やっと 夏が来た! でも、テレビのニュースは、日に日に増えるコロナ感染者の数の話ばかり。後期高齢者は、誰にも会わずに家に篭っていなければならないの………?
子どもの頃の夏休みは、楽しかったなぁ。
「夏の記憶」ーノートからー
朝
目覚めると
大きな夏の青空が
私の、リウマチで
歪んだカラダの内側に
するりと入り
七十年前の朝が
今日の朝と重なる
幼い目に映った
あの青空
顔より大きい くし形のスイカ
甘い香りが あたりに漂い
小さな口から
溢れ出る
赤い果汁が
洗濯したての 白い
木綿のワンピースの胸もとを
真っ赤に染める
容赦なく
照りつける
真夏の太陽の光
夢中でスイカに食らいつく
汚れを知らない子どもらの皮膚を
じりじりと 焼く
ひまわりの黄色い花弁に 目が眩み
ミツバチがぶんぶんうなる
スイカの種 一番遠くに飛ばしたのは
だあれ?
明るい声が
彼方の世界に木霊する
無限の時間が 凝固する
畑の中の
野ウサギの滑走
一匹の蜥蜴が
焼けた石の上を
過った
未来から
記憶の風が吹いてくる

「詩は生命から生まれる/生命は詩からうまれる」
ブッシュ孝子全詩集「暗やみの中で 一人枕をぬらす夜は」を読む。
私のカラダのすみずみまで差し込んでくる美しい光……透明で目に見えないど………。
私の身体が痛みと闘っている時は
私の心は必死で それに耐えている
私の心が苦しみと闘っている時は
私の身体は一生けん命 それに耐えている
ああ いつになったらお前達二人
手をとりあって喜びあう日がくるのだろう 10/6
迷子の小鳥は
わたしの窓辺にとんでおいで
私の手の中で
お前はきっと忘れた歌を思い出す
迷子のそよ風は
私の窓ガラスを叩いておくれ
私はお前にふるさとへの道を教えてあげる
迷子の流れ星は
私の窓辺に落ちておいで
私はお前を赤いローソクにともして
この世の闇を照らしだそう 11/18
失うという事を
知らない人がいる
得るという事を
知らない人がいる
なんだか最近は
そんな可哀そうな人ばかり 1/21
ブッシュ孝子全詩集「暗やみの中で 一人枕をぬらす夜は」より
1945年3月20日生まれの詩人は、1944年12月10日生の私とほぼ同い年。同じ頃、大学を卒業し、不安と希望とともに自分の人生を歩み出し、結婚し、病を得て………。癌のため28才で早逝した詩人の魂は、光の言葉を纏って、私のカラダに命の食べ物を与えてくれる。

「マルテの手記」
いつになったら、梅雨が明けるのだろうか? 今日も雨降り………。何か明るいニュースはないかなぁ〜。まだ30歳なのに突然自殺した青年俳優のこと、筋萎縮症に苦しむ女性を自殺幇助し逮捕された医師達のこと、増え続けるコロナ感染者の数。「人間は生まれた瞬間から死に向かって歩き出す」なんてよく言うことだけど、からだの中に抱えてきた自分の死が、自分のからだで支えられないほど重たくリアルに感じられるようになったら………死を実行するほうが、生きるより容易いのだろうか?などと頭の中で思考を空回りさせているより、友人に電話しよう。
「わたし、死ぬのはいいとしても、コロナでは死にたくない!」と訴えると「同感!苦しいのは嫌よね」と、私より10歳も年長で、その上、心臓疾患を抱える私のお姉さん的存在の友だちの、明るい温かな声が返ってきた。それにしても、年若い人たちの死ー自死ーのニュースを聞くと、心が痛み哀しくなる。
生きることが大切だ。とにかく、生きることが何より大切だ。
………………
詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって………、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。……… 詩は本当は経験なのだ。………
R.M.リルケ「マルテの手記」 大山定一訳

オイリュトミー初伝講座 天使館 笠井叡 2021年10月~2022年9月
オイリュトミーとは、ルドルフ・シュタイナーによって提唱された、言葉と音楽とともに動くことによって
人間の感覚器官を生命器官に、人間の生命を運動器官に変化させるメソードです。
広く身体全体に人間の内的な可能性を広げる練習です。初めての方もどうぞご参加ください。
スケジュール
第1回 2021年10月3日(日)
第2回 2021年11月17日(水)
第3回 2021年12月5日(日)
第4回 2022年1月23日(日)
第5回 2022年2月20日(日)
第6回 2022年3月13日(日)
第7回 2022年4月17日(日)
第8回 2022年5月15日(日)
第9回 2022年6月19日(日)
第10回 2022年7月16日(日)
第11回 2022年8月21日(日)
第12回 2022年9月24日(土)
時間 18時~21時
場所 天使館 国分寺市西元町3の27の9(JR 国分寺駅南口下車徒歩20分)
電話 042 307 9758
参加費 1回5000円
初めてのご参加の方は、事前にご連絡をくださいますよう。
今年も、カサブランカが咲いた………
秘めやかな雨の梅雨日も、やがてくる夏の太陽が予感されて、昔は嫌いではなかった。荷風の「梅雨のあとさき」も、なぜか梅雨の頃になると題名に惹かれてか、読みたくなったりしたもんだが、昨今の日々は、押し付けられた静寂の下で、じっと我慢している自分がいる。先が明ける兆しが見えず………。
シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」を読む。
『代数』
………人間を自分の手でつくり出したものの奴隷とするにいたった罠を、確実な方法で明るみに引き出そうと努力すること。方法的な思考や行動の中に、いったいどこから無自覚なものが忍びこんで来たのだろうか。原始生活への逃避は、怠惰な解決法である。わたしたちが現に生きているこの文明のただ中で、精神と世界との原初的なつながりをふたたび発見しなければならない。……… わたしたちはみな、獄中で殺されるのを待ちながら、竪琴をひく練習をしていたソクラテスとよく似た境遇におかれてる………
ともかくも、よく生きたといえるように……… (田辺保訳)
まだ降り続いている雨の中で、気がつくと、伸び放題の雑草の合間から、数年前に植えたカサブランカが、今年も花をつけていた。初めは、純白で、もっと大輪だったのに、年を追うごとに花弁にうっすらとピンクを載せ、小振りになっていく
バーバラからの手紙
外出規制が緩和されても、相変わらず、高齢者及び基礎疾患のある人は要注意。コロナに感染したら、重症化する恐れあり、という文言がどのニュースにも、見え隠れする。
高齢者+基礎疾患有り+身体障害者 の私は、さてどうしたものか。外側の日常と私の日常がだんだんと離れてくるなぁ……。
バーバラ・ベルガーから手紙が来る。40年来のドイツ人の親友。不思議なことに、私の心に、ふっとバーバラが過ぎると、数日後、彼女から電話がある。いつもそうだ、いつも。日本語が全くダメな彼女と片言のドイツ語の私とが、どうしてそんなに長話できるの?と周りのものが呆れるほど、私たちは握り締めた受話器を離さないで、長話?する。私の拙いドイツ語一言で、バーバラは私の言いたいことをドイツ語で的確に言ってくれる。地球の向こう側で、電話線を通して、私の内側をまっさらに受け取ってくれる。なんと爽やかなことだろう。
私たちは、シュットガルトのイゾルデ・クルツ通りで、たまたま五年間のお隣同士だったにすぎないのに……。あの頃、森を歩きながら、随分色々なことー愛について、男と女について、結婚について、教育について、信仰について、経済について、病気について、東洋と西洋について、人間について………などなどーを語り合った。今でも、その不思議な時間が、生き生きと蘇る。気がつくと、遠く離れているバーバラと地下水でいつも繋がっている。
今回の手紙も、バーバラはコロナの日々をどうしているかなぁ〜と思い描いていたら、届いた。もう、会えないかもしれない。寂しいなぁ、でも、寂しくはない。
私は、歌舞伎町が好きだ!
またもや、梅雨前線の猛威で各地で多くの被害が出ている。九州に住むクララちゃん、カワバタさん、エハラさん、ムラカミさん、ミレイさん………みんなご無事かな? ご無事でありますように、とお祈りするしかないのだが……。
毎日毎日、夜の町歌舞伎町がニュースにのぼる。歌舞伎町は私の育った町。私は、小学1年生からアキラと結婚するまで新宿区役所通りに住んでいた。今から70年前のことだ。家族と一緒に住み始めた頃、今の区役所はなく、コマ劇場もなく、鬼王神社から大久保小学校につづく一本道は、ジャリ道で、途中に伊勢丹の倉庫があっり、あちこちに雑草だらけの空き地があったように記憶している。夏になると、風鈴やさん、キャンディーやさん、金魚やさんが、天秤棒を担いで大声で「キンギョォー、キンギョ。キンギョォー、キンギョ」などと叫びながら通っていく。
やがて、コマ劇場ができると、その周辺の映画館が、我が大久保小の夏休みの映画鑑賞会会場になった。前夜の繁華街の熱気がようやく鎮まり、まだ町全体が深い眠りに沈んでいる真夏の早朝、私はワクワクして、爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、映画館に急いだ。
「ダンボ」「白雪姫と七人の小人」「シンデレラ姫」「砂漠は生きている」「野ばら/ウィーン少年合唱団」……。夢のような不思議な世界!楽しかったな。今でも思い出すと、そのワクワク感が体の中に蘇る。歌舞伎町には、八百屋のヤエコちゃん、料亭のケイコチャン、お勤めのナミちゃん、学者のフクハラくん、中国人のラさん、美容師のヤマノくん………ありとあらゆる職業の、お金持ちの家の子も、貧しい家の子も、みんなごちゃ混ぜになって住んでいて、一緒に遊んだ。親たちは、町の戦後復興に夢中で、子どもたちのことに構っていられない。青線地帯、売春婦、パンパン・ガールとGI、シスターボーイ、ヤクザの親分とおかみさん、警察、花園神社のお酉さま、バナナのたたき売り………哀しくも、懐かしい思い出。
朝まだき、区役所通りに斜めに差す淡い透明な光を背にうけて、私は、仙川の女学校に六年間通った。
人間の、あまりにも人間臭い町/私を育ててくれた町。私は、歌舞伎町が好きだ❣️

