天使館 VOL Ⅱ

先日、国分寺裏の雑木林を散歩している時、ふと「天使館」VOL  Ⅱを創ろう、と閃いた。「天使館」とは、天使館に稽古に来ている人たちの文章を集めて、私が編集して発行した小冊子のことだ。とは言うものの、VOL Ⅰが出たのは、今からかれこれ35年前のこと。次号を出そうと閃くまでに随分時間がかかったものだ。このテンポだと「天使館 VOL Ⅲ」を出そうと閃く頃は、私は百歳を超えることになろうか。
VOL Ⅰ の奥付けを見ると、発行日、昭和51年6月、発行部数/200部、分価/500円、発行所/天使館編集室、編集・発行人/笠井久子と記されている。目次には、その頃天使館で稽古していた人たち16人の名前が列んでいる。みんな20代から30代前半の若者たちだ。
わが家の庭に手作りの稽古場を建てて、そこを「天使館」と命名し、当時28歳だった叡が週に4回の舞踏の稽古を始めた時、集まってきた連中は、皆こぞって頑固、野性的、自己主張、自己顕示欲が強く、情熱的、真面目で議論好き、でも涙もろく、善くも悪くも社会に向かって突進していくエネルギーだけは、持ち合わせた熱血漢揃いだった。だから、昼間は樹木に囲まれた静かな天使館も、夜稽古が始まると、踊る人たちの熱気で、暗闇の中で赤くふくれあがっているように思えた。そんな時、閃いたのだ。みんなに文章を、体から紡ぎ出される言葉を書いてもらおう、と。そして、編集後記は、私が書いた。
「以前、ある舞踏家が『動物が自らの死を予感すると、人知れず姿を消す、それはまさしく動物の舞踏ですね』と語ったのを聞いたことがあります。成程、花はその花弁の一ひら一ひらを、与えられた存在そのものの形を十全に顕示しながら開花しますし、地中で時を待つ昆虫の姿にも、それ以外の何ものでもないという完璧な姿勢を見ることができます。(略)天使館が創られてから5年が経ちました。この間、多くの人がこの小さな稽古場で稽古してきました。「何を?」”動き”という簡単で明確な行為に於いて、それ以外何ものでもないという自分を見つけることは、恐らくもっとも簡単であり、且つもっとも困難なことでしょう。ここに収められた全てのエッセイは、各人の魂の記録として読まれるべきものであると信じています」
さて35年経った今、ふたたび「天使館」VOLⅡを創ろうと閃いた。
世の中の状況も、人々の意識も、猛烈なスピードで変化していく。

初めてのパレルモ

10月28日付け朝日新聞夕刊に「マフィアのナンバー2逮捕」という記事を読んだ。見出しの下に、南部シチリアを拠点とする犯罪組織「コーザ・ノストラ」のナンバー2、メッシーナ容疑者の顔写真が載ってる。38歳の彼は、11年の逃亡の末,逮捕直前まで、隠れ家で映画「ゴッドファーザー」を再現したゲームソフトで遊んでいたらしい。
私がこの記事に目を止めたのは、きっとその1ヶ月前の9月の末、パレルモ公演のためにシチリアのパレルモにいたからだ。
ナポリの国立考古学博物館の「ファルネーゼの部屋」での公演を終えてパレルモに向かう機内で、通訳の真人さんが教えてくれた。「パレルモ空港からリムジンバスに乗って暫く走ったら、右側にポールが見えます。そこを通る時、大抵のイタリア人は感情を露にします。ぼくの妻のダニエラなんて涙を流すんですよ」「ヘェ〜。なぜ?」「十数年前に、公然とマフィアと闘う判事さんがいたのですが、ある日彼が空港から市内に向かう途中、道路に埋め込まれた爆弾が炸裂し死んだのです。マフィアたちは、正確に判事の行動を計算して、道路からはるか離れた山間から判事の乗った車を双眼鏡で追跡して、爆弾にスイッチを入れたのです。その現場にポールを立てたんです」彼の話を聴きながら思わず、映画「ゴッドファザー」の、車が爆弾で木っ端みじんにぶっ飛ぶシーンが目に浮かんだ。
以前,イタリア人の友人から「シチリアに行ったら、マフィアという言葉は口にしない方がいいよ」と言われたことがあった。庶民の生活の隅々にまで,マフィアの力が及んでいるのだろう。たとえば、車を盗まれても,その筋の人に頼めば,翌日ちゃんと戻ってくる。そうしない限り、盗難事件は永遠に迷宮入り。しかし頼んだ限りは,永遠にその関係は切れなくなる。切ろうとすれば死を覚悟しなければならない。まさにコッポラの映画そのものだ。ファミリーの内と外の違いは、生きるか死ぬかの違いでもある。
私たちのパレルモ公演の主催者のジョゼッぺ・カニツォ氏は、弁護士という肩書きをもつ一方、「友愛」という標語のシチリア・ジャポネーゼ文化協会の会長を既に5年間も務める、実直で温厚な紳士である。
公演が終わって、ジョゼッぺ氏は、私たちと別れるとき「私は,イタリア人ではなくパレルモ人です。」ときっぱり言った。困難な問題があっても、誇りを持ってパレルモを愛している彼の熱い思いがそこにあった。
ローマ,ナポリ,シチリアと南に行くに従って,トマト,オレンジ,ワインの香りと色が濃くなっていくように,人々のカラダの内に流れる血液も、次第に濃縮されていくのだろうか。
ローマに戻り、「一番の問題は,イタリア人自身の内に、マフィア的要素があるということです」と言ったイタリアの友人の憂いを含んだ顔が、今でも深く印象に残っている。
狂ったように暑かった今年の夏、8月の末の「バッハのフーガの技法とオイリュトミ―」公演、9月10、11、12日の「カルミナ・ブラーナ」公演、引き続きナポリ、パレルモ、ローマ公演と、自然界にまけず劣らず、わたしの夏も熱かった。
国分寺の秋も、美しく深まっていく。やっと静かな時間を得て、これから何が生まれてくるのだろうかなどと思い巡らしている。

ブラヴォー!大野先生

横浜のBank ART Studio NYKで行われた「ブラヴォー!大野一雄の会」で、その実行委員会代表の写真家細江英公先生が、お話の後、ワイングラスを高々と捧げて、「ブラヴォー!」と一声を発すると、会場一杯に埋め尽くしていた参加者たちも一斉に「ブラヴォー、ブラヴォー」声を上げた。その瞬間、不思議な力を頂いたように感じたのは、私だけではないだろう。
大野先生の「ブラヴォー!」には思い出がある。1980年ナンシーの国際演劇祭で、先生が「ラ・アルヘンティーナ頌」を踊られた翌日のことだ。
丁度5月の聖霊降臨祭のころで、美しいナンシーの街角で「ブラヴォー」というどよめきの歓声が上がったのだ。人ごみの後ろから背伸びして見ると、角のカフェの中で、大野先生がコーヒーを飲んでいらした。
きっと昨夜先生の踊りを観た人々だろう。口々に先生の踊りを賞賛する言葉を囁き、笑みを浮かべ、次々と人々が集まってきた。やがて、大きな拍手とともに「ブラヴォー」の声が街中にこだまして、何時までも止まなかった。
そんな熱気の最中、カフェの中で、先生は私に向かって小さい声で話された。
「ワタシはね、キリストの足洗いのダンスをしたいのですよ」
先生がきっと、弟子の足を洗うイエスのことを話されたのだろう。外では、柔らかい新芽をいっぱいつけた街路樹が、春の陽のもとで眩しく輝き、「ブラヴォー」の歓声は、何処までも何処までも、さざ波のように広がっていく、何時までも、何時までも・・・。
昨夜の会では、ナンシーでのことを、昨日のように懐かしく思い出しながら、あらためて大野先生に思いを巡らし、感謝の気持に満たされた。美しい夜だった。

大野先生と月見草

確か、梅雨の頃だったと思う。大野先生のお父様がまだご存命でいらしたのだから、かれこれ40年以上前のことだ。
叡とふたりで、丘の中腹にある上星川の先生のお宅を訪ねた。先生は、大きなバケツに入った水を、庭の南側の斜面に何度も勢いよく撒いていた。その豪快な動きは、荒海に向かって網を投げかける漁師そのものだった。
食堂に戻られた先生は、「川で集めた月見草の種をネ、コウシテ蒔くと・・・」と言いながら、デミタスカップにコーヒーを注いで、ザラメを何杯も何杯も入れて、クゥーと飲み「梅雨が明けたらネ、ワタシは直ぐに山に行ってネ、コウシテ窓を開けて、空気を入れ替え、フトンを全ェ〜部、干してサ、生徒たちの夏休みの林間学校までに、用意スルワケデスヨ」と、長い首を私たちの方に突き出して囁いた。
その年の秋、叡は「丘の麓」という作品で、先生とのデュオをお願いした。先生は快諾してくださったが、当時の私たちは、衣装を用意するお金もなく、プロのデザイナーに頼む方策も持っていなかったので、苦肉の策で、洋裁未経験の私が作るはめになった。叡の希望は、もちろん女のドレスで、限りなくエレガントで・・・。果たして私に作れるだろうか?
紫のチゥール地を何枚も重ね、黒のベルベットを裁断して、どうにか形をこしらえて、仮縫いに上星川の稽古場に出向いた。試し着を何度お願いしただろう。でも、先生は少しも嫌な顔をなさらず、額に汗をにじませ、必死になっている私の横で、お母さんが自分のために明日の遠足の着物を縫ってくれているのを、楽しみに待っている子どものように、針を動かす私の指をいつまでも眺めていた。
長い金髪のカツラをかぶり、つけ睫毛と白粉とルージュで顔をつくり、決して上出来とはいえない私の仕立てた衣装を着込んで、風呂の手桶を小脇に抱えて登場すると、先生は、桶の中のドジョウを掴んで、パッパッと舞台の上にばらまき、踊り出した。勢いよくピチピチ跳ねるドジョウの上で、モーツアルトの嬉遊曲にのって、叡とのデュオが始まった。大野先生は、タンホイザーを恋する清らかな乙女エリザベートであり、彼を誘惑する官能的なヴェーヌスであった。
今宵は梅雨の晴れ間、夜空を流れる天の川の河原で、この世のカラダを脱いで、今、宇宙のカラダとなった大野先生は、パチッと花開く月見草と踊っているだろう。
すべて、何かが新しく生まれる瞬間は、エネルギシュであり、なんと魅惑に満ちていることか!
「舞踏」は、「舞踏」という名を付与される以前からあり、いつも新しく生まれ続けている。

大野一雄先生の死

6月1日18時、ローマのフリオカミロ劇場の二階にあるB&Bの部屋で、インターネットのニュース画面から、大野一雄先生の死を知った。私の中で突然時間がストップする。
先日5月29〜31日の3日間、叡は、ローマ在住の舞踏研究者でありジャーナリストのマリア・ピアと、“ヘリオガバログループ”のダンサーたちと一緒に12年にわたって共に培って来たBUTOHの稽古の集大成として、このグループのための叡の振付作品「ヘリオガバロ」に,自分もダンサーとして加わり、初めて舞台上で彼らとのコラボレーションを実現して、瑞々しい新しい果実が生まれたばかり。
当時大学生だったマリア・ピアは、1986年ローマで大野先生の舞台を観て、強い衝撃を受け、卒業論文に「舞踏家大野一雄」を書いた。以来舞踏のみならず日本文学、日本語、日本文化に深く真摯な情熱を傾け、自身の著作を通して日本の舞踏をイタリアに紹介し、また実際に、ローマで舞踏を志すイタリアのダンサーたちの活動の大きな担い手となった。そして、私たちは、その彼女を通して、“ヘリオガバログループ”(フラビオ、マダレーナ、ピントス、サマンタ、アレキサンドラ・・・)と出会った。
既に目に見えない大きな流れとなった大野一雄先生の舞踏が、国を超えて大洋に向かって広がっていく。
そしてなにより半世紀前、18歳の叡がダンサー大野一雄と出会わなかったら、今のダンサー笠井叡はなかっただろう。
静かに眠るローマの夜空に、今、悲しいほど星々が煌めいている。

