[懺悔」のほうが、日本人好みであるにしてもだ!
家に帰って、一昨年秋ニューヨークに滞在していた時、ダンサーのアリサからプレゼントされた、アフマートヴァ(Akhmatova)の詩集を開いた。スターリンと同世代の彼女は、独裁政権の過酷な状況の中で
詩人として生き抜いたという。1934年に書かれた彼女の詩を、D.M.Thomasの英訳から訳してみると、こうしてはじまる。
最後のパン
わたしは 破壊された私たちの家のために祝杯をあげる/このすべての悪意のために/あなたのために ともにあるわたしたちの孤独のために/わたしは乾杯するー
そして 凍った死んだ眼のために/私たちを裏切る嘘/荒々しく 残忍な世界/神は私たちをお救けにな らなかったという事実
・・・・・・・・・
「懺悔」の女主人公ケテヴァンとロシアの詩人アフマトーヴァは、わたしの中で重なっている。

2009.1.11

ベニサン・ピットFINAL エルフリーデ・イェリネク作『ウルリーケ メアリー スチューアート』川村毅◎台本/演出、いう案内状を昨年頂いた。えっ、ベニサン・ピットが無くなるの?
イェリネクと言えば、2004年にノーベル文学賞を取ったオーストリアの作家で、私と同年代のとても刺激的な女性。川村さんの演出で、手塚とおるさんも出 演なさる。内容ともども魅力があり、観に行かなくては、というわけで、7日の夜出掛けた。それにしてもベニサン・ピットが無くなるのは惜しいことだ。ダン サーの上村なおかのソロ・リサイタルや、麻実れいさんの「黒蜥蜴」、手塚さんの芝居など、そのつど国分寺から東に向かって一直線、都心を通過して隅田川を 渡り両国まで。そこからタクシーで隅田川左岸劇場に赴くのが私の行き方だった。何時ものことだが、ベニサン・ピットと書かれた古ぼけた蛍光灯の看板の下で タクシーから下ろされると、とたんに方向感覚を失ってしまう。昼の人間の営みも終わり、闇の中に深く沈んでいるような黒々とした町並みにひとり取り残され たような錯覚に陥る。劇場の入り口に回ると、開場まであと数分。闇の中から次第に人が集まってくる。倉庫のような厚い鉄板の扉に掛けられた南京錠がはずさ れ、さあ創造現場の溶鉱炉にどうぞ!ベニサン・ピットは何時もそんな不思議な体験をさせてくれる所だ。1970年代のベルリンの「赤軍派」事件と日本のあ さま山荘事件の日本赤軍派をオーバーラップし、「総括」「粛正」「革命」[闘争」などイデオロギーで武装した言葉が渦巻いていた頃の、私にとっては昨日の 様に思えることが、パレスチナ問題、世界的経済恐慌、雇用問題など様々な危機的状況の今日に結びつけられて見えてくる。さてその夜、川村さんの創造現場 は、出演者たちの熱も高まり溶鉱炉はフル回転だった。
帰路はひたすらに西に向かって国分寺までまっしぐら。今私は何が出来るのだろうか?なにをすべきか?などと思いめぐらしながら。凍てついた冬の夜、でもカラダの中はあたたかい。

2009.1.7

新年ももう七草。毎日毎日パレスチナとイスラエルの痛ましい紛争のニュースが続いている。
一月三日、家族が集まった。一年に一度とはいうものの、集まることが出来たのは非常に幸いだとおもわなければならないだろう。二日に8歳の誕生日を迎えた孫の那珠も、いつの間にか驚くほど成長している。
長男爾示の提案で、数年前から正月には家族で叡の父寅雄の遺骨が納まっている小平霊園の国立教会のお墓参りをするようになった。それから、我が家の近隣、国分寺やお鷹の道、真姿の池などを散策して、夜は飲み屋で新年会。
こんな何処の国でも何処の人にでもあるよう正月の家族の当たり前の風景。
世界の何処でも何時でも、そうであって欲しい・・・。

2008.12.17

あれよあれよという間に、今年も大詰めだ。2008年はトラムの「透明迷宮」公演から始まって、2月はワシントン、6月ローマとナポリ、8月ブラジル、9 月シンガポールと、思い返すと随分あちこちと出かけたものだと我ながらあきれる。そうこうしているうち、叡は今年11月25日から国民年金を受給できる歳 になった。前方を走っている先人たちの多くの光を感じながら、我が道を懸命に走っているうちに、気がつくと前方は次第に闇になって来た。でも道がある限り ストップするわけにはいかない。
ダンサー黒田育世は、子どもの頃、亡くなったジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」の舞台を見て、思わずお漏らしをしてしまったそうだ。それを聞いて、納得し た。私はいつも彼女の舞台をみると、作品の善し悪しは分からないが、”この人は踊りを食べて生きているんだなぁ、踊りを食べる人種特有の光の匂いがする” と密かに思っていたからだ。そうしたら、叡に来年3月のBATIK(黒田育世率いる女性だけのダンスカンパニー)の公演の振付け依頼が舞い込んだ。そして 今叡は、黒田育世のソロ「ボレロ」を含め、作品全体を振付けながら、毎日若いダンサーたちと作品創りに取り組んでいる。
先週末、九州で2年ぶりに叡のオイリュトミーのワークショップがあったので一緒に出かけた。
私にとって九州は、身内のような気安さとなつかしさがある。それはそうだ、ワークショップの中心メンバーとは、もう35年以上前からのお付き合い。久しぶ りに会うと、「ヘェ~、あかちゃんだったのに、もうそんなに大きくなったの!」とか「癌の手術をしてね」とか「子連れ離婚したので、働かなければ・・」な どなど、さまざまな人生が満載だ。そしてワークショップ。それぞれが自分に向かい合う真剣な時間・・。とはいえ、オイリュトミーが出来ない私は、小粋なパ ン屋さんでコーヒーと手造りパンを楽しみながら読書の時間。電話も宅急便もない贅沢な昼下がりをたっぷり楽しんだ。
なんといっても、同じ時代にカラダの中に同じ光を秘めている仲間が在ることは 素晴らしいことだ。
厳しい世の中だけど、来年もがんばろう!

2008.11.16

過日、写真家の石内都さんから写真展の案内状を頂いた。それは「ひろしま/ヨコスカ」というタイトルで、昨日から目黒区美術館で開催されている。案内状に は都さんの字で「久子さんの写真を出させていただきました」と添えられていた。これは彼女が私を撮った写真という意味である。
都さんが私の写真を撮ることになったきっかけは、確か土方巽さんの命日かなにかで、久しぶりに叡と目黒の稽古場アスベスト館に出向いた2003年の1月 だったと思う。その時、今は亡き元藤燁子さんはまだご存命で、スクリーンに映しだされた土方さんの映像とデュエットで踊られた。踊りを見終わった時、私の となりにいらした都さんが「今度元藤さんの胸元の傷を撮るのよ」と言った。そう言えば以前、彼女が撮った私の長男のお腹の傷の写真が雑誌に掲載されたの見 たことがある。さて「傷なら私にもあるわよ」と言ったのが始まりで、私は都さんのご要望に応じて、その場で彼女の被写体になることを約束した。残念なこと に、元藤さんの写真は、その年の10月に急逝されたため、実現されなかった。
その後、2007年5月に女性の皮膚に残る傷跡、やけどの跡、変形した手や足などを撮った写真集「INNOCENCE」(赤々舎)が出版された。その中に、私の変形した足や手、お尻の傷や胸のやけどの跡などを撮った写真もあった。
奇妙にねじ曲がった私の手足のカタチは、慢性間接リウマチ故であるけど、その病名にあまりこだわってもいられないので、私の成長の有り様がこうなのだと 思っている。人それぞれ成長の仕方はみな異なっているではないか。石内さんの撮った私の写真を見て、自分のカラダでありながら、何と可愛くて、何と滑稽 で、何と愛おしいと笑ってしまった。このフツウでないカタチの私の手足は、私のために毎日健気に働いてくれている。少しづつカタチが変わり、機能が衰えて 行くのにひきかえて、私の心に何かが蓄積されて行くのを感じる。だから私は自分のカラダを恋人のように愛している。
石内さんは傷を持った女性達を”キズアトの女神達”と呼んだ。傷を持った女性達は誰も自分を女神などと思わない。女性達の傷そのものが、内なる光の女神なのだ。
石内都さんの写真は、傷そのものが美しく真実に映し出されている。