純粋であること
昨夜、天使館で鈴木ユキオくんのダンスを観た。夜、夢で「純粋であること」という声を聞いたような気がした。ユキオくんのダンスと関係があるのかないのか分からないけど…………。
天使館という白いキャンバスの上に、ダンサーは、B5の鉛筆でひたすら線を描いていた。意図を消し、解釈せず、薄暗い闇の中で、ただひたすら………。
今日、梅雨前線の大雨で、九州地方の人々が、コロナ禍の上、またしても大きな被害を受けている。どう考えても、心が重い。
久しぶりに、リウマチの整形外科の主治医の診察を受けた。人工関節を入れた右膝はバッチリ。左膝はグラグラ。崩壊するのは時間の問題、と主治医は言う。
さてどうするか?with コロナの新しい生活様式をどう生きていけるだろう。帰り、車のフロントガラスを叩きつける雨の音を耳にしながら、うつらうつらしていると、目の前に前夜のユキオくんのダンスがあらわれた。
意図せず、解釈せず、ただひたすら………純粋であること。
心のなかで、何時もそうありたいと願ってはいるものの………
二つの牧草地に………
二つの牧草地にはさまれて
どこへも通じていない道、
まるで、じょうずにその目標から
そらされてでもいるように。
しばしば自分の前に
純粋な空間と
季節よりほか
何も持たない道。
R.M.リルケ「フランス語の詩」より 高安国世訳
eine Tüte Bitte‼️
今日からレジ袋が有料になるそうだ。もう久しくスーパーへ買い物に行っていないなぁ!コロナで外出自粛ではなく、もっと以前から、私の外出自粛は始まり………あぁ、ゆっくり一人で、好きな菓子とか果物とか探したいな、などと時々思ったりするのだけど………。
40年前、家族でドイツに移り住み、初めて近所のスーパーに食料品を買いに出かける時、アキラに「レジのおばさんに、グリュス ゴット(Glüß Gott )アイネ テュテ ビィッテ( eine Tüte bitte)とニコッと笑いかけ、最後に、チュス(Tschüß)と言えば、完璧、大丈夫」と言われた。ほんとかな? と思ったが、先ずは、10、6、5歳の男の子たちの胃袋を満足させなければ、とアキラが教えてくれた三つの言葉を口の中でモグモグ唱えながら、スーパーに向かったのを懐かしく思い出した。
Tüteはレジ袋。その当時から、ドイツではレジ袋が有料だったのだ。レジ袋をお願いするとレシートの一番下に〇〇ペニッヒと、ちゃんと記載されているのを後で知った。
Grüß got は、南ドイツ、オーストリアでの 「こんにちは(Guten Tag)」。私がベルリンでグリュス ゴットと挨拶したら、ベルリーナたちは「ヒサコがグリュス ゴットと言った❣️」とおお笑い。みんなにハグされた。北ドイツでは言わないそうだ。古臭く大袈裟な言い方なのだろう。でも、素敵な響きで私は好き。笑われても構うものか、今でもドイツ人に会うと「Glüß got!」が出てきてしまう。
「ウィーン、旧市街の小路にて」 長田弘
…………………………
グリュス・ゴット!
挨拶のなかに神さまのいる街
小広場のカフェで、メランジュを啜る。
刻がくると、塔の鐘の音が、
波紋のように、夕空にひろがった。
鐘の音は、天翔ける
ウィーンの死者たちの足音だった。
6月から7月へ
あぁ、6月もあとI日。7月になると、子どもたちは、あと半月もすればやってくる夏休みを、毎日毎日楽しみに待っている。少なくとも私の子どもの頃は、そうだった。
夏休みといえば、海水浴、山登り、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家にお泊まり、花火大会、鎮守の森の夏祭り………。懐かしく、楽しかった思い出が目に浮かぶ。どれもこれも、濃厚接触、三密有りで、コロナ時代の夏休みスタイルにはそぐわないだろうなぁ〜などと思いながら、梅雨の晴れ間の洗濯干しをしていると、雑草の間から、チョロチョロと可愛い蜥蜴が2匹、干場のコンクリの上を横切った。親子だ!上を見ると、真っ青な空に白い雲が浮かんでいる。道路でお向かいの子供たちがボール遊びをしている。あかるい笑い声が聞こえて来る。
中庭から、ナオカさんが「ひと口一緒に食べませんか?」と、大きなお盆にざる蕎麦と卵焼きを載せて持ってきた。梅雨の晴れ間の昼下がり、思い煩うことはない。
わたしは動物の………
わたしは動物の目のなかに
永続する穏やかな生を見た。
冷静な自然の
公平無私の静かさを。
動物も恐れを知らぬのではない。
けれども彼らはすぐ前に進み、
その充溢の野の上で
他処の味のしない
現前を草はむ。
R.M.リルケ <フランス語の詩>より 高安国世訳

私は、何時も空を眺めている。
メールアドレスを新しくするにあたって、思い切ってメールサポートに電話する。こういう電話はいつも苦手。嫌だなぁ〜と思いつつ携帯で電話すると、女性の声が「コロナ対策でオペレーターの人数が少なく、ご迷惑をおかけします………今ですと15分ぐらいでお繋ぎできると………」と言う。やれやれではあるけど、どうせ自粛中の身、待つことにした。ぼんやり庭を眺めていると、雨水をたっぷり含んで重たくなった桜の葉の繁みの中から、黒い鳥がわたしの目の前を、左から右にスゥーと横切った。すると、屋根の上の方でキィキィと鋭い鳴声がする。すると、さっきの鳥だろう、今度は右から左にサァーと横切り、もう一羽がその後を追って上方に飛び去った。その素早さに驚いていると、携帯電話が繋がり、オペレーターの「今日は何のご相談でしょうか?」と言う声が聞こえた。それからの私は、しどろもどろ。必死に指示通り携帯の小さなキーボードに入力するもミスばかり。私の理解能力のなさ、スローな動作に、若いオペレーターはよく我慢してくれている……などと思い始めると、ますます、頭が混乱して、ああ、もうダメだ「またの日にお願いするわ、アリガトウ」と程よく言って、電話を切って、ホッとする。
庭に出て上を見ると、梅雨の雲間に青空が透けて見えた。
人の権利 長田 弘
木立の上に、
空があればいい。
大きな川の上に、
風の影があればいい。
花と鳥と、光差す時間、
そして、おいしい水があれば。
僅かなもの、ささやかなものだ、
人の生きる権利というものは。
朝、お早うと言う権利。
食卓で、いただきますという権利。
日の暮れ、さよならまたねという権利。
幸福とは、単純な真実だ。
必要最小限プラス1。
人の権利はそれに尽きるかもしれない。
誰のだろうと、人生は片道。
行き行きて、帰り着くまで。

止まらないように
雨が降ったりやんだり、今日は朝から梅雨冷え。自粛規制も解けたようで、みんな自由に移動できるらしい。でも私の自粛はまだまだ……解除の見通しは未定。
巣篭もり状態だった天使館も徐々に起き出して、昨夜は、なおか×ミツタケ企画「ダンス現在」再開、叡がソロを踊った。観ていただく方は15名。みなさんマスクをして、手の消毒を済ませて、間隔を置いた客席に黙して座る。みんな協力して場を作る。オソノさん、ミヤコサン、ジョウサクさん、バラバさん、ヨシコさん……遠くからも近くからも、知ってる人も知らない人も、同じ場で、ダンスを共有できる喜び、嬉しさ、楽しさ、ありがたさ………。どんなことがあっても、止まらないように。
紫陽花
6月になって、少しづつ天使館も動き出してきた。とはいえ、これから先、ダンスはどうなっていくのだろうか………?などと思っていると、名古屋に住むマキコさんから、お庭に咲いた額紫陽花(何とも美しい薄紫色の清楚なアジサイ)の写真を添えたメールを頂いた。
そして、今日、都内に住むミナコサンから愛猫ミミを素描した、素敵な梅雨見舞いのお葉書が届いた。
今日はミツの誕生日。45年前の分娩台の上で「あらあら、またおちんちんを付けたかわいいあかちゃん!」と言った助産婦さんの声が聞こえる。その彼も、何時の間にか踊る人になっている。
新聞の連載小説は、うっかり読み忘れるので苦手な私なのに、なぜか、先週金曜日から始まったジョナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」柴田元幸訳を楽しみにしている。遥か昔の時間が未来からやってくるようなワクワク感があるみたい。
どんな時でも生きることは祝祭でありますように。
「水色のあじさい」 R.M.リルケ/高安国世訳
これらの葉は絵具壺の底に残った緑のようだ、
水気を失い、葉尖も鈍く、ざらざらしている。
その前にある花房の水色も
在るというよりは、ただ遠くの反映にすぎぬかのよう。
その反映も涙にとけ、模糊として、
今にもまた消えてしまいそう。
古い水色の書簡箋のように
黄色や、菫色や灰色の斑ができている。
子供の前掛けのように洗いざらしで、
もう着られなくなって、どこかへつっ込んでしまったもののよう。
小さな生命のはかなさが何と胸に沁みることだろう。
だが、とつぜん、水色はよみがえってくる様子、
花房の一つに。緑を背景に歓びをとりもどした
水色のかたまりを見ていると心がふるえてくる。

雨の日に
いよいよ梅雨入りのようだ。まだ陽があったお昼前「駅に新しいパン屋さんができたので、散歩がてら買ってきたの。食べてみて」と久しぶりに玄関先に現れた和子さんが、疾風のように去っていった後、何時の間にか音もなく雨が降ってる。ミツが中庭から「市役所に行くから、何か買い物ない?」と聞きにきたので「ジャガイモと葡萄ジュース」を頼む。テレビでは国会中継をやっている。
書架の端にあった黒田三郎詩集をとって読む。
けし
I
私の上にのしかかる
私の重さに
耐えかねて
憤然として立ち上る
や否や
貧血を起してぶっ倒れる
ああ 何時かとおい日に
私は立っていたことがある
ただひとり
白い果てしない野の中に
真昼
微かにけしが匂っていた
黒田三郎「失われた墓碑銘」から
ああ 懐かしい黒田さん! 神保町の路地裏の古びた建物の二階の狭い昭森社の編集室で、詩人の清岡卓行さんと長田弘さんと貴方と三人の編集で「詩と批評」誌を刊行し始めた時、私はまだ何も知らない新入社員でした。お酒が入ると、優しく温和な紳士の黒田さんが、突然、おどろおどろしい黒田さんに変貌、びっくりでした。でも、その翌日は何時も、狭い13階段を音もさせず上ってきて、編集室の扉を開け、大きな背中を丸めて、ショートケーキのお土産をそっと差し出すのでした。またもや、びっくりする変貌ぶり。でも、何と優しい温かな人なのだろうか……!?
今日、忘れていた黒田さんの言葉に触れて、あの時の温もりが今も私を温めてくれているのに気がついた。相変わらず、のろまだなぁ〜わたしは。
おしいれのぼうけん
「おしいれのぼうけん」の著者の訃報をネットで知った。何度子どもらにせがまれて、この田畑精一のお話しを読んで聞かせたことか。懐かしい愛読書のひとつ。かつての我が家の六畳間の押入れも三人の男の子たちの格好の遊び場だった。夜、寝る時間だよぉ〜と言って、部屋いっぱいに三つの布団を敷き詰めると、そこは途端に大海原になり、砂漠になり、コンバットごっこの戦場になる。子どもらは、何度も押し入れからジャンプして大海原に飛び込む。風呂敷のマントを首に巻き、カッコいい仮面ライダーになり切って「トォー!」と掛け声をかけて、天井めがけて飛び上がる。ある時は、お兄ちゃんが弟を中に閉じ込めて、外から押し入れの戸を叩いて脅かす。やがて、ケンカがはじまり、下の子の泣き声が、上の子たちのクスクス笑いがもれ聞こえる。私は、さあみんな、お布団に入って………と号令をかけ、明かりをパチンと消す。押し入れの熱も鎮まり、眠りについた子どもたちの夢が、宇宙の果てまで広がっていく。
50年前の子どもたちの風景。コロナ時代の子供たちはどんな風景を生きるのだろうか。
煌く彗星
栗の花が咲く6月。私が子育て真っ最中の頃、我が家の周辺に栗林や柿園が多くあったのに、いつの間にか消えて、広い更地になっている。秋の実りの頃には、地主さんが近所の子どもたちを集めて栗拾をして楽しんだものだが……いまはひっそりとして、子どもたちの明るい笑い声も聞こえない。さみしいなぁ。
アメリア・イアハートという名前を、茅香子先生の英語翻訳の課題で初めて知った。1937年世界で初めて世界一周飛行に挑んだ女性飛行士。同年7月彼女の飛行機は、目的達成寸前に太平洋上で消えてしまう。その後の消息についてはあれこれと語られているが確証がない。宇宙に向かっていち早く飛び出し、彗星のように見えなくなったアメリアは、今でも多くの人の心に煌く星となって生きている。
大空を鳥のように飛びたいという人間の切なる希望が実現しはじめてから、まだ100年しか経っていないのに、今日の地球を取り巻く宇宙環境は、なんと嘆かわしいことか。絶え間なく人工衛星は回り続け、目に見えない電波は飛び交い、人々は飛行機でグローバルにどこにでも移動できるようになったが、その結果、今やコロナ禍が地球上全てに広がり、飛行機は飛べず、燃料はあまり、国と国とがギスギスしはじめ………。ついこの前100年前は、満点の星空に向かって人々の心は、夢と希望で輝いていたというのに………。
課題の翻訳作業はお休みして、その頃のことを調べてみる。
ライト兄弟 1903年世界で初の飛行機を発明。
アメリア・イアハート 1897年〜1932年。1932年女性として初めて大西洋単独横断飛行成功
「翼よ あれが巴里の灯だ」のチャールズ・リンドバーグは、1902年生。1929年プロペラ機でニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功する。
そして、何より嬉しかったのは、懐かしい飛行少年イナガキタルホと「星の王子さま」のサン=テグジュペリが同じ1900年生まれだった❣️
星を食べた話
ある晩露台に白ッぽいものが落ちていた 口へ入れると 冷たくてカルシュームみたい
な味がした
何だろうと考えていると だしぬけに街上へ突き落とされた とたん 口の中から星のよ
うなものがとび出して 尾をひいて屋根のむこうへみえなくなってしまった
自分が敷石の上に起きた時 黄いろい窓が月下にカラカラとあざ笑っていた
稲垣足穂「一千一秒物語」
1968年6月のある日、京都伏見桃山の婦人更生寮に志保夫人とお住まいの稲垣足穂をお訪したことがある。更生寮に向かう道すがら、辺り一面栗の花の匂いがいっぱいだった。何のお喋りをしたのだろうか、時間も忘れて話し込み、結局、志保さんにお世話になり一泊した。思い返すと何と礼儀知らずだったかと恥ずかしい。温かい先達たちに心から感謝。


