昨夜、大雨の中、トゥールーズのガロンヌ劇場のアトリエでの「Spiel」公演が、無事に終わった。1ヶ月滞在したフランスともこれで、今暫くはお別れ。
次は、いよいよ日本公演だ。これから、ユウコとパリに向かい、ドゴール空港から成田に・・・・。
トゥールーズへ
フランス滞在も残り3日。いよいよ日本かぁ、と考えると、うれしいような、さみしいような、恐ろしいような、複雑な気分になる。
昨日、アンジェからトゥールーズにやって来た。照明のオーグスタンも一緒なのでありがたい。アキラと二人だけだったら、情けないことにオオゴトなのです。アンジェからナント駅、そこで飛行機に乗りかえてトゥールーズまで、およそ1時間。アンジェからトゥールーズまでの間に、晴れ、曇り、風、雹、雨・・・・。なんと忙しい天気の変わりよう。ナントで大粒の雨と風で吹き飛ばされそうになりながら、駅前のタクシーに乗ると、外の強風とは裏腹に、滑るように走り出した車の中で、ドライバーとオーグスタンの会話が始まった。フロントガラスを叩き付ける雨粒を眺めていると、遠くの空の雲間から薄日が射し、青空が見える。また、強い雨。車の中では、オーグスタンとドライバーの二人のおしゃべりが続いている。まるで、美しい室内楽を聴いているようなフランス語の響きの優しさが耳元に心地よい。幸せなひととき。
トーゥルーズに飛行機が到着したとき、オーグスタンは「ヒサコ、ここはアンジェより寒いよ。上着を着たほうがいい」と言ってくれた。本当だ。外に出ると真冬のような寒さ。もう直き春を迎えようとしていたアンジェとは大違い。南フランスとはいえども、ここはピレネー山脈の麓ですものね。
照明のオーグスタン、音響のマチュー、通訳のユウコ、制作のエステル。私の子どものような年の若いみんなが、不良品で修理不可能になった私のカラダを支えてくれている。ありがたいこと。
忘備のための夢記述
見知らぬ町の、とある骨董品店。鉄で出来た品物を探している。小さな鉄の壜を買い求めようとする。表に出ると狭い道をトラックが猛スピード飛ばしている。山頂に雪を抱いた山の尾根の麓に、また骨董の店。そこの製品はあの山の頂上から来るらしい。尾根に沿って、空中に浮かびながら、山頂へ。山の上に小さな街がある。二人の暴走族が山頂から、バイクで下って来て、そのまま崖下に突っこみ、バイクは大破。その壊れたバイクに向かってピストルの弾を狂ったように撃ち込んでいる。空は青空。ワタシは山頂から下界まで、空を飛び降りようとするが、、、、、その先どうなったのか不明。
その後、地面から稲穂のように鉄が生えて来る。
このところ鉄に関する夢が続いている。他人の夢ほど、それを知らされた者にとって無意味なものもないが、忘備記として、ここに書いておきます。
目を覚まして、午前中に荷物をまとめ、久子と列車でナントまで行き、タクシーで空港へ。照明のオーギュスティンが同行。そこから一時間ほどで南フランスの都市トゥールーズへ。飛行機は大雨の中を着陸。
リタ
ポルトガル人のリタが、アキラのワークショップを受けるのは2回目だ。3年前の1回目のワークショップの時にも、彼女は参加していた。もともと彼女は幼稚園の先生志望だったが、当時CNDCの芸術監督だったエマニュエル・ユインがポルトガルでダンス公演を行なった際に、たまたまエマニュエルのお嬢さんのベビーシッターをやったのがきっかけで、CNDCのエッセイコースに参加するようになった、と話してくれた。参加者のほとんどの国籍は異なり、個性の強い若い男女の集まりの中で、彼女は、いかにも初心で、素直で、目に入るもの全てが新鮮であるかのように大きな瞳を輝かしながら、はにかんでいる少女に見えた。
当時、そんなリタが、急に「去年、私独りで日本を旅しました」と話しかけられてびっくりした。思わず「どこを、どうやって?」と聞くと「四国のほうです。日本の方はとても親切で、暖かく、一軒の農家を訪ねると、必ず泊まって行きなさい、と言われ、次の日はその家の知り合いのうちを紹介してくれました。毎日、感謝の気持ちでいっぱいになりながら、何の心配もなく旅が出来ました。日本は本当にいい国ですね。今度は東京に行きます」それは大変!! ちょっと待って、と私は心の内で叫んでしまった。
それより数年前、「花粉革命」公演でポルトガルのファロに行った時のことを思い出した。初夏の頃だったか、イベリア半島の南端の港町ファロは、小さな箱庭のように可愛らしく、街の至る所で見られる合歓の木は、美しい薄紫色の花がたくさん咲いて、時折の海風に街中に甘い香りを漂わせていた。
日本とは全く異質な幻想的なファロの街。でもなぜか懐かしかった。
さて、今回のリタ、可愛らしいから美しいに変身し、はっきりとした口調で「来年は日本に行きます」と言った。そして「でもポルトガルは今、経済的に危機に瀕しています。スペインも、ギリシャも。ポルトガルは小さい国で・・・・」と悲しそうに付け加えた。私は心の内で「でも大丈夫、リタ、あなたなら。だって、その昔日本人が初めてあったヨーロッパの人は、あなたの祖先だったんですから」と言いながら、いつの間にか、時空を超えた遠い国との繋がりに想いは広がる。
クラウディア
イタリア人のダンサーで振付家のクラウディアは、美術学校の先生をしている。今回彼女の生徒たちも、アキラのワークショップに参加した。ブラジル人、ポルトガル人、フランス人など国籍もさまざまだ。毎日、クラウディアはアキラのワークショップを見にきて、熱心にノートをとったり、輪になってみんなで話し合う時には、一緒に仲間に入って静かに生徒たちの意見に耳を傾け、稽古の休憩のときは、アキラの課題を上手く動けない生徒に、そっと動き方を教えたりしていた。
お国のことを聞くと「23歳の時に、私はイタリアを捨ててフランスに来ました。随分長いこと国には帰ったことがありませんでしたが、最近は家族に逢いに、時々帰ります」と言い「イタリアにいると、早く結婚して、家庭を持って・・・と言われて、自分らしく生きられなかったので」と付け足した。「イタリアのどちらですか?」と聞くと「アドリア海に面した北イタリア」とだけ言った。須賀敦子さんの「トリエステ」或はリルケの「ドゥイノ」あたりだろうか。国を捨ててパリに向かう気持ちも分からなくもない。今では、2、3の親しいイタリアの友人とイタリア語で話す以外は、母国語はほとんど使わないそうだ。
CNDCの廊下で、クラウディアにばったり出会い、アキラがインチキイタリア語で「トスカ」の名曲「星は光りぬ」を朗々と(?)歌うと、彼女は直ぐに続けて、美しいイタリア語で情熱的に歌い上げた。
漆黒の髪をひっめにして、ミリタリー風の黒皮のジャケットをぴったりと着込み、細身のパンツルックのクラウディアは、とてもかっこいい。でも、生徒達に囲まれて話しているクラウディアは、紛れもない世話好きのイタリア人。彼女の黒い瞳の奥にはイタリア人特有の明るい情熱が秘められている。
通訳のユウコさん
昨日、CNDCでのアキラのワークショップ終了。通訳のユウコさんが用意してくれた遅いランチのカレーライスを、ワークショップ生とみんなで食べ(美味しかったこと!!)、3時から我が屋根裏部屋の食堂で、エマニュエル、マチュー、映像作家のジュディット、ユウコ、私たちの6人が円卓を囲み、ミーティング。ユウコさんは、6時にはアンジェ駅から列車に乗って、もう直き3歳になるカイトちゃんとご主人のアントワーヌさんが待つパリに帰らなければならない。外は大雨だ。3年目に突入した「Spiel」の今後の育て方がテーマだ。日本語とフランス語を全く違和感を感じさせず、日本人とフランス人の考え方の違いのややこしい話を、お相撲の行司さながら、素早く公平に通訳して裁いて行くユウコさんの手腕に感心する。
そのユウコさん、CNDCのワークショップの初日、何やら怒って現れた。聞くと、カイトちやんが通う保育園では、週1回お母さんが持ち回りで子ども達の保育をする決まりがある。保母さんの人数も少なく済み、その分保育料も安くなる。ママ保母か、なるほど、なるほど。私の子育ての頃もあったかな、そんな考え。
ユウコさんは仕事で、ママ保母が出来ない場合を考えて、他の人のママ保母を引き受けて、10時間のママ保母貯金をした。そこで今回のアンジェでの仕事で、替わってあげた人にママ保母をお願いすると、あっけなく「ワタシ、イソガシイノヨネ、アナタ、オシゴト、Good luck!!」と言われたそうだ。「なにが、グッド・ラックよ。日本人だったら、ゴメンナサイ、と言うわよね」とユウコさん。全くその通り。
国が違い、言葉が違う者同士が、ひとつの舞台作品を創っていくことは、至難の業だ。それは、子どもを育てて行くのに似ている。3歳になった「Spiel」も、次第に自我意識が目覚めてきた。これからどのように育って行くか楽しみであるとともに、ますますミーティングの大切さが身にしみてくる。