5月のローマへ―「ヘリオガバロ」再演のために

またローマにやって来た。”来た”というより、”戻った”と言った方が、私にはぴったりくる。昨年の5月フランスのアンジェの帰りにローマとナポリに寄り、夏の盛り8月中旬から秋が初め10月までローマとナポリに滞在し、引き続いて今回の3週間ローマ滞在だ。日本国内でもこれほど頻繁に同じ所を訪ねることはない。もうローマには何度来ただろうか。
毎回、公演とワークショップのタイトなスケジュールなので、観光する時間はほとんどない。日本人観光客なら必ず観に行くであろうヴァチカン市内にある「システィーナ礼拝堂」のミケランジェロの天井画も、コロッセオの中も、リルケの好んだボルケーゼ宮殿の噴水もゆっくり観賞に行く機会は未だにない。世界の観光地ローマより先に、舞踏の研究者でありプロデューサーでもある、ローマのティブリティナ通りに住むジャーナリストのマリア・ピアと出会ったことが、私にとってこの都会との強い結びつきになっていることは確かだ。
今回は,「ヘリオガバロ」再演とオイリュトミ―公演の稽古を、はじめの1週間はマリア・ピアの家の近くにある演劇学校の稽古場で、公演までの1週間は、フリオカミロ劇場での稽古というスケジュール。前半はマリア・ピアの部屋、後半はフリオカミロ劇場の二階のルーマニア人マリオン経営のB&Bが宿になる。私にとっては双方とも、既に”勝手知ったる他人の家”の感がある。マリア・ピアの部屋は言うまでもなく、B&Bもお馴染みで、マリオンの愛犬、シャイな雌犬カミーラも待っていてくれる。近くのレストラン「スパッカ・ナポリ」の粋なウエイターとも顔なじみ。
ローマ市内には,未だ至る所で遺跡の発掘が行われている。現在発掘されているのはほんの僅かで、まだまだ地下には過去の遺産が眠っているそうだ。古代ローマの日常空間が、そのまま時間を超えて今日のローマの人々の日常空間となっている。古代ローマの無数の兵士たちが、凱旋行進で何度も歩いた石畳の上を、今私も歩ている。
今日ローマにある素晴らしい古代の建造物や彫像の数々は、当初は芸術を意図して創られたのではなく,古代ローマ人たちの命の生産物だった。人間の内に秘めたの偉大な生命のエネルギーから、美が抽出され、形に留まり続けたからこそ、それらは数千年経た今日の私たちを圧倒し魅了する。
ローマの5月。街路樹は明るい陽光を受けてキラキラ輝き、爽やかな微風が新芽をくすぐる。
稽古場の黒板に”The answer is blowing in wind”と誰かが書いていた。「ボブ・ディランよ」とマリア・ピアは呟いた。
私のカラダにマリア・ピアから、ピントスから、フラヴィオから,サマンタから・・・のローマの風が、古代ローマの香りを纏って広がっていく。

ボゴダへ

コロンビアのボゴダから帰って、もう2週間経ってしまった。やれやれ! 
コロンビアといえば、現在ニューヨークのブルックリンでダンス活動をしているヒメナの母国であり、パパタラの小池博史さんがお好きだという『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスの国でもある。
一度『百年の孤独』を読み始めたが、未だに頓挫したまま。その代わりに、「90歳を迎える記念すべき一夜を処女と淫らに過ごしたい!」との新潮社の本の帯のキャッチコピーに惹かれて、『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読んだが、なんと面白かった事か!
2006年4月叡の舞踏学校に入学するため初来日したヒメナは、東京に着いて自分が夢に描いていたのとあまりにも違うので、大粒の涙を流した。でも一夜明けると、彼女は早速中古自転車を買い込み、あちこち走り回りながら古道具屋を漁り、一日で生活必需品ー冷蔵庫、洗濯機、エアコン、その他諸々―を揃えてしまった。日本語はほとんど喋れないのに・・・。その行動力と早業に感心してしまった。彼女のエネルギーは何処から来るのだろうか?
イベロアメリカン国際演劇フェスティバルからの出演のオファーは、数年前から何回もあったが、何時もスケジュールが合わず、今回やっと実現した。出発前は、コロンビアはやっぱり遠いなぁ、とか、麻薬の国でしょ?・・・とか、いささか心配もあったが、丸一日かけて飛んでいってしまえば、案ずるより産むが易しである。
夜、やっとホテルに着き寝ると直ぐ翌朝8時半から記者会見があるという。なるほど、さすがヒメナの国だ。通訳のユキさんに聞いたのだが、大学は朝7時から、あるいは6時半から始まることもあるらしい。休日でも6時から道路工事が始まる。なんといっても、働き者の国らしい。
今回世界各国から170以上のカンパニーが、このフェスティバルに招かれているという。気が遠くなるような規模だ。ボゴダ市の複数の会場で同時に異なったパーフォーマンスが行われるというのに、どの会場も満員らしい。我々の「ヘリオガバロス幻想譚」の5回公演も、連日満員の盛況ぶり。誰がどうやってどう動ごいているのか皆目分からない。オープニングの日にプログラムが間に合わなくても、別に気にしない。そんな懐の大きさが、現地のスタッフの人たちのおおらかさや素朴さの中に見え隠れしている。だから、こんな大規模の芸術祭が出来るのだろう。些細な事は気にしない。シリアスな作品も、娯楽作品でも、劇場で戸外で、老若男女、持てる者持てない者、ともに大きな流れの中で一緒に流れていこうじゃないか・・・・。コトバでは通じないが、ココロは通じる。初めて出会った懐かしい人たちとの恊働作業。何なのだろうこれは!
とはいえ、標高2600mに位置するボゴダでの公演で、「ヘリオガバロス幻想譚」の3人のダンサーたちは、高地トレーニングするオリンピックのマラソン選手の気分を存分に味わった事だろう。

カチューシャおばさん

三石のおばさんがお亡くなりになったと、2、3日前に聞きました。
三石とは国分寺駅南口にある本屋さんのことで、おばさんとはその女主人のことです。
私の息子たちにおばさんの死を伝えると、みな一様にしんみりと黙りこくりました。
三石堂書店は、1969年に私が国分寺の叡の家に住み始める前からありました。
その頃の国分寺は、まだあちこちに藁葺き屋根もみられましたし、国分寺寺の裏のクヌギ林や広大な伽藍跡の原っぱは、自然のままで、夏になると泉から流れる清流に、ほたるがいっぱいやってきました。
高台に位置する国分寺駅前には、正面に古本屋さん、中華そば屋さん、ちょっと脇に「モンブラン」というお菓子屋さん、中央線を見下ろす線路際の道に美大生のたまり場カフェ「マントン」があり、改札を出て直ぐ右手に三石堂がありました。駅前とはいえ、とても静かでした。
パソコンも、ケイタイも、ファックスも、キャッシュカードも、アマゾンもありませんでしたので、我が家の本はもっぱら三石堂から、掛けで購入し、定期購読の雑誌、文学全集など発行されると直ぐにオートバイで届けてくれますので、とても調法でした。ですから毎月『暮しの手帖』や『婦人公論』筑摩書房の『現代日本文学大系』などを運んで来るオートバイの音が待ち遠しく、本を待つ喜びは一層でした。
三石のおばさんは、いつも花柄のスカーフをカチューシャにして帳場に座っていました。そのスタイルは一生変わらないものでした。
私が三人の幼い息子を連れて新宿の実家に里帰りする時、末息子を乳母車に乗せて、上の子二人を歩かせて、坂道をふうふうしながら上り、駅までたどり着くと、三石のおばさんは、必ず「置いていっていいよ」と言ってくれました。乳母車を店の横の端に、帰りまで置かせておいてくれるのです。本当に助かり有り難いことでした。
息子の話では、ドイツから帰国し、国分寺駅から電車で学校に通うようになって、雨の日に傘をもたずに三石堂の前を通りかかると、いつもおばさんが店から出てきて「忘れ物なの。さしていきな」と傘を手渡してから「お母さん元気?」と言ったそうです。
私は、おばさんについて名前も家族のことも何も知りません。いつもカチューシャをしているおばさん。ただそれだけです。
でも、カチューシャおばさんとは深い深いつながりがあり、今でも、これからも深くつながっているのです。
おばさん、国分寺駅がどんなに変わっても、いつも大空から見ていてくださいね。

チカシクンの壷

今日の午前中のことです。
駅ビルの花屋さんに、桜の枝が売られていました。啓翁桜(?)と書かれていたと思います。
急に嬉しくなり、ひと枝買ってきて、食卓の上に置いてある「チカシクンの壷」に生けました。
「チカシクンの壷」とは、長男が14歳の頃、学校で創った陶器の壷のことです。
その頃、私たち一家5人は、西ドイツ(東西はまだ統一されていませんでした)のシュツッガルトに、住んでいました。
晩秋の頃だったと思います。3人の息子が通っていたクレアヴァルトにあるヴァルドルフシューレ(シュタイナー学校)で、大きなバザーが催されました。そこでは、生徒たちが長いことかかって創作した作品が売られます。開場いっぱいに並べられている作品はどれもこれも素晴らしい芸術品ばかりです。
親たちは、我が子の作品が誰かに買われてしまっては大変と、始まる前から会場の入り口にたむろして、開場するやいなや、それぞれ目的のコーナーめがけて急ぎ、大切な我が子の作品を買い上げた後は満足顔で、友人たちの作品をゆっくりと手にとったり、眺めたりしながら、買い物を楽しみます。マフラーや手袋、木製の鉛筆置き、籐籠、陶器の花瓶、刺繍入りのテーブルクロス、毛糸で織った袋・・・全て手作りの品物ですから、お値段も結構なものです。でも、短時間のうちに全てが売り切れました。
バザーの売り上げは、学校の修理費とか、校舎の建築費の一部になります。
シュタイナーシューレには、決まった学費の額はありません。親たちが収入に応じて自己申告するのです。お金持ちの人は、自分の子どもが一人しか学校に通っていなくても、よその子どもの学費分を出すことも可能ですし、収入の少ない家庭では、たとえ兄妹が多くても、納められうる額を申し出るのです。この学校では、お金は所有するものではなく、必要なところに必要なだけ流れなければならない、いわば血液のようなもの、というシュタイナーの考え方が息づいていました。
あれから四半世紀、世の中は凄まじい勢いで変化してきました。貧富の格差が救い難くなっている今日、新聞で「いのちを守る」経済という言葉を読みました。
素晴らしい科学技術の進歩の一方で、「いのちを守る」などという、人間にとって当然の事柄を、政治家が声高に発言しなければならない世の中をは、まったく病んでいます。地球というカラダの隅々にまで、新鮮な血液が流れていくようにするには、どうしたらいいのでしょう。
叡がエルゼ・クリンク女史の下でオイリュトミ―を学んでいた26年前、私たちに収入はありませんでした。でも、60マルクでチカシクンの壷を買えた時、本当にカラダが暖まり嬉しかったのを今でも忘れません。
小さな薄桃色の花をつけた啓翁桜は、チカシクンの壷にぴったりです。
もうじき春、あらためて「いのちが守る」ということ深く考えようと思います。

冬の朝

リウマチ患者にとって、朝は辛いものです。寒い冬の朝は、言うまでもありません。
一晩暖かな布団の中に、身体を静かに寝かせておいたお陰で、目覚めると、身体は外気の寒さで固まったゴムホースのようになっています。そこで、お風呂場までこわばった身体を運んで、温かいお湯につかります。すると、物体のようだった身体が、活きた身体に戻っていきます。頭の中も動き出します。
朝湯の中で、たとえば、セッションハウスの伊藤孝さんから頂いたお年賀状に「昨年末の政府の仕分け作業で、今年の公演活動は厳しくなりそうですが、そんなことに負けていられませんね」というような力強いお言葉があったのを思い出したり・・・
本当にそうだ。ダンサーは何も持たなくても、肉体というダンスの素材を持っている。ダンスの原点を考えるには、今がチャンスだ!などと、ダンサーでもない、おまけにリウマチで変形した手足の持ち主である私が、独り合点したり・・・
「芸術家は制作する作品の素材として、憧れ、希望、想像力、つまり全世界をもっている」とカフカの恋人ミレナが書いていた言葉が浮かんできたり・・・
身体いっぱいに想いを広げながら、私の冬の一日が始まります。

2009.9.2

8月18、19日の吉祥寺シアターでの公演「犀」を終えて、その翌々日からローマに来ている。フィミチーノ空港に迎えに来てくれたマダレーナが、あまりの 暑さに驚く私に、直ぐ「今日は38度。でもこれは週末まで。日曜日からは少し涼しくなるわ」と慰めてくれてから、今日はもう9月だ。一向に暑さは衰えな い。
今回叡が振付けをする“リオス”カンパニーとは、彼がマリア・ピアに招かれてローマのグレコ劇場で踊って以来10年の付き合いだ。その間、マダレーナは ジョルダーノと結婚するし、ピントスはアレキサンドラと別れ、ステファーノは、叡のローマでのワークショップにフランスのナンツから参加したカミーユを射 止め、フラヴィオはナポリのマリーテレーズに振られ・・・。ローマに来る度に、さまざまな人間ドラマの展開が待っている。が、ダンスカンパニーとしての “リオス”は一向変わらない。私にとって、そんな彼らは何とも言えず人間味があり、暖かく魅力ある仲間たちだ。
さて今回は一ヶ月かけて、叡が彼らのために振付け作品を創ることになり、猛暑の日々、連日7時間の稽古に励んでいる。一年前に叡が彼らに選んだテキスト は、先の吉祥寺シアターでの公演「犀」のテーマと同じアントナン・アルトーの「ヘリオガバルス―または戴冠せるアナーキスト」。
叡のソロ公演も何回か行なって馴染みが深くなっているテアトロ・フリオカミロで9月18、19日に本番を迎える。そして翌20日には、15日に日本から ローマにやってくる4人の男性オイリュトミストと叡が、吉祥寺シアターでの公演「犀」をフリオカミロで再演することになっている。
いよいよイタリアとの縁は深まるばかりだ。