2008.11.3

11月1日のセッションハウスでの公演「髙橋悠治ピアノ演奏による ダンス笠井瑞丈・横田佳奈子」の振付・構成をした叡は、テキストとして稲垣足穂の『世 界のはて』を用いた。このタルホの作品は、1968年8月30日新宿厚生年金小ホールで行われた叡の独舞公演「稚児之草子」の当日のパンフレットのため に、稲垣足穂が書き下ろしてくれたものである。
私が原稿依頼のために、当時タルホが住んでいた伏見の桃山婦人寮を訪ねたのは、汗ばむほどの夏の初めだったと思う。京都から宇治方面に乗り換えて、最寄り の駅からタクシーで桃山婦人寮に向かう途中、浴衣の着流し姿で、噂で聞いていた海坊主のような大きい頭をした人物が、前方を歩いているのを見つけた。 “あっ、タルホだ!”私はとっさに車から降りて、後ろから声をかけた。どのように言葉をかけたか、夢中だったのですっかり忘れてしまったが、辺り一面に栗 の花の独特な匂いが漂っていのは、今でも忘れない。
タルホは銭湯の帰りだと言い、志代夫人はお能の会に出かけているなどと話しながら、自然の流れで家ま
着いた。早速、私は訪問の用件を申し上げて、持参した叡の最初の写真集を差し出した。今から思うとよくこんな不躾なことができたもんだ、と我ながらあきれ る。その上、その日は夜中まで話が弾み、志代夫人が婦人寮の空き室に用意してくださったベッドで、図々しくも泊まってしまった。夫人はその時のことを、 「夫 稲垣足穂」(芸術生活社刊)に書いている。
その後、暫くして今回のテキスト『世界のはて』ー忘れ河ーの原稿が届いた。礼状を出すと、直ぐにタルホからハガキがきた。「ひっぴいねえちゃんには奮闘を  ニジンスキー氏には成功を祈っています こちらは相変らずラッキョウのお茶漬で 京都の夏は本当に暑く 洛南異状乾燥注意報が出て 目下(いや、年ぢゅ う)危篤状態です」と書かれていた。ニジンスキー氏とは叡のこと。ひっぴいねえちゃんとは私のことらしい。
タルホが夫人に言ったそうだ。「ぼくには女性の年齢はわからんが、久子夫人もそのわからんほうだ。一種のヒッピーだな。このごろはそんな種族もふえた。そ れは、悪くいえば謀反人だが、旧来の陋習を破るひとだともいえる」(「夫 稲垣足穂」)無鉄砲な若者に対しての、何とお優しいお言葉だろうか!
その時タルホは68歳、私は24歳。私はいま、その時のタルホの年齢に近づきつつある。

2008.10.24

先週から今週にかけて、硝子体手術のために入退院を繰り返し、おまけに叡の91歳になる母親も腰痛のために入院するといった、妙に慌ただしい週だった。
留守の間の新聞を整理している時、「キラキラ光る洞爺丸の船底」という記事に目が止まった。10月22日の朝日の夕刊である。それは新聞記者の評伝「記者 風伝」という連載で、その夕刊は、1954年9月台風15号が北海道に接近し26日夜青函連絡船「洞爺丸」沈没させて、死者・行方不明者1156人に及 ぶ、  タイタニック号に続く戦後最大の海難事故の記事を書いた当時の記者疋田桂一郎を取り上げていた。
すでに半世紀以上も前のこの事故に、なぜ私が強く惹かれるのかと言えば、この1156人の内の1人は叡の父親だからである。当時41歳の叡の父は札幌の高 等裁判所の判事をしていた。義父寅雄の頭の良さは、笠井家の親類縁者の中でも定評で、彼は尋常小学校を卒業してからは独学で二十歳そこそこで司法官試験に 合格したそうだ。若い義父が三角帽子を冠り法衣を着け裁判官姿で緊張した面持ちで撮った記念写真を見た事がある。
義母に聞くと、彼はたいへんな勉強家で、気難し屋で、かんしゃく持ちで、情熱家で、声がひときわ大きかったそうだ。(なにかドストエフスキーを思わせ る!)仕事仲間とお酒を飲むと、必ず大声で「五木の子守唄」や「安来節」等を歌って陽気になり、そばで聴いている西欧音楽一辺倒の義母は、恥ずかしさで背 中が固くなり冷や汗が出たそうだ。
叡が10歳の時に洞爺丸事件が起こった。小学5年生だった叡は、その日の朝、家を出て学校に向かう時、東京に出張に出かける支度をする父親の姿を窓ガラス を通してみた。それが父を見た最期だったそうだ。急きょ函館に向かった母の留守中、ラジオで流れる乗船名簿の氏名の中に父の名前を聴き取り、今朝行かない ようになぜ止めなかったのか、と深く悔んだと言う。家にいる時は、いつも机に向かって書き物をしているというのが、叡にとっての父親像らしい。夕方陽が暮 れるまで、戸外でターザンごっこに夢中の長男である叡を、父はどのように見ていたのだろうか?いたずらをすると、半端でない叱られ方をしたのよ、と義母が 話してくれた。長男にはとりわけ厳しかったのかもしれない。3人の子どもたちの教育は東京でということから、生前に義父が準備していた国分寺に今私たちは 住み、天使館もそこにある。
「キラキラ日ざしに光る洞爺丸の船底は何かたわいがなく無造作ないたずらのあととしか思えなかった」と1954年9月27日の朝日新聞の夕刊に疋田桂一郎記者は書いた。

2008.9.30

何時だか誰かに「“生きのびるためには2冊の本しか持って行けない、後は全部捨ててください”と言われたら、あなたどうする?」と聞かれた。当の本人は 「一冊目は稲垣足穂の『一千一秒物語』と・・・」と考えている。イナガキタルホもいいけど・・・わたしだったら、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』は 持って行きたいなぁ。美しいし、温かいし、力強いし、なにより読んでいて肩が凝らない。
国文学者の藤村潔は、胸ポケットに『源氏物語』を入れて、零下43度まで下がるシベリアの捕虜収容所で6年を過ごしたという。飢えと寒さのなかで『源氏』の言葉の響きが、彼にとって命の糧だったのだろう。
敬愛する詩人故吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』を入れた。偉大なロダンの精神と彫刻を賛美して展開する“詩論”ともいえる詩人リルケの言葉は、吉岡実にとって真の啓示だったと後で書いている。
シンガポールに滞在している間に『ベルリン終戦日記』(ある女性の記録)を読んだ。戦争に巻き込まれた女性が自らの凄まじい体験を、これほどまで客観的に言葉にしたのを読んだのは初めてだ。
1945年4月ベルリン陥落の前夜から、34歳の女性ジャーナリストは日々の出来事をひたすら書き綴った。空襲、飢餓、略奪、陵辱の狭間から覗く未来は “鉛のように”重い。教会のミサに行けば、”生きる糧となるような心の言葉”が得られるのかと、無宗教の彼女は”闇の中でただひとり”苦しみ、”絶望的に 孤立無援”の最中にあって、鉛のように重くのしかかってくる未来に抵抗して、”身内にある炎を消さないように努めている”。きっと日記を書き続けること が、彼女の内なる炎を燃え続けさせたのだろう。
数日前に読み終わった『寡黙なる巨人』(多田富雄著)の跋に、脳梗塞に倒れ、言葉を失い、突然重度の身体障害者を甘んずることになった免疫学者である著者は、こう記している。
「重度の障害を持ち、声も発せず、社会の中では最弱者となったおかげで、私は強い発言力をもつ『巨  人』になったのだ。言葉はしゃべれないが、皮肉にも言葉の力を使って生きるのだ」
最後に吉岡実の未亡人陽子さんから伺った話。
吉岡さんとの新婚の頃、彼女は生活費をリルケの詩集の間にそっと差し込み、必要なものを買うときは心の中で「リルケさんから借りましょう」と言って、苦しい生活をやりくりしていたそうだ。
“はじめにことばありき”いい言葉だなぁ!さて、読書の秋、次は何を読もうかな・・・・。

2008.9.22

「世界的ステージのために設計されたエスプラネードはシアターとしてはもちろん、様々な料理が楽しめるお食事スポットとしても有名です」とシンガポール観光ガイドにあるエスプラネードの中の劇場で、叡が「花粉革命」を踊った。9月12、13の二回公演。
スタジオを表す表札には、英語、マレー語、中国語、アラブ語の4つの言語が並んでいる。空港に迎えにきてくれたのは、現在マスメディア・コミュニケーショ ンを学んでいる女子大生で、日常会話程度の日本語ができる中国系のクレアさん。彼女に尋ねると「シンガポールでは英語が日常語です。でも私日本語をもっと 勉強したいです」と言った。車の運転手とクレアの話しっぷりは、中国語そのもので、英語の単語はちっとも聞こえてこない。かろうじて、右、左は聞き取れ た。後で聞いたのだが、そういうのをシングリシュと言うそうだ。
先月行ったブラジルも人種が混血されていて様々な肌の色の人が共存していたが、シンガポールはどちらかというと、人種が入り乱れること無く仲良く共存しているようにみえた。コスモポリタンとはこういうのを言うのだろうか?
公演の主催者の、やはり中国系の青年プロデューサーであるキムセンさんに「自分と国とのアイデンティティは何処にあるのですか?」と誰かが質問したら、彼 は「自分はずーっとこの国に住むつもりはありません。今ここにいるだけです。つまり、シンガポールはトランジットの国です」と答えていた。
滞在最後の日、シンガポールに英国の東洋の基地を建設したラッフルズ卿に因んだラッフルズホテルに行ってみた。さすがに古風で落ち着いた気品に満ちた趣深 い雰囲気で、サマセット・モームやジョセフ・コンラッドが投宿したというのも頷ける。彫りが深く理知的な面立ち、漆黒な肌にターバンを巻いたインド人の サーバントたちは真っ白な制服で身を包み、植民地支配者である西洋人に至れり尽くせりの世話をしたのだろう。
熱帯の木々を生い茂らせた中庭で籐椅子に座って、注文したアフタヌーン・ティーを待ちながら、最先端の国際都市シンガポールに残っているヨーロッパ植民地 時代の面影を、この高級ホテルに感じながら、キムセンさんの「シンガポールはトランジットの国」という言葉を思い出した。
空港まで送ってくれたクレアは、「私、来週ソウルに留学します。韓国語の勉強のためです」と言った。
私は「もう少し、日本語をがんばってからにしたら」と言いたかったけど、まあいいか・・・