芭蕉を踊る
文芸春秋から出ている長部日出雄さんの「古事記の真実」を、こちらに来てから二回読みました。そのなかに印刷術が発明されてからも、ヨーロッパではかなり長い間、書物は黙読ではなく、音読されていた、と書かれています。
今日、CNDCのワークショップの最後は、松尾芭蕉の俳句をフランス語訳で即興的に踊る、と言う課題に取り組んでもらいました。俳句こそ、音読しなければ、言葉の味はでてきませんが、そのフランス語で五七五のリズムをイメージしながら読むと、声明のようなこれまで聞いたことが無い美しさを感じました。アナリサの朗読は母音をぎりぎり延ばせるだけ延ばしてなを、フランス語の語感を保っていると言う感じで、その朗読で動いた参加者の感じがとてもよかったのです。ちなみにテキストは
Viens me voir ici 這出(はいいで)よ
De sous la magnanerie かひがや下の
Une voix de crapaud ひきの声
そのあと、「自身で声を出しながら動く」と「声を抜いて、発声力をカラダに流しながら動く」を交互に何度も行ないながら踊っているうちに、多くの異なった民族の人たちが集まっているこのクラスの中に、言葉とカラダが解け合っていく空気が漂い始めました。
皆、日本に来たがっていましたよ。
スタジオの三階に住んでいる通訳のYUKOが、その後カレーパーティーを開きました。CNDC の五日間のWS,終了。
CNDCでのワークショップ、三日目
今日でCNDCのWS、三日目。フランス人を始め、エジプトのマーメッド、イランのアリ,ポルトガルのリタ、アフリカのアマル等の多国籍20名の参加で、あとイタリアの振付家クラウディアが同席。全員大変熱心で、全く新しい事柄に挑戦している。今日は始めに、一時間ほど全員での話し合い。テーマは「カラダをどうとらえるか?」「動きとは何か?」について。
カラダを五つの観点から、すなはち「カラダと言葉、社会、意識、魂そして物自体」から観るという意見。アマルはちっよと変わっていて、カラダに関してのみ、そのような「問いを立てない」と言うのがいいと。カラダはそのような問いを立てた瞬間から、カラダそのものから遠ざかるから、と言う意見。三谷裕子さんの通訳を交えて、あっというまに一時間半経過。
次に笠井から「対象」としてのカラダと、「表象」としてのカラダについての説明。そばのピアノを鳴らし、その音はカラダの外で鳴っているのか、それともカラダの中で鳴っているのか、と言う問いかけに、「内と外の両方」と言う捉え方が多数でした。
次に実際に一人一人「対象としてのカラダ」と「表象としてのカラダ」を交互に動いてみる。
ほんの僅かな身体感覚の違いを捉える高度な練習。最後にバッハの「フーガに技法」の振付の練習で終了でした。
土方さんの思い出
私が初めてアンジェに来たのは、2010年の春のことだ。アンジュ城の近辺の路地には、小さな商店が並んでいて、お気に入りの店(小さな小物の店とか、文房具屋さんなど)を見つけると、何度も足を運んで、お土産選びを楽しんだものだ。今回もまた、おなじ店に行ってみたが、何故か様子が違う。細かい品物が多くあり、どれもこれも日本で見るのと同じ様なもの。つまらないなぁ。
昨日、我々の屋根裏部屋の食堂で、アキラがエマニュエルとマチュウの3時間のインタヴューを受ける。通訳のユウコさんが、「パリは4度だったけど、アンジェは暖かいわね」と言いながら入ってきた。食堂の四角い窓ガラスを通して、久しぶりに淡い陽の光が差し込んで、窓辺に置いた黄色のチュウーリップが美しい。静かな日曜日の昼下がり、インタヴューが始まった。
「犯罪ダンス、暗黒ブヨウ、暗黒ブトウ、ブトウ、マルキ・ド・サド、ジャン・ジュネ、アンドレ・ブルトン、ロートレアモン、フランス革命、ヒジカタタツミ、オオノカズオ・・・・」
エマニュエルのフランス語とユウコさんの日本語を聞きながら、遠くに見えるブルーの空を眺めていたら、急に、50年前にタイムスリップ。
その日、私とアキラと土方巽さんは、虎ノ門ホールで高井富子さんの舞台を観た後、銀座のコックドールの2階にいた。大工さん刈りの土方さんは、白いワイシャツを着ていた。アキラはその日、高井さんの舞台で一緒に踊ったので、空腹に任せて、早速ビフテキを注文すると、すかさず土方さんは「ボク、サラダ」とウエイトレスに言った。「さすがにダンサー。自分のカラダのこと考えている」とその時私は大いに感心したのだが、実はその時お金がなかったのだと、後で判明した。土方さんがまだ30代の後半で、私たちが20代の若造だった頃のこと。あの頃は、お金がなくてもよく遊び、よくしゃべり、よく呑んだ。たのしかったな。
銀座通りに面したコックドールの店の、白いレースのカーテンの向こうの夜の銀座の光。金が無くても「王者の雰囲気」の土方巽。
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サンナゼール
サンナゼールには正味2日しかいなかったが、奇妙な印象の町だった。
サンナゼールは、第2次世界大戦でドイツ軍に占領され、終戦間際アメリカ軍によって解放されたが、町は完全に壊滅したと言う。今でも埠頭には、占領時にドイツ軍が造った分厚いコンクリートの潜水艦造営場の壁が残されている。いや、残ってしまっていると言ったほうがあたっているかもしれない。なぜなら、今でもこの怪物の様な物体を壊すには、莫大な費用を要するらしい。なにしろ、爆撃でむき出しになったコンクリートの中を見ると、埋め込まれている鉄筋の数が半端ではない。というわけで、サンナゼール市では、これを負の遺産として残すことにした。
そして、道路を挟んで対面するように、素晴らしい現代的な劇場がある。アートの町の誕生だ。
戦争をするのも人間であり、芸術をするのも人間だ。
中世から続いている古城の町アンジェに戻ってきて、サンナゼール市で感じた痛みと希望が奇妙に入り交じった印象がますます鮮明になっていく。
そんなサンナゼールで「Spiel」公演が出来てよかった。たった1回の舞台だったが、とりわけその日のエマニュエルは美しかった。
エマニュエルの飛躍
昨日、セントナザレ公演が終わりました。公演前はいつもと変らず、その前のアンジェ最後の公演の反省会。
私はその日の観客、場所等に「動き」がかなり左右されるので、それに合わせるのがエマニュエルにとって、大変そう。話し合いで決めたことも、守らないことがしばしば。マチューからは、「kasaiさん、エマニュエルがいること、WASURENAIDEKUDASAI、、、、」とよく言われる。
「よし、今日はすべて決めごとどうりにいくぞ、、、、」と自分に言い聞かせて、舞台に行く。気持ちも彼女の動きに出来るだけ合わせながら。すると、時間た経つにつれ、彼女はしだいに動きに「伸び」が出てきて、大胆になって来るくるではないか。そして遂に彼女は「彼方の世界」にジャンプした。やはり当方はエマニュエルの飛躍の「基」にならないと。。。。
終ってまた,いつもの港の近くのレストランでワイン。久子はなんと静かに、ステーキを食べているではないか。ここのオーナーはかつて、サッカー選手で、ワールドカップの試合で日本に来たことがあるのだそうだ。リットバスキーやルメニゲの時代に。
今朝午前中に、新幹線でアンジェに戻りました。
踊り子人生
昨日の午後、アンジェから新幹線で1時間、大西洋に面した漁港St.Nazaireにやって来た。エステルが用意してくれた1等車の座席には、パリから乗ってきたと思われる上品な老婦人がふたりが既に座っていて、ポニーテールの髪型で、白いフレームの鼻眼鏡をかけたアキラをチラッと横目で見て、二人で目を合わせフフと笑った。パリのモンマルトル辺りならいざ知らず、こんな片田舎のフランスでは、アキラが国籍不明、年齢不詳の人物に思われるのは当然で、私はむしろ、アキラを見るフランス人の反応を見るのが愉しい。
どんよりとした灰色の冬空がどこまでも続き、列車は、溢れる勢いで流れる水嵩の増した川の側を走って行く。30分もするとナントに到着。昔高校生の頃、ナントの公会議なんて教科書に出てきたなぁ、などとぼんやり考えていると、灰色だった遠くの地平線が、白み始めて薄日が射してきた。雨が止んだのだ。
ティー・ファクトリーの平井さんに、鶴屋南北戯曲賞をお受けになった川村毅さんへのお祝いのメールを送ったら、返事を頂いた。そこに、「おふたりとも、旅の人生ですね」とあった。思い返せば、50年前、アキラがキャバレーのショーで、日本各地を旅していた時と今と、さほど変わりはない。
踊り子人生、自由が何より!だ。さて今夜のSt.Nazaireの「Spiel」は・・・・。新しい時がやってくる。
セントナザレ
昨日、フランス西海岸の街、セントナザレに到着。