2009.6.10

先日、CAVEのシゲさんと、バス通りのマンハッタン通りを曲がって、静かな住宅街の道を歩いていると、前方の角から全長8メートルもあろうかと思われる 長くてデッカいはしご車が、狭い四つ辻をぎりぎりに大回りしてノロノロ走って来た。シゲさんがいうには、消防署の運転手は勤務中何があっても車から離れて はならないそうだ。たとえドーナツ一つ買いに行くにしてもだ。ヘェ~ホントなの?マンガみたいな話だねぇ!すると図体のおおきなあの車、今どこに行くのだ ろう。タバコでも買いに行くのか?
Bedfordから地下鉄に乗ると必ず誰かが私に席を譲ってくれる。混んでいる時でも、席が空くと座ろうとする人を制して、遠くから私に手招きして「ここ に座れ」と合図を送ってくる。そのようにするのは、何故か老若男女を問わず黒人が多い。日本の優先席で席を譲られる時の雰囲気とは随分違う。
宿の女主はマルタというポーランド人。その名のごとく親切で働き者だ。初めは分からなかったのだが、なんと宿の主夫婦は、調度品で飾られた大きな寝室や居 間や書斎のある、我々に貸している部屋の真下の半地下に住んでいた。ある日マルタは、その半地下に私を連れて行き、そこから通じる中庭を見せて「ここに 座ってパソコンをおやりなさい。気持がいいわよ。いつでもどうぞ」と言ってくれた。狭い中庭にはクレマチスが今を盛りと咲いている。紫の濃淡が爽やかな風 に揺れて美しい。「ポーランドに、貰い子で育てた息子と娘がいて、もう二人とも家庭を持ち、孫も3人いるの。戦争前のポーランドは、ドイツになったりポー ランドになったり大変だったわ。ロシア語、ポーラン語、ドイツ語だけしか許されなくて。全く自由はなかった。でも今は夫と二人で世界のどこにでも出掛ける わ。ついこの間私たちキリマンジェロに登ったの」「えぇ!すごい」と話は尽きない。そしてマルタは「私たち、いろいろな人に出会うの好きなの。それはとて もいい事だわ」と結んだ。
4月フランスのアンジェで出会った人たちと異なった在り方をマルタの内に見た。欧米諸国と一言で言うけれど、“欧”と”米”とは全く異質だ。
さて、ニューヨーク在住の日本人はみな、ブッシュからオバマに変わって人々の気分が目に見えて明るくなったと言う。うれしいことだ。
前回のニューヨーク滞在はマンハッタンだったが、今回はカジュアルな地区Brooklyn(10年位前までは近寄ってはならない無法地帯だったそうだ)での2週間。摩天楼のニューヨークではなく、庶民の生活の中のニューヨークを感じる事ができた。

2009.6.4

昨日は独りでバスと地下鉄を使ってUnion Squareの本屋に行った。満足に英語も読めない私なのに、外国に来ると何故か足しげく本屋に行きたくなる。2年前、1ヶ月半ニューヨークに滞在した時 も、Union Sqにある本屋Barnes&Nobleにはよく通った。5番街にあるその支店にもよく行った。ゆったりした店内に、あちこち置いてある座り心地のよい椅 子に座って、書架から好きな本を持って来て、何時まで読んでいても(私の場合は、眺めていても)何も言われない。とても落ち着くし、何より静かなのがい い。勿論何も買わなくてもいい。2階にはコーヒーショップがあり、そこでも本を読んだり、友人と歓談したり、パソコンをしたりのなかなかいい空間だ。日本 の本屋に較べて天井が高いのは、人の気分に決定的な違いを与える。
昨日は午前中だったのでお客もまばらで、とてもいい時間を過ごし、ご機嫌で外にでた。目の前のUnionSqは市場で賑わっている。有機農法で穫れた野 菜、果物、いろいろな種類の植木や花々、パンやチーズなどの店屋がいっぱい並び、私はレモンとブルーベリーの手作りパウンドケーキを5ドルで買った。それ から地下鉄の入り口に来て、自動販売機にお札を入れると、スゥーとお札は消え、カードは出ず、レシートだけが出てきてた。さて困ったぞ!パウンドケーキを 買ってしまったし、財布の中はギリギリだ。降りてからのバスのカードが買えなくなる。部屋まで帰れない。思わず隣にいた二人連れのメキシコ人の女の人に助 けを求めると、二人で大声であれこれとスペイン語で話し合ったあと、自分の財布から、自動販売機に消えてしまった分のお金を私の手に握らせ、さっさと改札 から中に入り、横にある職員の通用門を内側から開けて、私においでと手招きする。私がそこを通るとものすごい勢いでアラームが鳴り出した。不法侵入だ。そ んな事をものともせずに、彼女たちは私をLラインの階段まで連れて行ってくれた。私がお金を返そうとすると、別の販売機でカードを買えという。自分たちは 出てきたレシートでお金返してもらうからという。助かった。Thank You!
地下鉄に乗り、渡されたお金を数えると1ドル少ない。なるほど、ちゃっかりしているなぁ~。でも彼女たちの親切は身にしみてありがたい。1ドルなんて安すぎるではないか。

2009.6.2

ニューヨークに来て1週間が過ぎた。フランスに行ったりイタリアに行ったり、旅ガラス的な生活が続いている。お陰で国分寺の我が家はいつも楽屋状態。もう40年以上このような状態なので、恐らくこの先もそれほど変わらないであろう。
マンハッタン島からハドソン川を渡ったブルックリンにあるヒメナとシゲさんのダンススタジオCAVEが今回の叡のワークショップの会場だ。
空港に迎えに来てくれたシゲさんの車で案内された最初の宿は、若い建築家夫婦の留守宅のアパートメントをそっくりそのまま借りたところで、寝室にはずらり と彼らの洋服がむき出しに吊り下がっており、キッチンの流し台には、出掛ける前に使ったと思われる食器が仕舞われずに置いてある。勝手によそのお宅に入り 込んだようで落ち着かない。が、一晩寝るともうすっかり自分の住処になった気分になるから面白い。
3日後、高校の歴史の先生をしているポーランド人夫妻のアパートの一階の部屋に引っ越す。家主の奥さんのロココ調の好みがあちこちにうかがえる部屋の棚 に、歓迎の印として花瓶に挿した純白の薔薇が置かれていた。私のような能天気な人間にとっては、少々気恥ずかしい部屋であるのだが。さて、どのようにこの 空間を自分のものにしようかな・・・・。
今日は久しぶりに叡がオフの日だ。天気もいいので、これからマンハッタンのユニオン・スクエアにある本屋にいこう。それから7時にみつたけと待ち合わせて、飯でもたらふく食わせよう。

2009.4.30

今日はアンジェ滞在の最後の日。28日の火曜日にパリからやって来た加藤みや子親子も、今朝どんよりした曇り空の下、次の目的地ブリュッセルに発っていった。
加藤母娘がお陽様を連れて来てくれたのか、昨日は久しぶりに爽やかな陽射しに恵まれて、3人で(叡はワークショップで参加不可)ライラック、藤、桐の花などがあちこちに咲き乱れているのを眺めながら、旧い中世の石畳の道を散歩して楽しむことができた。
今回一ヶ月のアンジェ滞在にパソコンを持参。お陰でメールは勿論スカイプで度々ニューヨークにいる瑞丈とおしゃべりし、広尾に住んでいる長男一家と顔を見 ながら話したり、昨日は加藤みや子さんが日本で独りで仕事にがんばっているご長女のまなかさんと打ち合わせしたり、29年前私がドイツに移り住んだ頃と比 べると、信じられない変化だ。そのうち、パソコンを一つ携帯していれば、いつでもどこでも、誰にでも会えるようになるのだろう。ダンスのワークショップも パソコンを持っていれば、誰でもどこでも参加できる・・・なんてなるのだろうか? と思いめぐらしながら、明日の出発のための荷造りをする。
明日はローマでマリア・ピアと会う。もちろんお土産は彼女の大好物虎やの羊羹。翌日はナポリに。今年の秋、ナポリの考古学博物館で行う公演の打ち合わせのためにキューレーターのアントニオに会いにいく。
アントニオが2、3日前にパパになったという知らせが突然入ったので、私のアンジェ最後の日は、アントニオとバレリアの男の赤ちゃんのためのお祝いをさがしに行こう!
重たいスーツケースを引っ張って行くとしても、飛行機や列車に乗って友人に再び会いに行くのは、やはりこよなく嬉しいことだ。

2009.4.27

今日は月曜日。いよいよアンジェ滞在も金曜日まで。今日の夜は、ワークショップ生たちを我が家(一ヶ月もこの部屋で暮らすと、我が家と言いたくなる)に招 待して、叡がお得意のスパゲッティーをご馳走することになっている。芽里さんは肉じゃがを作るとはりきっている。イスラエル人のヤイールは豚肉はダメ、ポ ルトガル人のルービンはトリと貝はダメ。日本人の芽里さんはキウイがダメ。それぞれの民族の、あるいは個人の嗜好、アレルギーがあって難しい。
火曜日に加藤みや子親子が旅のついでにアンジェに立ち寄るというので、昨日は彼女たちの迎えの下見のつもりでアンジェの駅までブラブラ歩いてみた。4月の 初めよりぐっと緑が深くなっている。駅までは思ったより遠くなく、駅前は日曜日で何処の店も休みの街中より人が溢れ活気がある。日本語で書かれた観光案内 図があるのを知っていたので、インフォメーションで貰おうとしたが、オフィスの誰にも英語が通じない。「プリーズ,ギブ ミイ ア マップ」「アイ ウオ ント ア マップ」いろいろ試してみたが、一向通じないのは、私の英語の発音のせいばかりではないようだ。加藤親子は英語を使ってタクシーで我が家まで来 ると言っていたけど、迎えに行かなければ、我が家にはたどり着けないだろう。
帰りがてら、美術館に寄ってみた。受付でまた英語が通じない。アンジェ付近で発掘された遺跡など面白いものが陳列されているが、フランス語の説明だけなので詳しいことが分からず惜しいことだ。
CNDCのエグゼクティブ・ディレクターのエマニエルの父親はベトナム人で母親はフランス人。彼女のパートナーはやはりダンサーでポルトガルの人。財務担当のデービットはイギリス人。秘書のライサは韓国人。そして生徒たちは世界各国からやってくる。
これほど民族とか人種の境をもたないインターナショナルな国立のダンスセンターが、フランスらしさが静かに息づいている小さなアンジェの街で活動しているというのも面白いではないか。

2009.4.24

復活祭のヴァカンスも終わり街に学生たちが戻ってきて、お昼時になると私たちのアパルトマンの近くは、春の陽光のもとで地べたに座って、細長いフランスパ ンのサンドウィチを食べながらおしゃべりを楽しむ若者たちで溢れかえる。叡のワークショップもあと6日になってしまった。
水曜日に今仕事でフランスに来ているダンサーのJouさんとミュージシャンの松本さんがパリからやってきた。この若いカップルは、瑞丈となおか夫婦の友人 である。翌日の午前中、先日から思案していた日本に送り返す小包を、二人で難なく郵便局まで持っていき発送してくれので大助かり。それから、メール河沿い の17世紀には孤児院だったというタペストリー美術館までの散歩。一直線に続く菩提樹の並木は、よもぎ色の新芽で目映いばかりに煌めいている。
その晩は、叡に代わって、料理が得意の松本さんがおいしいパスタを作ってくれるというので、日本人のワークショップ生の芽里さんもやって来て、久しぶりに賑やかな食卓だった。
話題はやはりダンスのこと。思えば天使館を建ててから40年あまり、国分寺で、シュツットガルトで、ローマで、ナポリで、ベルリンで、ニューヨークで、チ リのサンチャゴで、サンフランシスコで、そしてアンジェで、なんと多くの人たちのダンスの話を聞いて来たことか。若い芽里さんは自分の体験不足を嘆いてい たが“まだまだこれから、急ぐことはないわよ!”
そして今朝、Jouは一時間ほど叡のワークショップに参加して、二人でパリに戻っていった。