2008.9.6

8月は、15日間ほどブラジルに行ってきた。そしてまた来週の火曜日からシンガポールに出かける。
ブラジルの首都ブラジリアからサンパウロ、ニューヨーク経由で、約30時間の行程で成田に着き、家で一晩寝ると、赤道直下のマナウスで遊覧船に乗り、ニグ ロ川からアマゾン川へ進み、途中ジャングルの中に入ってワニを目撃、などなどは夢のまた夢。さあまた、15日前の国分寺の日常の続きが始まった。
主の留守の間にも、庭の木々は盛りの夏を謳歌していたのだろう、狭い所で一斉に葉を茂らせ目を細めて眺めれば、ジャングルと言えなくもない。8年ぐらい前 に大切な人から頂いたクリスマスローズの鉢植えを、出発前に地に下ろしてやったのが、留守の間に来てくれた草取りのおじさんが抜いてしまったのか、姿形が 見えない。毎年、純白の花弁のふちが幽かに薄紫色に染まり、贈り主にも似て清楚で美しく、特に好きな花だったのでいたくがっかりした。自分で草取りができ ないのだから仕方が無い。
2、3日して生活のリズムが戻ってくると、サンパウロで乗ったタクシーの日系2世の運転手さん、日本食堂「ひまわり」を経営しているおばさん、通訳をして くれた日系三世のお嬢さん等、ブラジルで出会った人たちが心の中に思い浮かんでくる。1927年頃日本から移住した方達を両親に持つ人たちだ。親の郷里を 尋ねると、長崎だったり群馬だったり様々だ。日本から初めて移住した人たちは、さぞかし苦労なさったことだろう。しかし、そこで生まれた二世の人たちは、 すでにブラジルに根を張り生活の基盤がそこにある。
ブラジルでは異民族同士のぶつかりは無いと聞いた。確かに皮膚の色の 違いを問題にしないおおらかさがある。格差社会で治安が悪いのは玉に傷。でもそれは”いづこもおなじ秋のゆうぐれ~”。
さて、シンガポールは初めて行く東南アジアの国。どんな人たちに出会うだろう。

2008.8.1

2002年に購入したiBOOKノートパソコンが起動音が鳴って、画面が明るくなりかかると、とたんに眠りに入りそのまま蓋をして一晩寝ると、翌朝元気よ く起き上がる。この状態を息子や若い人に訴えると、「もう後期高齢者だね」とか「こいつ三代前の代物だよ。トットッと新しいのにしたら」などと言われる。 叡は「修理して中を掃除したらまだまだ使えるよ」と言う。
このOSX10.2.1を買ったときは、若い人たちに「いいのを買ったねぇ。使いこなせるの?」と羨ましそうな顔をしながらも、心の中では―豚に真珠だね―と思っているのがありありだったのを思い出す。
然り、いまだに機能のほとんどを使いこなせない体たらくだ。もともと、純白の中にアップルマークを施したデザインの格好よさだけで買ったパソコンなので、 このまま新しいのに乗り換えるのは、熱烈に求愛して結婚したけど、相手を理解しないまますぐに離婚するようなものだ、といささか心苦しい。
さてどうしようか。解決は簡単だった。Macの会社に問い合わせたら、「お客様のその製品の部品はもう製造されておりません」だって。
パソコンごときで、こんなに思い悩むのはバカバカしい。早速、新しいのに切り替え、今度こそは新婚のときから相手を理解しようと、マニアル本を買い込むが、待てよ・・・・。
所詮相手は人間ではなく物質。ここで再び、タルホの声が響いてきた。
―物質利用には物質に使用されぬ警戒が必要であり、これが真に物質を尊重する所以であるー「彌勒」
とはいえ、今度のMacBookはとても働き者ですばらしい。純白に代わって漆黒のデザインも格好いい。
今回のパソコンも、私には“豚に真珠”だろう。真珠の真価は分からなくても、美しいものが机の上に置かれているのは気分がいいなぁ~。

2008.7.10

二、三日前の新聞に、9歳の女の子が「殺す」とインターネットの掲示板に書き込みをしたという記事を読んだ。やれやれ、私の孫娘も間もなく8歳。彼女が9 歳になった頃は、7歳の子が同じような書き込みをするようになるのでは・・・。無意識の中に蒔かれた種は、感染症の菌のように知らない内に増殖する。これ は、決して書き込みをした9歳の女の子の責任ではない。では誰の責任?
私が息子三人を連れてドイツに渡った時、長男は10歳、次男は7歳、三男は4歳だった。それまで、各々が国分寺で学校や幼稚園で親しい友だちもでき、家に 帰れば隣近所の子どもたちと一緒になって戸外で走り回り、「ゆうやけこやけで日が暮れて・・・」と市の放送が聞こえてくると、3人揃って帰って来る、とい う彼らにしてみれば楽しい毎日だっただろうに、親の都合で友だちからも学校からも離され、言葉もチンプンカンプンの土地に連れてこられてしまったのだか ら、たまったものではなかっただろう。
4月にStuttgartにやってきて、三男だけは近所の幼稚園に入れたが、上の二人は9月の新学期を待たなければならず、さて困った。部屋には全く遊び 道具はない。友だちは無し。しかし、母親の心配をよそに、早速家を飛び出した三人は、格好の遊び場を見つけて来た。我々の住居から3、400メートルのと ころに、自然保護地区、通称Eichenheim(樫の里)があったのだ。Gott sei Dank!
お陰様で、彼らは日がな一日、森の中で“コンバット”遊びとか、“あしたのジョー”の登場人物になりきってボクシングのトレーニングをするのに費やして、 4月から9月までの5ヶ月間の母親にとっては魔の空白時間を乗り切った。ともかく“子どもはどの子も一緒、外で元気に遊ぶもの”と単純に考えていた私とし ては、遊ぶ場がない子どもたちを見ているのは辛かったのだ。
今日、国分寺には幸い史跡公園や広い緑地帯があるが、そこで遊ぶ子どもたちを見かけることが少なくなった。時代が私を呑気な母親でいさせてくれたのかもし れないが、小さかった息子たちと共に決定的に物質欠乏生活ができたことは、懐かしい喜びである。心から”Gott sei Dank!”

2008.7.1

30年以上前のことなので、題名はすっかり忘れてしまったが、高椅たか子さんの小説で、自殺をするために三原山の火口に向う親友に同行して友の死を見届け る、というのを読んだことがある。観念小説とでもいうのだろうか、クールで乾いた文体のたか子さんの小説は、その頃子育て真最中の私には、暑い日に冷たい 湧き水を飲んだ時のような気分になったのを憶えている。“なるほど、自殺幇助か・・”現実には考えられないこんな言葉が、育児に追われている私の頭脳の隙 間にすぅーと入ってくると、妙に身体がすっきりして、3人の小さな息子たちにたち向うエネルギーが出て来たものだ。
ところで先日、インターネットで「苦しまずに死ねる薬」の広告を出した男のサイトに、自殺するのを助けて下さい、という女性からの書き込みがあり、その男は出かけて行って本当に助けてあげて、その女性は死んだ、ということを新聞で読んで驚いた。まさしく自殺幇助だ。
世の中に鬱病の人が多いと言われている今日、そういう人たちにとって、自殺幇助人は願ってもない存在だろう。私も経験したことだが、鬱状態になると、生と 死が反転して“生きるために死ななくては”という論理が成り立ってしまう。“死の世界が私の生きる世界”という思い込みが、次第にリアリティーを持ってく る。それは丁度、コンピューターの中のバーチャル世界が次第にリアリティーを持ち始めるのと似ている。すると「死」さえも、とても簡単に、まるで劇場のチ ケットを予約するように、予約でき、代金を払い、実行できる。なにしろ、バーチャルだから言葉が軽い。かつて西欧には、甘美な音楽を奏でて、実は愚かな人 間を死出の旅路に誘ったという“死神”がいたというが、コンピュータと死の関係は、そんなロマンティックなものではない。
やれやれ、コンピュタなんか無くなってしまえ、と怒りつつも、一方で目下調子最悪の我がiBookと格闘しながら、もう古くなったから買い換え時かな、などと思ったりしてしまうのはなぜだろう?