この街はかつてドイツ軍と連合国軍が激しく戦闘し、市のほとんどが壊滅したので、いま建っている建物は新しいものばかり。最近まで破壊された軍需施設が残っていたそうだが、その後町は、劇場や文化施設を創って、アートの町として甦った。
劇場はすばらしく、20メートルの高さから、スポットライトが落ちてくる。夜は光の中に揺れる、暗い港の前のレストランでステーキと白、赤ワインを飲みました。
話は飛ぶが、劇作家の川村毅さんが鶴屋南北戯曲賞を受賞。こころよりお喜び申し上げます。
久子のとこに来た平井さんのメールによると、この受賞対象となった「フォー」は、「AOI-KOMACHI」とともに川村さんにとって、一番苦しみの中から生まれた作品だそうです。
川村さん。。もう一度「AOIーKOMACHI」が再演出来たらいいですね。
再び夢
「左側に、大きな鉄の棒で形造られたひとの顔。右側に、同じく鉄の棒で形造られれた大きな人体。」
「私の隣に二歳年上の姉がいる。右の人体に向かって、私は姉に説明する。『この鉄で造られた人体においては、ひとつひとつの臓器はそれに対応する神の働きに結びつている。』人体の臓器はひとつひとつ神と結びついていると。そしてさらに、姉に向かってこう言う。『この鉄の人体に”彩色”するために、自分は生きて行きたい』と。」
「次に左側の鉄の棒で造られた顔を見ると、”ボディーサトヴァ”と書かれている。」
「目の前に川が流れている。その川を渡ると、視界が広がり、彼方に三本の樹が立っているのが見える。新緑に輝く豊かな葉に包まれて。葉は風に揺れて美しい。あまりの美しさの故、涙が出る。」
しばらくして目が覚める。何度も今見た夢の光景を、こころの中で反芻する。
最近、夢の中で涙する事が重なる。夢は現実以上の現実で、時に、一生を左右するほどの影響力がある。
今日はOFFfなので、午後久子と散歩にでる。近くのゴチック様式の教会に入ると、パイプオルガンが雷のような轟音を響かせて、石の会堂内に響き渡っている。しばらく木の椅子に座って、皮膚が震えるような音のシャワーのなかで二人とも黙す。それから何度も行ったアンジェ城へ、自然に足が向き、1000年前の中世にワープ。凍えるような空気のなか、部屋へ。
踊り子は自由が何より
昨年暮れ、エマニュエルは、8年間努めたCNDCの芸術監督をめでたく退任した。彼女自身はもう少しCNDCで仕事を続けたかったらしい。留任の運動もあったらしい。でもいいではないか、ダンサーに肩書きは必要ない。踊り子は自由が何より。
そのように自由になったエマニュエルとアキラのデュオ「Spiel」を5月17、18、19日吾妻橋のアサヒ・アートスクエアで公演する。乞うご期待である。
雪まみれ
雪と氷に大地が覆われたアンジェで、最後の公演が終りました。計五回。
カラダの動きは、それを測る測定器というものを必要としている。けれどもダンサーはヴィデオ映像のように、自分のカラダを、外側から見るわけにはいかない。ダンサーはカラダの内側から、「動き」を測定しなければならない。この測定器をどのように持つかは、みな人それぞれだと思うけれど、自分の場合は、やはり「純粋知覚」といか言いようがない。
つまり知覚が働いた時には、すぐにその知覚は記憶と結びつくが、この記憶と対象が結びつく以前のところに留まりつづけ、その状態を意志的に持続することなのだ。
純粋知覚の中では、劇場は劇場以外の何ものかである。空間を照らしている光は光以外の何ものかである。
昨夜は劇場の中に雪を敷き詰めて踊りました。エマニュエルも多分その雪の上で踊っていました。目には見えませんが、二人とも雪まみれいなって動いていたと思います。
雪
今朝、窓に目をやると、雪景色。向いの屋根に、チョコレート菓子にまぶした粉砂糖のような、ふんわりとした雪。ふと、ポール ギャリコの「雪のひとひら」を思い出す。空から舞い降りた雪のひとひらが天に還るまでまでのお話。矢川澄子さんの訳で日本語になった。彼女も、もう天に還って行った。
昨夜のエマニュエルはいままでになく、のびのびしており、即興とユニゾンの振付の案配がとても自然だった。これまで何十回となく行なったDUOのすべての成果がそこに実っていた。そのような翌日の舞台はむつかしい。その時の体験にとらわれてしまうので。
雪は人々のこころに、純粋知覚を齎してくれる。この雪を、舞台のうえに敷き詰めて、アンジェ最後の舞台を乗り切ろう。
アンジェに雪が降る
アンジェに来て1週間経った。昨夜4回目の『Spiel』の公演を済ませた後、バーでワインを一杯と、という若いスタッフたちに、「またあしたね!」と挨拶を交わして、CNDCを後にした。体の中に燠のように残っている今日のパフォーマンスの余韻が、戸外の冷気に触れていっそう鮮明に甦る。
メーヌ川を挟んで、コンクリートで出来た大きな四角形の現代建築物CNDCの対岸に、今日フランスで現存する城で、もっとも古いアンジェ城が、崖の上に微かなイルミネーションに照らされて、夢のように浮かび上がって見える。なんと美しいことか!なんと清楚なことか!・・・・1000年前には、堅牢なこの城塞で、多くの人々が戦い、夥しい血が流され、どんなにか残虐な殺戮が繰り返されてきたかというのに。
静まり返った石畳の道を歩く自分の足音を聴きながら、心の中で、隣で黙々と歩いているアキラに向かって「今日の舞台面白かった」と呟いた。
お互いの探り合いから始まったエマニュエルとアキラの「SPIEL」の作品創りも、もう4年になろうか。不思議なことに、次第に二人の顔が相似形になってきたではないか。夥しい未生の言葉を流しながら、新しい何かが生まれてくるように。
そして今朝、起きてみると雪が降っていた。昨夜帰り際に、通訳のYUKOさんが「明日は雪ですから、5時15分にエマニュエルが車で迎えにいきます」と言っていたっけ。今夜がCNDCでの「SPIEL」最後の公演だ。
純粋知覚
アンジェの街を歩いていると、前世からの記憶が甦ってくるような気分に襲われる。純粋知覚とは、一切の思い込み、記憶を排除して、あるがままの対象を知覚することだが、この純粋知覚で、この街を歩いていると、いまこうしてここを歩いているのは、ダンス公演のために来たのでもなく、フランスから呼ばれたから、ここにいるのでもなく、一種の「運命的必然性」によって、ここにいるとしかいいようがない。純粋知覚のなかにいると、すべての出来事が必然として、生じているのであり、そこには自己の意志なぞ、微塵も入り得ない、「生のままの生」の流れが現れてくる。
アンジェは典型的な中世の城を中心にして造られた町であり、1000年の時間も流れが生き生きしている。城は堅固な城壁に囲まれている。そして城の中には小さな街がある。ここにいると、今の生と前の生がそのまま繋がるのだ。そしてこの純粋知覚のまま、気合いを入れて舞台に飛び込むのだ。
夢
昨夜、ブログを書き終えて眠りに入ると、すぐに夢を見ました。なんと、寺山修司が闇の中から、ぼんやりと出現したのです。何かを言いたげでしたが、言葉にならないもどかしさを感じました。演劇的犯罪を試み続けた寺山のことだから、あのブログに何か言いたかったのかもしれません。(ブログは死者にも通じる)
敢えて言えば、その時の彼の身体には、なんと言うのか、演劇でもダンスでもない中間を感じました。
今日はここフランス、アンジェは午後から雪が降るとの知らせ。でもここから見える空はまだ雪模様をまったく感じさせない。
angers舞台二日目
ダンスと演劇を比べるならば、言葉を中心とする演劇と、行為(動き)を中心にするダンスの違いということになるが、本質的には、「表現」と「現実」の違いという事になろうか。舞台で踊っていて常々感じるのは、なにかを表現しようとしているのではなく、ひとつの現実を創りだそうとしている、ということであり、そしてこの「生み出された現実」が日常的現実よりも、遥かににリアリティーを有しているというという事を確認しようとしている自己自身である。演劇におけるリアリティーが「変身」のリアリティーであるとするなら、ダンスは変身ではなく、ただ真の自己自身であろうとする。「鉄」という素材で何を創りだせるか、ではなく、ただ、「鉄という素材が何か」ということだろう。
ダンス空間は表現と現実、変身と自己、表現と暴力の両極を行き来いしているように思える。犯罪者にとって、しばしば犯罪自体が表現である場合がある。
ダンスが演劇空間に接近するにしたがい、ダンスは弱体する。反対に現実、自己、暴力、犯罪的であればあるにしたがい、ダンスはその強度をます。
という意味で、どうも二日目の舞台は演劇的空間のベクトルへと傾いていたとのではないかな?
angers舞台初日
今夜はアンジェにおける「spiel」公演の初日。
これから本番というときに、また長めのdiscussion.