EURYTHMIE WS 12 IN HP akira kasai 5/31

WS 12
今日で5月も、おしまいです。ついに、この2ヶ月、私は家の近辺以外のどこにも出かけることなく過ごしました。明日、6月から少しずつ生活を変えていきたいと思います。天使館関係のダンスやオイリュトミーの講座も、今できる、可能な形態で、少しずつ再開できればと思っております。
今日のオイリュトミーWSは、子声の「K」を取り上げます。
日本語の七十五声の中で「k行」は「天火水地」においては、「天」に分類される子声です。イメージ的には、「神」「輝く」「光」「極」「君」「頭かしら」「金」とかの言葉と結びついていますね。皆さんもご存知でしょうけれども、古代エジプトに「KA」という神話的な動作があります。
マンフレート・ルルカーというドイツのエジプト学者が、この「KA」について、およそ次のように述べています。
KAは生命を創造し、維持する力を表す言葉である。古代においては、「KA」は生命の根源的な力である。それは一人の人間(アンドロギュヌス)の中の男性的能力のことであり、それは生命の象徴である牛(カー)を意味する言葉の音声を作り上げている。同時にそれはすぐに精神的、霊的な力を意味するようになった。形象文字では、左右の両手に直角にあげている姿である。
神話的には、KAは人間が誕生する以前から存在し、誕生とともにその人間と一体になり、再びその人間が死ぬと、KAはそのまま人間から離れて生き続け、生命の根元に還る。それは人体の根本を生かす力であるが、物質的な食物ではなくて、人間の最も霊的な食物である。そこで、エジプトでは、すべての生産物はまず最初にこのKAにささげられた。
エジプト神話的に言うならば、今の私たち自身の中にも、このKAが働いていて、もし私たちが自分のカラダの中にkAを見いだすことができるならば、人間のカラダはただ単に神々によって作られた体ではなく、人間自身がその力を「身体創造」として用いることができる、ということを意味しているのでしょう。kAは両手を左右にまっすぐに伸ばし、肘のところで手のひらを内側にして直角に曲げた姿勢です。これは子声のK、音階で言うF の音からGのへ移行する、そのちょうど中間のところに当たります。直立に立って、この姿勢をしばらくのあいだ続けていますと、カラダの中に、ある変化が生じてきます。最初に心臓周辺の力が次第に強まっていき、その力が喉を通って上顎と下顎の方に流れるようになります。丁度子声のKを発声しているときの口の形です。
そして左右の両手の十の爪のところに向かって、上下の口の歯の力が流れるようになります。
心臓と歯と十の爪が一つの力の流れの中で結びつけようになりましたら、そこで、声を出さずに全身でKA声を発声します。さらに、吸気発声において、全身に嗅覚の力を流し、その力が心臓と歯と爪の流れと合流するように、繰り返し練習します。
次に子声の「KI」を右手を上に次に左手を上に左右交互にとりながら、無声で子声KIを全身に流します。この時この力は左右の聴覚に結びます。
次にこのKAとKIを嗅覚・聴覚を交えてカラダに変化が生じるまで、交互に繰り返しとります。
次に胸の高さのところで子声のKOを一回づつ、両手を下に下ろしながら十回とります。次に、
KO・KA・KI KO・KA・KI KO・KA・KIをKOを喉に、kAを嗅覚に、KI を聴覚に結びながら、耳鼻咽喉が一つに結ばれて、目に「見えないカラダ」の中心点となるまで続けます。
庭の花に
夏に向かって、庭の雑草が日に日に勢いを増してきた。自分で草取りもできないのに、生協で苗を注文し、アキラに植えてもらう。市場から黒いビニールのポットに入れられ運ばれてきた疲れ果てた様子の小さな苗も、土に戻してやるとホッとしたように生気を取り戻す。石ころだらけの大地でも、雑草に埋もれそうになっても、黙々と新しく生まれ変わり……健気だなぁ!
緊急事態宣言の解除の後は、コロナ時代を生き抜くために、コロナと生きる新しい生活がやってくる。40年以上リウマチと共に生きてきて、それに加えて、コロナとも共に生きていくとは、と思いあぐねていると、庭でアキラが花の水遣りをしている。昼間の太陽でぐったりした花が気になったのだろう(自分で植えた花でもあるしね) 。たっぷり水をもらった今日の花は、明日の花ではなく………やがて……。

いそぐ水、走る水……
いそぐ水、走る水、ーぼんやりした大地に
すいこまれる忘れやすい水、
わたしたちのくぼめた手のひらに、しばしとどまれ、
思い出すがいい。
きよらかな、すみやかな愛、無関心、
走りすぎるほとんど不在といっていいもの、
おまえの慌しい到着と出発のあいだで
ふるえる僅かな滞在. R.M.リルケ『果樹園より』(高安国世訳)

夕暮れの散歩
久しぶりに朝の光。いつものように、空に向かって、おはようぉ〜と呼びかけたが、空も雲もよそよそしい。目を閉じて、たっぷり空気を吸い、太陽の温かいぬくもりを体の隅々まで感じよう………少しづつ、私も世界も動き出し、鳥の囀りが聞こえる。
エッセイスト大平一枝さんが、チカシの花の写真に寄せた文章をネットで読む。写真も美しいが、文章がとても素敵だ。
だれかには見えていて、自分には見えないもの。
あなたには見えなくて、私には見えるもの。
同じ風景なのに、私達の目は不思議だ。
見ようと思うと見えて、みようと思わないと永遠に見えない。
夕暮れ時、二日ぶりに、アキラと散歩に出た。雨でたっぷり水を含んだ道端の名も無い小さな花々が、うれしそうに風に揺れている。
森の大きな樹の後ろには、
過ぎた年月が隠れている。
日の光と雨の滴でできた
一日が永遠のように隠れている。
森を抜けてきた風が、
大きな樹の老いた幹のまわりを
一廻りして、また駆け出していった。
どんな惨劇だろうと、
森のなかでは、すべては
さりげない出来事なのだ。
…………… 長田弘 「森のなかの出来事」より

ポスト・コロナ
雨の日が続いて……。
ポスト・コロナの生活形態についてのニュースが多くなってきた。もう今までのような生活は戻らない。慣れ親しんだ習慣、感覚、価値観、人間関係のあり方……着なれた服をやめて、まったく新しい服を着る。私にできるだろうか?
40年前の今頃、私たち(アキラと私)は、突然(彼らにしてみれば)三人の息子たちを、あたかも、うららかな春の陽が差し込む小川で、愉しく泳いでいた淡水魚たちを、突然、網で救い上げ、塩辛い海に投げ込むようにドイツに投げ込み、塩水の海にやっと慣れた頃、予告なしに、また淡水の川に戻した………。ずいぶん、身勝手なことをしてきたなぁ、息子たちにとっては、さぞ迷惑なことだったろう、などと、今更ながら自分に呆れたり……。
たえまなくあちらへこちらへ
花盛りの枝が風に揺れ動く
たえまなく ゆらゆらと
私の心が子どものように揺れ動く
晴れた日と曇った日のあいだを
欲望と諦めのあいだを。
花々が風に散って
枝が実をつけるまで
心が幼年期に飽きて
おちつきを得て こう告白するまで
不安にみちた生のたわむれは
喜びにみち むだではなかったと。
「花盛りの枝」 ヘルマン・ヘッセ/岡田朝雄訳

「驢馬といっしょに天国へ行くための祈り」
梅雨のような雨の日。毎日桜の木に飛んでくる小鳥たちも今日は来ないなぁ……。稽古場の窓に灯りがついた。誰か一人で稽古しているらしい。三密を守って、ひっそりと静かに。
今の時間、やってくる新しい時を考えるより、今までやってきたことを振りかえって見る方が、弱虫ヒサコにとって、今を生きる力になるのでは?と思いながら………。
私が医者からリウマチ性関節炎と診断されたのは、1978年3月3日(なんと10回目の結婚記念日)
その当時の日記を読むと、我がことながら面白い。その年の1月から各月1週間の「エーテル宇宙誌のための天使館における連続公演」が始まり、3月末の1週間は「エーテル宇宙誌」の第Ⅲ期が予定されていたから、私のリウマチ診断は想定外の出来事だったが、すぐに色々な方面の方々から「西洋医学はダメ、玄米と胡麻塩で体質を変えこと」「まず断食療法をすること」「薬は漢方薬で」等々、温かいご意見をいただき、それまで健康だけには自信があり、医者要らずの私だったので、一つ一つ教えに従って実行した。朝手首、膝がこわばり痛む、生活が苦しい、などと愚痴を言いながらも、断食に向かい、1日の食事、野菜スープ、生野菜のサラダ、さつまいもだけ。肉が好きな私としてはかなりがんばっている。8才、5才、3才の男の子の母親である私は、午後になると下の二人を引き連れて、スーパーに買い物に行く。子どもらを寝かし、「エーテル宇宙誌」公演真っ最中の天使館からもれてくるバッハのピアノ曲「フーガの技法」ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴きながら、高橋たか子の小説を夢中になって読だり、子どもたちの寝顔を眺めて「3人とも全く手に負えない腕白になった。でも、あと2年もすれば、状況も変わるだろう。焦ることはない」などと自分に言い聞かせたり………。
「がんばっていたなぁ〜」と思わず声を出すと、机の向こう側から「子どものままおとなになったような人だからね、あなたは」とアキラが言った。えっ………それどういう意味⁉︎ 聞き捨てならない、と思ったが、ひょっとしたら当たっているかもしれない。今だに成長しない私がいる。