2008.6.24

ローマ、ナポリから帰って、かれこれ一週間。ミャンマーのサイクロン、四川省の大地震から始まって、秋葉原の恐ろしく、悲しい殺人事件、土砂崩れ、漁船の難破・・・。いやはや、わたしたちは何処に向っているのだろうか?
ナポリの宿を提供してくれたアントニオとバレリアの若い二人は、我々が着くなり「ナポリの街歩いてみて下さい。いかに問題が多いかきっとお分かりになるで しょう。AKIRAさん踊って下さい。ナポリの人に観せてやって下さい」と真剣に訴えて来た。そう云われても、ナポリはワーク・ショップの約束なので、衣 装は全部ローマに置いて来てしまったし、そう簡単ではない。AKIRAが踊っても、ナポリの問題をどうすることもできないだろう。次の機会にとお断りし て、街に出てみた。
美しい日没。ベスビオ山が遠くに浮かび、地中海は凪いでいる。ゴミとマフィアが支配する麗しのナポリ。「美しいものに対する物凄いもの、物凄いものに対す る美しいものは互いに相殺し、結局無関心な感情しか起こさぬものである。もしナポリ人が、神と悪魔との間に挟まれていることを感じないなら、確かに彼らは 一種特別な人間に相違ない」とゲーテ先生の観察は鋭い。ナポリで出合った若いアーチストは口を揃えて、ベルリンに行きたい、と云う。200年前、ゲーテが 光を求めてイタリアにやって来たのと反対だ。
ローマを発つ前日、ジャーナリストのマリア・ピア・ド’ラツッイの家に泊まった。夜、彼女が作成したドキュメントがテレビで放映された。内容は、公娼制度 を認めるか否かと云う問題。“それで悲惨なレイプ事件が少しでも防げるのかしら?”“とんでもない、娼婦たちから税金を取ろうという発想よ”
翌朝、マダレイナと精神科医のジョバンニが空港まで送ってくれた。マダレイナは、次回はローマ市内にあるカタコンベに案内したい、と言っていた。アリデベルチ ローマ!

2008.5.27

今週末から二週間はローマとナポリだ。叡も私もイタリア人と相性がいいのは、彼らの体型がわれわれの胴長短足の典型的日本人の体型と似ているとうこともあ ろうが、なによりイタリア人のあの人なつっこさと陽気さが気に入っているからだろう。かのゲーテ大先生ですら、イタリアを南下するに従って、勤勉実直なド イツ人気質がしだいに溶け始め、ナポリの地では“全く違った人間になったような気がする”などとおっしゃっている。
ローマは5回目だが、今回ナポリは2回目。先回宿を提供してくれたのは、ヴァレンティーナ。彼女は大学で薬学を修め、癌の薬を研究しながらドクターを目指 している、輪廓のはっきりとした瓜実顔で切れ長の目をした、東方教会のイコンの聖母(ラファエロのでは決してない)のような美人。その彼女がナポリのゴタ ゴタした石畳の狭い道を、暴走族顔負けのスピードで車を飛ばすのだから、ますますカッコイイ。或る日の昼下がり、ナポリで彼女のお気に入りの場所に案内し てくれた。ナポリ滞在中のゲーテの部屋とか、発掘中のギリシア・ローマ時代の神殿の柱などを眺めながら海岸に沿って車を走らせて着いた所は、Logo d’Averno(アベルノ湖とでも読むのか)という小さな火口湖だった。人影もなく静かな湖畔の右手に、アポロ神殿の遺跡が見えた。ギリシア時代にナポ リ(ニューポリス)を植民地にしたギリシア人が建てたのだそうだ。彼女の説明によると―アポロ神殿と直線で結んだ対岸には「GROTTA della BILLA」(地獄への門)があり、ローマ時代そこには巫女たちが住んいて、しかも湖は熱湯で煮えたぎっており、また神殿と門を結ぶ対角線上は磁力がはた らいている―そうだ。湖畔を回って「地獄への門」まで行くと、茫茫と木々が生い茂った細い湿った道の奥に小さな洞穴が残っていた。その昔巫女たちは、目前 に迫る湖の煮え立つ熱湯の渦をみながら、遥か対岸の太陽に輝くアポロ神殿を仰ぎつつ、暗い洞窟の中で狂乱のダンスに耽っていのか、などと想像を膨らませて いると、ヴァレンティーナが「アキラとヒサコがここに来た初めての日本人かもよ」と言った。ホントかな?ホントだったら光栄だ!夕暮れも迫り、火口湖のあ るPOZZUOLI市を後にする。
日本に戻って、私の唯一無比のイタリア旅行案内書ゲーテの『イタリア紀行』で確かめると、あった。1787年3月1日にゲーテはプッツオリ郊外に散策に出かけ、その夜の日記に記す。
“見るも無残に荒れ果てた千古の栄華の跡、煮えたぎる熱湯、硫黄を噴出する洞穴、草木の育たぬ灰燼の山、不毛の不愉快な地域、そして最後にはそれと打って 変わった四時鬱蒼たる植物が、一寸の地でも隙間さえあれば生い茂り、あらゆる死に絶えたものの上に蔽いかぶさって、沼沢や渓流のまわりにもはびこってい る”
200年の時を飛び越えて、ゲーテの驚きが、今、活き活きと新鮮に伝わってくる。

2008.5.19

職を失った知人を、知り合いの制作会社に紹介したら、パソコンが扱えないと言う理由で、一日で解雇。もっともな話だ。少人数で、いくつものプロジェクトの制作を並行して進めるのには、パソコンなしでは不可能というもの。加えて社長曰く「今では小学生でもインターネットは出来ますからねぇ」と。
派遣でアルバイトをしている若い友人から聞いた話。派遣社員は番号で呼ばれ、社員同士しゃべってはいけない―ということもあるそうだ。それもそうだろう。派遣会社に登録する多くの人の名前をコンピュータに入力し、派遣先に振り分けて行く作業は、番号の方が速く正確なのかもしれない。
有難いこと(?)に、コンピュータが人間を指図してくれる。。。。現場で働くのは人間なのに。。。。お互い話するなとは(!)。。。。“人間は本質的に“Mitsein”共存在“とハイデガー先生だって言っているのに。。。。
人間は将棋の駒ではない。駒だって、将棋をする人にとって不可欠な物であり、人間を楽しませてくれて、幸せにもしてくれる。そんな時、駒は単なる木の塊ではなくなり、駒自身の実存的姿が露れるといえるのでは。では、どうしたらいいのか。どこかおかしい、とみんながそう思っているのだが。。。。
そうは思いつつも、暗黙裡に、コンピュータの中で、記号化され、個々バラバラにされていく人間存在はどこにいくのか。。。。うっすらした不安な気分がブレンドされた空気を呼吸しているような毎日。これでは世の中“うつ”の人が多くなるのは当然だ。
昨日、コンドルズ公演「大いなる幻想」を観に行こうと、彩の国さいたま芸術劇場に向う途中西国分寺の駅でケイタイを忘れたのに気が付いた。“どうしよう・・・急に四川省のような大地震が起ったら・・・何か急用の時には・・・電話帳はないし、どうしたらいいのやら・・・”楽しい気分がとたんに半減し、不安がミックスされた気分と共に劇場へ。結局、コンドルズの面々のいつもながらのパワフルなダンスに、ケイタイ不ケイタイの不安はどこへやら。地震もなかったし、急用もなし。メデタシ、メデタシ。
★覚え書き
「物質利用には物質に使用されぬ警戒が必要であり、これが真に物質を尊重する所以である」
―稲垣足穂ー

2008.5.14

もう梅雨になったかのような、冷たい雨の日が続いている。
ミャンマーのサイクロンの直撃、中国四川省の大地震、天災とはいえ、数日間でおびただしい人の命が失われてしまった。いよいよ地球が内から崩れ始めたのだろうか。自然の悲痛な叫びのようにも思える。
新聞には、下敷きになった家族を案じて泣き叫ぶ女性、子どもの遺体の傍らで悲しみにくれる両親などの痛ましい写真が大きく掲載されている。
そのページの裏には、60年来、今でもレバノンの難民キャンプで厳しい生活を続けている老夫婦の記事が載っていた。60年前の5月15日を彼らは「ナクバ(大破局)」と呼ぶそうだ。これは人災である。
数年前、エドワード・サイードの評論集『オスロからイラクへ』を読んだ。和平への激しい感情、二つの民が一つの国で共存できるという強い信念が、サイードの悲痛な叫びとなって行間から聞こえてくる。実際、白血病で亡くなる二ヶ月前までの文章が掲載されている。
60年以上生きて来て、分かっていたつもりのものが、分からなくなって来たような気がする。でも生きている限り、動いている。動いている限り、何かが生まれて行くだろう、などと能天気な私。
あした天気にな~あれ! 