2009.4.19

今日はくもり、爽やかな天気がいっこう長続きしないのは何故か?お休みのためか、街は静かだ。午後からアンジェ城にむかって散歩する。気温は13度。肌に 空気は冷たいが気持はいい。アンジェ城の外側を回ってみる。もともと岩石状の岬に造った要塞だというが、石を積み上げた美しい形の塔を17も、どうしてこ んなに見事にバランスよく城の回りに配置することができたのか、驚いてしまう。それから、城内に入って塔のうえに昇ってみた。眼下にはメーヌ河が流れ、対 岸の街並は遠くの方で霧の中に消えている。背後からサン・モーリス大聖堂の鐘が聞こえてきた。12.13世紀に建てられたというこのゴシック建築の教会堂 の尖塔は、今私たちが逗留しているアパルトマンの屋根裏の窓からも直ぐ近くに見える。低くたれ込めた雲の下で、グレーの屋根と白壁の建物で統一されたアン ジェの街全体が、しっとりとした佇まいを見せている。

2009.4.18

今日は、週末で叡のワークショップはお休み。郵便局へ行き日本に送る荷物の箱を(7kgで35.50ユーロ)を買う。午前中の爽やかな陽射しに誘われて、 蚤の市をやっている広場までブラブラ。大きな教会の前の円形の広場は、アンティックの家具、古本、絵、食器、洋服、靴、昔の大工道具、浣腸器、眼鏡、人 形・・・などを売る店で賑わっている。文章が書かれている絵葉書や使いかけの手帳まである。叡は父寅雄さんがかけていたようなまん丸い鼻眼鏡を見つけ欲し そうにしていたが断念した。私は小さなペンタグラムの徽章を買った(5ユーロ)。陽の光は強く汗ばむほどだが、空気は乾燥していて気持が良い。こうして ゆっくりと、ひとつひとつの店を覗いて歩きながら、私もすっかりアンジェの住人の気分になっている。正午を告げる教会の鐘が厳かに鳴り響くと、あちこちで 店じまいが始まった。来週も覗きにこなくては・・・。

2009.4.17

大柄のモハマッドは、『一千一夜物語』に出てくるペルシャの民族衣装にターバンを巻いたらよく似合いそうなイランの青年だ。浅黒い顔に漆黒の大きな瞳が、 33歳にしては幼く思われるほど無邪気な笑みをたたえている。他のワークショップ生によると、何をするにも彼はいつも遅れるそうだ。飛行機に乗るのも遅れ るし、集合時間にも間に合わない。先日の復活祭前夜のパーティーにも、かなり遅れてやってきた。でも、みんな「彼は自分の時間を持っている」と言って気に していない。
イランではコンテんポラリーダンスは禁止されている。民族舞踊以外のダンスは男も女もしてはいけない。イスラムの厳しい掟が今も生きているという。モハ マッドは叡のワークショップを受けているが、将来は映像関係に進みたいらしい。叡によると、彼は複数形の身体が抜群だそうだ。独りで動いているのに、まる で10人の子どもたちと一緒に動いているかのように見えるという。多くのヨーロッパ系のダンサーが単数系の動きをする中で、とりわけモハマッドの動きは特 徴的に見える、と話してくれた。
いずれにしても、コンテンポラリーダンスが禁止されている国からこのCNDCやってきて、叡のダンスのワークショップをうけることは、彼にとって革命的なことであるだけではなく、彼の存在そのものがこの時代においてとても大きな意味を持っていると、私は思っている。

2009.4.16

通訳のマシューは日本映画の研究家だ。特に吉田喜重とか大島渚とか松本俊夫などの映画、1970年代前後の、あのかなり熱い時代の映画を研究しているとい う。私が「私は新宿の歌舞伎町育ちだよ」と言うと「羨ましいなぁ~、新宿に住むのがボクの夢」と答える面白いフランスの青年だ。そのマシューの部屋で夜、 日本映画の上映会をやるから、と誘われた。夕食後、今はCNDCの稽古場となっているが、かつては小学校だった旧い石造りの建物の3階に彼の部屋はあっ た。もう10人くらいのワークショップ生たちがいて、思い思いにワインを呑みながら、マシューの作るつまみを食べていた。みんなが時代物のテレビの前に集 まって、松本俊夫の『薔薇の葬列』の上映会が始まった。画面が小さい上に暗く不安定な画像で音声も聴き取りにくいという悪条件ではあるものの、松本俊夫が 撮ったあの40年前のムンムンした時代ー土方さんの稽古場アスベスト館から叡と二人で朝帰りしたり、北鎌倉の澁澤龍彦邸を前触れなしに訪れて、そのまま泊 まりこんでしまったり、時間があれば仲間と集って新宿の凮月堂、ランブル、スカラ座,などの喫茶店にたむろしたり、お金もないままソロ公演を実行したり、 旧弊な社会権力に立ち向かう破壊衝動に溢れていた時代ーの感覚が、自然にカラダに流れ込んできた。ジュネ、レダ、ボードレール、ゲイ、麻薬、薔薇、オイ デュプス、倒錯、新宿、暴力、反権力、ゼロ次元・・・そして、テレビのヒッチコック劇場でおなじみの淀川長治の「コワカッタデスネ,コワカッタデスネ、そ れでは、サヨナラ、サヨナラ」まで、これはなんという体験なのだろう!落ち着いた中世のたたずまいの香りが今も残る、この日本から遠く離れたフランスのア ンジェで、40年前の新宿を体験するなんて!、

2009.4.13

先日、叡のワークショプの通訳をやっているマシューが、「そこの通りに映画館があるよ」と教えてくれたので、へぇ~こんなところに?と思ったが、出掛けて みた。部屋から5分もない狭い石畳みの路地を曲がると、CINEMASという赤いネオンサインのくねくね曲がった文字が見える。外の壁にジャンヌ・モロー の大きな写真が貼ってある。入り口から、前の回の映画がハネたのだろう、次から次と人がでてくる。
チラシに「TOKYO SONATA de Kiyoshi Kurosawa Avec Koji Yakusyo,Teruyuki Kagawa,Kyoko koizumi….」ー上映17時45分,日曜追加上映11時―とある。チケット代を二人で14.60ユーロを払って、中に入った。館内は、立川のシ ネマシティーみたいに200席ぐらいの小さな上映室が幾つかあった。海外で何か賞を受賞したというこの作品について、黒沢清という監督について、私は何も 知らなかったが、結構面白かった。今日の日本のサラリーマンの社会状況、人間関係などを東京という都会を背景に,わざとマンガティックに描いているのだ が、たまたま西欧の中世の石造りの街角の映画館でこの作品を観たということが、日本人である私にとって、この作品に映し出された日本人特有の有り様とか人 間関係の在り方をより一層際立たせて客観的に観せてくれたのかもしれない。終わってから,アンジェの人たちはこの作品の何を観ているのだろうか、どこが面 白いのだろうか、訊いてみたいと思った。

2009.4.12

昨日の金曜日で、叡のワークショップもめでたく最初の一週間が終わり、また、復活祭の前祝をしようとポーランド人のアグネッツィカの部屋に皆で集まること になった。旧い石造りの建物の狭い入り口を入ると目の前に螺旋階段があり、誰かが「7階よ」と叫んだ。やれやれ、黙々グルグル昇りつめた屋根裏部屋がアグ ネッツィカの部屋。台所の流し台と、食卓と、ちいさなソファーが二つ。去年10月に結婚したばかりの彼女の可愛い愛の巣だ。その狭い部屋にフランス人、ブ ラジル人、ポーランド人、イスラエル人、イラン人、ポルトガル人、インドネシア人、日本人のみんなで14人の仲間が集った。復活の日には、ゆで卵に絵を描 くというポーランドの習わしにならって、大皿に一杯もられたゆで卵を思い思いに彩色する。様々な色に塗られた卵を見ながら、ああだこうだと、たわいないこ とを言い合って楽しむ平和なひと時。
ユダヤ人のヤイルは、今はイラン人のモハマッドやブラジル人のミッシェルと一緒に住んでいるが、将来イラン,シリアには行くことは絶対にないし、モハマッ ドもイスラエルに来ることはない,と言い、CNDCでのダンスのコースが終わっても、両親の住むイエルサレムに帰らない、と強調した。
去年10月に結婚したばかりのアグネッツィカも、故郷ポーランドに帰ることはないと言う。「自分は5人兄妹だが,両親もバラバラでみんなひとりひとり。 ポーランドには孤児がいっぱいいる。どうやったら家族が集まれるの?インドネシア生まれの自分に彼はフランス人の家庭に貰われて、とてもいい人間関係をも つことができたの。ヒサコ、結婚生活は勉強よね。男女の愛は長く続かないかもしれないけど、でも人間関係は勉強よね」と、既に彼との別れを予感して、でも 必死にそれを否定しているかのように,真剣なまなざしで問いかける。
クリチバ生まれのミッシェルは、去年私がブラジルに行ったと言うと,とても喜んでくれが、直ぐに「ブラジルを旅行するのは難しいでしょ?」と訊いて来た。 「なぜ?」「ブラジルはとても広いし、皮膚の色もみんな違うし・・・。ヒサコが行ったブラジリアってどんなところ?」と逆に質問されてしまった。
小さな空間に身を寄せ合って歓談しながらも、みんなそれぞれ故郷をでて,内に苦しみを秘めながら、他者との出会いに確かな絆を求めているようにみえた。ここには現代地球のひとつの小さな縮図のような空間があった。

2009.4.10

今日は朝から雨。CNDCの財務担当(私が勝手にそう思っているだけだが)のデビットが昼食を一緒にと誘ってくれたので、部屋から5分の所にあるCNDC の旧校舎の稽古場まで出掛けて行く。旧い石造りの大きな建物の中ある広い稽古場は、天井が高く、がっちりとしていて、なんと“踊る”のにふさわしい空間な のだろうか!しかもこの広さで12人の生徒とは!素晴らしいなぁ~。
簡単な食事を共にしながら、デッビトが国立振付センター(コンテンポラリー・ナショナル・ダンス・センター)について話してくれた。フランス国内に、この ようなセンターが19カ所あり、すべてがコンテンポラリーダンスだけの施設だそうだ。中でもアンジェンセンターが一番大きく、1、2年制があり、全世界か ら生徒が集まってくるそうだ。来週は旧校者の稽古場で、2年制の入学オーディションがあるという。なんと200人の若者がやって来て、そのうち入学できる のは僅か12人。授業料は無料、と聞いて吃驚!
叡のクラスにきている生徒はポーランド、ブラジル、ポルトガル、フランス、日本、イスラエル,イランの七カ国からなる。なんとイランとイスラエルと言う政 治的には対立関係にある人たちが、ここで一緒に学んでいるのだ。ここでのワークショップは戦争に負けないだけの強度が要求されている。

2009.4.9

4日間行われた世田谷パブリックでのBATIK公演(叡の振付作品”バビロンの丘にいく”)楽日の翌3月30日早朝国分寺を出て、その日の夜フランスのア ンジェに着いた。4月1、2日と国立振付けセンター(CNDC)の劇場で叡のソロ公演『花粉革命』を行い、3日には日本から同行したスタッフたちが帰国 し、6日からCNDCでの叡の一ヶ月にわたるワークショップが始まっている。
夕食前、メール河岸を散歩した。もう7時をとうに過ぎているというのに、西の空にオレンジ色の太陽が不思議な輝きをして、河沿いの高台に位置するアンジェ 城の堅牢な石灰岩の城壁を照らしている。宇宙に貼付いたブルースカイ。純白の雲。復活祭を前にして漸く膨らみ始めた街路樹の新芽が、ひとつひとつくっきり と輪郭をあらわにして煌めいている。頭上から鋭い小鳥のさえずり。張りつめた空気に亀裂がはしる。時が動き、止まる。突然私のカラダに、懐かしい色、光、 響きが駆け巡った。30年前の私の初めてのヨーロッパ体験も、復活祭を前にした4月のことだった。それから5年間にわたる西欧の生活は、私に何をもたらし たのか?時空を超えて私の中に流れている光、色、空気、響き・・・。
これから3週間、言葉が通じないアンジェでどうしようかと、いささか心細かったが、まあいいだろう。
感覚が私に生命力を与えてくれる。