絵を描く
また、絵を描いた。次第に体が壊れて行く速度が増してきた。特に頭部を支える頸椎の変形が進み、歩行時のバランスが危うくなり……などなど、いろいろあるが、私にとっては40年来の、私のリウマチの体と私の意識の共存生活の流れのうちなので、あまり驚いてはいないものの、身体的な辛さや苦しさが増すと、いい加減、自分を放棄したいな、と心の中に住んでいる弱虫が頭をもたげてくる。アブナイなぁ〜。
絵を描いている時、頭の中に、ローマで見た黒々とした松の色と風にそよぐポピーの群生、パリの街をおおう薄紫の光、ドイツの銀の森の黄金の紅葉、奥入瀬渓流の若緑の空気、春はあけぼの大和三山の黎明、真夏の国分寺の杜……記憶の底から生まれてくる色がいっぱいに広がり、そんな時、私は体を忘れている。色の中に私がすっぽり入ってしまっている。イマジネーションが私をリウマチの体から解放してくれる。
ポスト・コロナの社会がどうなるのか、想像がつかない。今までのように人にも自然にも直接触れて、目に見えない何かを共有し歓び合うような時はもう来ないのだろうか………?
「貧しさは内面にさす美しい光」 R.M.リルケ

WS コロナの時代からの労働とダンス 笠井叡 2020年5月12日

経済活動は今日、最も重要な課題である。それは現代という歴史的な転換期において、唯一解決しなければならない最大の課題である。この問題を解決しようとしない限り、アート全体の未来的な方向は見えてはこない。今日、人間は総じて、経済活動の本質が何であるかを、明瞭に意識しているとは、言えない。なぜならば、「人間の労働力は, 経済活動に組み込むべきだ」と,いまだに考えているからである。人間の労働力は、経済活動に組み入れるべきものではない。人間の労働力は、賃金契約の対象でもない。労働における「賃金契約」は、現代社会において、最後の奴隷制であるといえる。人間は今もってなお、金融奴隷制の中に甘んじている。人間の労働は、神聖な個人の「精神生活」、それは権利でも義務でもない、「自由」を基調とする、個人の精神生活に属している。ダンサーにとって「舞台公演」は自己の祭壇に載せるせるべき、神聖な供物である。同じように、すべての「労働」は、一人の人間の精神活動が生み出す最高の供物である。それは、賃金契約の中に組み込まれるべきものではない。労働力を経済活動から引き離したとき初めて、多数決を基調としている民権制社会から、真の人権社会への移行が生じる。
神権制という最も高度な精神性を実践しようとする古代社会において、その経済基盤は奴隷制によって、実現されていた。奴隷は売買の対象か、商品以下の存在であった。或いは贈与品として扱われた。動物と同じような扱いを受け、一切の人間の権利を有しなかった。これは古代神権制の最高の矛盾ではある。しかし神権制から王権制に移行していったのは、この奴隷制の矛盾解決のためではなく、神権という精神性を失った者たちによる、肥大化した地上的欲望によって、王権社会の経済活動が成り立っていた。その経済活動とは、人間存在のすべてが「経済活動」の中に組み込まれ、農産物や工業製品や武器産業のための「経済力としてのみ」、人間が存在した。その点において、古代の奴隷制と王権制による農奴制は、変わらない。民権制は人間存在を労働力として扱うことの矛盾から、民主主義という名のもとに、人間を引き離した。
しかし、それに代わって、「商品」という名の「労働力」が現れたのである。民権社会において、もはや古代的な奴隷制や王権制社会の中における農奴制は消滅した。しかし、新たに現れたのは労働力そのものが、「商品」「に変わったのである。いずれにせよ、経済活動における奴隷制は、こうして基本的に民権社会の中においても、存在し続けている。労働の本質を人間がみずからの中からとらえようとせず、自分の労働力が商品化されているということに対する「嫌悪感」を感じながらも、それが当然であるかのごとくに、一種の「催眠にかけられた状態」で、人間は経済活動に組み込まれている。
人間有機体において、頭部の感覚神経系の働きと腹部の新陳代謝系、消化器系の働きは、互いに結びついてはいるけれども、互いに有機的にそれぞれの働きが自立することによって人体は保たれている。もし、頭部の感覚神経系が常に新陳代謝に働きかけて、結果として体がストレスを強く持ったまま代謝系の働きを行うならば、それは、やがて病的な状態に移行しうる。それは社会有機体でも同じである。
立法・司法・行政を行う政府や政治的な働きが強く、経済活動に介入するならば、経済活動は自立して自分の活動を行うことができない。それは政治利用の経済活動、病的な経済活動となる。経済活動は国家や政治的目標から完全に自由になって、経済そのものが自立した働きを有機体の中で行うことができなければならない。経済活動の目標は、富の獲得や資本の蓄積が問題なのではなくて、資本が一つの有機的社会の中で、必要なところに常に流れていく、その流通ができていなければならない。資本が一箇所に集中しすぎたり、人間的活動に供されない富みが、一つの場所に集中して、流通性を失ったり可動性を失ってしまうと、経済は肥満状態に陥ったり、やがて死んでしまう。経済活動によって、個々の必要な利益は得られなければならないが、それは、経済活動の「目標」にはならない。経済活動が健康であるためには、人間はそこから自分に必要な利益を得なければならない。しかし、経済全体の目標は、利潤追求や富の蓄積そのものにあるのではない。経済活動においては、各人が自由に自分に合った労働、仕事を行い、そこから利益を得るわけであるが、その利益は、本来、賃金契約から来るものではない。
一人一人の人間は、自分に合った仕事を見出し、社会の中でそれを分担する。自分は農業のいかなる部分を請け負うか、工業のいかなる部分を行うか、舞台芸術においては、いかなる部分を自分が分担するか、という分担が社会全体の中で承認され、その承認にふさわしい労働を行い、その労働が社会全体の中に組み込まれるような契約が、「賃金契約」に代わって基本になければならない。このような契約を「分担契約」という言葉で表したい。そしてそのことによって労働を賃金契約という制度から、純人間的な「労働の本質」と結びつくような契約へと、移行すべきであろう。
自分がある仕事を「分担しよう」とするのは、基本的に労働を経済活動から分離しているからである。労働は自分にとって自己実現のための唯一の精神活動であり、利潤を目的しているものとは、根本的で異なっている。労働が経済過程の中に組み込まれている限り、労働は必ず「商品の性格」を持たされることになる。そして商品の性格を持つ限り、労働は、商品の生産と商品の消費からなる、経済生活の中に組み込まれる。そこから出てくるものは、商品を通しての「利潤の追求」が、経済活動の目標とならざるを得ない。
労働による生産物 (ダンサーであればダンス作品) は商品として流通するのではなく、カラダの中における栄養素が必要なところに必然的に流れなければならないように、生産物は商品的な価値として流通するのではなくて、社会の中における必要なところに速やかに流れるための社会的な栄養物なのである。人間の生活形態は、生産物が商品として流れるところの利潤を、自分の労働力の当然なるものとして受け取ることによって成り立つのではない。彼が精神活動としての労働を行うのに必要な当然の結果として、すべての生活費は基本的に国家によってすべて、保障されなければならない。すべての生活費は労働によって得られるのではなくて、 「生きるために労働するのではなく、労働するために生きる人間」 の当然の結果として、国家によって完全に保障されなければならない。
すべての利益は人間が「意識の力によって生きている」という事実から、生じるものである。労働する人間は、この世に存在するから生きているのではなく、自分の生きることに全意識の力を投入し、生きることを物質の世界における「単なる物質代謝」としてではなく、自分の肉体と出会うこと、物質的な環境と出会うこと、大自然とという物質の総体と出会うことによって、常にそこに対して最大の意識の力を流し込もうと、努力すべきなのである。そうするならば、全くカラダを動かすことのできない病を持つ人々であろうと、存在してること自体が、すでに精神活動としての労働となりうる。すべての生活に必要な利益は、労働の結果によるものではなくて精神活動を行っていく上での「意識の運動」そのものから生じる。
そして労働を、精神生活として行うことから生じる一切の責任は、個人が担うべきものではなくて、社会全体がそれを担うべきものなのである。
Marienkäfer

朝、キッチンの机の上に、可愛い聖母マリアの虫・テントウムシがいた❣️
シュッツトガルトの銀の森のお菓子屋さんにテントウムシのチョコレートがいっぱい並んでいる頃だけど、今年は?……と、心と体が重たい弱虫の私に、小さな体の黄金虫は何か言ってる。
ずっと以前あなたが私を見つけたころ、
私は小さい、ほんとうに小さい子供でした、
そうして菩提樹の枝のように
ただ静かにあなたの中へ花咲いていました。
私はほんとうに小さくてまだ何の名前もありませんでした、
そうしてただほのかなあこがれに生きていました。
今あなたは言うのです、私がどんな名前にも
もう大きすぎると。
すると私は、神話と五月と海と
ひとつになっている私を感じます、
そして私は葡萄酒の香りのように
あなたの魂を含んで重いのです………
R.M.リルケ『初期詩集』より (高安国世訳)
花の香り
今日は母の日。ともすると、日にちも曜日も忘れてしまいそう。今日10日は朝起きたてに、骨粗鬆症の薬を飲む日。一ヶ月に一回の服用なので、忘れないように私の誕生日の日にちにしているのだが、ついうっかり飲み忘れることが多い。それにしても、果たしてこの薬の効果があるのかどうか分からないが、気にしても仕方がない。なるようにしかならないだろう。
毎朝ベランダから庭を見下ろすと、雑草の間からすっかり忘れていた花が、ちょこんと顔を覗かせているではないか!
名前も忘れてしまっているのに、草花はひたすら私に与え続けてくれている。
ほろ苦いけれど 優しい
それが土の匂いとまじりあい
なま暖かい真昼の風に乗って
もの静かな客人のように窓から入ってくるときは。
私はよく考えてみたー
この香りがこんなに貴重に思われるのは
毎年私の母の庭で
最初に咲く花だったからだと。
ースイセンの香りはー ヘルマン・ヘッセ (岡田朝雄訳)