2008.5.11

8、9、10の3日間エフェソス・オイリュトミー集中講座の合宿で、山中湖に行く。17人の受講者に加え、ピアニスト、チェリスト、それに叡と私の総勢21人。
風薫る五月―新緑に囲まれた湖から美しい富士山を眺めるのはさぞかし気持いいだろう、と心も軽く、中央高速に乗り、大月のインターを左折して富士五湖道に向うと、突然フロントグラスの前面に、真白な雪を戴く富士山が出現した。間近に見る富士はやはり何時見ていいなぁ。雄大で威厳があって美しい。と思っていたら、富士はすぅーと目の前から消えて、右側の車窓の方に現われたとおもうと、灰色の雲に覆われてすっかり姿が無くなってしまった。3日間で富士と対面できたのはその時だけ。後は“風薫る”はどこえやらぁ~の3日間の合宿だった。
宿舎のハラマチロッジのボス・さゆりさんは、かつてのアイドル歌手九重佑三子(?)にそっくりなお姐さん。ハスキーヴォイスと笑顔がなんとも魅力な世話好きの働き者。体育会系の合宿の宿舎だけあって、朝夕の食事は、たっぷりと品数が並ぶ。1階は、ロビー、大きな厨房と座敷の大広間、2~4階は6畳から8畳の座敷の部屋が南に面して並び、カーテンを開けるとどの部屋からで聳えたつ富士山が目に飛び込んでくるようになっている。300人ぐらいは収容できるのだろう。
去年の7月、オイリュトミーの全国大会を行ったのだが、3日間とも大嵐。新幹線は止まり、東名高速は雨で切断され、それでも九州、京都、名古屋、東京、仙台、新潟から50名の人が集った。「富士が見られるとたのしみにしてきた」と口々に言うのを聴いて、大会の主催者として、心の中で天を恨んでみても致し方ない。最終日別れの後、台風一過の青空に富士がいいタイミングで姿を見せた。
さて今回も最終日に向って曇り始め、3日目は日がな一日冷雨。おまけに急に寒くなり、私は風邪を引いてしまう情けなさ。ここでも、叡は「雨男」というのが立証された。と言う訳で、わたしはいつも「部屋から富士山が見えるところよ」と宣伝するのだが、外れることが多い。迷惑なはなしである。でも昼間富士山を眺める暇のあるのは私だけで、皆はケイコ、ケイコ。そんな余裕がないのが合宿というものだ。 

2008.5.3

今日から連休が始まる。
高椅悠治夫人の八巻美恵さんから、彼女が忘れた物を送ってあげたら、無事届いたとメールが来た。お礼の言葉の後―連休はシゴト、シゴト。いつになったら優雅な暮らしができるんでしょうね。。。(笑)ーとあった。全く同感!
ピアニスト、ダンサーなどの類は連休とは縁遠い。ましてダンサーは身体が呼吸している限り休みはない、ということは毎日休みとも言える、などとブツブツ独り言を言って新聞を広げたら、「常に鍛えるそれがプロ」という見出しで、有名な喜劇役者の話が載っている。毎日が仕事それが活力。さすがプロだ。
1966年に叡の処女公演「磔刑聖母」から、何回公演を重ねて来ただろうか。今日のように、アートマネージメントとか助成金制度のなかった時代だから、家内工業的な公演ではあったが、今のように複雑でなかったことは確かだ。私の役は、専ら人の手配、切符の配分、宣伝、チラシまき、電話番、劇場費の支払いなどお金のことに終始し、公演日が迫まると、作品を生みだす産みの苦しみの傍で、とにかく幕が上がるまで身体が無事にと、出演者を心の中で叱咤激励し、お金については良い作品のためならスッテンテンになっても仕方が無いなどと、独り善がりの覚悟も決め、公演日に突入する。要するに私は制作をしたのではなく、公演を生む時のお産婆さんをしていたのだ。
実際に、私が息子たちを出産した時のお産婆さんの存在は、大きく素晴らしい。苦しむ私の傍らで、優しく、時には厳しく、一緒になって呼吸をし、力を込めて手を握ってくれた。新しい“いのち”が生まれる瞬間をともに共有できるお産婆さんとは、なんと果報者。でも“いのち”の証人に連休は無い・・  
今日のように全てが細分化され専門化されていくなかで、しかも全てが市場原理優先の経済構造の中で、舞台公演の制作に携わる人たちは様々な困難な問題に直面するだろう。しかし、どんなに時代が進んでも、私は制作活動の中にあるお産婆さんの役割を一番大切に思っている。

2008.4.30

今日は水曜掃除の日。といっても掃除をやるのは叡である。朝早く起きて、窓を開け放ち、叩きをかけ、隅から隅まで掃除機で吸い取り、雑巾で床をふき、勿論トイレもきれいにして、最後に玄関を掃いて、水を打つ。それから、埃をかぶった自分の身体をシャワーで洗い流す。そして終了。一年前まで、掃除は私の仕事だったが、リウマチの進行に従って、出来ないことが多くなった結果、叡にバトンタッチする。
1971年から始まった天使館の稽古は、週4回夜7時から掃除で始まる。誰がが決めた訳ではないのに、それはそうなのだ。稽古場に着いた順番に黙々と雑巾で床をふき、それから11時頃まで即興の稽古をする。稽古が進むにつれて、庭から眺めている私には、天使館の名に相応しい白亜の館が、灼熱の炎が渦巻く溶鉱炉のように見えてくるから不思議だ。人々がいなくなった稽古場の床には、人々のが脱ぎ捨てていった想いの滓が薄く積もっているのが見えるのも本当のこと。さあ全てを開け放って掃除をしよう!
天使館の傍らに住んで間もなく40年、私にとって掃除は大切な禊ぎである。

2008.4.28

4月24日に、バッハの『フーガの技法』全曲によるオイリュトミー公演を、西国分寺のいずみホールで行った。今年二月初めのトラムでの公演の再演である。それにしても、一昨年6月セッションハウスでの4夜にわたる『透明迷宮』ーdance笠井叡×piano高椅悠治ーで始まって、バッハの『フーガの技法』を悠治さんに何回弾いていただいただろうか?少なくとも本番は今回で10回目だから、リハーサル、通し、ゲネなどを入れると50回は下らない。ダンサー、オイリュトミストたちにとって、生のピアノ演奏で(しかも悠治さんの演奏で)バッハを踊れるというのは、大変に貴重な体験だったに違いない。
26日、叡と新宿小田急デパートの美術画廊に山本美智代作品展を観に行く。案内状に40年以上にわたる初期から近作までの作品が出品されているとある。実はおよそ40年前、私が駿河台下の三省堂の裏の、月刊誌『本の手帖』を出していた森昭社の森谷さんの所で勤めていた頃、美智代さんも図書出版南北社で文芸誌『南北』表紙デザインと編集に携わっていて、叡の舞踏公演を知らせると「チケット20枚送って」と言って、当日多くの仲間と観に来てくれた。1968年の新宿厚生年金小ホールで叡のソロ公演「稚児之草子」でのこと、開演間際に美智代さんが受付にやって来て、「付けられているの、巻きたいから裏から逃がして」と私に小声で囁いた。動転してモタモタしたのは私で、彼女は落ち着いて素早く奈落を通り楽屋裏から外へ・・・。正面の入り口にびっしりと張り込んでいた公安を、まんまと巻くことに成功した。私はその時初めて知った。彼女は東大全共闘議長山本義隆夫人だと。それからも公演は必ず観て下さり、私たちのドイツ時代には、ポーランドの帰りだと言ってシュツットガルトにお母さまと訪ねてくださり、ご自分の作品集がでると署名入りで送って下さる。特に会ったり話したりは殆ど無い。でも繋がっている。
4、5年前のこと、国立の本屋で山本義隆著『磁力と重力の発見』と言う本が目に入った。いつもだったら間違いなくこの手の書物には手を出さないが私が、その時は磁力が働いたのか、全三巻を購入して、その日から重力に身を任せたように読み始め、一ヶ月足らずで全巻を読破した。我ながら不思議とは思うが、それほど面白かったのだ。暫くして、この本がパピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞をとったと聞いて、嬉しくなり久しぶりに美智代さんにお祝いの電話をかけた。「あら、久しぶり!あなたあれ読んだの。へぇ~えらいわねぇ。面白かった?ワタシ読んでないの。長いしね」と美智代さん。そこですかさずミーハーの私「義隆さんの署名が欲しいの」と言っら「いいわよ。三冊全部送って」と美智代さん。
些か恥ずかしかったので1巻だけを送ったら、丁寧に署名して送り返してくれた。それが初版本だったのをとても喜んで下さったそうだ。
同じ空気を呼吸しながら同じ時代を自分の信念を貫いて生きてきた人々とのつながりは、なんと素晴らしいことか!