2009.2.20

1月初のアフリカ系アメリカ大統領オバマ政権誕生という輝かしいニュースから、我が家では三男瑞丈のニューヨークダンス留学、91歳になる叡の母の思いも よらない救急車での入院~転院~退院に続く介護の日々(あの年代特有の凄まじい不屈の精神力で既に快復)、さらに派遣切りやら振込詐欺やら特別給付金問題 やら、どうなっちゃんだろうかと他人事では済まされないテレビニュースとつき合いながら過ごしているうちに、もう二月もあとわずか、気がつくと数年前道路 脇に植えたクロッカスが二つ三つと咲いている。欠食児童みたいな蕾みだが何ともいじらしい。
もともと二月が大好きな私。早春、浅春、春寒、立春。春近し、春の目覚め、萌え出づ、萌葱色、啓蟄、”春よこい、春よこい、あるき始めたミヨチャンが、紅 い鼻緒のじょじょはいて”・・・と、とりとめもなく思い浮んでくる言葉からでも、光と色と匂いの予感をかんじる。まだ冷たく透明な大気の中で何かが蠢きは じめ、冬の間深く内に向かっていた五感が外に向かって開き始める。
かつての私の女学校では、春の修学旅行は奈良と京都だった。東海道本線の夜行で明け方の京都に着くと、直ぐバスで奈良に向かった。まだ吐く息が真っ白に変 わる冷たい外気の中を、高速で走るバスの車窓から見た大和の山々の春の曙のあまりの美しさ神々しさに、思わず「はるはあけぼの。やうやうしろくなり行く。 山ぎわはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と、古文で習った『枕草子』を口の中でもぐもぐ唱えているうちに、奈良に着く頃、密か にワープした私は平安時代の清少納言になっていた。
光の中に春の兆しが感じられる頃、街角の花屋さんに真黄色のラッパ水仙、白や紫のフリージャー、ピンクのスイトピーが揃う頃、いつもあの時の春のあけぼの の空の色合いが脳裏に浮かぶ。何かが生まれて来るという予感。すべてのものが愛おしく思われる瞬間。世の中を憂えることもなく自分の内なる予感にひたすら 耳を傾けていた女学生の頃が懐かしく思い出される。どんな世であったとしても、青春は美しく未知の予感に満たされてあってほしい。

2009.1.18

友人と岩波ホールでグルジア映画[懺悔」を観た。何処なのか,誰なのか,何時なのか、何も分からず話は進む。過酷な時代の暗部を、現実から離れて、イメー ジの白光のもと、出来事も人物も、時に滑稽に、軽やかに、時には深刻、残酷に、美しいカラー映像の中に映し出される。まるで、シュールリアリズムの絵画を 観ているようだ。映画が終わった時、アブラゼ監督が私に強く語りかけてきた。
“これは遠く離れた、見知らぬ国の過去の出来事ではないのだよ。何時の時代でも、何処でも問い続けなければらない人間の問題なのだ”と。
久しぶりに映画芸術の可能性に触れて、今年初の映画鑑賞はまずまずの滑り出しだった。
ただ一言,この映画のロシア語の題名は「パカヤーニエ(現象)」と言うそうだが、私にとってこの方がずっとしっくりする。[懺悔」のほうが、日本人好みであるにしてもだ!
家に帰って、一昨年秋ニューヨークに滞在していた時、ダンサーのアリサからプレゼントされた、アフマートヴァ(Akhmatova)の詩集を開いた。スターリンと同世代の彼女は、独裁政権の過酷な状況の中で
詩人として生き抜いたという。1934年に書かれた彼女の詩を、D.M.Thomasの英訳から訳してみると、こうしてはじまる。
最後のパン
わたしは 破壊された私たちの家のために祝杯をあげる/このすべての悪意のために/あなたのために ともにあるわたしたちの孤独のために/わたしは乾杯するー
そして 凍った死んだ眼のために/私たちを裏切る嘘/荒々しく 残忍な世界/神は私たちをお救けにな らなかったという事実
・・・・・・・・・
「懺悔」の女主人公ケテヴァンとロシアの詩人アフマトーヴァは、わたしの中で重なっている。

2009.1.11

ベニサン・ピットFINAL エルフリーデ・イェリネク作『ウルリーケ メアリー スチューアート』川村毅◎台本/演出、いう案内状を昨年頂いた。えっ、ベニサン・ピットが無くなるの?
イェリネクと言えば、2004年にノーベル文学賞を取ったオーストリアの作家で、私と同年代のとても刺激的な女性。川村さんの演出で、手塚とおるさんも出 演なさる。内容ともども魅力があり、観に行かなくては、というわけで、7日の夜出掛けた。それにしてもベニサン・ピットが無くなるのは惜しいことだ。ダン サーの上村なおかのソロ・リサイタルや、麻実れいさんの「黒蜥蜴」、手塚さんの芝居など、そのつど国分寺から東に向かって一直線、都心を通過して隅田川を 渡り両国まで。そこからタクシーで隅田川左岸劇場に赴くのが私の行き方だった。何時ものことだが、ベニサン・ピットと書かれた古ぼけた蛍光灯の看板の下で タクシーから下ろされると、とたんに方向感覚を失ってしまう。昼の人間の営みも終わり、闇の中に深く沈んでいるような黒々とした町並みにひとり取り残され たような錯覚に陥る。劇場の入り口に回ると、開場まであと数分。闇の中から次第に人が集まってくる。倉庫のような厚い鉄板の扉に掛けられた南京錠がはずさ れ、さあ創造現場の溶鉱炉にどうぞ!ベニサン・ピットは何時もそんな不思議な体験をさせてくれる所だ。1970年代のベルリンの「赤軍派」事件と日本のあ さま山荘事件の日本赤軍派をオーバーラップし、「総括」「粛正」「革命」[闘争」などイデオロギーで武装した言葉が渦巻いていた頃の、私にとっては昨日の 様に思えることが、パレスチナ問題、世界的経済恐慌、雇用問題など様々な危機的状況の今日に結びつけられて見えてくる。さてその夜、川村さんの創造現場 は、出演者たちの熱も高まり溶鉱炉はフル回転だった。
帰路はひたすらに西に向かって国分寺までまっしぐら。今私は何が出来るのだろうか?なにをすべきか?などと思いめぐらしながら。凍てついた冬の夜、でもカラダの中はあたたかい。

2009.1.7

新年ももう七草。毎日毎日パレスチナとイスラエルの痛ましい紛争のニュースが続いている。
一月三日、家族が集まった。一年に一度とはいうものの、集まることが出来たのは非常に幸いだとおもわなければならないだろう。二日に8歳の誕生日を迎えた孫の那珠も、いつの間にか驚くほど成長している。
長男爾示の提案で、数年前から正月には家族で叡の父寅雄の遺骨が納まっている小平霊園の国立教会のお墓参りをするようになった。それから、我が家の近隣、国分寺やお鷹の道、真姿の池などを散策して、夜は飲み屋で新年会。
こんな何処の国でも何処の人にでもあるよう正月の家族の当たり前の風景。
世界の何処でも何時でも、そうであって欲しい・・・。

2008.12.17

あれよあれよという間に、今年も大詰めだ。2008年はトラムの「透明迷宮」公演から始まって、2月はワシントン、6月ローマとナポリ、8月ブラジル、9 月シンガポールと、思い返すと随分あちこちと出かけたものだと我ながらあきれる。そうこうしているうち、叡は今年11月25日から国民年金を受給できる歳 になった。前方を走っている先人たちの多くの光を感じながら、我が道を懸命に走っているうちに、気がつくと前方は次第に闇になって来た。でも道がある限り ストップするわけにはいかない。
ダンサー黒田育世は、子どもの頃、亡くなったジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」の舞台を見て、思わずお漏らしをしてしまったそうだ。それを聞いて、納得し た。私はいつも彼女の舞台をみると、作品の善し悪しは分からないが、”この人は踊りを食べて生きているんだなぁ、踊りを食べる人種特有の光の匂いがする” と密かに思っていたからだ。そうしたら、叡に来年3月のBATIK(黒田育世率いる女性だけのダンスカンパニー)の公演の振付け依頼が舞い込んだ。そして 今叡は、黒田育世のソロ「ボレロ」を含め、作品全体を振付けながら、毎日若いダンサーたちと作品創りに取り組んでいる。
先週末、九州で2年ぶりに叡のオイリュトミーのワークショップがあったので一緒に出かけた。
私にとって九州は、身内のような気安さとなつかしさがある。それはそうだ、ワークショップの中心メンバーとは、もう35年以上前からのお付き合い。久しぶ りに会うと、「ヘェ~、あかちゃんだったのに、もうそんなに大きくなったの!」とか「癌の手術をしてね」とか「子連れ離婚したので、働かなければ・・」な どなど、さまざまな人生が満載だ。そしてワークショップ。それぞれが自分に向かい合う真剣な時間・・。とはいえ、オイリュトミーが出来ない私は、小粋なパ ン屋さんでコーヒーと手造りパンを楽しみながら読書の時間。電話も宅急便もない贅沢な昼下がりをたっぷり楽しんだ。
なんといっても、同じ時代にカラダの中に同じ光を秘めている仲間が在ることは 素晴らしいことだ。
厳しい世の中だけど、来年もがんばろう!

2008.11.16

過日、写真家の石内都さんから写真展の案内状を頂いた。それは「ひろしま/ヨコスカ」というタイトルで、昨日から目黒区美術館で開催されている。案内状に は都さんの字で「久子さんの写真を出させていただきました」と添えられていた。これは彼女が私を撮った写真という意味である。
都さんが私の写真を撮ることになったきっかけは、確か土方巽さんの命日かなにかで、久しぶりに叡と目黒の稽古場アスベスト館に出向いた2003年の1月 だったと思う。その時、今は亡き元藤燁子さんはまだご存命で、スクリーンに映しだされた土方さんの映像とデュエットで踊られた。踊りを見終わった時、私の となりにいらした都さんが「今度元藤さんの胸元の傷を撮るのよ」と言った。そう言えば以前、彼女が撮った私の長男のお腹の傷の写真が雑誌に掲載されたの見 たことがある。さて「傷なら私にもあるわよ」と言ったのが始まりで、私は都さんのご要望に応じて、その場で彼女の被写体になることを約束した。残念なこと に、元藤さんの写真は、その年の10月に急逝されたため、実現されなかった。
その後、2007年5月に女性の皮膚に残る傷跡、やけどの跡、変形した手や足などを撮った写真集「INNOCENCE」(赤々舎)が出版された。その中に、私の変形した足や手、お尻の傷や胸のやけどの跡などを撮った写真もあった。
奇妙にねじ曲がった私の手足のカタチは、慢性間接リウマチ故であるけど、その病名にあまりこだわってもいられないので、私の成長の有り様がこうなのだと 思っている。人それぞれ成長の仕方はみな異なっているではないか。石内さんの撮った私の写真を見て、自分のカラダでありながら、何と可愛くて、何と滑稽 で、何と愛おしいと笑ってしまった。このフツウでないカタチの私の手足は、私のために毎日健気に働いてくれている。少しづつカタチが変わり、機能が衰えて 行くのにひきかえて、私の心に何かが蓄積されて行くのを感じる。だから私は自分のカラダを恋人のように愛している。
石内さんは傷を持った女性達を”キズアトの女神達”と呼んだ。傷を持った女性達は誰も自分を女神などと思わない。女性達の傷そのものが、内なる光の女神なのだ。
石内都さんの写真は、傷そのものが美しく真実に映し出されている。

2008.11.3

11月1日のセッションハウスでの公演「髙橋悠治ピアノ演奏による ダンス笠井瑞丈・横田佳奈子」の振付・構成をした叡は、テキストとして稲垣足穂の『世 界のはて』を用いた。このタルホの作品は、1968年8月30日新宿厚生年金小ホールで行われた叡の独舞公演「稚児之草子」の当日のパンフレットのため に、稲垣足穂が書き下ろしてくれたものである。
私が原稿依頼のために、当時タルホが住んでいた伏見の桃山婦人寮を訪ねたのは、汗ばむほどの夏の初めだったと思う。京都から宇治方面に乗り換えて、最寄り の駅からタクシーで桃山婦人寮に向かう途中、浴衣の着流し姿で、噂で聞いていた海坊主のような大きい頭をした人物が、前方を歩いているのを見つけた。 “あっ、タルホだ!”私はとっさに車から降りて、後ろから声をかけた。どのように言葉をかけたか、夢中だったのですっかり忘れてしまったが、辺り一面に栗 の花の独特な匂いが漂っていのは、今でも忘れない。
タルホは銭湯の帰りだと言い、志代夫人はお能の会に出かけているなどと話しながら、自然の流れで家ま
着いた。早速、私は訪問の用件を申し上げて、持参した叡の最初の写真集を差し出した。今から思うとよくこんな不躾なことができたもんだ、と我ながらあきれ る。その上、その日は夜中まで話が弾み、志代夫人が婦人寮の空き室に用意してくださったベッドで、図々しくも泊まってしまった。夫人はその時のことを、 「夫 稲垣足穂」(芸術生活社刊)に書いている。
その後、暫くして今回のテキスト『世界のはて』ー忘れ河ーの原稿が届いた。礼状を出すと、直ぐにタルホからハガキがきた。「ひっぴいねえちゃんには奮闘を  ニジンスキー氏には成功を祈っています こちらは相変らずラッキョウのお茶漬で 京都の夏は本当に暑く 洛南異状乾燥注意報が出て 目下(いや、年ぢゅ う)危篤状態です」と書かれていた。ニジンスキー氏とは叡のこと。ひっぴいねえちゃんとは私のことらしい。
タルホが夫人に言ったそうだ。「ぼくには女性の年齢はわからんが、久子夫人もそのわからんほうだ。一種のヒッピーだな。このごろはそんな種族もふえた。そ れは、悪くいえば謀反人だが、旧来の陋習を破るひとだともいえる」(「夫 稲垣足穂」)無鉄砲な若者に対しての、何とお優しいお言葉だろうか!
その時タルホは68歳、私は24歳。私はいま、その時のタルホの年齢に近づきつつある。