日本では、そんな時に話し合いなぞ、ほとんどしない。これから清水の舞台から飛び降りようとする時、「この舞台をする意味について」、話し合うということは。
けれども、こう言ってよければ、ヨーロッパ、とくにフランス人はいざという時、お互いがいま何を思っているかを、言葉や動作で確かめあうというのは、とても大事なことなのだ。エマニュエルと舞台を続けていて、つくづくそう感じる。例えば、長く恋人同士であっても、つねに言葉で、自分が相手に対してどう感じているかを、確かめ合おうとする。(むろん彼女とそういう関係ではないですが)
人間にとって、恥と不安というのは、存在に対する原感情のようなものだと思う。この場合、多分「恥」と言うのが、日本人の原感情であるとするなら、「不安」とは、フランス人にとっての原感情なのではないか。。。。自分の気持ちをいちいち言葉にするのが、不得手な私にとって、エマニュエルと踊っていて、このことを、常々勉強させられている気がする。
という訳で、今日も初日、何とか終えました。
アンジェ初日
昨日午前11時半に離陸し、パリ空港にはYuukoさんがわれわれ二人をピックアップ、夜7時頃、アンジェの宿舎に到着しました。
今回はあまり時差を感じず、なにか、国分寺から原宿に来たくらいの感じで、着いた夜の町の風景も、それほど時空の歪みなく視界に入ってきます。今朝6時まで、熟睡。10時過ぎにエマニュエルが車で迎えに来てくれ、CNDCへ。ここには700と言う劇場と400と言う劇場がある。今回は400のほう。14日から18日での5日間、「spiel」を公演します。三方を客席で囲まれた天井の高い、ブラックボックス。
一時間ほど、前回のパリ公演に着いての感想や反省。
「spiel」は私とエマニュエルのDUO作品で、ヨーロッパではすでに4都市で公演されている。今回のCNDCの公演は8年間エマニュエルが務めたCNDCの芸術監督の退任公演なので、アンジェ市でも注目されている。切符も完売。気合いを入れて明日、ゲネプロです。
新しい虹
以前から、思い出したくてなかなか全文が思い出せなかったヘッセの詩を、最近
やっと思い出せたので、忘れないうちにここに書かせてもらいます。
新しい虹
神の息はあちこちに
また上下に吹きただよい
光が歌ういく重の歌
神が光彩の世界に化す
白は黒に
暖は涼に
絶えず新たに
吹き付けられ
湧く混沌のなかから
永久に
清まりなる
新しい虹
世界がいま「新しい虹」を、
欲しているのだろうと思います。それは丁度ノアの大洪水のあとに、世界に初めて虹が
現れたと時のような。一度全てが崩壊したあとに顕われるような。湧く混沌のなかから
清まりなる新しい虹を。
フランスツアー
明後日の11日から、一ヶ月ほどフランスに滞在します。エマニュエル・ユインとのDUO作品を、アンジェ,セントナザレ、トゥールーズの三都市で公演するため。ちなみにこの作品は5月に東京で上演します。私はまったくフランス語が出来ないのですが、このDUO作品は、困難な異言語を、お互いに通訳を介しながら受け取る作業によって、その言語的差異の中から深められていくという体験があり、それが私にとっては新しい未知の身体性を生み出していると、感じられています。たぶん、リハーサルでは踊った時間より,喋りあった時間のほうが、はるかに長かったです。このツアーの間に、一週間ほど、CNDCで授業します。
近江の国
昨夜、近江の国の、とある小さな鄙びた町に行く。新幹線の米原で近江鉄道に乗り換えると、世界が変わる。というより新幹線が関ヶ原を通過するあたりから変わるのだけれど、そこは何というのか、日常の中に忍び込んでいる、幽界の入り口のような、あるいは夢の世界への入り口のようなところ。だから、近江鉄道はただ乗っているだけで、いい。
泊まった宿のおかみさんは観音様のような、微笑を絶やさず、そして欲が無い。
そこは、蒲生郡(がもう、あるいは、かもぐん)と言うが、それは大石凝真須美によれば、『人を醸(かも)す』ところのこと。日本国を一人の人と見立てるならば、そこは日本の「喉」である。
大国魂神社
正月二日
大晦日、御岳山に登ったために、足の関節痛し。情けない。
午前中は新聞を時間かけて読む。年間ほとんど新聞もテレビも
パソコンも見ない生活。ただ直感で、世界の出来事を感じているだけ
の生活なので、新聞活字を通して、回りの出来事に触れるということ
が、新鮮に感じられる。でも何時まで続くことやら。
久子が初詣に行きたいというので、11時車で関東でもっとも古い神社のひとつ
府中の大国魂神社へ行く。ものすごい人出。神前に辿りつくまでに1時間かかる。でもまわりの
出店を眺めているだけでも楽しい。ケバい付け睫毛のテキ屋の姉ちゃんの顔、なんとか焼き、なんとかソバ
の匂い。参拝後、ジャンボたこ焼きを1箱買って、熱いうちに、府中の森美術館の側で食べる。
夜は年賀状の返事を筆で書き、ポストに。外の寒さ、身に滲みる。
たぶん羊羹の食べ過ぎです。
みなさん、初夢は如何でしたか。
明けましておめでとうございます
昨年はいろいろお世話になりました。今年はブログ頑張ります。
久方ぶりに大晦日の晩、明け方二時頃の臨時電車に乗り、一時間半ほどかけて御岳山に登り、初日の出を見ました。同行者はオイリュトミストの禮示です。
今年はうっすらとした雲の間から、赤々とした光の響きを心臓で聴きました。山頂で蕎麦と御汁粉を食べ、午前10時ころに帰宅。それから午後、介護施設に入っている96歳の母のところに元旦の挨拶へ。
家では、朝日新聞の元日号をゆっくりと読みました。今年が皆様にとって、よき年でありますよう、お祈り
申し上げます。
年の終わりから始まりへ
いつの間にか、国分寺の杜から聴こえていた除夜の鐘が、八幡さまの大太鼓の音に変わっている。志村ふくみ先生から頂いた先生の『薔薇のことぶれ』—リルケ書簡ーを読んでいるうちに、ふと気が付くと2012年が過ぎ、新しい年が明けていた。
およそ100年前に書かれたリルケの、妻クララに、タクシス夫人に、ルー・ザロメに、その他詩人が出会った女性たちに宛てたおびただしい数の手紙。どれもこれも驚くほど美しく、深く、正直な言葉の数々。
私は、志村先生の著書からいつも多くのことを学ぶ。『薔薇のことぶれ』の前に出された『晩祷』—リルケを読むーを読みながら、本を読むということは、正直に自分に向うことなんだ、ということを教えて頂いた。あと数年で70歳にならんとする時まで、こんなことがわからなかった自分にあきれる。
「自分の考えを自分の言葉で書け」(吉田秀和)という言葉を引いて「自分の言葉とは自分の生き様そのものだと思った時、そこにリルケがいた」という先生の文章を読んだとき、ふと肩が軽くなったような気がした。
さて、あれこれ思い巡らしているうちに、丑三つ時に家を出て、御岳山にご来光を拝みに向った叡と禮示は、無事に山の頂きに着いたかな。
雪が降る
もう直き、1月23日が過ぎ、24日がやってくる。外は雪だ。部屋を暗くすると、私の机の前の窓を通して、お隣の本多さんの広いお庭が、真っ白に浮び上がって見える。窓を開けると、冷たい空気がきもちいい。寒いけど美しい。
昨年の暮れ、人から頂いた、黒川創著・西村伊作伝「きれいな風貌」を読んで、明治43年(1910)に起った大逆事件で検挙された人たちの中のひとり大石誠之助は、西村伊作の叔父さんであると初めて知った。そして、101年前の1月18日に死刑宣告を受けて、そして今日24日12名の被告の刑が執行された。宣告を受けて、たった一週間後のことだ。大寒の寒い日に、今日みたいに雪が降っていただろうか。
言論の自由、思想の自由が無かった時代の言葉の重さを想う。
山本さんの言葉
エッセイストの山本ふみこさんから頂いた本「そなえることは、へらすこと。」(メディアファクトリー)を読んだ。日常の暮らしの中で(特に、この度の大震災のあと)著者が、感じたり思ったりしていることが、明快、率直な言葉で綴られている。読んでいるいるうちに「そうね、そうよ、そうそう・・・」と私自身が書いているような気分になっているから不思議だ。そして、毎日の生活の中で、忘れていたり、気がつかないで通りすぎている事柄などを気付かせてくれる。山本さんの言葉がすぅーと私の身体に入ってきて心地いい。