2008.4.22

土、日の二日間、叡の講座に同行して、久しぶりに京都に行く機会を得た。講座の会場が太秦の近くなので、土曜日は広隆寺の新霊宝殿に弥勒菩薩はじめ国宝級の仏像たちを観に行き、日曜日は嵯峨野の野宮神社から落柿舎までのんびりと歩いてまわった。花冷えとはいえ、桜の後の未だ新緑とは言いがたい萌葱色の新芽に、春の陽光がキラキラと光の粒子を降り注いでいる。お昼のお勤めか、寺の鐘の音が聴こえる。
嵐山駅から帷子の辻を経由して、講座の会場のある常磐まで嵐電に乗る。運賃は一律200円。木の床で旧式で懐かしい電車。無人駅のホームの石の隙間からは、たんぽぽやぺんぺん草がのびていて、長閑で鄙びていて風情がある。日本語の車内アナウンスのあと「Next station is ・・・」と流れるのは、さすが京都だ。
講座の会場では20人前後の人が熱心にオイリュトミ―の実習をやっていた。20年来の懐かしい面々がいる。東京から名古屋からの参加者もいる。年に数回の講座だが、それだけに各々が自分に真剣に向っている。そこには、情報量とその素早い結果に価値を求める今日の私達の生活のリズムとは全く異なる時空間がある。年に数回とはいえ、深いところで同じ意識を共有できる場と時間があるのは大切なことでり、嬉しいことだ。
帰りの新幹線まですこし間があるので、久しぶりに嵯峨野の志村ふくみ先生と洋子さんの工房をお訪ねした。随分久しぶりなのにお目にかかると直ぐに、日本語の言霊のこと、「古事記」「万葉集」「源氏物語」の内に流れている言葉の力について、忙しい現代を生きている私たちが忘れているさまざまな大切な事柄を真剣に話し合うことができた。ここでも短い時間だが、深い時間があった。
夜の闇にすっぽり覆われた嵐山の真上にかかる満月を眺めながら、新幹線の最終に間に合うように、桂川の川べりをタクシーで京都駅に向う。

2008.4.15

稽古場と母屋の間に狭い庭がある。
山吹、萩、紫式部、ぼけ、ゆきやなぎ、紫陽花二種類、椿、くちなし、さるすべり、杏、桜、南天、薔薇、さつき、沈丁花・・・建物の谷間で陽も差さず、おまけに石ころだらけの栄養不足の土地に、少々多すぎる木々が雑然と勝手気ままに、所狭しと植えられている。
食堂からカーテン越しに庭を眺めていると、よく番の小鳥がやってきて、やせ細った椿の枝、萩の枝にぴょんぴょんと飛び移って遊んでいく。お隣の家の庭の方がはるかに広く木々の梢も豊かであろうに、大空から下を眺めると、我家の貧しい庭でも鳥の目に面白いジャングルのように見えるるのか、などと思っていると、やがて何処へやら飛んで行ってしまう。すると、茶と白のしましま模様の野良猫がのっそりと現われて、堂々と庭を横切って行く。この界隈を仕切っているノラのボスである。どうしてか彼は、叡の車の上に乗って居眠りをするのが好きで、叡がそれを見つけると怒って追いかけるが、もちろん猫の逃げ足は素早い。暫くすると又寝ている。ノラの背中の丸みと車の形は相似形で、ノラはきっと叡の車を仲間だと思っている、と私は思っている。

2008.4.8

4月1日に目黒区の国立医療センターに入院し、翌日右目の硝子体の手術を受けて、昨日7日に退院した。毎朝7時30分に第一回目の診察があり、更に8時半に2~3人の先生が診てくれる。手術後2日目に眼帯が取れたので、先生に本を読んでもいいかと聞くと、何をしてもいいとの事、早速売店に行き「よくわかる最新医学」の眼に付いての本を買って来て読んでみる。
初めに目のメカニズムが詳しく説明してあり“目の構造は超精密なカメラのよう”とある。レンズの役割は、角膜と水晶体。網膜は像を結ぶフィルムの役。読んで行くとほんとうによく出来ている。私が昨年買ったデジタルカメラと全く同じ働きをする。まてよ、目がデジタルカメラと同じ働きをするのではなくて、デジタルカメラが目と同じ働きをするのだ。なぜなら、デジタルカメラは人間の目を模倣して人間が造り出した機械だ。ではこの超精密な人間の目は誰が創ったのか。
「眼が眼であるのは光のおかげである」と、以前何処かで読んだのを思いだした。
内なる光と外なる光の照応。超先端の光学と人間の内なる精神との接点。
眼の手術をしたお陰で、ゲーテの「色彩論」を読んでみようと思い立った。

2008.3.31

三男瑞丈のパートナーなおかさんのお父上の49日の法要に間に合うように、29日の朝7時20分のJALで、叡と金沢の小松空港に向う。東京を出る時は、朝日の心地よい冷たさが昼の暖かさを十分に予感させてくれたが、小松空港に着いたら、急に冬に戻ってしまった。遠くに見える山の稜線は白く、高速道路の両側に広がる畑にはところどころ雪が残っている。上村家に向う僅かな間にも、深くたれ込めた雲間から、急に大粒の雨が、瑞丈の運転する車のフロントグラスを強打し始める。
私がなおかさんのお父さんに生前お会いできたのは、たった二回だ。一度はなおかさんのダンスの会を観に上京なさった折(挨拶程度の出会いだったと思う)、二回目は去年5月5日の瑞丈となおかさんの結婚式の日である。お父さんはその半年前ぐらいに腎臓癌と診断され、以来、手術はしないで病院で治療を受けておられるとお聞きしていた。丁度5月には治療が一段落し、ご自宅に戻られるそうなので、兼六園のとなりにある石浦神社で内々で式を執り行なうことになり、東京ではめったに顔を会わさない3人の息子、その連れ合い、孫娘と久しぶりで全員が揃って金沢に赴いた。そんな楽しく仕合わせな時間が持てたのも、今から思えばなおかさんのお父さんが用意して下さったのでは、と感謝している。既にその頃は骨にまで癌が転移していた様で、かなりのお痛みがおありになったのでは、と思う。少しもそのようなご様子も見せず、口元に優しい笑みを浮かべて静かに“今の時”を喜び楽しんでおられるお姿がとても印象的だった。
それから9ヶ月入退院をくり返されていらっしゃると、なおかさんから聞いていた。容態が悪化して入院なさったと知ったのは、今年の2月シアタートラムの「透明迷宮」の公演が終わってからだ。高椅悠治さんのピアノ演奏でバッハの「フーガの技法」を叡の即興、振り付け、オイリュトミーの3バージョンのプログラムで創り、なおかさんと瑞丈は振り付けのプログラムに出演。二人とも1月はほとんど毎日天使館で稽古に励んでいた。後で伺った話では、一月中旬に救急車で入院されたそうだ。なおかさんのお姉さんも東京在住で、娘さんの高校受験の発表が一月末にあり、やはりお父さんの入院の知らせを2月になってから聞いたらしい。そんなお母さんのお心遣いにふれて、自分に強く生きる事というのは、他者に対する優しさであり、思いやりなのだと思った。
ワシントンのケネディーセンターの公演に行く前にお見舞いしたいと思い、2月9日叡と羽田に向う途中、瑞丈からお父さんの訃報が入り、病院ではなく上村家に伺うようにと知らせて来た。
10ヶ月前、結婚のご挨拶で伺って以来、二度目の訪問である。お父さんのためにリホームして出来あがったばかりの新しいお部屋に、安らかに寝ていらしゃる。鼻筋がピンと高く、色白で透き通るような美しい肌をしている。なぜか頬がうっすらと赤みが差していて、少年のようにも見える。薄い口元から今にも笑みがこぼれそう。寡黙な人。粋な人。茶目っ気のある人。二枚目。頑固な人。お酒好きでマージャンが好きな人。シャイな人。我慢強い人。ありとあらゆるお父さんが部屋中にひろがっている。
さまざまな肉体の衣装を脱ぎ捨てて、お父さんがそこに在り、淡々と死を生きている。
それから49日。三度目の上村家の訪問。なおかさんのお父さんの死は、新しい人新しい土地との生きた出会いを私に与え続けてくれている。
最後になったが、実は私明日からしばらく眼科に入院するので、日記もお休み。