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 05/09
WS 10
皆さんこんにちは。前回のワークショップにおいても、述べたことなのですけれども、進化の出来事は二度と同じことは繰り返されない、という言葉の持つ重みがずしりとのしかかってくるような気がします。厳しい出来事はある意味で人類に向けての、自然界からの鞭である、と思います。皆が一体となって、結びついていかなければ、本当の意味で乗り越えることはできないような出来事だと思います。それに伴って想像を絶するような管理体制や個々の人間に対する内的な領域にまで、外側からの統制意思が入り込んできます。
次の練習は起きたら、すぐに毎朝行うものなのです。ぜひ皆さんも取り組んでください。
これは、超絶微細感覚器官を形成する、最上の方法です。そして、この微細感覚器官にアクセスすることのできるのは、まぁこう言ってよければ、Archangeleu大天使,それから、Archai権天使等だけです。権天使は、人間自我と宇宙自我の仲介者です。
1、 最初に行うことは、一切の日常的な思い、思い出、今日やろうとするプログラム、仕事のプログラム、すべての人間関係から流れてくる思いを、全部消去します。
2、 自分が自分に語りかける言葉もSCH(静まれ)です。
3、 その場所は胸の中の一番深い奥の奥の方です。静けさとともにその深みの中に静かに入ってきます。
4、 心臓と肺の方から流れてくる波が、静かにその静けさの中に打ち寄せています。
5、 その二つの波を静かに、やり過ごしていると、ずっしりでした岩盤のような、本当の静けさが訪れてきます。その静けさに、全身を「聴覚」にして静かに対峙します。自分に由来するものがすべて消滅します。自然界に由来するものがすべて消滅します。すると胸の奥の方から、声も息も伴わない沈黙の母声のような声が忍び寄ってきます。やがて、その母声がはっきりと、体中の毛細血管の中で超極微細な振動を発し始めます。その微細な振動に全身を静かにゆだねます。その時,自然に体が動く場合には、その体の動きを止める必要はなく、その振動を感じ続けます。
6、 ここまで来たらあなたの意思が加わります。I・A・Oの母声を発声することなく、頭部全体にI、両手O, 足にAを流します。
7、 毛細血管の中の微振動と 三母声の流れを保持しながら、水平に横たわっている睡眠姿勢から、ゆっくり立ち上がって、布団の脇に立ちます。そこから垂直に頭から天に向かってI,両足を開いて大地全体の方にA、そして両手で宇宙のすべての空間を包みながら、Oを行います。3回続けて、IAOを行います。毎朝行わなくてもいいと思いますが、週に2回、金曜日の朝と火曜日の朝に2回行えるといいですね。
朝の練習
1、不動心
2、絶対平静
3、沈黙の泉
4、波
5、Archangeleuが心臓の扉をノックする。
6、IAOの母声で、あなたが扉を開ける。
7、IAOも声と一体となる。
IAOはユダヤのJehova(イホヴァ)、古事記では 宇まし あしかび ひこぢ(別天つ神の一柱)
EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 6 Mai
WS 9
皆さん、こんばんは。もう、7時半になってしまいました。
コロナの出来事以降、一番感じるのは時間なんて、あるようでいて、ないなあ、という実感です。コロナが奪い取ったのは人間の健康よりも時間かもしれません。ここのところ毎日、進化論的な時間の流れの中から、歴史とか日常とかを眺めてみる時間が多くなりました。時間の流れよりも、その流れを外側から眺めている非時間的視点の方がリアルだからかもしれません。
今日は猿から類人猿アウストラロピテクスへの移行についてイメージし続けておりました。この類人猿が出現したのは今から4百万年年前くらいだそうで、さらに、最古のサルが出現したのは六千五百万年前、と本には書かれていますから、この移行には、ほぼ六千万年以上かかっていることになります。この六千万年かけて、アウストラロピテクスは直立したのです。そして歩いたのです。このことに思いを寄せてみると感動もしますけれども、涙が出るほど、いじらしいともいえます。こうしてはいられない、厳粛な気分にもなります。
どうも進化論の本など読んでみると、進化の中には一つの厳然たる法則というか事実があるように思います。それは、「同じ進化は二度と起きない」ということのような気がいたします。アウストラロピテクスが無事、人類にまで進化したとするならば、そのような進化的事実は人類史の中に1回しか起こらないということではないでしょうか。アレキサンダー大王の東征も1回だけですし。ゴルゴダの丘におけるキリストの十字架も1回だけでしょうし。太平洋戦争も1回だけでしょう。昭和の時代もたった1回でしょう。ポストコロナ時代が過去の人類史に生じなかったような新しい時代であるとするなら、今私たちが経験しているコロナ事象はいつまでかかるかわかりませんけれども、1回だけなのかもしれません。
それが正しい判断かどうかわかりませんけれども、ポストコロナ時代いうのは現在よりもさらに情報文化とAI文化が中心となり、人間の生命圏は情報時空間の中に移行していくのか、さもなければ人間は全く新しい生命圏を自分のカラダの中から生み出し、新エーテル宇宙の中に自分の生存の場所を創っていくか、そのわかれ目にあるのかもしれませんね。
進化において、類人猿とホモサピエンスはともに直立はしているわけですから、体形的にも共通であり、「吠える」だけではなくて、分節化した発声をしたはずです。類人猿は今日いうところのヴォカールやコンゾナンテのような発声を、内的な衝動に従って行っていたのではないでしょうか。それに対して、ホモサピエンスは1音節2音節場合によっては3音節のようだ、単語を形成する力を記憶と結びつけることができたのではないでしょうか。まあ勝手な推測ですけれども。思うに全自然界には「原創造力」とでもいうような力とともに、すべて自然界は進化してるのだろうと思います。ただ、その進化を行わしめる原創造力を「誰が行使するか」ということで考えれば、類人猿もホモサピエンスも自分自身でその原創造力を使用することはなく、それは後の神話形成期においては、神であったり宇宙それ自身であったのかもしれません。ただ、六千万年の間、一瞬も途切れることなく、アウストラロピテクスに働きかけ作用し、衝動を与えたのは原創造力でしょう。
私の中に流れている原創造力とアオストラルピテクス中に流れている原創造力は同じだと思います。何万年もの間この原創造力は大自然全体の中に働きかけていると思います。人間の歴史形成の中にも社会形成の中にも、その力は流れている。けれども、流れることができないのは AI の中です。コンピューターの中です。情報機械の中にはどう頑張っても原創造力は入ることはできません。にもかかわらず、ポストコロナの時代はますますこの原創造力を受け取ることのできない生命圏の中に、人間は生きていかなければならないのです。原創造力が宇宙から消滅することは決してありません。ただ、その力をこの宇宙の中でたった1回だけ使用する、進化論的な言い方をするならば、新しい生命圏を作り上げるよう、その原創造力は地球働きかけているのでしょう。かつて神話の時代には神が、宇宙が使用したこの原創造力を、今人間は何に向けて用いようとしているのでしょうか。何に働きかけているのでしょうか。
練習1 12の子音の進化BMD NRL G CH F SHTを、口腔で発声しながら、両手片足で動く。
練習2 12の子音の進化を発声せずに、口腔と両手片足で動く。
練習3 12の子音の進化を発声せずに、両手両足だけで動く。その時に、動きの力は心臓から両手両足に集中して流す。
練習4 12の子音の進化を両手両足を動かさずに、自分を取り囲む空間全体の中に、原創造力だけを流して、動く。
地球船に乗って……。
朝、5月のまぶしいほどの光が差し込んでくると、なぜか悲しくなって、起きるより布団の中に潜り込みたくなる。相変わらず弱虫だなぁ……そろそろ起き上がらなければ……。
まず、朝日の朝刊を広げ「高齢者のフレイル予防大切」という記事から。「フレイル」とは「『健康な状態』と『要介護』の間をさまよう弱々しい状態』」つまり虚弱、つまり私のような弱虫状態のことを指すのかな?「対策をしないと悪化の可性」「終息後には要介護」などなど、恐ろしい言葉が並んではいるが、つまりは、元気にポスト・コロナを迎えよう!とはげましてくれているのだ、と思ったが、今はポスト・コロナの私にまで思いは及ばない。
次に、憲法記念日に関する記事「緊急事態宣言下 ネットで主張」を読むうちに、弱虫状態なんて甘えていられないわぁ〜。この度の感染拡大に対する政府の対応の遅れは、緊急事態の折、首相も知事も権利や自由を制限する命令権がないからで、早急に憲法に緊急事態条項を………。待てよ、よくよく考えなくては。
全人類のむき出しの命を乗せて、地球船は今、コロナウイルスに囲まれて宇宙の海で難破しかかっている。
「地球が病んでいると私の体が言っている」とニジンスキーは言っていたらしい。
いつの間にか夕日が庭をうっすらオレンジ色に染めている。さあ、弱虫の殻から脱皮して、体を動かして………。

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 3 Mai
WS 8
皆さんこんにちは。今日は日曜日で、近くの京王ストアまで買い物に出かけました。いちご、キューイ、ブドウジュース等、果物があると、夜なんかお腹すいたときに、ちょいと安心ですね。それでも、レジなんかは空いていて、全体に自粛の雰囲気濃厚です。
さて今日は M声の練習です。
M はゆっくり行いますと、Mの力は、肺の呼吸循環器系から腹部の新陳代謝形を通って、大地の中にまで深く降りていきます。この Mが呼気とともになされると、心を静め、鎮魂的な力がゆっくりと目覚め、謙虚な魂に体が満たされます。ここでMを呼吸循環器系とともに行います。心臓は、肺の中に位置しています。そして、呼吸からの血液循環への流れ、すなわち肺と心臓という二つの臓器の結びつきを、 M で作るのです。。同じ呼吸循環器系でも、肺と心臓は、一体となって作用していますけれども、どちらかっていうと、心臓から送り出される血液は、内臓器官や大腸小腸の新陳代謝の働きに強く結びつきます。人間の身体運動において、動きと呼吸を合わせながら行うというのは、当然です。けれども、同じような意味において、動きを心臓の鼓動に合わせて動くという発想は、あまりありません。なぜなら心臓は、動きに関わりなく、リズムを刻んでいるからです。けれども、この M の力が心臓の中へ流れるようになりますと、鼓動を通って、「心臓力」もいうべき力が動きの中に入り込むのです。
練習1
まず最初は両手を下から上にあげながら吸気、上から下に下ろしながら、呼気を取ります。その時に肺の呼吸の動きをよく感じながら行います。次に2回目は、上下の両手の動きを少しゆっくり行い、さらに、呼吸もゆっくり行いながら、血液循環とともに心臓を強く感じるようにします。その時に肺と心臓が結びつくように、イメージするのです。これで一つの新しい力の流れが誕生します。これはすごく大きな力があります。これを何度か繰り返し練習しながら、単に呼吸がカラダの動きと結びついている時と、カラダと心臓が結びついてるときの違いを、カラダに刻印づけるのです。
このことは、発声においても同じです。発声は通常、喉と肺で行われると考えられています。けれども、脾臓のような内臓筋肉に働きかける発声は、喉発声 、肺発声以上に心臓力で発声するのです。心臓力と発声が結びつきますと、瞬時に心臓力と動きは結びつきます。これは私たちオイリュトミストの、未来的な課題でもあります。心臓力というのは、声に対しても動きに対しても同時に働きかけるからです。
それでは具体的に M の課題です。これにはLの動きが加わります。
練習2
まず充分に呼吸をとって、ゆっくり足を前方に歩きながら、Mの動きを一度だけ取ります。次は、そのまま吸気に続けて、後方に四歩歩きながら、大きく下からLを上に向かって取ります。この前後の動きにおいて,足の動きは 両手の動きに関わりなく、M の力をを保持し続けます。これを2往復を行います。すなわちML2回ずつです。
練習3
次は同じ動きを両手ではなくて片手で行います。最初の4歩は右手だけでMを後ろから前に
大きくても取ります。左手は手を動かさずに力の流れだけを、前方から後方へ取ります。次に後方に吸気で4歩歩き、その時右手だけでLを行い、左手は動かさずに右手と同じように力の流れだけを作ります。2往復目は、同じことを手を変えて左手で行い、右手は動かさずに力の流れだけを作ります。これをもう一度、2往復行いを行い、全部で4往復です。動かさない方の、手の力の流れだけは丁寧に作ってください。
練習4
もう一度に2往復、前後に歩きます。その時に前方には M、 後方には L の動きです。2往復ともに、両手は動かさずに力の流れだけで、M 、Lを作るのです。
この動きを覚えましたら、練習2練習3練習4を、2回繰り返します。
練習4の動きでは、ただ心の中に両手の動きをイメージするのではなくて、肺から心臓に力を流しながら、その力を空間全体に広げるように行います。1回1回カラダに刻み込むように練習しください。
EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 2020 1 MAI
WS 7
今日の練習は,オイリュトミー,タンス,バレエ、日本舞踊だろうが能であろうが、すべての舞踊芸術に有効な練習とは思います。けれども、その単純さの故に、また最も高度でむつかしい練習ともいえます。これと言って、特定のやり形があるわけではありませんし、やることは、あまりに単純です。けれども、この練習に通暁できれば、人間のカラダの最も最奥の扉を開くことになるかもしれません。座脱立亡といいます。私にも出来ないない練習ですから、そのつもりでやっていただければ結構です。ちょっと酷なことですね。
ナニモシナイ ナニモカンジナイ
「花」