最近、誰かと話していても、心の中でー言葉が届いていないなーと思うようなことが多くなった。もちろんこの状況は一方的な問題ではない。相手の人も同じことを感じているだろう。ますます話す言葉が空虚になり、ひととひとの間が薄れてきて、遠くなって行く。
山本さんの本の中に次のような文章を見つけた。
―けれども東日本大震災のあと・・・・与えられた物をすべて生かすことが、わたしがわが胸のなかで自分相手にした約束なのだった。
そんな山本さんの言葉に触れて、私の心に何時の時か読んだリルケの詩句が浮かんだ。
私は自分を配慮する。すると 私の中に 家が立っている。
私は自分を見張りする、すると私の中に見張りの牧(まき)がある。
愛を受ける者に私が成ると、美しい自然の姿が 私に凭れて憩い、そしてそれが 心ゆくまで泣いて泣き止む。(片山敏彦訳)
山本さんの本の中で、人間に無関心だった物たちが、植物が、自然が、山本さんの言葉に触れて復活する。
石井恭二さんの訃報
11月30日の夕方、現代思潮新社の川辺さんから、現代思潮社元社主の石井恭二さんの訃報が届けられた。享年83歳。特にこの一年叡の心にはいつも石井さんのことが気になっていたようで、「今度一度訪ねようね」と口にしていただけに、思いがけない訃報に接して、最期のお別れも逸してしまい、叡にとってはことのほか無念な思いだろう。
石井恭二さんが出版したマルキ・ド・サド作/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』が、発禁処分になり、石井さんはわいせつ文書販売等の罪に問われ、裁判が始まったのが1961年、69年に最高裁で有罪が決定された。その係争中の8年間は、火山のマグマが噴出し続けるようなエネルギーが、世の中に渦巻いていた。当時まだ20代だった叡は、大野一雄先生の稽古場で踊りの稽古を始め、土方巽さんと出会い、それまでのダンスの概念をひっくり返すような土方さんの舞台を共に体験し、澁澤龍彦さんはじめ多くの芸術家、詩人などと知り合うことができた。
どういう経緯かすっかり忘れたが、多分1970年頃のことだと思う。ある日、当時石井さんがお住まいだった小日向にお宅に招待され伺うと、そこにはすでに、埴谷雄高さん、澁澤龍彦さん、龍子夫人が集まっておられた。石井さんが「本日は平安朝時代の食事を嗜む集いです」との挨拶があり、石井さん自らひとつひとつ供される食事の品々の説明があった。私は、珍しい食べ物にびっくりしたり、戸惑ったりしながら、一方で、その場で交わされる会話のおもしろさに引き込まれ、その場の心地良さは今でも思い出せるが、もったいないことにその時に何が話されていたのかすっかり忘れてしまった。まだまだ未熟な私だった。
数少ない叡の著作のうち、『天使論』1972『聖霊舞踏』1977『神々の黄昏』1979 の3冊は、石井さんの元から生まれた。その後、すでに現代思潮社を退かれておられたが、石井さんの計らいで、写真集『銀河革命』を現代思潮新社から2004年に上梓した。
前を歩いていてくれた人が、いつの間にか消えて行く。その人の存在のぬくもりだけを私の心の中に残して。決して消えない存在のぬくもり。なんと素晴らしいことか。
「ありがとぉ〜」いくら叫んでも、すでに言葉はとどかない。
明日は日本へ。
いよいよ明日は日本に帰る。
今年の春、多くのひとをのみこんだ日本の大地にふる雪を、痛ましいほど白いと感じたのはついこの間のこと。早くも再び雪の季節が巡ってくる。
5月にフランスのアンジェとアネシー、7月にはイタリアのトスカーニャ、9月はハンガリーのブダペスト、そして今回のニューヨークのブルックリン。いつでも何処でも人々の生活があり、様々な意識が重なりあい、混じりあい、やがて、時間が厚い層となっていく。行く先々でその厚い時間の層に身を沈める。生きる源がそこにあるような気がする。
今月25日は叡の68歳の誕生日。ダンスを始めて50年。未来から吹いてくる新しい風を受けながら、叡は今、CAVEのスタジオで今回最後のワークショップをしている。
「NOBODY’S MONEY」
昨夜(18日)DNA(Dancc New Amsterdam)で、叡のソロ作品「NOBODY’MONEY」を上演した。公演後のアーティスト・トークで、インタビュアーのヒメナが、今回の作品に付いて質問し、叡が「お金は、所有するものではなくて、血液のように必要なところに流れるもの・・・」と口にすると、会場から大きな拍手が起こった。
この数日間公演の準備でDNAに来ると、いつも前の舗道をプラカードを掲げた人たちが行進していたり、目まぐるしく行き交う車の流れを警官たちが交通規制をしていたり、物々しい警戒態勢が続いていた、ニューヨーク市民の不満が渦を巻いて至る所に溢れている。
今日は19日(土)。私たちが、BROOKLYNにいるのも残り二日。ベッドフォード・アベニューの街路樹もすっかり落葉して、冬の淡いブルーの空が遠くの方まで広がって見える。空気が冷たい。やがて華やかなクリスマスがやってくる。
でも、冬のニューヨークは毎年凍死者がでるほど寒いとシゲさんが言っていた。孤独に暮らすお年寄りたち、病気の人たち、職を失った人たち、ちいさな子どもたち・・・凍るように冷たい大都会の中で、この格差社会をどのように生きていけばいいのだろうか?
11月のBROOKLYNつづき5
11月16日夕方4時半。今日は朝から小雨が降っている。ここの部屋は6階にあり、ベランダを通して正面に、マンハッタンに渡る橋が見え、橋に平行して電車が走っている。今すべてが灰色の風景の中で、電車の四角い車窓と車のライトだけがオレンジ色に輝き、忙しく行き交っているのが見える。雪片でも落ちてきそうだ。
昨日の夕方、18日に叡がパフォーマンスをするDNAのスタジオに照明の打ち合わせに行った。打ち合わせが終わり、スタジオの前でシゲさんの車を待ちながら上空を見ると、ヘリコプターの明かりが遠くに動いているのが見えた。10分ほどで来るから、と言ったシゲさんの車を待つこと30分以上。すっかり夜になり、目の前の公園の銀杏の葉がイルミネーションにを受けて、金色に輝いている。どうしたのだろう、といよいよ心配になりだした時、シゲさんの車がやってきた。車に乗ると、シゲさんは「今日は警察が、先月からの反格差のを訴える座り込みの人たちを強制退去させたので、ものすごい交通制限で、なかなか来られなかったんです。心配したでしょう」と言った。それで、ヘリコプターも飛んでいたんだな。
今朝インターネットで朝日新聞を見ると、金色の銀杏の木の前に並んだ警官たちの写真があった。DNAの前の公園に、多くの人がテントを張って座り込みをしていたのだ。200人も逮捕されたという。
ニューヨークに来ると、いつもマンハッタンの繁華街をブラブラ歩いて、本屋を覗いたり、MOMAに行ったり、しゃれた喫茶店に入ったり、何となくニューヨークを楽しむ気分になったものだが、今回はそんな気分になれないのはなぜだろう。
世界が猛スピードで動いているのを感じる。何処に向かっているのだろうか。
11月のBROOKLYN4
今年の8月の末、MacBookAirを買った。海外にでる時、荷物が少しでも軽くあってほしいからだ。と言うと、いかにもパソコンを自由に使いこなしてるように聞こえるが、まったくそうではない。闇の中を行き当たりばったりしていると、偶然に先に進む道にぶつかるといようなものだ。
20年ぐらい前、あるグループの雑誌を独りで編集するはめになった。それより以前、大学卒業後しばらくの間、昭森社という出版社で「本の手帖」や「詩と批評」などの編集に携わっていたことがあるとはいうものの、何から何まで独りで本を作るのは初めて。さて困った。そこで、当時既に一般に広く使われていたワープロを購入し、国分寺北口にあるワープロ塾に入門。夏の暑い盛り、3ヶ月の講習を受けた。やってみると、なかなか面白い。ワープロで原稿を打ち込み、編集から割り付けまでして印刷屋に入稿し、いよいよ印刷屋から第一号の新しい雑誌が手元に届いた時は、ひとり内心ほくほくと嬉しかったのを忘れない。
それから間もなく、ワープロは廃れ、パソコンが取って替わった。今や、どこにいても、どこにいくにも、パソコンは必需品となる。