2008.3.27

まる5年住んだドイツから帰国したのは、今からかれこれ20年以上前の春のこと、久しぶりに我家の夜を過ごした翌朝、懐かしく暖かい綿蒲団から離れがたく、ぐずぐずしていると「デデッポッポー、デデッポッポー」とこれまた懐かしい鳴き声が聴こえるではないか。山鳩だろうか。その親しみのこもった濁音が、枕に頭をのせている私の耳に水平に聴こえて来た。雀の鳴き声も直ぐそばで聴こえる。ああ、日本の春の和やかさ。そろそろと起き出して国分寺のお寺まで出てみると、桜が満開だ。汗ばむほどの暖かさが、思わず身も心も柔らかくしてくれる。桜の花びらが輪廓を失い、色が流れ出して、空気をピンクに染めている。すでに膨らみだした新芽も、春の陽光の中に浅黄色を滲ませている。私の身体も春の色合い。すべてが融け合い、まるで母親の懐のよう。
今から四半世紀も前の春のこと、ドイツの地で初めて夜を過ごした次の日の朝、鳥の声で目が覚めた。ピッピーと張りつめた空気を鋭く振動させ、私の頭の上に垂直に響いてきた。なんと清らかな鳴き声か。それから辺りを散歩しに出た。整然と並んだ家々の垣根には黄色や赤や紫や白など様々な色の花が咲き乱れ、透明な空気の中でそれぞれの花びらの輪廓を際立たせている。冷たい大気に光の粒子が燦々と輝いている。
   地面に近く 美しい蝶が
   注意ぶかい自然に向って
   つばさの本をひろげて
   色刷りの模様をみせている    R.M.リルケ
さまざまな春の体験から・・・・。

2008.3.26

雑誌の広告のキャッチコピーに芭蕉の句があった。
 “さまざまな事をおもひ出す桜かな”
私が叡と結婚したのは40年前の春。
私が慢性関節リウマチと診断を下されたのは31年前の春。以来リウマチは私と共に成長し続けている。
28年前家族と共にドイツに渡たったのも桜の頃、6年後帰国したのも桜の頃。
17年前、長男の胃腸手術(危機一髪で命が助かった)がきっかけとなって、3年以上に亘る鬱病から次第に光が見えてきたのも桜の頃。毎日、黙々として府中刑務所の脇の道を自転車で長男を見舞いに行く。その時目に入って来た空の青と桜の花の色は今でも忘れられない。
9年前、三井記念病院で頚椎の手術を受ける。3ヶ月の入院。一ヶ月間はベット上で寝たきり状態が続く。或る日、看護婦さんが桜の花びらを取ってきてくれる。うれしかった。押し花にして、いまでも本の間にある。
まだまだ思いだすとさまざまある。桜の頃の思い出は事欠かない。桜の花びらが風に吹かれて舞うように、さまざまな事が心の中に美しく思いだされる。

2008.3.24

今日は雨ふり。テアトロ新宿で若松孝ニの映画「実録・連合赤軍」をやっているという。見なければ、とちょっと心が動いたが、どうしようか。1972年の2月、当時100歳にならんとしていた叡のおばあちゃんは、あさま山荘人質事件のテレビ生中継を毎日連続ドラマを楽しむように見ているよ、と親戚のおばさんが言っていたのを思いだす。
その頃の私はどうだったのか。今日写真家になった長男はその年の2月3日に二歳になったばかり。前年の夏には一年がかりで建てた手造りの稽古場が完成、舞踏研究所「天使館」を設立。お金は無いけどエネルギー満々の若者たちが、何処からともなく「天使館」に集まってきて、叡を中心に週4回の踊りの稽古。同時に71年10月「丘の麓」青年座、72年1月「タンホイザー?氈v厚生年金小ホール、8月「三つの秘蹟のための舞踏会」厚生年金小ホール等々、と叡のソロ公演、天使館公演と、矢継ぎ早に制作していた頃のこと。みんな何かを創ることそれ自体に向ってエネルギーを集中し、行動することに自分の力を惜しむ者はいなかった。稽古場の中は完全に自由。何をしてもよかった。自分の“ことば”を身体で語り、他者の“ことば”身体で聴く。稽古の後は、お互いに口角沫を飛ばし議論し合い、終いには一触即発状態になったりもするが、必ず「まぁまぁ」と間に入る者がいたりして、その場は収まり、後は呑んだり食べてたり、なんのわだかまりも残らない。何と熱い空間と時間だったことか。恐らく連合赤軍の若者たちも、天使館に集まった若者たちの魂の有り様とさほど違わなかったのではあるまいか。
それにしても、仲間同志の殺し合いなんてなんと凄惨なことが起ってしまったのだろうか。同じ時代に同じように生きていた同世代の出来事であり、それを知った時の驚きと痛みは今でも変わらない。まして主犯格の永田洋子は私と同じ年であり、死刑を宣告されながらも今なお刑に服しつつ、私と同じ時代を生きている。 

2008.3.21

先日知り合いにのダンス公演を観に行った。若い人が中心のカンパニーなので当然客席も若い男女が多い。中には白髪の初老の男性や、髭もじゃのおじさん、出演者の身内らしき人などが見受けられる。多くはダンサーやミュージシャンの卵、あるいは何かダンスに関わっていそうな人などなど。めったに八百屋のおじさん肉屋のおばさん風の人はいない。ダンス公演でもコンテンポラリーの公演と舞踏公演では明らかに観客がちがう。芝居になるともっとちがう。
3年前南米チリのサンチャゴで叡が公演をした。サンチャゴにある日本大使館の後援で、市民のためのダンス公演なので、入場料無料の二日公演。会場は手ごろな広さで、天井は高くどっしりとしたクラシックな雰囲気で悪くない。が、いくら日本からやって来たとはいえ、当地では全く無名のダンサーを、しかも無料の公演を誰が観にくるのだろうか、しかも二日間も、といささか不安だった。
さて初日、開演時間が迫るにつれて、何やら劇場の入り口が騒がしい。中から覗いてみると入り口の扉の向こう側におびただしい群衆が押し寄せているではないか。前列の人はガラスの扉に張り付いてドンドンと乱暴にガラスを叩いてわめいている。中側からはスタッフが興奮して怒鳴っている。一触即発状態だ。現地の人に聞くと、みんな叡の公演を観に来た人たちだ、と言う。嬉しいことだが、けが人がでなければ心配していると、制服制帽で身を固めブーツを履いたがっしりした警官が二人乗込んできたのには驚いた。結局入りきれない人が数百人あえなく帰されたそうだ。
これが日本だったらどうだろう。最も遠い国からやってきた、日本では知名度の全く無いダンサーが公演をするとしたら、お客は来るだろうか。たとえ入場無料でも、いや無料だからこそ、人々の関心は期待できない。
チリとは“世界の果て”という意味だそうだ。日本から最も遠い国で、隣のおじさんおばさんのような気の置けない人々と出会えて幸せだった。
それにしてもダンスって何なのだろ?

2008.3.20

昨日はお彼岸のお墓参りのため、姉たち二人と四谷二丁目の愛染院で待ち合わせをする。お昼前の空いた快速電車に乗って座り、先日長男がくれた亀山郁夫の新訳「カラマーゾフの兄弟5」を開いたが、いつものことで半ページも読まない内に、心地よい睡魔が訪れた。停車毎のざわめきがわずかに覚醒を促すが、電車が動き始めると再び眠りの世界に沈んでしまう。新宿到着を伝える車内アナウンスが遥か彼方に聴こえてきて、ようやく目が覚めてきた。気が付くと隣りは若い女性に変わっていて、その彼女が何やら小さな手鏡を取り出して化粧を始めた。睫を丁寧にカールして、マスカラを注意深く塗り、次はシャドーだ。矯めつ眇めつ小さな鏡とにらめっこしながら、次第に美しくなっていく自分に惚れ惚れしているのだろう。その一心不乱の動作は、誰も口を挟めないほどの気合いがこもっている。彼女の短時間に変身する早業を思うと、この車内化粧室は、既に彼女の日常になっているのだろう。
25年以上前ドイツに住んでいた頃、市電に乗っていて気がついたのだが、車内で本はおろか新聞でさえ何かを読んでいる人はほとんど見かけなかった。みんな腰を垂直に姿勢を正して座り、真っ正面を向いて決して居眠りをしない。勿論老若男女問わずみんなだ。その時”わぁ~スゴイ、ゲルマン民族って!”と感心したのを思いだした。でも、今でもそうか一向知らない。
あれやこれや思いつつため息をついていると、電車は四ッ谷に着いた。彼女はその後櫛で髪型も整えるのだろうか?そんなに時間がないのだろうか?