2008.10.24

先週から今週にかけて、硝子体手術のために入退院を繰り返し、おまけに叡の91歳になる母親も腰痛のために入院するといった、妙に慌ただしい週だった。
留守の間の新聞を整理している時、「キラキラ光る洞爺丸の船底」という記事に目が止まった。10月22日の朝日の夕刊である。それは新聞記者の評伝「記者 風伝」という連載で、その夕刊は、1954年9月台風15号が北海道に接近し26日夜青函連絡船「洞爺丸」沈没させて、死者・行方不明者1156人に及 ぶ、  タイタニック号に続く戦後最大の海難事故の記事を書いた当時の記者疋田桂一郎を取り上げていた。
すでに半世紀以上も前のこの事故に、なぜ私が強く惹かれるのかと言えば、この1156人の内の1人は叡の父親だからである。当時41歳の叡の父は札幌の高 等裁判所の判事をしていた。義父寅雄の頭の良さは、笠井家の親類縁者の中でも定評で、彼は尋常小学校を卒業してからは独学で二十歳そこそこで司法官試験に 合格したそうだ。若い義父が三角帽子を冠り法衣を着け裁判官姿で緊張した面持ちで撮った記念写真を見た事がある。
義母に聞くと、彼はたいへんな勉強家で、気難し屋で、かんしゃく持ちで、情熱家で、声がひときわ大きかったそうだ。(なにかドストエフスキーを思わせ る!)仕事仲間とお酒を飲むと、必ず大声で「五木の子守唄」や「安来節」等を歌って陽気になり、そばで聴いている西欧音楽一辺倒の義母は、恥ずかしさで背 中が固くなり冷や汗が出たそうだ。
叡が10歳の時に洞爺丸事件が起こった。小学5年生だった叡は、その日の朝、家を出て学校に向かう時、東京に出張に出かける支度をする父親の姿を窓ガラス を通してみた。それが父を見た最期だったそうだ。急きょ函館に向かった母の留守中、ラジオで流れる乗船名簿の氏名の中に父の名前を聴き取り、今朝行かない ようになぜ止めなかったのか、と深く悔んだと言う。家にいる時は、いつも机に向かって書き物をしているというのが、叡にとっての父親像らしい。夕方陽が暮 れるまで、戸外でターザンごっこに夢中の長男である叡を、父はどのように見ていたのだろうか?いたずらをすると、半端でない叱られ方をしたのよ、と義母が 話してくれた。長男にはとりわけ厳しかったのかもしれない。3人の子どもたちの教育は東京でということから、生前に義父が準備していた国分寺に今私たちは 住み、天使館もそこにある。
「キラキラ日ざしに光る洞爺丸の船底は何かたわいがなく無造作ないたずらのあととしか思えなかった」と1954年9月27日の朝日新聞の夕刊に疋田桂一郎記者は書いた。

2008.9.30

何時だか誰かに「“生きのびるためには2冊の本しか持って行けない、後は全部捨ててください”と言われたら、あなたどうする?」と聞かれた。当の本人は 「一冊目は稲垣足穂の『一千一秒物語』と・・・」と考えている。イナガキタルホもいいけど・・・わたしだったら、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』は 持って行きたいなぁ。美しいし、温かいし、力強いし、なにより読んでいて肩が凝らない。
国文学者の藤村潔は、胸ポケットに『源氏物語』を入れて、零下43度まで下がるシベリアの捕虜収容所で6年を過ごしたという。飢えと寒さのなかで『源氏』の言葉の響きが、彼にとって命の糧だったのだろう。
敬愛する詩人故吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』を入れた。偉大なロダンの精神と彫刻を賛美して展開する“詩論”ともいえる詩人リルケの言葉は、吉岡実にとって真の啓示だったと後で書いている。
シンガポールに滞在している間に『ベルリン終戦日記』(ある女性の記録)を読んだ。戦争に巻き込まれた女性が自らの凄まじい体験を、これほどまで客観的に言葉にしたのを読んだのは初めてだ。
1945年4月ベルリン陥落の前夜から、34歳の女性ジャーナリストは日々の出来事をひたすら書き綴った。空襲、飢餓、略奪、陵辱の狭間から覗く未来は “鉛のように”重い。教会のミサに行けば、”生きる糧となるような心の言葉”が得られるのかと、無宗教の彼女は”闇の中でただひとり”苦しみ、”絶望的に 孤立無援”の最中にあって、鉛のように重くのしかかってくる未来に抵抗して、”身内にある炎を消さないように努めている”。きっと日記を書き続けること が、彼女の内なる炎を燃え続けさせたのだろう。
数日前に読み終わった『寡黙なる巨人』(多田富雄著)の跋に、脳梗塞に倒れ、言葉を失い、突然重度の身体障害者を甘んずることになった免疫学者である著者は、こう記している。
「重度の障害を持ち、声も発せず、社会の中では最弱者となったおかげで、私は強い発言力をもつ『巨  人』になったのだ。言葉はしゃべれないが、皮肉にも言葉の力を使って生きるのだ」
最後に吉岡実の未亡人陽子さんから伺った話。
吉岡さんとの新婚の頃、彼女は生活費をリルケの詩集の間にそっと差し込み、必要なものを買うときは心の中で「リルケさんから借りましょう」と言って、苦しい生活をやりくりしていたそうだ。
“はじめにことばありき”いい言葉だなぁ!さて、読書の秋、次は何を読もうかな・・・・。

2008.9.22

「世界的ステージのために設計されたエスプラネードはシアターとしてはもちろん、様々な料理が楽しめるお食事スポットとしても有名です」とシンガポール観光ガイドにあるエスプラネードの中の劇場で、叡が「花粉革命」を踊った。9月12、13の二回公演。
スタジオを表す表札には、英語、マレー語、中国語、アラブ語の4つの言語が並んでいる。空港に迎えにきてくれたのは、現在マスメディア・コミュニケーショ ンを学んでいる女子大生で、日常会話程度の日本語ができる中国系のクレアさん。彼女に尋ねると「シンガポールでは英語が日常語です。でも私日本語をもっと 勉強したいです」と言った。車の運転手とクレアの話しっぷりは、中国語そのもので、英語の単語はちっとも聞こえてこない。かろうじて、右、左は聞き取れ た。後で聞いたのだが、そういうのをシングリシュと言うそうだ。
先月行ったブラジルも人種が混血されていて様々な肌の色の人が共存していたが、シンガポールはどちらかというと、人種が入り乱れること無く仲良く共存しているようにみえた。コスモポリタンとはこういうのを言うのだろうか?
公演の主催者の、やはり中国系の青年プロデューサーであるキムセンさんに「自分と国とのアイデンティティは何処にあるのですか?」と誰かが質問したら、彼 は「自分はずーっとこの国に住むつもりはありません。今ここにいるだけです。つまり、シンガポールはトランジットの国です」と答えていた。
滞在最後の日、シンガポールに英国の東洋の基地を建設したラッフルズ卿に因んだラッフルズホテルに行ってみた。さすがに古風で落ち着いた気品に満ちた趣深 い雰囲気で、サマセット・モームやジョセフ・コンラッドが投宿したというのも頷ける。彫りが深く理知的な面立ち、漆黒な肌にターバンを巻いたインド人の サーバントたちは真っ白な制服で身を包み、植民地支配者である西洋人に至れり尽くせりの世話をしたのだろう。
熱帯の木々を生い茂らせた中庭で籐椅子に座って、注文したアフタヌーン・ティーを待ちながら、最先端の国際都市シンガポールに残っているヨーロッパ植民地 時代の面影を、この高級ホテルに感じながら、キムセンさんの「シンガポールはトランジットの国」という言葉を思い出した。
空港まで送ってくれたクレアは、「私、来週ソウルに留学します。韓国語の勉強のためです」と言った。
私は「もう少し、日本語をがんばってからにしたら」と言いたかったけど、まあいいか・・・

2008.9.6

8月は、15日間ほどブラジルに行ってきた。そしてまた来週の火曜日からシンガポールに出かける。
ブラジルの首都ブラジリアからサンパウロ、ニューヨーク経由で、約30時間の行程で成田に着き、家で一晩寝ると、赤道直下のマナウスで遊覧船に乗り、ニグ ロ川からアマゾン川へ進み、途中ジャングルの中に入ってワニを目撃、などなどは夢のまた夢。さあまた、15日前の国分寺の日常の続きが始まった。
主の留守の間にも、庭の木々は盛りの夏を謳歌していたのだろう、狭い所で一斉に葉を茂らせ目を細めて眺めれば、ジャングルと言えなくもない。8年ぐらい前 に大切な人から頂いたクリスマスローズの鉢植えを、出発前に地に下ろしてやったのが、留守の間に来てくれた草取りのおじさんが抜いてしまったのか、姿形が 見えない。毎年、純白の花弁のふちが幽かに薄紫色に染まり、贈り主にも似て清楚で美しく、特に好きな花だったのでいたくがっかりした。自分で草取りができ ないのだから仕方が無い。
2、3日して生活のリズムが戻ってくると、サンパウロで乗ったタクシーの日系2世の運転手さん、日本食堂「ひまわり」を経営しているおばさん、通訳をして くれた日系三世のお嬢さん等、ブラジルで出会った人たちが心の中に思い浮かんでくる。1927年頃日本から移住した方達を両親に持つ人たちだ。親の郷里を 尋ねると、長崎だったり群馬だったり様々だ。日本から初めて移住した人たちは、さぞかし苦労なさったことだろう。しかし、そこで生まれた二世の人たちは、 すでにブラジルに根を張り生活の基盤がそこにある。
ブラジルでは異民族同士のぶつかりは無いと聞いた。確かに皮膚の色の 違いを問題にしないおおらかさがある。格差社会で治安が悪いのは玉に傷。でもそれは”いづこもおなじ秋のゆうぐれ~”。
さて、シンガポールは初めて行く東南アジアの国。どんな人たちに出会うだろう。

2008.8.1

2002年に購入したiBOOKノートパソコンが起動音が鳴って、画面が明るくなりかかると、とたんに眠りに入りそのまま蓋をして一晩寝ると、翌朝元気よ く起き上がる。この状態を息子や若い人に訴えると、「もう後期高齢者だね」とか「こいつ三代前の代物だよ。トットッと新しいのにしたら」などと言われる。 叡は「修理して中を掃除したらまだまだ使えるよ」と言う。
このOSX10.2.1を買ったときは、若い人たちに「いいのを買ったねぇ。使いこなせるの?」と羨ましそうな顔をしながらも、心の中では―豚に真珠だね―と思っているのがありありだったのを思い出す。
然り、いまだに機能のほとんどを使いこなせない体たらくだ。もともと、純白の中にアップルマークを施したデザインの格好よさだけで買ったパソコンなので、 このまま新しいのに乗り換えるのは、熱烈に求愛して結婚したけど、相手を理解しないまますぐに離婚するようなものだ、といささか心苦しい。
さてどうしようか。解決は簡単だった。Macの会社に問い合わせたら、「お客様のその製品の部品はもう製造されておりません」だって。
パソコンごときで、こんなに思い悩むのはバカバカしい。早速、新しいのに切り替え、今度こそは新婚のときから相手を理解しようと、マニアル本を買い込むが、待てよ・・・・。
所詮相手は人間ではなく物質。ここで再び、タルホの声が響いてきた。
―物質利用には物質に使用されぬ警戒が必要であり、これが真に物質を尊重する所以であるー「彌勒」
とはいえ、今度のMacBookはとても働き者ですばらしい。純白に代わって漆黒のデザインも格好いい。
今回のパソコンも、私には“豚に真珠”だろう。真珠の真価は分からなくても、美しいものが机の上に置かれているのは気分がいいなぁ~。

2008.7.10

二、三日前の新聞に、9歳の女の子が「殺す」とインターネットの掲示板に書き込みをしたという記事を読んだ。やれやれ、私の孫娘も間もなく8歳。彼女が9 歳になった頃は、7歳の子が同じような書き込みをするようになるのでは・・・。無意識の中に蒔かれた種は、感染症の菌のように知らない内に増殖する。これ は、決して書き込みをした9歳の女の子の責任ではない。では誰の責任?
私が息子三人を連れてドイツに渡った時、長男は10歳、次男は7歳、三男は4歳だった。それまで、各々が国分寺で学校や幼稚園で親しい友だちもでき、家に 帰れば隣近所の子どもたちと一緒になって戸外で走り回り、「ゆうやけこやけで日が暮れて・・・」と市の放送が聞こえてくると、3人揃って帰って来る、とい う彼らにしてみれば楽しい毎日だっただろうに、親の都合で友だちからも学校からも離され、言葉もチンプンカンプンの土地に連れてこられてしまったのだか ら、たまったものではなかっただろう。
4月にStuttgartにやってきて、三男だけは近所の幼稚園に入れたが、上の二人は9月の新学期を待たなければならず、さて困った。部屋には全く遊び 道具はない。友だちは無し。しかし、母親の心配をよそに、早速家を飛び出した三人は、格好の遊び場を見つけて来た。我々の住居から3、400メートルのと ころに、自然保護地区、通称Eichenheim(樫の里)があったのだ。Gott sei Dank!
お陰様で、彼らは日がな一日、森の中で“コンバット”遊びとか、“あしたのジョー”の登場人物になりきってボクシングのトレーニングをするのに費やして、 4月から9月までの5ヶ月間の母親にとっては魔の空白時間を乗り切った。ともかく“子どもはどの子も一緒、外で元気に遊ぶもの”と単純に考えていた私とし ては、遊ぶ場がない子どもたちを見ているのは辛かったのだ。
今日、国分寺には幸い史跡公園や広い緑地帯があるが、そこで遊ぶ子どもたちを見かけることが少なくなった。時代が私を呑気な母親でいさせてくれたのかもし れないが、小さかった息子たちと共に決定的に物質欠乏生活ができたことは、懐かしい喜びである。心から”Gott sei Dank!”