勿論、ここBROOKLYNにも8月の末に買ったMacBookAirを持ってきた。そして既に「わたしのMac」は大活躍。東京からのメールを受信し、即返信。スケジュールのこと、助成金申請書類のこと、公演やワークショップの問い合わせ等々、「わたしのAirMac」がすべてを記憶していてくれて、何事もリアルタイムに処理してくれ、滞りなく事を進めてくれる。だが、まてよ。突然「わたしのMac」が真っ黒に固まってしまったらどうしよう。
自分で買ったパソコンに自分自身が吸い取られる。ゆゆしきことだ。
人は努力する限り、迷うものだ・・・とは彼のゲーテ先生のお言葉。えい!「わたしのMac」なんか放っといて、美しい冬のベッドフォード・アベニュウを散歩に出よう。
11月のBROOLYNつづき3
私たちに部屋を貸してくれているエミリーのおばあさんは、台湾の人だそうだ。どうりで、シゲさんが初めて彼女を紹介してくれたとき、思わず日本語で挨拶しそうになったほどの親しみを覚えた。確か国分寺のどこかで出会ったことあるような・・・。そのエミリー「日本には、たった一週間だけしか行ったことがないの。東京と北海道の旭川と。北海道は雪が降っていて、とてもすてきだったわ。日本は大好き。食べ物もおいしいし。一週間じゃあ足りないわ。今度は彼と一緒にもっとながく行くわ、ゼッタイに」と最後を強調して言った。
エミリーの彼・ジュリアンは、お母さんがイギリス人。お父さんがケニア人。彼の彫りの深い顔は、浅黒く、黒い瞳が印象的だ。ふたりは、来年の2月にBROOKLYNのどこかにレストランをオープンするという。そのために、今は毎日店の改装をしている。今朝ジュリアンが早く出かけたのは、ニューヨーク中を回って、細かい物を選んでくるためだ。
そうかぁ。それでガッテン!私たちに大きな部屋を貸して、自分たちはリビングルームを簡単に仕切った狭い部屋(しかも、一方がベランダに面していてガラス張りなのに、カーテン無し)を寝室にして、少しでも資金をためよう。夢を実現するためには、少々不自由な思いも厭わない。なんとも頼もしい。
叡がワークショップをしているCAVEでも、コロンビア人のヒメナと日本人のシゲさんが一日中休む暇なく動き回って、スタジオを切り盛りしながら、自分たちの作品創りをしている。
世界的な経済破綻で、お先真っ暗な世の中でも、様々なところで出会いがあり、その出会いが様々な生き方を生み出していく。
11月のBROOKLYNつづき2
次男のれいじから「東京も急に冷え込んで、急遽布団を買いました」というメールが入った。寒いのはニューヨークばかりではない、冬ですものね。
昨日(12日)は、叡のワークショップがお休みなので、午後から散歩に出かけた。前日の寒さを想定して完全装備の態勢で外にでると、案外と寒くない。地下鉄のベッドフォード駅を目指して、ベッドフォード・アベニューを10ブロックほど、のんびりと歩く。初冬の穏やかな日差しのもとで、通りはウイークエンドの昼下がりを楽しむ人たちで賑わっている。11月の最終木曜日が感謝祭だという。それが過ぎると、町は一斉に降誕祭を迎える準備に取りかかるのだろう。途中、露天の古本屋さんで、ブランチ・フィッシャー・ライトの挿絵付きのマザー・グースの絵本を見つけた。
ベッドフォードの駅から地下鉄に乗り、3つ目ユニオン・スクウェアで乗り換え、グランドセントラルを通り越して、59番ストリート駅で降りた。地下鉄の階段を上ると、既に高層ビルの窓ガラスは夕陽を受けて、オレンジ色に輝いている。それから、マンハッタンを南北に走る有名な通り―3rdAve、レキシントンAve、パークAve、マジソンAve、5番街=を横切って、セントラル・パークまで。
実は、その日の朝「ボクは、やはり詩人だからね。セントラル・パークの紅葉がハラハラ散るのがみたいなぁ〜」と叡。「ハハァーン、リルケ張りね・・・」と内心思わず納得する。という訳で、セントラル・パークまでやって来たものの、公園内はどこもかしこも人だらけ。疲れ果て、ベンチに座り、木々の間から空を見上げると、薄紫から灰色そして藍色へと大都会は静かに暮れていく。二人とも寡黙になり目を瞑って、しばらくの間、遠くに響きわたる車のクラクションの音を耳にしていると、嗚呼、再びマンハッタンにいるんだ、と懐かしい思いが湧いてきて、時の流れの不思議が、疲れを忘れさせてくれた。
すっかり陽も落ちて、べッドフォード・アベニュウの帰り道、行きの露天の古本屋で見つけたマザーグースの絵本を7ドルで買い、叡は酒屋でイタリア産ワインを求め、ブロードウエイ・アベニュウ110の、エミリー&ジュリアンとの共同部屋にたどり着いて、無事ニューヨークの休日は終った。
11月のBROOKLYN つづき
11月11日(金)昨晩遅く、雨が降っていようだが、今朝はきれいに晴れ渡っている。私たちの居る部屋から、CAVEまでは7ブロックしか離れていない。パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませ、これまた簡単なお昼のお弁当を作って、外に出ると、ワァ〜寒いではないか。日差しは明るいが、空気は昨日までと打って変わり、グッと冷たい。
さて今回我々のBROOKLYNの滞在先は、前もってシゲさんがネットで探したエミリーさんという若い女性の部屋だ。彼女は我々の滞在中は、上の階に住むボーイフレンドのところで生活する、と聞いていた。まだ新築で、壁も真っ白、大きなリビング、ゆったりとした寝室。彼女はここを買ったそうだ。あの若さで,こんなご時世に、マンションの一室を購入するなんて。ハハァ〜ン、時々部屋を貸して、ローンの返済に充てるのだろう、と思いきや、昨日の昼間、大工さんがやってきて、5時間あまりで、広いリビングにドア付きの真っ白な壁を作り、あっという間に、エミリーの寝室が出来上がり!「今夜は上だけど、明日からここよ。よろしくね。バァ〜イ」とご機嫌で去っていった。「何と言ったか分かる?」と叡に聞いたが、答えはナシ。明日からこの部屋に住むのかしら・・・。
今日になって、事情が判明した。CAVEのワークショップから戻り、バスルームに入ると、何とエミリーの洗濯物がバスタブの上にいっぱい干してあるではないか。しかもボーイフレンドの物まである。これはどういうことか?と思う間もなく、大きな荷物を抱えて、エミリーと彼がやってきて、出来立ての小さな部屋に、すっぽりとふたりで収まってしまった。という訳で、これから日本に帰るまで、私たちのBROOKLYN滞在は、若いカップルと薄い壁を隔てての共同生活となったのである。これもまた愉し!!!
11月のBROOKLYN
今日は、11月10日(木)。ニューヨークに来て4日目だ。日付け変更線を通過してケネディー空港に向かう機内で、「現地は摂氏7度」というアナウンスがあった。やっぱり想像していた通りの寒さだ、と覚悟を決めて空港に降り立ち、迎えにきてくれたCAVEのシゲさんと外に出ると、ライトブルーの冬空のもと、空気はひんやりと気持ちがいい。それほど寒くなく、ああよかった!
2年前、叡と一緒にCAVEのワークショップに来たのは、確か梅雨の頃だったと思う。その年の初め、オバマさんがアメリカの大統領に就任した。「ブッシュが替わって、ニューヨークの空気も軽くなったよ」と、その時何人かの友人から聞いた。それからわずか2年しか経っていないのに、今や、日本に於いても世界に於いても、解決不可能な政治、経済、文化の諸問題が雪崩の勢いで襲いかかってくる。
そんな状況の中で、BROOKLYINにスタジオを持つシゲさんとヒメナの活動は、2年前よりますますエネルギシュだ。様々な国の若者たちが、CAVEの空間で自由に創造作業を繰り広げている。目まぐるしい時の変化の中にあっても、着々と豊かな空間が育っていく。なんと力強いことか!!
マンハッタン島の隣ブルックリンは、シゲさんが10数年前に住み始めた頃は、無法地帯だったそうだ。今では、摩天楼を誇るマンハッタンとは異なり穏やかな住宅街だ。そんなブルックリンでも、今回新しい高層ビルをいくつか見た。
「旧い建物に囲まれたブルックリンのよさが、だんだんなくなるのはさみしい」ポツリとシゲさんが呟いた。
「いやいやシゲさん、外がどんなに冷えても、内は燃え続けて欲しいわ」とわたしは、心の中で呟いた。
もう、11月!