2008.3.18

昨日、渋谷から田園調布行きのバスに乗って、駒沢公園に隣接する国立医療センターの眼科の診察を受けに行く。三軒茶屋、上馬、用賀辺りには親戚があり、子どもの頃よく亡くなった母に連れられておばさんの家など訪ねた記憶があるが、もう半世紀前のこと、当時の面影は全く無い。
眼科で思い出すのはドイツに住んでいた時のこと。ドイツの11月も末になると、外は寒さがまし闇が深くなるにひきかえ、人々の内は幼子イエスを待ち望む喜びの火が灯り明るく暖かになって行く。そんな11月末、私は町の眼科医に「このまま放っといたら目が見えなくなりますよ。すぐにチュービンゲン大学病院に行きなさい」と宣言された。〈目が見えなくなる〉と何度も口ずさみながら家路に急ぐ私の周りは、突然黒々とした闇ばかり。それにしてもドイツ語って何と強く響くことか、などと言っている場合ではない。翌朝未だ夜が明けないうちに叡と一緒にチュ―ビンゲンに向う。
汽車で一時間。夜明けの美しさなどに目もくれず一目散に目的地へ。当時チュービンゲン大学の眼科はとても優秀で、全国から患者が集まると聞かされた。病院に着くと、異常に待合室は患者で溢れている。聞くと、看護婦のストで手薄らしい、と判明した。受付の手続きから全て初めての上、初級ドイツ語は役立たず、他の人を観察するしかない。二人でどうにかカルテを作ってもらい待合室で待っていると、女の人がやってきて「充分時間がありますから、町で食事をしてきてください」という。そんなに簡単に言われたって!と思っても反論出来ない。再び市電で町の中央広場まで戻る。
泉を中心にした美しい石畳の広場には朝市が出ていて、その周りをレストランやカフェが取り囲んでいる。私たちはその一つの店の二階の窓際に陣取った。頭の中に〈目が見えなくなる〉がぐるぐるしているので、会話は無い。ぼんやりと外の市を見て時間を費やし、再び病院へ。まだ一杯待っている。結局私の番は一番最後で、辺りは家を出た時と同じようにすっかり闇に覆われてしまった。最後の二人はボーデン湖からやってきた赤ら顔の太ったおじさんと私.並んで診察を待つ内に、親しく話しかけてきた。「あんた、何処が悪いんだい?ナニ、わしは大したことないのに、医者が行けって言うもんだから、4時間かけてやってきた。もううんざりだ。これでやっと帰れる。お互いもう少しの辛抱、辛抱」やけに陽気だ。それに引き換え私の心は増々落ち込んで行く。
“医学はドイツから”と言うだけあって、先生の診察はとても丁寧かつ親切だった。看護婦も不在で超超過勤務にも拘らず、決して急がず沈着冷静なのには感心してしまった。診断はこうだ:今のところ大丈夫だが、近眼なので網膜剥離を起こす可能性があるので、一年に一回診察を受けること。
やれやれ終わったぁ~嬉しくて身体も軽く、速くかえろ~と二人で階段を下りて行くと、先ほどの赤ら顔のおじさんが、青くなって「直ぐ入院だって言われた。即レーザー光線をしなければならないらしい。もう一発やってもらった。ああどうしよう!
妻に電話だぁ~」とわめきながら、階段を駆け上がって行った。
 さて私たちは、駅で最終の汽車を待ちながら、芥子付きフランクフルトソーセージを食べる。ところで、朝から放ったらかしにしている3人のお子さんたちはもう寝ているかな?もう四半世紀も前のことだ。
さて、昨日は国立医療病院の眼科の診察を受けながら、あらためて光工学の進歩や技術の進歩の速さを思う。

2008.3.16

早朝目が覚めて蒲団の中で「ルポ貧困大国アメリカ」(堤未果)を読みおわる。春の光が、こんなに美しく一日の始まりを祝福してくれているのに、やれやれ、 心が重くなるような報告がいっぱいだ。今日は二重三重のからくり箱の中にいるようで、何が本当で何が嘘なのかわからない。がんばっても何も変わらないし変 えられないから、まあいいか、と知らず知らずに無関心になり・・・・でも、最後に「だが目を伏せて口をつぐんだ時、私たちは初めて負けるのだ.そして大人 が自ら舞台からおりた時が、子どもたちにとっての絶望の始まりになる」という著者のメッセージを読んで、さあ起きよう、と蒲団から出て、午前中早々に家を 出て、叡と渋谷の松濤美術館に小学一年の孫娘の絵を観に行く。渋谷区小中学生絵画展に彼女の絵が選出されているからだ。
『まほうのくに』というタイトルで、あか、オレンジ、ピンクの美しい色合いは、いかにも女の子。ちいさなあたまの中いっぱいに広がった「まほうのくに」が そのまま画用紙に描かれている。194点の作品はどれもこれも自由で、たのしくて、ふしぎで、うつくしい。どれもこれもマチス、シャガール、クレー、マル グリット、ダリ、ピカソ等々に引けを取らない。子どもたちの絵が、私の重い心をしっかりと救ってくれた。
午後、世田谷のシアタートラムで川村毅さん作・演出の『ワニの涙』を観る。2005年に始まった〔神なき国の夜〕シリーズの最終章。前作の『クリオネ』と 『フクロウの賭け』と今回も手塚とおるさんが主演。川村さんの作品には何時も黒々とした大地の土の香りと突き抜ける透明な空の青さが感じられる。手塚とお るさんは独特のセリフの語り口、不思議な動き、奇妙な役がよく似合う。なにはともあれ、私はお二方の大ファンなのだ。これからも観続けるぞ!

2008.3.15

チベットで騒乱が起った。中国当局の鎮圧で犠牲者が出て、中には16歳の少女も含まれているらしい。何と痛ましいことか。
 「ルポ 貧困大国アメリカ」の著者堤未果は、今日のアメリカの貧困地域で栄養不足による肥満児、肥満成人が急増していると報告している。その結果、加工食品産業が目ざましい利潤を得るという。いまや「貧困」=「肥満」になりつつあるらしい。
遠い国の遠い話ではないだろう。恐ろしいことだ。
 経済的弱者が経済的強者を富ませる。
 大きな国が小さな国を攻撃する。
 戦争がないと儲からない。
 平和のために戦争をする。
こんな文脈があっていいのだろうか!

2008.3.14

私の心の中にいつも大切にしている詩句がある。
―貧しさは、内面からさす美しい光である―リルケ
“内面からさす美しい光”は、どんな色をしているのだろう?
先日、嵯峨野にお住まいの志村ふくみ先生から、4月に東京で行われる展覧会のご案内を頂いた。久しぶりにお会いできるのはとても楽しみだ。その上、先生の“色”に直接触れることが出来ると思うと、今から心が踊る。
ふくみ先生からは、多くのものをいただいてきた。その“色”から、その“ことば”から、そして先生の存在そのものから。
何年も前、私は極度の鬱病を患い、数年間を「死の世界が私の生きる世界」という世界で過ごした。自分の外側は、全て色を失ったモロクロの世界。人からも 世界からもはぐれてしまい、言葉も失い感情も失い、硬く閉ざされた世界の中で、石のように固まってしまった私の身体の中に、何かが流れ始めたと感じたの は、春先に咲いた水仙の黄色い花を目にした瞬間。闇の身体に光がさし込む。不思議な体験だった。それは正しく志村先生の「草木の精は、命ある色を内に宿し て、いつでも人間のために捧げる用意をしていてくれる」というメッセージそのものだと思った。
私が全てのものから切り離されて、たった独りで闇の中に沈んでいた時でも、草木の精たちは、内なる光を限りなく降り注いでいてくれたのだろう.
「草木から命をいただく」という先生のことばには、うつくしく生きる人間のあるべき姿が込められている。

2008.3.12

63年生きてきて、自分の日記を公開するなんて考えもしなかったこと。未知の惑星に飛び移る気分だ。でも面白いかもしれない。やってみよう!
今日は大根のおみおつけを作る。お味噌汁ではなく、おみおつけ。亡き母は何時もそう言っていた。因に私は大根のみそ汁が一番好きだ。あのシャキとした歯触り、ちょっと青臭い甘さ、なんとも言えない。聞いた話だが、最近子どもたちのみそ汁ばなれが加速しているとか。トーストのバターのほうが香ばしくて、しかも簡単なのかな?
昨年、夏の初めに母を送った。享年九十四歳。亡くなる一ヶ月前から食べなくなり、ひたすら夢うつつの状態がつづき、時折出てくる言葉は子どもたちに食べさせるご飯のことばかり「ごはんとおみおつけさえあれば・・・」
大正二年農家の三女として生まれた母はにとって、私たち5人の子どもたちに腹一杯白いご飯とおみおつけを食べさせたいといつも心を砕いていたのだろう。
“大根のおみおつけ”で思いだすのは、子どもの時に見た映画「ノンちゃん雲に乗る」だ。朝、原節子扮するかあさんが台所で「トントントン」と大根を刻んでおみおつけを作っているそのまな板の音をを、ノンちゃん役の鰐淵晴子が蒲団の中で聞いているシーンだ。早朝の朝の光と、トントントンの軽快な響き、プ~ンと匂ってくるみそ汁の香り。まだまだ貧しかった戦後日本の庶民の美しい朝の風景。

ご挨拶

本日ブログを開設いたします。宜しく.笠井久子