2008.7.1

30年以上前のことなので、題名はすっかり忘れてしまったが、高椅たか子さんの小説で、自殺をするために三原山の火口に向う親友に同行して友の死を見届け る、というのを読んだことがある。観念小説とでもいうのだろうか、クールで乾いた文体のたか子さんの小説は、その頃子育て真最中の私には、暑い日に冷たい 湧き水を飲んだ時のような気分になったのを憶えている。“なるほど、自殺幇助か・・”現実には考えられないこんな言葉が、育児に追われている私の頭脳の隙 間にすぅーと入ってくると、妙に身体がすっきりして、3人の小さな息子たちにたち向うエネルギーが出て来たものだ。
ところで先日、インターネットで「苦しまずに死ねる薬」の広告を出した男のサイトに、自殺するのを助けて下さい、という女性からの書き込みがあり、その男は出かけて行って本当に助けてあげて、その女性は死んだ、ということを新聞で読んで驚いた。まさしく自殺幇助だ。
世の中に鬱病の人が多いと言われている今日、そういう人たちにとって、自殺幇助人は願ってもない存在だろう。私も経験したことだが、鬱状態になると、生と 死が反転して“生きるために死ななくては”という論理が成り立ってしまう。“死の世界が私の生きる世界”という思い込みが、次第にリアリティーを持ってく る。それは丁度、コンピューターの中のバーチャル世界が次第にリアリティーを持ち始めるのと似ている。すると「死」さえも、とても簡単に、まるで劇場のチ ケットを予約するように、予約でき、代金を払い、実行できる。なにしろ、バーチャルだから言葉が軽い。かつて西欧には、甘美な音楽を奏でて、実は愚かな人 間を死出の旅路に誘ったという“死神”がいたというが、コンピュータと死の関係は、そんなロマンティックなものではない。
やれやれ、コンピュタなんか無くなってしまえ、と怒りつつも、一方で目下調子最悪の我がiBookと格闘しながら、もう古くなったから買い換え時かな、などと思ったりしてしまうのはなぜだろう?

2008.6.24

ローマ、ナポリから帰って、かれこれ一週間。ミャンマーのサイクロン、四川省の大地震から始まって、秋葉原の恐ろしく、悲しい殺人事件、土砂崩れ、漁船の難破・・・。いやはや、わたしたちは何処に向っているのだろうか?
ナポリの宿を提供してくれたアントニオとバレリアの若い二人は、我々が着くなり「ナポリの街歩いてみて下さい。いかに問題が多いかきっとお分かりになるで しょう。AKIRAさん踊って下さい。ナポリの人に観せてやって下さい」と真剣に訴えて来た。そう云われても、ナポリはワーク・ショップの約束なので、衣 装は全部ローマに置いて来てしまったし、そう簡単ではない。AKIRAが踊っても、ナポリの問題をどうすることもできないだろう。次の機会にとお断りし て、街に出てみた。
美しい日没。ベスビオ山が遠くに浮かび、地中海は凪いでいる。ゴミとマフィアが支配する麗しのナポリ。「美しいものに対する物凄いもの、物凄いものに対す る美しいものは互いに相殺し、結局無関心な感情しか起こさぬものである。もしナポリ人が、神と悪魔との間に挟まれていることを感じないなら、確かに彼らは 一種特別な人間に相違ない」とゲーテ先生の観察は鋭い。ナポリで出合った若いアーチストは口を揃えて、ベルリンに行きたい、と云う。200年前、ゲーテが 光を求めてイタリアにやって来たのと反対だ。
ローマを発つ前日、ジャーナリストのマリア・ピア・ド’ラツッイの家に泊まった。夜、彼女が作成したドキュメントがテレビで放映された。内容は、公娼制度 を認めるか否かと云う問題。“それで悲惨なレイプ事件が少しでも防げるのかしら?”“とんでもない、娼婦たちから税金を取ろうという発想よ”
翌朝、マダレイナと精神科医のジョバンニが空港まで送ってくれた。マダレイナは、次回はローマ市内にあるカタコンベに案内したい、と言っていた。アリデベルチ ローマ!

2008.5.27

今週末から二週間はローマとナポリだ。叡も私もイタリア人と相性がいいのは、彼らの体型がわれわれの胴長短足の典型的日本人の体型と似ているとうこともあ ろうが、なによりイタリア人のあの人なつっこさと陽気さが気に入っているからだろう。かのゲーテ大先生ですら、イタリアを南下するに従って、勤勉実直なド イツ人気質がしだいに溶け始め、ナポリの地では“全く違った人間になったような気がする”などとおっしゃっている。
ローマは5回目だが、今回ナポリは2回目。先回宿を提供してくれたのは、ヴァレンティーナ。彼女は大学で薬学を修め、癌の薬を研究しながらドクターを目指 している、輪廓のはっきりとした瓜実顔で切れ長の目をした、東方教会のイコンの聖母(ラファエロのでは決してない)のような美人。その彼女がナポリのゴタ ゴタした石畳の狭い道を、暴走族顔負けのスピードで車を飛ばすのだから、ますますカッコイイ。或る日の昼下がり、ナポリで彼女のお気に入りの場所に案内し てくれた。ナポリ滞在中のゲーテの部屋とか、発掘中のギリシア・ローマ時代の神殿の柱などを眺めながら海岸に沿って車を走らせて着いた所は、Logo d’Averno(アベルノ湖とでも読むのか)という小さな火口湖だった。人影もなく静かな湖畔の右手に、アポロ神殿の遺跡が見えた。ギリシア時代にナポ リ(ニューポリス)を植民地にしたギリシア人が建てたのだそうだ。彼女の説明によると―アポロ神殿と直線で結んだ対岸には「GROTTA della BILLA」(地獄への門)があり、ローマ時代そこには巫女たちが住んいて、しかも湖は熱湯で煮えたぎっており、また神殿と門を結ぶ対角線上は磁力がはた らいている―そうだ。湖畔を回って「地獄への門」まで行くと、茫茫と木々が生い茂った細い湿った道の奥に小さな洞穴が残っていた。その昔巫女たちは、目前 に迫る湖の煮え立つ熱湯の渦をみながら、遥か対岸の太陽に輝くアポロ神殿を仰ぎつつ、暗い洞窟の中で狂乱のダンスに耽っていのか、などと想像を膨らませて いると、ヴァレンティーナが「アキラとヒサコがここに来た初めての日本人かもよ」と言った。ホントかな?ホントだったら光栄だ!夕暮れも迫り、火口湖のあ るPOZZUOLI市を後にする。
日本に戻って、私の唯一無比のイタリア旅行案内書ゲーテの『イタリア紀行』で確かめると、あった。1787年3月1日にゲーテはプッツオリ郊外に散策に出かけ、その夜の日記に記す。
“見るも無残に荒れ果てた千古の栄華の跡、煮えたぎる熱湯、硫黄を噴出する洞穴、草木の育たぬ灰燼の山、不毛の不愉快な地域、そして最後にはそれと打って 変わった四時鬱蒼たる植物が、一寸の地でも隙間さえあれば生い茂り、あらゆる死に絶えたものの上に蔽いかぶさって、沼沢や渓流のまわりにもはびこってい る”
200年の時を飛び越えて、ゲーテの驚きが、今、活き活きと新鮮に伝わってくる。

2008.5.19

職を失った知人を、知り合いの制作会社に紹介したら、パソコンが扱えないと言う理由で、一日で解雇。もっともな話だ。少人数で、いくつものプロジェクトの制作を並行して進めるのには、パソコンなしでは不可能というもの。加えて社長曰く「今では小学生でもインターネットは出来ますからねぇ」と。
派遣でアルバイトをしている若い友人から聞いた話。派遣社員は番号で呼ばれ、社員同士しゃべってはいけない―ということもあるそうだ。それもそうだろう。派遣会社に登録する多くの人の名前をコンピュータに入力し、派遣先に振り分けて行く作業は、番号の方が速く正確なのかもしれない。
有難いこと(?)に、コンピュータが人間を指図してくれる。。。。現場で働くのは人間なのに。。。。お互い話するなとは(!)。。。。“人間は本質的に“Mitsein”共存在“とハイデガー先生だって言っているのに。。。。
人間は将棋の駒ではない。駒だって、将棋をする人にとって不可欠な物であり、人間を楽しませてくれて、幸せにもしてくれる。そんな時、駒は単なる木の塊ではなくなり、駒自身の実存的姿が露れるといえるのでは。では、どうしたらいいのか。どこかおかしい、とみんながそう思っているのだが。。。。
そうは思いつつも、暗黙裡に、コンピュータの中で、記号化され、個々バラバラにされていく人間存在はどこにいくのか。。。。うっすらした不安な気分がブレンドされた空気を呼吸しているような毎日。これでは世の中“うつ”の人が多くなるのは当然だ。
昨日、コンドルズ公演「大いなる幻想」を観に行こうと、彩の国さいたま芸術劇場に向う途中西国分寺の駅でケイタイを忘れたのに気が付いた。“どうしよう・・・急に四川省のような大地震が起ったら・・・何か急用の時には・・・電話帳はないし、どうしたらいいのやら・・・”楽しい気分がとたんに半減し、不安がミックスされた気分と共に劇場へ。結局、コンドルズの面々のいつもながらのパワフルなダンスに、ケイタイ不ケイタイの不安はどこへやら。地震もなかったし、急用もなし。メデタシ、メデタシ。
★覚え書き
「物質利用には物質に使用されぬ警戒が必要であり、これが真に物質を尊重する所以である」
―稲垣足穂ー

2008.5.14

もう梅雨になったかのような、冷たい雨の日が続いている。
ミャンマーのサイクロンの直撃、中国四川省の大地震、天災とはいえ、数日間でおびただしい人の命が失われてしまった。いよいよ地球が内から崩れ始めたのだろうか。自然の悲痛な叫びのようにも思える。
新聞には、下敷きになった家族を案じて泣き叫ぶ女性、子どもの遺体の傍らで悲しみにくれる両親などの痛ましい写真が大きく掲載されている。
そのページの裏には、60年来、今でもレバノンの難民キャンプで厳しい生活を続けている老夫婦の記事が載っていた。60年前の5月15日を彼らは「ナクバ(大破局)」と呼ぶそうだ。これは人災である。
数年前、エドワード・サイードの評論集『オスロからイラクへ』を読んだ。和平への激しい感情、二つの民が一つの国で共存できるという強い信念が、サイードの悲痛な叫びとなって行間から聞こえてくる。実際、白血病で亡くなる二ヶ月前までの文章が掲載されている。
60年以上生きて来て、分かっていたつもりのものが、分からなくなって来たような気がする。でも生きている限り、動いている。動いている限り、何かが生まれて行くだろう、などと能天気な私。
あした天気にな~あれ! 