気がついたら、今日はもう11月1日、霜月だ。
午前中、大森正秀さんから、9月下旬「血は特別のジュースだ」の公演のために訪れた、ハンガリーのブタペストでのスナップ写真が、数葉送られてきた。ドナウ川の岸辺に建つ大きな石像の前で、大森さんが撮ってくれた叡と私のツーショット(あの頃はまだまだ暑く、夏日が続いていた)。メルリン劇場の広間の大テーブルの横で、大野悦子さん、秦宣子さん、大森正秀さんとご一緒に一枚。フェスティバル「Japan is here」の開催中、参加者たちは皆、昼に夜にそのテーブルを囲んで食事を共にした。大市場の屋内にある八百屋さんの前で、禮示と秦さんと私。どれもこれも懐かしい。
あれから、京都、横浜と公演が続き、一昨日やっと九日間のエマニュエル・ユィンと叡の、森下スタジオでの稽古と公開デモンストレーション及び最終日のシンポジュームが終わった。
シンポジュームの席上でパネラーの一人から、「全身ダンサー」と称されたエマニュエルも、翌日の朝早く、二人のお嬢さんが待つフランスのアンジェに向かって飛び立った。「秋休みのほとんど、ママなしで過ごさせてしまったわ。せめて残りの二日間は子どもたちと一緒にいたいの」と言いながら・・・。
そして今夜、天使館では11月4日に国分寺の老人介護施設「すかやか」でのオイリュトミー・デモンストレーションの稽古が行われている。叡を交えてオイリュトミスト数名で、「すこやか」にショートステイしておられるご高齢者の皆さんにオイリュトミーを披露するという訳だ。初めての試み。楽しみでもあり、心配でもあり、緊張する。
大森正秀さんは写真とともに一言付け加えてくれた。「ニューヨークは雪とか。ニューヨークの路上で滑らないように・・・」と。優しいなぁ。来週の今頃は、ニューヨーク。寒いだろうなぁ。
11月は、外の闇が最も深まっていく季節。ひとの優しさが、心に光をともす。
「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」
叡の新作「血は特別のジュースだ」を携えてハンガリーに赴き、ブタペストのメルリン劇場での公演を終えて、東京に戻ったのが10月3日。中2日置いて6日に京都にやってきた。10日、京都造形芸術大学の春秋座で、この作品を本邦初演する。
春秋座公演の後、10月14、15、16日の3日間、笠井瑞丈と横浜赤レンガの企画による、叡の構成・振付・出演の新作「うつろ舟」と続き、更に、20日から30日まで、森下スタジオに於いて、フランスのアンジェ国立振付センターの芸術監督のエマニュエルとの公開稽古を行う。相変わらず、スケジュールは立て込んでいる。
とは言え、「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」は、同時に産声を上げた、全く似ていない双子。乞うご期待!!
エマニュエルとの恊働作業の始まり
5月2日の夕方、ANAでドゴール空港に降り、列車に乗り次いでほぼ一時間半アンジェに着いた時、駅にCNDC(国立コンテンポラリー振付センター)のアルノーが、雨の中を車で迎えにきてくれていた。2年振りのアンジェだ。宿舎は前と同じ、窓からゴチック教会の尖塔が見えるアパルトマンの一室。
翌日からCNDCで、叡とエマニュエルの稽古が始まる。思わず叡が「日本に持って行きたくなるような空間だ!」と口走ったほど、素晴らしい大リハーサル室には、叡とエマニュエルの他、音響担当のマチュー、照明のオーギュスティン、映像のカンタンとジュディットと通訳のまり子さんと私の8人。
エマニュエルは、CNDCの芸術監督、ダンサー、コレオグラファー、幼いふたりの娘たちの母親で、ポルトガル人のダンサーの奥さんでもあり、幾つもの顔をもつ、きわめて多忙で、有能な女性ではあるが、実際に会うと、アーティストというより、穏やかな親しみのある主婦というほうがしっくりする。そんな彼女が、一年ほど前から日本に来る度に、僅かな時間を割いて天使館を訪れて、叡との稽古を重ねてきた。
そのきっかけは、2年前の春のCNDCの招聘公演『花粉革命』を観て、叡の動きがどこから出てくるのか強い関心を持った彼女の、持ち前の知りたがりやの性格と物事に一途に向う彼女の意志力が強く働いた結果だ。そのようにしてエマニュエルの要望から、専ら彼女の提唱する『プレイ・バック』という稽古方法を用いて、ふたりの稽古が始まった。
今回私たちがアンジェに来たのは、今週末アネシーのダンスフェスティバルでふたりが踊ることになったからだ。しかし、エマニュエルがCNDCの大リハーサル室で叡と行なった稽古は、フェスティバルのための稽古ではなく、天使館の稽古と全く同じで、『プレイ・バック』、[プレイ・バック』の『プレイ・バック』・・・・。そして、動く時間と同じ時間をかけて、音響、照明、カメラのみんなと話し合い。それぞれが、動き、光、音を分析して言葉にする。それぞれがA4のノートに細かく書き付けて行く。ダンサー、照明、音響、稽古場にいる人が、自由に自分の時間を相手の時間に重ねて行く。初め、エマニュエルの知りたがりやの芽が頭をもたげてから、呼吸するように過去、未来、現在の時間の層が重なり合って、密度の濃い深い時間の流れになって行く。そんな稽古の流れから、アネシーでどんなものが生まれてくるのか、とても楽しみだ。叡にとっても、きっと未知の出会いを楽しみにしているだろう。エマニュエルとの恊働作業はこれからも続いていくだろう。
あの日から一ヶ月
今日は4月11日。東北関東大震災の日から一ヶ月経った。3月11日、私の乗った電車がJR西国分寺の駅に着いて、幸いにもドアが開いた時、地震が起った。電車を一台遅れて乗ったら、駅と駅の間で止まって、暫く待たされて、電車から線路に降り、最寄りの駅まで歩く羽目になっただろう。反対方向に乗った私の友人は、まさしくそうだった,と後で聞いた。
その日から暫くの間は、電車に乗るのが怖かった。中央線の高架線でストップしたらどうしよう、新宿の高層ビル内にいる時だったら・・・・。階段を下りるのも,走ることもままならない身体障害者の私は、きっと多くの人に迷惑をかけるだろう。みんなが逃げる時に,さぞかし邪魔になるだろう。たとえ無事だったとしても,帰宅難民になったら、私の脚で歩けるのは、一区間の半分位がせいぜいだろう。
3月11日、エフェソスオイリュトミーシューレの一学期が終了し、今日4月11日第二学期が始まった。この一ヶ月の間、毎日被災地の様子を知らせる新聞報道を読んで、概ね平常な生活の私の方が、むしろ被災された方々から励まされ、多くを与えられてきた。
今日,35年振りに出す文集「天使館 volⅡ」の見本刷りが届いた。原稿締め切りが3月10日。原稿が集まり、いざ編集割り付けに取りかかろうとした矢先に,震災が起った。「35年間分の日記をつけるつもりで」丁寧に自分とオイリュトミーについて記した原稿を寄せてくれた藤原和子さんは、いち早く「震災後に書いたとしたら、異なった文章になったでしょう」と言った。恐らく文集の大半の筆者が、同じような思いに駆られたに違いない。確かに,一瞬にして信じがたく多くの大切なものが失われてしまった。しかし、藤原さんが真摯に言葉に向った行為は、きっと失われることなく、宇宙の運行の中に組み込まれているだろう。
真摯に行為することが,少しでも光の方向に時を促す力になることを願って、4月27日、国立南口の大学通に面したお菓子屋さん「白十字」で19時から、『オイリュトミー・アーベント』というオイリュトミーの会をすることにした。ピアノ、ヴァイオリン、チェロのライブ演奏で、叡はじめ、7人のオイリュトミストが出演する。(ケーキ・お飲み物付きで2500円)
30年ぶりの手紙
昨日、叡のもとにスイスから一通の手紙が届いた。ドイツの友人クルツ・リヒターからだ。なんと30年ぶり。1980年の春、子どもたちと一緒に、西ドイツ(当時はまだ東西が分裂していた)のシュツットガルトに渡った直後、クルツは私達家族を車で、森の奥にある滝を見に連れて行ってくれた。彫りの深い顔に、あごひげを蓄え、長髪を頭の後ろで縛り、ヒッピーのようなジーンズ姿のカッコいいその青年は、とても優しく、突然コトバも通じない異国に連れてこられてしまった我が三人の息子たちも、おにいちゃんのように慕って、大喜びで、楽しく遊び、和やかで暖かい私達のドイツ生活の始まりをプレゼントしてくれた。私がクルツにあったのはその時一回だけで、叡もそれからは疎遠になり、30年間全く音信不通だった。