2008.5.11

8、9、10の3日間エフェソス・オイリュトミー集中講座の合宿で、山中湖に行く。17人の受講者に加え、ピアニスト、チェリスト、それに叡と私の総勢21人。
風薫る五月―新緑に囲まれた湖から美しい富士山を眺めるのはさぞかし気持いいだろう、と心も軽く、中央高速に乗り、大月のインターを左折して富士五湖道に向うと、突然フロントグラスの前面に、真白な雪を戴く富士山が出現した。間近に見る富士はやはり何時見ていいなぁ。雄大で威厳があって美しい。と思っていたら、富士はすぅーと目の前から消えて、右側の車窓の方に現われたとおもうと、灰色の雲に覆われてすっかり姿が無くなってしまった。3日間で富士と対面できたのはその時だけ。後は“風薫る”はどこえやらぁ~の3日間の合宿だった。
宿舎のハラマチロッジのボス・さゆりさんは、かつてのアイドル歌手九重佑三子(?)にそっくりなお姐さん。ハスキーヴォイスと笑顔がなんとも魅力な世話好きの働き者。体育会系の合宿の宿舎だけあって、朝夕の食事は、たっぷりと品数が並ぶ。1階は、ロビー、大きな厨房と座敷の大広間、2~4階は6畳から8畳の座敷の部屋が南に面して並び、カーテンを開けるとどの部屋からで聳えたつ富士山が目に飛び込んでくるようになっている。300人ぐらいは収容できるのだろう。
去年の7月、オイリュトミーの全国大会を行ったのだが、3日間とも大嵐。新幹線は止まり、東名高速は雨で切断され、それでも九州、京都、名古屋、東京、仙台、新潟から50名の人が集った。「富士が見られるとたのしみにしてきた」と口々に言うのを聴いて、大会の主催者として、心の中で天を恨んでみても致し方ない。最終日別れの後、台風一過の青空に富士がいいタイミングで姿を見せた。
さて今回も最終日に向って曇り始め、3日目は日がな一日冷雨。おまけに急に寒くなり、私は風邪を引いてしまう情けなさ。ここでも、叡は「雨男」というのが立証された。と言う訳で、わたしはいつも「部屋から富士山が見えるところよ」と宣伝するのだが、外れることが多い。迷惑なはなしである。でも昼間富士山を眺める暇のあるのは私だけで、皆はケイコ、ケイコ。そんな余裕がないのが合宿というものだ。 

2008.5.3

今日から連休が始まる。
高椅悠治夫人の八巻美恵さんから、彼女が忘れた物を送ってあげたら、無事届いたとメールが来た。お礼の言葉の後―連休はシゴト、シゴト。いつになったら優雅な暮らしができるんでしょうね。。。(笑)ーとあった。全く同感!
ピアニスト、ダンサーなどの類は連休とは縁遠い。ましてダンサーは身体が呼吸している限り休みはない、ということは毎日休みとも言える、などとブツブツ独り言を言って新聞を広げたら、「常に鍛えるそれがプロ」という見出しで、有名な喜劇役者の話が載っている。毎日が仕事それが活力。さすがプロだ。
1966年に叡の処女公演「磔刑聖母」から、何回公演を重ねて来ただろうか。今日のように、アートマネージメントとか助成金制度のなかった時代だから、家内工業的な公演ではあったが、今のように複雑でなかったことは確かだ。私の役は、専ら人の手配、切符の配分、宣伝、チラシまき、電話番、劇場費の支払いなどお金のことに終始し、公演日が迫まると、作品を生みだす産みの苦しみの傍で、とにかく幕が上がるまで身体が無事にと、出演者を心の中で叱咤激励し、お金については良い作品のためならスッテンテンになっても仕方が無いなどと、独り善がりの覚悟も決め、公演日に突入する。要するに私は制作をしたのではなく、公演を生む時のお産婆さんをしていたのだ。
実際に、私が息子たちを出産した時のお産婆さんの存在は、大きく素晴らしい。苦しむ私の傍らで、優しく、時には厳しく、一緒になって呼吸をし、力を込めて手を握ってくれた。新しい“いのち”が生まれる瞬間をともに共有できるお産婆さんとは、なんと果報者。でも“いのち”の証人に連休は無い・・  
今日のように全てが細分化され専門化されていくなかで、しかも全てが市場原理優先の経済構造の中で、舞台公演の制作に携わる人たちは様々な困難な問題に直面するだろう。しかし、どんなに時代が進んでも、私は制作活動の中にあるお産婆さんの役割を一番大切に思っている。

2008.4.30

今日は水曜掃除の日。といっても掃除をやるのは叡である。朝早く起きて、窓を開け放ち、叩きをかけ、隅から隅まで掃除機で吸い取り、雑巾で床をふき、勿論トイレもきれいにして、最後に玄関を掃いて、水を打つ。それから、埃をかぶった自分の身体をシャワーで洗い流す。そして終了。一年前まで、掃除は私の仕事だったが、リウマチの進行に従って、出来ないことが多くなった結果、叡にバトンタッチする。
1971年から始まった天使館の稽古は、週4回夜7時から掃除で始まる。誰がが決めた訳ではないのに、それはそうなのだ。稽古場に着いた順番に黙々と雑巾で床をふき、それから11時頃まで即興の稽古をする。稽古が進むにつれて、庭から眺めている私には、天使館の名に相応しい白亜の館が、灼熱の炎が渦巻く溶鉱炉のように見えてくるから不思議だ。人々がいなくなった稽古場の床には、人々のが脱ぎ捨てていった想いの滓が薄く積もっているのが見えるのも本当のこと。さあ全てを開け放って掃除をしよう!
天使館の傍らに住んで間もなく40年、私にとって掃除は大切な禊ぎである。

2008.4.28

4月24日に、バッハの『フーガの技法』全曲によるオイリュトミー公演を、西国分寺のいずみホールで行った。今年二月初めのトラムでの公演の再演である。それにしても、一昨年6月セッションハウスでの4夜にわたる『透明迷宮』ーdance笠井叡×piano高椅悠治ーで始まって、バッハの『フーガの技法』を悠治さんに何回弾いていただいただろうか?少なくとも本番は今回で10回目だから、リハーサル、通し、ゲネなどを入れると50回は下らない。ダンサー、オイリュトミストたちにとって、生のピアノ演奏で(しかも悠治さんの演奏で)バッハを踊れるというのは、大変に貴重な体験だったに違いない。
26日、叡と新宿小田急デパートの美術画廊に山本美智代作品展を観に行く。案内状に40年以上にわたる初期から近作までの作品が出品されているとある。実はおよそ40年前、私が駿河台下の三省堂の裏の、月刊誌『本の手帖』を出していた森昭社の森谷さんの所で勤めていた頃、美智代さんも図書出版南北社で文芸誌『南北』表紙デザインと編集に携わっていて、叡の舞踏公演を知らせると「チケット20枚送って」と言って、当日多くの仲間と観に来てくれた。1968年の新宿厚生年金小ホールで叡のソロ公演「稚児之草子」でのこと、開演間際に美智代さんが受付にやって来て、「付けられているの、巻きたいから裏から逃がして」と私に小声で囁いた。動転してモタモタしたのは私で、彼女は落ち着いて素早く奈落を通り楽屋裏から外へ・・・。正面の入り口にびっしりと張り込んでいた公安を、まんまと巻くことに成功した。私はその時初めて知った。彼女は東大全共闘議長山本義隆夫人だと。それからも公演は必ず観て下さり、私たちのドイツ時代には、ポーランドの帰りだと言ってシュツットガルトにお母さまと訪ねてくださり、ご自分の作品集がでると署名入りで送って下さる。特に会ったり話したりは殆ど無い。でも繋がっている。
4、5年前のこと、国立の本屋で山本義隆著『磁力と重力の発見』と言う本が目に入った。いつもだったら間違いなくこの手の書物には手を出さないが私が、その時は磁力が働いたのか、全三巻を購入して、その日から重力に身を任せたように読み始め、一ヶ月足らずで全巻を読破した。我ながら不思議とは思うが、それほど面白かったのだ。暫くして、この本がパピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞をとったと聞いて、嬉しくなり久しぶりに美智代さんにお祝いの電話をかけた。「あら、久しぶり!あなたあれ読んだの。へぇ~えらいわねぇ。面白かった?ワタシ読んでないの。長いしね」と美智代さん。そこですかさずミーハーの私「義隆さんの署名が欲しいの」と言っら「いいわよ。三冊全部送って」と美智代さん。
些か恥ずかしかったので1巻だけを送ったら、丁寧に署名して送り返してくれた。それが初版本だったのをとても喜んで下さったそうだ。
同じ空気を呼吸しながら同じ時代を自分の信念を貫いて生きてきた人々とのつながりは、なんと素晴らしいことか!

2008.4.22

土、日の二日間、叡の講座に同行して、久しぶりに京都に行く機会を得た。講座の会場が太秦の近くなので、土曜日は広隆寺の新霊宝殿に弥勒菩薩はじめ国宝級の仏像たちを観に行き、日曜日は嵯峨野の野宮神社から落柿舎までのんびりと歩いてまわった。花冷えとはいえ、桜の後の未だ新緑とは言いがたい萌葱色の新芽に、春の陽光がキラキラと光の粒子を降り注いでいる。お昼のお勤めか、寺の鐘の音が聴こえる。
嵐山駅から帷子の辻を経由して、講座の会場のある常磐まで嵐電に乗る。運賃は一律200円。木の床で旧式で懐かしい電車。無人駅のホームの石の隙間からは、たんぽぽやぺんぺん草がのびていて、長閑で鄙びていて風情がある。日本語の車内アナウンスのあと「Next station is ・・・」と流れるのは、さすが京都だ。
講座の会場では20人前後の人が熱心にオイリュトミ―の実習をやっていた。20年来の懐かしい面々がいる。東京から名古屋からの参加者もいる。年に数回の講座だが、それだけに各々が自分に真剣に向っている。そこには、情報量とその素早い結果に価値を求める今日の私達の生活のリズムとは全く異なる時空間がある。年に数回とはいえ、深いところで同じ意識を共有できる場と時間があるのは大切なことでり、嬉しいことだ。
帰りの新幹線まですこし間があるので、久しぶりに嵯峨野の志村ふくみ先生と洋子さんの工房をお訪ねした。随分久しぶりなのにお目にかかると直ぐに、日本語の言霊のこと、「古事記」「万葉集」「源氏物語」の内に流れている言葉の力について、忙しい現代を生きている私たちが忘れているさまざまな大切な事柄を真剣に話し合うことができた。ここでも短い時間だが、深い時間があった。
夜の闇にすっぽり覆われた嵐山の真上にかかる満月を眺めながら、新幹線の最終に間に合うように、桂川の川べりをタクシーで京都駅に向う。

2008.4.15

稽古場と母屋の間に狭い庭がある。
山吹、萩、紫式部、ぼけ、ゆきやなぎ、紫陽花二種類、椿、くちなし、さるすべり、杏、桜、南天、薔薇、さつき、沈丁花・・・建物の谷間で陽も差さず、おまけに石ころだらけの栄養不足の土地に、少々多すぎる木々が雑然と勝手気ままに、所狭しと植えられている。
食堂からカーテン越しに庭を眺めていると、よく番の小鳥がやってきて、やせ細った椿の枝、萩の枝にぴょんぴょんと飛び移って遊んでいく。お隣の家の庭の方がはるかに広く木々の梢も豊かであろうに、大空から下を眺めると、我家の貧しい庭でも鳥の目に面白いジャングルのように見えるるのか、などと思っていると、やがて何処へやら飛んで行ってしまう。すると、茶と白のしましま模様の野良猫がのっそりと現われて、堂々と庭を横切って行く。この界隈を仕切っているノラのボスである。どうしてか彼は、叡の車の上に乗って居眠りをするのが好きで、叡がそれを見つけると怒って追いかけるが、もちろん猫の逃げ足は素早い。暫くすると又寝ている。ノラの背中の丸みと車の形は相似形で、ノラはきっと叡の車を仲間だと思っている、と私は思っている。

2008.4.8

4月1日に目黒区の国立医療センターに入院し、翌日右目の硝子体の手術を受けて、昨日7日に退院した。毎朝7時30分に第一回目の診察があり、更に8時半に2~3人の先生が診てくれる。手術後2日目に眼帯が取れたので、先生に本を読んでもいいかと聞くと、何をしてもいいとの事、早速売店に行き「よくわかる最新医学」の眼に付いての本を買って来て読んでみる。
初めに目のメカニズムが詳しく説明してあり“目の構造は超精密なカメラのよう”とある。レンズの役割は、角膜と水晶体。網膜は像を結ぶフィルムの役。読んで行くとほんとうによく出来ている。私が昨年買ったデジタルカメラと全く同じ働きをする。まてよ、目がデジタルカメラと同じ働きをするのではなくて、デジタルカメラが目と同じ働きをするのだ。なぜなら、デジタルカメラは人間の目を模倣して人間が造り出した機械だ。ではこの超精密な人間の目は誰が創ったのか。
「眼が眼であるのは光のおかげである」と、以前何処かで読んだのを思いだした。
内なる光と外なる光の照応。超先端の光学と人間の内なる精神との接点。
眼の手術をしたお陰で、ゲーテの「色彩論」を読んでみようと思い立った。