便りには「アキラ、元気かい。君の家族は無事か?日本は大変だね。今僕は、スザンネとポールと一緒にスイスの田舎に住んでいる。家はでっかい。君の家族も充分住めるよ」とだけ書いてあった。ポールは、きっとスザンネ(当時からの恋人)との間にできた息子だろう。
3月11日、一瞬にして多くの「いのち」が失われ、多くの方々の生活の根拠が消え去ってしまった。
あまりにも重い悲しい現実。失われていく見知らぬ人々の「いのち」―地球上のすべての「いのち」―が、私の「いのち」とともに在り、つながっているんだと、今になって本当に気づくなんて、なんと愚かで、遅すぎる私なんだろう。
今日は、昨年の秋から計画していた文集『天使館』の後書きを書くのに、コトバをさがして、丸一日かかってしまった。
ありがとう、クルツ。あなたのシンプルなコトバは、イノチのミズだよ。
細江英公先生のお祝いの会
「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」に、叡とともに出席した。会場となった新宿京王プラザホテルのエミネンスホールは、これまでの先生の偉大な功績をたたえて、各方面から集った多くの方々で賑わった。
会場で、詩人の白石かずこさん、故澁澤龍彦氏の夫人龍子さん、大野慶人さん、平凡社の清水壽明さん、溝端俊夫さん、故種村季弘氏のご子息や、故土方巽氏のお嬢さんガラさんなど、懐かしい方々にお目にかかった。
2003年の秋、川崎市岡本太郎美術館で開催された「肉体のシュルレアリスム」―舞踏家土方巽抄―展の、オープニングの日だったと思う。イベント会場に、細江先生が杖をつかれて入ってこられ、膝を庇うようにゆっくりと私の隣の空いている席にお座りになった。
私が膝の具合をおたずねすると、「膝がどうもねぇ。具合よくない」などとおっしゃる。私も経験があるので、きっとお辛いのだろうなぁ・・・と思っているうちに、取り壊されたアスベスト館の稽古場の床板を敷いて作った舞台に、故大野一雄先生が車椅子で登場。すると、前列の桟敷の観客たちが、一斉にカメラを取り出し、あちこちでシャッターを切り始める。その途端、それまで私の隣で、杖の頭に両手をのせて座っていた細江先生が、やおら杖を椅子の下に転がして、鞄から小さなカメラを取り出して、最前列のセンターめがけて、ベースに滑り込みする野球選手のように、その巨体を横滑りさせ、横になったままシャッターを押しはじめた。その敏捷さ、素早さを目の当たりにして、私は、なぜかとても嬉しくなったのを鮮明に覚えている。
お祝いの言葉に応えて、先生は「今私は79歳ですが、2039年までは仕事をして頑張ります」と話された。2039年は写真発明200年にあたるそうだ。
お話を聞きながら、また私はなぜか嬉しくなった。
ゆきがふる
数日前、新聞で死刑囚永田洋子さんが獄中で病死したとの記事を目にした時、こころのどこかが哀しく、また「そうだったの」とどこかが軽くなった。親戚でも友人でもない私が、凄惨なリンチ殺人の犯人の彼女を「洋子サン」と親しげに呼んでしまうのは、ただほぼ同じ時に生まれた二人の女の子が、ある時から一方は死刑囚となり、もう一方は結婚して母親となり、同じ時間を同じ空気を吸って生きてきた、という見えない繋がりを感じるからだと思う。
洋子サンが、1972年2月群馬県の山岳アジトで逮捕されてから、死刑囚となり、留置所の独房の中で病死する今年の2月5日までの40年間を、何を思い、何を見つめ、どのように生きていたか、私には想像できない。
きっと女学生だった頃の彼女は、平和な世界を願って、夢と希望をたくさんもっていたのだろうに。(私もそうだった。)その女の子が、どうしてあのような恐ろしい事件を起こしてしまったのだろうか? 極限状態、権力欲、男女問題、性格、嫉妬、いじめ、弱さ、虚栄心・・・。外側からは、どのようにでも言うことができようが、その当時、事件を新聞で読んだ私は、その事件の首謀者が、自分の年齢とたった2ヶ月しか違わない女性であると知って、何故か哀しみでいっぱいになったのを憶えている。
これから、この人はどうやって生きていくのだろうか? 独房の中で、死刑囚として自分の死に向かいながら、ひたすら犯した罪をカラダの中に深く刻印し、罪の償いをし続ける・・・。果たして罪を償いきれるのだろうか?
そんな風にして、子育てを始めたばかりの当時28歳の私の心の片隅に、洋子サンの存在が住み始めた。
今日、東京は珍しく雪。午後から「ザ・高円寺」に、今村昌平の「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」を観に行く。戦後25年の歴史のドキュメントタリー映画だ。安保闘争、学園紛争、ヘルメットをかぶった学生たちと機動隊とのはげしい攻防戦。火炎瓶が炸裂する。ゲバ棒をもつ洋子サンも、あの渦の中にいたのだ。それから2年も経たない2月、春を待つ冷たい山の中で・・・・。
国分寺に戻ると、雪はみぞれに変わっていた。そうだ!駅の花屋で梅の枝を買っていこう。もうすぐ春がくる。
再びミシマ
明日からシアターコクーンで始まる蜷川演出「ミシマダブル」の一方の芝居三島由紀夫の「我が友ヒットラー」のチケットの最後の一枚を買うことができた。もう一方の「サド公爵夫人」は既に完売。とても残念だが仕方が無い。
私はこの「サド公爵夫人」の初演を、新しく建った新宿紀伊国屋ホールで観た。40数年も前のことだ。もともと演劇が好きだったので、文学座の会員になったりして、信濃町で行なわれる文学座アトリエ公演にしばしば出向いたりしていた頃だが、この紀伊国屋ホールでの「サド公爵夫人」との出会いは、後にも先にも無いほど新鮮で衝撃的なものだった。何がどうして、と言葉では言い表し難い。今でも「サド公爵夫人」と思っただけでも、私のカラダの中に凛とした空気と香りが甦る。
女学生の頃に、この芝居を観ることができて本当によかった。
はるとなり
詩人の高橋睦郎さんが、朝日新聞に書かれた文章を読んで、春隣(はるとなり)ということばを教えて頂き、何かとてもうれしい気分になった。
何故だろう?睦郎さんは「春隣と呟くだけでなんとなく華やいだ気分になる・・・」と書かれている。ほんとうにそうだ。
先日、生協でライラックの苗木を買った。花が咲くまで3年はかかるらしい。我家の、狭くて日当りも悪い庭で、果たしてその苗木は育つのか、3年待てば、私が夢見ているような美しい花が咲くのだろうか?いささか心細い。
でも我が貧しい庭には、既に思いつくまま植えられた十二、三本の木々が、手入れも施されず、栄養も与えられず、負けずに頑張って生きている。そして、寒い冬の日に、そっと芽を膨らませはじめる。まるで、春はもうすぐ隣、と私に密かに教えてくれるかのように。
「はるとなり」の言葉のぬくもりは、目に見えないひかりのぬくもり、いのちのぬくもり。
毎朝、不細工な庭を眺め「世話もしないで、いただくばかり、ゴメンね」と心の中で呟いて、私の一日は始まる。
アイカワサンの明かりは春の光
昨年の暮れ、相川正明さんがお亡くなりになった。それも突然に。まだ還暦を過ぎて間もないのに・・・。
年が明けた3日と4日のお通夜とご葬儀で、大勢の方が相川さんの急逝に驚きと哀しみの表情を隠せず、最期のお別れをした。
純白の棺にすっぽりと納まった相川さんの、だるまさんのように丸く大きなの顔のほっぺは、どう見ても赤ちゃんのように柔かく、可愛らしい。眺めていると滑稽なほど悲しく愛おしい。
「間違えて、死んじゃったんじゃあないの?アイカワクン」私は、心の中で呟いた。
彼は、明かりの人である前に踊る人だった。1973年の夏、TBSの裏にあった国際芸術家センターでの天使館公演『七つの封印』で、彼は踊った。天使館で一緒に稽古もし、舞台を創り、やがて、明かりを創る人になった彼は、叡の公演ではいつも照明を担当して、国内公演、海外ツアーの多くを共に体験してきた。時には厳しい舞台作りの現場にあっても、慶応大学でノヴァーリスをとりあげたという彼の大きな体のなかには、どこかに優しい美しいひかりを求めるロマンティストが住んでいた。
「カサイサン、ゲンキ?」と、会うといつも彼は言った。尻上がりのその言い方には、彼独特のイントネーションがあった。
喪主の挨拶に立たれた奥さまの千里さんは、「相川は闇が好きでした」と言われた。
相川さんの明かりは、あの大きなカラダの深い闇の中から差してくる魂の美しいひかり。
柔らかく温かい春の色。
今頃、あちらで大好きだったノヴァーリスと邂逅して、仲良く軽やかにひかりのダンスしているような気がする。
アイカワクン・・・また遇いましょうね!