1964年5月1日、アキラは都市センターホールで行われた第13回新人舞踊公演に「花」という作品で参加した。その日のパンフレットを見ると、三部に分かれていて各々10の作品が並んでいる。6時から始まって9時終演、1作品6分の作品だ。30人中、男はアキラともう1人の二人だけ。当時ダンスをする男の子は、珍しく、かつ貴重(!)な存在だったようだ。アキラの「花」は、音楽J.S.バッハ。経歴には、江口隆哉に師事、パントマイムをジャン・ヌーボーに師事、大野一雄に私淑。昭和38年、舞踊儀式「犠儀」を主宰と書かれている。
翌日、出演者全員が集められ、舞踊批評家の先生方の講評を伺う会があった。大きな座敷に長い机を一列に並べ、周りに前日踊った新人ダンサーたちが座って、一人一人に向けて話す先生の批評を自分の番がくるまで神妙な顔で待っている。いよいよアキラの番が来た。初老の男の先生がおもむろに「カサイ君のは、あれは蚤取りのダンスですか?」というと、周りから、クスクスと押し殺した笑い声が聞こえてきた。
やっとその場を終えて新宿までたどり着くき、ベンチに腰掛け、拳を握りしめ、肩を震わせ、アキラは泣いた。この時以外、後にも先にもアキラの涙を見たことがない。アキラ20歳の時。
そして、今年2月、榎本了壱さんのアトリエで、その新人公演の出演者のお一人村井千枝さんに再会した。当時千枝さんは江口先生の研究生で、アキラの大先輩。
「今日までずっと踊ることだけをやってきたの。あの頃から知っているので、カサイクンは今でもカサイクンよ。そう呼ばせてね」
偶然にも隣町にお住まいなので、今度ゆっくりお茶でも、とお誘いしたかったのに、コロナのおかげで先延ばし。でも、今はFBで繋がっている。
EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 29 April
WS 6
皆さんこんばんは。
非常事態宣言に入って以来,時間はたっぷりあるはずなのに
一日の時間の流れは,光陰矢の如し、
夢のような時間の流れです。
朝は夢から覚めず、、そのままチベットのラサの北方100キロのところの、とある森の中
そこに無上瑜伽TANTRAの灌頂聖池があり、onmanipadomefumの声で、三度頭頂に
水を受け、それから目を覚ます。
何しろ私がドイツに行ったのは、チベットに入蔵できなくて、
その代わりに6年間訪れた国ですから、今持ってチベットのことは恋しくなるのです。
究竟次第『五次第』の酒井真典氏の日本語訳は素晴らしいのに、
内容理解できずに悶々としていました。
媚喜と受容と歌と 音楽等に依止することと
技芸によく入ることは 水月等と等しくなせ。
色と声と 味と所触そのもの等において
眼等に入るものであろうものは 如幻とよく分別すべし
この金剛乗そのものにおいて ここに多く釈すべき必要は
瑜伽者が凡そ観縁する処の おのおのを 如幻と分別せよ
一切を 鏡内の姿と夢と幻化と水泡と
帝釈網と等しく誰か見たるところの 彼は尊主なりと釈さる。
酒井真典訳 『五次第』
今もってわかるようで、わかりませんけれども・・・・・・・・・・・・・
さて今日はS・H・CH・F・SH・Zの6声です
宇宙が創造されるよりも前にあったのは、この6声です。
要するに六つの吹音です。
言葉を「盗む」ものは悪魔。
声を「盗む」ものも悪魔
なぜなら、言葉は創造以前から、存在したものだからです。
言葉を盗むのは、神殿の床の木を剥がして
自分の家を建てるようなものです。
私は存在しなかった。
声よ 生まれよ!
と語ってはならない。
光よ 生まれよ!
これが最初に語る言葉である。
はじめに声があった。
声が声を発し、声が声を生む。
主体の声と客体の声は一つ。
私が声を発するのではなく、声が声を発している。
生まれよ おお 光の輝き、
生成の本質を捉えよ、
織りなす力を掴み取れ、
練習1
青色の空を眺める。
その空は私の眼球の丸い面から、始まっている。
その眼球から始まっている青空で、街の建物を包む。 JR の電車を包む。(歩行しながら)
歩いている人々を包む。植物を包む。そして再び眼球から始まる大空だけに、視線を移す。
練習 2
青い空を眺める。
その空は私の眼球の丸い面から、始まっている。
その眼球から始まっている青空で自分のカラダを包む。
練習3
青空を眺める。
青空で自分のカラダを包む。(ゆっくりと歩きながら)
手を動かずに、心の動きだけで天空いっぱいに吹音のSの動きをする。
大空で自分のカラダを包む。(ゆっくりと歩きながら)
大空いっぱいに吹音のHの動きをする。
大空で自分の体を包む。(ゆっくりと歩きながら)
大空にいっぱいに下方から上方に向けて、chの動きをする。
吹音には「始まり」も「終わり」もないので、すでに、はじめから存在している宇宙のS,H,CH
に乗せるように、動く。
後半のF・SH・Zの三吹音も同様に行う。
紗倉まなとシモーヌ・ヴェーユと
初夏の光。桜の若葉が風に揺れている。静かな日曜日の昼下がり。昨日友人が「外出規制で東京の空気がとてもキレイなったのよ」とLINEで言っていた。そういえば、今日の空の青は澄んでる。
新聞で紹介された紗倉まなの「春、死なん」を雑誌群像で読む。まなさんは、27歳のAV女優だそうだ。
面白い、スゴイ!一気の読んでしまった。
新聞のインタビューに「匂いも何もかも、雪でかき消されてしまう。この地で起きたことはすべて過去になってしまう気配がある。それが恐ろしくもあり、美しくもあり」と答える紗倉まなさんのことを、ちょっとネットで検索。なんとも可愛らしいお嬢さん。なんと爽やかで明るく温かい女の子なんだろう!パステルカラーのマシュマロみたい。とても「春、死なん」の冷徹な人間描写の作者と結びつかない。未来から明るい風が吹いてきた…元気がでる。
27歳の頃の私といえば、シモーヌ・ヴェイユに夢中だった。聡明で美しく、誰をも寄せ付けない強靭な意志力を持ち、不幸のどん底の中に光を見出だし、一生肉体の苦痛に耐え、神から一番遠くに離れたところで、消えるように亡くなったシモーヌ・ヴェーユの、思想とか哲学は横に置いて、人間存在に、私は絶大な憧れを抱いていた。子どもが生まれ、手造りで稽古場を建て始め、情熱だけはあるものの経済的裏付けがない生活の日々。ヴェイユは、私の唯一の味方だった。若い頃の美しい思い出!
紗倉まなとシモーヌ・ヴェーユ。何故か私の中で繋がっている。
たとえ、歳月を重ねた奮闘努力が、少しも報われないと思えるときでも、
いつの日か、その努力にちょうど見合うだけの光が、あなたの魂にみなぎるものです。
シモーヌ・ヴェイユ

EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 26 April
WS 5
Eー、今日は N とMの、二つの声にアプローチしてみたいと思います。この声は単純に N M と発声することも、できるわけですけども、習慣的に母音のEをくっつけて、EN ,EMとも発声します。L,Sも同じですね。これらの声は「取り扱い注意」声です。非常に繊細な側面がある声です。話し始めにE-ーというのは、どのように取り扱ったらいいのかを、注意深く判断し、ここというところを探し出します。ですから、単純に N と発声する場合と、ENと発声する場合の違いがあるわけです。
1 何度もNとENを、交互に繰り返し発声してみてください。
どんな感じでしょうか。EーN と声を出した方が、単純に、Nと出すよりも、Nの声の中にある何者かを準備するような感じがありますね。その方が N の本質的な力が出るような感じがします。このことは M の場合も同じでEーMと発声したほうが、 M の中にある力が浮き上がってくる感じがするわけです。
Hー、S-のように、息が無くても存在している吹音と、K、T、P、Gのような瞬間声、或いは打音は、宇宙において、声が誕生するその時点から異なっています。吹音は作り出された声というよりも、「もともと存在した声」です。宇宙があろうとなかろうと、H-S-は存在しているのです。「hーs、hーs」は宇宙が眠っている時の鼾(いびき)にも聞こえます。ところが、打音は発声されるまでは、どこにも存在していない「創造者の頭の中にしか」ない声です。虚なのです。そして、Kと発声された瞬間に実声になります。打音は「創造された声」です。それではNと M は虚声でしょうか実声でしょうか。ここはむつかしいところですね。息が続く限り発声できるという意味では、実声の側面がありますけども、N、Mと発声される以前は存在していない声なので、虚声的な側面まります。もう一つ重要なことは、この二つの声が鼻を通して発声する 「鼻音」であるということです。この N M という声に接近するためには忍耐強い、また注意深い声の観察が必要になってきます。次の練習は
2 吹音のHを通常の口腔で発声するHーと、鼻だけを通してH-を発声するときの違いを体験してみます。
全然違いますね。同じH-あっても、口を通るH-と鼻を通るH-は、まったく違います。この違いだけでもも身体感覚に変えるならば、すごいエネルギーが出てきます。Hはあるものを消し去ってしまう力であるのに対して、それが鼻を通ると反対に、ないものかを存在させる力に変わります。Hはもともと「修祓」、「祓い」に使う声であるのに、これを鼻で発声したら、「祓い」ではなくて反対に、知らない魔物にとりつかれるみたいですね。或いは退屈なお経を聞いてるように、次第次第に眠り込んでしまいます。
3 M N の発声において、一番大きな違いは N が舌を上顎にくっつけることによって、M は唇で息を遮断することによって、声を鼻の方に持って行きます。
ですから両方とも鼻をつまんでしまえば、声にはなりません。 M を発声する唇と N を発声する舌は違うエネルギーが流れています。唇は、「水」の働きであり、「舌」は火の働きです。ですから。 M N の発声しながら、唇の「水」と舌の「火」を感じながら、その二つの力を鼻腔に流す。そこで4 次の練習はMN、MN、M N と交互に発声しながら、二つの声によって生じる鼻腔内部をよをおーく観察しましょう。声を出さずにゆっくり息を吐きながら、鼻腔の中で N と M を交互に何度も発声します。
ここからの練習はさらに注意深く 行います。
N の場合には鼻腔上部を通って、脳の内部である「脳室」の方に向かって、無声で響かせるのです。まあ、私たちは脳室などを見た事がないので、イメージするしかないのですけども、脳室は脳の真ん中あたりに左右に存在する、脳のふたつの部屋で、そこには人間の生体のリズムのすべてを取り仕切っている、不思議な液体が作られています。医学的にはそれを「脊髄液」と言いますね。この脊髄液には二つの役割があって、一つは、リンパ系に結びついて、人間の体の老廃物を掃除してくれる役割がありますが、もう一方は、ホルモン系と結びついていて、人間の体の中に、宇宙的なエネルギーを受け取るアンテナの役割もあるわけです。
5 脳室に向かって N の力を、発声力を用いて、リズミカルに何度も流す。
鼻腔と脳室が発声力によって繋がるのです。これはは極めて重要な練習です。ここからはさらにダイナミックに、 N の下から上の動き (声を発っするときは、舌を動かしてその上下の動きを行いますが) を行うわけですけれども、その上下の幅をすこーしずつ広げていって、最後には尾てい骨から頭のてっぺんまでが一つの頭部となって、その下から上の動きを広げるのです。つまり頭部胸部腹部が全体が一つの頭です。黄道十二宮の宇宙動作においては、 N というのは片足で行います。 N はカラダが背骨とともに一直線になる声です。
6 片足で立って、Nを上下に、尾てい骨から脳室にかけて、繰り返し何度も力を流します。それを右左の足で交互に行います。
7 一歩一歩歩きながら、右足を出した時に次左足と両手で N を取ります。次は左足を出した時には右足とと両手でN を取ります。ゆっくり足の動きと手の動きをともに結びつけて行うのです。その時に両手の Nは、尾てい骨の高さから頭の天辺に向けて、やわらかく跳ね上げるのです。つまり、尾てい骨と脳室が発声力で結びつくようにです。片足の体の状態を、しっかり保ちながら行ってください。(休憩します)
M を鼻腔の中でゆっくりと発声しますと力は N とは反対に、鼻腔の下方に向かって、押し付けるように流れていきます。この下方に流れる力を感じ取ることができるようになったら、さらにそれを心臓の所までおろすのです。ゆっくり鼻腔で M を発声しながら、喉を通って心臓にまで届くようにです。
8 両手で M の動きをゆっくり行いながら、この鼻孔から心臓への流れを何度も繰り返し作るのです。次に歩きながらこれを行います。その時には歩行している足の動きの中にも M の力の流れを作り、全身が M となって動きます。
9 この二つのN Mを、全身で行います。最初の二歩で、Nをゆっくりと2回大きく尾てい骨と脳室の間上下にとります。次の2歩で手足両方でM の動きをゆっくり心臓に向かって流します。
はじめにバラバラであった。上下の N の力と心臓へ流れる M の力が、次第に結びついて行きます。静寂がカラダの中から浮かび上がってきます。その静寂は宇宙的なエネルギーに満ち満ちています。
「マヌの法典」を創ったマヌ。
エジプト第1王朝を造ったったメネス。
人間そのものの中の「MAN」。 AMEN(アーメン)
EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 24 April
WS 4
ギリシャ神話の中で、鉄の鍛治技術を持つ神は「キュクロープス」と呼ばれていますね。ホメロスの「オデュッセウス」の中にも、この神は出てきますけれども、いずれも単眼の巨人です。単眼の人間のイメージは動物から人間へ至る過程を象徴しているようです。
なぜかといいますと、四つ足で歩く動物は、物質的には、両眼の目を備えていますが、内的には単眼だからです。例えば、近くのものは大きく、遠くのもが小さく見える空間遠近法は、両眼によって作られます。「遠い」「近い」のはっきりとしたり意識があり、その遠近感覚に従って、自分の体をその方へ動かします。動物はそのような意味では空間遠近法を有していません。「遠い」「近い」の感覚は、ないのです。周囲の世界の全ての者が、自分のカラダの中にあって、空間は全てカラダ中に出来上がっています。ですから、動物が歩いても、もちろん動物にそのような自覚は全くありませんけれども、言ってみれば自分の脳の中を歩いてるのと同じです。動物は外的には三次元世界に住んでいますが、内的には二次元世界です。ここから早速、練習です。
外側にある物を見る場合に、それは一つの「対象」を見るわけですけれども、その対象は眼という感覚器官を通って目の内側の網膜に映る像ですから、それは内側の「表象」です。
1 部屋の中を最初の4歩では、部屋を「対象」として見ながら歩きます。その時には「お」発声力とともに歩きます。次の4歩は「を」の発声力とともに歩きます。「おーーー」「をーーー「おーーー」「をーーー」と交互に対象、表象、対象、表象として歩くのです。これは一種の眼球による呼吸のようなものです。そしてこの呼吸に合わせて二つの母声を使い分けるのです。これを練習しますと体の感覚がしばらくするうちに変化していきます。そしてその変化をよーく感じ取れるまでほぼ、1、2分持続して歩きます。できるだけリズミカルに。そのうち次第に感動的な気分になっていきます。なぜ感動するかでいますと、動物 から人間存在に進化するからです。また逆を言えば、カラダの中の人間であったものが、カラダの中の動物性に目覚めるからです。
2 次元性でいいますと、対象として見る場合には、三次元性の明るい世界ですが、表象で見る場合には内と外が一つですから、やや暗い二次元世界に移行します。この次元性の変化に合わせて、「おーーーー」「をーーー」とズミカルに結びつけながら歩行します。
それまでの生活の中で、無意識のうちに生じる様々な感覚の変化や、呼吸の変化に対して、意識的に向かっていきますと、それまで融合していたものが一度、分裂して二つにわかれます。これは、母国語でいいますと、それまで意識しなかった文の結びつきや発声に関して、文法や音韻に目覚めることによって、分の結びつき方に対して意識的になります。これは自分の言語的生活に対する一種の「反省」です。自分の体に「反省の気分」を与えますと、体の中に「客観的な静けさ」が生まれてきます。この「を」「お」の交互の歩行においても、それと同じで、これを行ううち、にカラダ中がシーンと静まりかえってくるのです。この「静寂」は体が変化する上では、とても重要な瞬間です。
3 この「静寂」が訪れたら、すかさず第3番目の課題に移ってください。次は対象と表象に分裂した世界をもう一度意識の力で結び合わせるのです。3番目のリズムが入るわけです。四歩リズムは、変わりませんけれども、始めに対象の「お」歩行、次が表象の「を」歩行4歩、次に表象の「を」を、外の対象に重ねて「WAーーー」と強く発声力を流しながら4歩、歩きます。
「おーーー」「をーーー」「WAーーー」、この「WA---」の時には発声力を頭部と両手と両足と五つの方向に向かって強くナースのです。これを何度か繰り返します・・・・・・・・
第2回第3回そして今日の第4回かけて、「を「「お」の練習をいたしました。全体の流れをもう一度箇条書きにいたします。この練習は六つのカテゴリーから成り立っています。
1 「を」と「お」の発声力による力の流れと身体感覚。
2 四つ足でしっかり床を歩き回ることによる動物性の目覚め。
3 「をーー」は膝蓋骨と肩甲骨を通して外へ。「お」は両手及び上部の頭部の方に向けて発声力を流す。
4 「を歩行」と「お歩行」による、リズミカルな表象と対象の分離。
5 静寂。
6 「WA--」による融合歩行。
最後にWA声について一言。フランスの言語学者 エミール・ バーンヴェニスが王権 について面白いことを述べているのです。ヨーロッパの王権には2種類あって、神から実際に王権を授与された王と、王冠や王杖よ持つことによって、「形の上で王」になったものの違いについてです、誠に「王権神授」で王になった者は WANAKS の称号を持つと。
W+母声によって作られるコトバ例えば:ドイツ語のDas Wunder 奇跡
英語の wonderfullyワンダフル winner勝利者
日本語では、「WAーーすごい!」とか 「WAーー面白いとか。」要するにW声なのです。W声は「世界」であるとか「我」であるとか、最も根源的な声ですね。
一日の苦労は 一日で足れり
寒かったり、暖かだったりの毎日。「医療崩壊」のニュース頻り。医療が崩壊したら、医療を必要としている人びと(私も含めて)は、どうすればいいのだろう。
近くのポストまで、英語翻訳の茅香子先生から頂いた提出課題を出しに行く。大幅に提出期限が遅れているにも関わらず、プリントアウトした訳文と、ほとんど自己満足だなぁ〜と思いつつもアクリル毛糸で編んだ手作りエコたわしまで入れて投函。
今は、キュー無しで、いつブラックアウトになるかもしれない。1日一回自分にできることをやらなければ!
明日のことを 思ひ煩ふな。明日は明日 みづから思ひ煩はん。
一日の苦労は 一日にて足れり。 ーマタイによる福音書ー

EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 3
WS 3 2020 4 22
今日は、空いっぱい雲が広がり、その向こう側の太陽光線によって、地上に流れてくる陽の光は軟らかく、家々や木々の間の空気もさらに静けさをましたような感じがいたします。私は目を覚ますとすぐに、体を動かすくせがあります。今日はイタリアの歌姫マリア・カラスの歌を聴きながら、飛んだり跳ねたり。曲名はCAVALLERIA RUSTICANA。『ゴットファザー3』を思い出しました。このオペラが鳴り響く劇場の中での毒殺シーンです。
では、昨日の続きをいたします。テーマは、「を」と「お」ですね。
この二つの声が、人間の中の動物性と人間に係りがあるというところまで話をいたしました。動物といえばまず形態的に思うのは、「四つ足」で歩く、ということです。このときの、動物発声の母声の代表が、「を」と言っていいでしょう。このHPワークショップはただ、読むだけでも、いいのですけれども、カラダと一緒にやっていただくならば、ここで、次の実習を入れたいと思います。
1 私たちが赤ん坊の時に、ほぼ1年間、やり続けた四つ足歩行です。声は出さなくて結構ですが、「を」を感じながら、部屋のあちこちを歩き回ってください。人間であることを中断して、静かに歩き回るのです。この歩行だけでも、すごい力があるのです。人間を一瞬のうちに、動物状態に変えてくれます。そして、それまで忘れていた本能的な力が黙々とわき上がってきます。例えば疲れた時に、仰向けに体を横にして力を抜いているならば、必ず体の中から、治療的力が出てきます。同じように、この四つ足歩行は、忘れていた本能的な力、「外的な動物」が目覚めるのです。ポイントは、オイリュトミーですから、動いてみるだけではなく、それを常に身体感覚に変え、次にそれを、力の流れに変える、ということですね。この力の流れがはっきりつかめるようになりましたら、それを、いつでも取り出せるように、胸の奥の方に、しまっておいてください。引き続いて・・・・・・・・・・・・
2 単純にこの二つの声 「を 」と「お」を交互にゆっくりと声を出して発声いたします。次は声を抜いて発声力だけの、「声なし発声」します。「を」は肺の方から軽く絞り出すように、「お」の時には、口腔から頭部の方にやわらかく響くようにです。
3 この二つの身体感覚とエネルギーの違いが明瞭に区別できるようになりましら、「を~」の場合には、肺から直接、左右の肩甲骨を通して、それから下方に向かっては、二つの膝のお皿の骨(膝蓋骨)を通して、発声力を、左右と下方に向かって、四方に広げます。「お~」の場合には、オイリュトミーの「お」形をとりながら、両手と頭骨の円さ全体に向かって、発声力を流します。「を」の時のやり方は、肺を絞りますと、すぐにカラダの中の動物的力が流れ出ますので、それを肩甲骨と膝蓋骨に結びつけて外に広げるです。これは人間が「内的な動物」に変わる、エキセントリックな瞬間です。{お」の場合には、この力が上方に向かって流れることによって、人間の中の「至上の人間」が、目覚め始めるのです。1の練習は、四つ足ですが、2、3の練習は、直立して行います。この1、2、3、をセットにして、3回繰り返します。すると、このような二つの力を人間の体の中に、流し込んでくれているものに対する、「畏敬の気分」がわき上がってきます。
この人間のなかにおける動物性と人間の違いは、人間の身体器官、感覚器官や、消化器系あらゆるところに広がっています。これまでこの問題は主として、人間の植物性と結びついている「平滑筋」、動物性と結びついている「横紋筋」、人間性と結びついている「心筋」の領域から考えられてきましたけれども、この三つの領域にオイリュトミー的言語作業を結びつけるということは、これからの、カラダを捉えるうえで、重要な入口です。
次回は、この二つの母声と眼球、視覚との関わりを、体験してみたいと思います。
今日も安らかにお過ごしくださいますよう。
EURYTHMIE WS in TENSHIKAN 2 akira kasai
WS 2
時計を見ると、もうすでに、20時を回っています。で、皆さんこんばんは。今日1日いかがお過ごしでしょうか。私は今日は1回だけ、夕方に近くのポストに郵便物を出しに行っただけ、あとは家でのんびり。でも、外は裏寒い、小雨の降る1日でした。
さて、今日のWSは、日本語の「を」と「お」についてやりたいと思います。日本人にとって、この二声はすっかりカラダの中に入っていて、その違いは、無意識のうちに了解しています。「あなたを」「私を」という言葉を、「あなたお」「私お」、と発声すると、何か変です。声のやわらかさが消えてギスギスします。辞書で調べますと、「大人」は「おとな」で、「幼い」は「をさない」と記されています。「面白い」は「?もしろい」・・・・「おかしい」は」「?かしい」・・・さーて、どちらでしょうか。答えは、「おもしろい」と「をかしい」です。まあ、金田一京助さんはそう言ってるのです。
一般的に「大きいもの」に対しては、「お「を使い、「小さなもの」に対しては「を」使うといっていいと思います。が、動物が吠える時の声はイメージからして、「おーーー」ではなくて、「をーーー」になりますね。「おーーー」と 吠えられると、なんか優しさまで感じ、逃げる気がしません。「を~~~」は本能的で、何されるかわからない恐怖心を感じます。「おー」は空間的には、しだいしだいに、大きく広がっていき、世界を包むような柔らかさ、愛情、優しさを感じますが、「を~」は、外に広がるというよりも、反対に、内にこもり、引き込まれるれるような感じがします。極端な言い方をすれば、ブラックホールの内部の音みたいです。(ちょっと単純ですかね!)
「お」を取る時の腕の形は、できるだけ肘に角度をつけずに、やわらかい曲線で、手の指も観音様のように優しく、指の間をあけずに、親指も離さず、空気のような円形を・・つくり・・ま・す。・・・・・・・・・・・・(眠ってしまいました)
(一夜明けて、)
それでは、(を)の身体動作についてですが、これは、(お)ほど単純ではありません。微妙で、いくつか取り方が細かくいえばあります。
1 「を」をW行の「を」として取りますと、両手を円形にして、両手を下方から上方に、少し腕の力を抜いて、腕の中の空気を抱くように、両手を円形に動かします。(ここで何度か、「お」と「を」を交互に行いながら、「感覚の違い」を、味わってみてください。)
2 次は動物が吠えるような「を~」です。単純に「お」とやわらかく発声するのではなく、少しカラダの奥の方から方から出てくる声です。発声の時に、喉と同時に、肺を絞るように出します。腕の動きとしては、この時、肺を絞るような力とともに腕を持ち上げます。
肺を使った発声は、「お」声には全然、向いていません。つまり、「を」は肺、「お」は喉にむいており、発声において、上下の違いが、ありますね。この「を」と「お」の違いを、カラダの中で、探っていきますと、誠に興味深い人間のカラダの構造に出会うことになるのです。人間のカラダの中には、動物的な部分と人間的な部分の両方がはっきりと、存在します。「を」をカラダとともに、繰り返し繰り返し発声するのです。そうしますと、ゆっくりと、人間のカラダの中に眠っている「動物領域」が目覚め始めるのです。これまで自分でも気がつかなかった動物が、動き始めます。。。反対に「お」を明瞭に明るく発声しますと、「人間領域」が、明確に意識されます。ですから、この違いは、単に人間と動物の違いであるというだけではなくて、カラダの中の「自我」の領域と「アストラル体」(アストラル体 とは、惑星のことです。人間は眠っている間は、無意識感情がだんだん広がっていって、七つの惑星領域まで広がっていきます。この拡大したカラダのことそ、アストラル体と言います) の領域の違いなのです。
自我とアストラル体の違いは、コトバの概念の違いとして、理解するのではなく、身体感覚の違いとして、としてはっきりと、掴む必要があります。もちろん、この違いは、「を」と「お」の違いだけにあるわけではありません。もっと単純化していってしまうならば、自我の力は「喉頭部」に集中し、アストラル体の部分は肺に集中しています。肺と喉から全く異なったエネルギーがカラダに流れ出すのです。このことはさらに深い人間と動物のカラダの違い、ひいては神様が「動物」を造った根拠と、人間を創った根拠の違いにまでさかのぼっていく程、深いのです。
少し時間をかけますので、この先は、明日にいたしましょう。
今日はまだ少し曇っていますが、安らかな1日をお過ごしください。
暴風雨の日
今日は朝から暴風雨。市役所から洪水警報が届いた。不要不急の外出自粛制限は、もう何日続いているのだろうか?
昨日は、いつも地方から天使館のWSに参加するマキコさんお手製の布マスクが届いた。中に「ゴムの長さは、好みの長さで結んでください。内側にポケットをつけましたので、あれば、ウイルス対策用シートなどを入れてください」と手紙が添えられてあった。彼女らしい優しい気の使いよう。ありがとう❣️ 間を置かず、また宅急便が届く。
隣県に住むアキコさんからだ。中は除菌スプレー。わぁ〜ありがたい。アキラも私も、二人でもたもたしているうちに、マスク、除菌スプレーはどこを探してもない。どうしよう〜。
ありがとう、アキコさん❣️ カラダの中に爽やかな風が通り抜け、重いカラダが軽くなる。
そして、雨の日の今日、軽くなった体で混乱状態の我が部屋の片付け。始めたはいいものの、いつ終わるだろうか。再びカラダが重くなり………。
雨上がり、夕日が差した。部屋を捨て外に出よう、マスクをして。


トリアージュ
朝の美しいひかり。遠くに鳥の囀りがきこえる。
FBで、また新しい言葉を覚える。
「トリアージュ」回復の見込みがある患者を優先的に選別すること、という意味らしい。「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」「パンデミック」などは、ここ一ヶ月の間で、もうお馴染みの言葉になった。毎日、様々な人が様々なことを発言している。どの人も必死だ。
私に何ができるだろうか? 今、もし私が転倒して骨折したら、コロナに感染でもしたら………。トリアージュで、私の命の選別を誰かがしなければならないかもしれない。その誰かは、とても、可哀そう。
今、私にできることは、静かに家にいること。さあ、ベランダで鳥たちのおしゃべりを聴きながら……環境に優しいエコタワシができた❣️ 誰か貰ってくれるかな。

いるのといないのとでは大違い!
「コロナ離婚」という言葉があるそうだ。コロナウィルス感染拡大防止で、外出がままならず、今まで上手く回っていた家族の歯車が狂ってしまい、父さん、母さん、子供たち、みんなイライラが沸騰して、コロナのせいで家庭崩壊が起こっているらしい。収入は減るし、子どもたちは煩いし、みんな朝昼晩としっかり食べるし………痛いほど、よく、わかるなぁ。でも、コロナのせいでとは涙が出てくる。
私も若い時、思い余って「エイ 離婚してやる!」と何度大見得を切ったことか。すると、いつも横で見ていた息子たちの「どんな奴でも、いるといないとでは大違い」という生意気な呟き声が聞こえてくるのだった。
言うことを聞かず、頑固で、うるさい子どもたちも、いつの間にやらオジサンに。
子どもたちとも、親しい友人とも、隣近所の人たちとも、会えない日々。人の心を分断していく見えないコロナに要注意。
「どんな奴でも、いるのといないのとでは大違い」の言を胸に秘め、愉しく、笑って、優しく、静かな時間に感謝、感謝。

メルケル首相
去年の夏、数十年ぶりに家族全員でStuttgartを旅行した時、建物の様子は面影があったが、街の雰囲気、人々の様子は随分トゲトゲして、前と違うな、というのが息子たちの感想だった。確かに、街の中心のケーニッヒ通りを歩くにも、昔のようなワクワク感がない。メルケルさん一人頑張ってどんどん難民を受け入れているからか、外国人が多いな………でも、待って。私たちだって、外国人。40年前、突然、家族五人でドイツに住み始めてからの5年間を支障なく暮らせたのは、ドイツ政府のおかげだったと思い出したてごらん。住民票を出すと直ぐに、3人の子ども手当てが銀行に振り込まれ、その上、住居手当も振り込まれた(それも毎月)。その時ばかりは「神の恩寵❣️」と喜んだ。もし、その援助がなかったら、私たち家族のドイツ生活は一ヶ月と持たなかったでしょう。
ドイツに住む多和田葉子さんのデジタル新聞記事を読む。
………今コロナで国境を閉鎖され、外出が規制されているベルリンの状況をまるで戦争中の光景だと落ち込む人もいるが、今実施されている規制の底を貫いているのは『全人類の健康を願う』という、ナチス時代とは全く逆の精神である。………
そして、多和田さんは、メルケル首相のことを「新たに生じた重い課題を背負い、深い疲れを感じさせる顔で、残力をふりしぼり、理性の最大公約数を静かに語りかけていた」と書いて結んでいる。
ドイツで出会った友だちを想うと不思議と元気が出る。さあ、緊急事態宣言で規制のかかかっている間に、今度こそ、トーマス・マンの「魔の山」を最後まで読もう。

カラダの食べ物
今日は春の嵐。日本中が荒れていると天気予報が言っている。外出自粛が続いているので、訪れる人もなく静かな一日。この時とばかり、アキラは専ら机に向かって何か書いている。
この家に引っ越した時に、本棚の上段に置いたままの箱を取ってもらった。中身は、書きかけのノート数冊。雑草だらけの私の頭の中が出てきたような恐ろしさ。
お気に入りの詩句あり、意味不明の言葉、ニーチェ、シュタイナー、万葉集の歌、食料品の買い物メモ、ダンス公演の感想、思いついた言葉、友人とのアポイントメント、自分勝手な哲学まがいの気取った論考、ある日の日記………目まぐるしく、全く統一感がないではないか。頭の中の雑草は老化現象ではないらしい。恐る恐る読んでみる。
昭和52年2月5日(土)晴
……夜、大野先生の稽古に行く……ある部屋に入ると、真っ黄色な蝶がいて、いっせいにヒラヒラと飛んだ。腐敗した死体。蝶に喰われた肉体。蝶を踊るときには、蝶であってはならない。あてどもなく広がっていくイメージ……。自由であるはずの肉体が、こうも硬直して動かない。
帰り、豊田行きの電車の中に、すす汚れた中学生が一人座っていた。どこまでいくのだろうか。アメリカ人の酔客が、車内で大騒ぎしているのに目もくれず、彼自身でも抱えきれないほどのものを背負っているかのようだ。涙が出てくる。家に着くまで少年の面影が消えなかった。電車を降りる時、持っていたチョコレートをあげればよかった、と今でも悔やまれる。
子育て真っ最中の1年間、上星川の大野先生の稽古場に通っていた頃のこと。若かった。翌年春、リウマチの診断を受けた。以来「言葉」が、私のカラダの食べ物、いのち、ダンスになる。

受難の日
明日は聖金曜日、キリストの受難の日。そして、三日後復活祭を迎える。昨年10月に亡くなった義母の納骨式を今週末の日曜日復活祭の日に執り行う予定だったが、コロナ戦争のため延期となり、お母さんのお骨はすっかり我が家に落ち着いている。
「今の世界の現実を見ないまま穏やかに旅立たれてよかったね、お母さん! 大正、昭和、平成、令和、と一世紀を生きぬいたお母さんも、決していい時ばかりではなかったね。関東大震災や第二次世界大戦、洞爺丸で寅雄さんを失い………大変だったことでしょう。でも、今の戦争は、ちょっと違うみたい。地球上の体をもつ人たちすべてに例外なく目にみえない敵が襲ってきているの。性別、歳、国家、民族、宗教………の違いなんて言っていられない。今、あなたがいたら、何と仰るかしら? すべて神さまの思し召し、と、いつもの口癖かも。それにしてもお母さん、いい時に、神さま召されてよかったね」
あどけなさはわたしたちの気持ちをやわらげる。
わけもわからないまま子供が叱られて、とてもしょげている。
子供は喉が渇いて、ふるえながらわたしにコップを差し出す。
お飲み、わが子よ、おまえの頬はとても汚れているぞ。
「和解」フランシス・ジャム(手塚伸一訳)

エマニュエル・ユイン
パリのエマニュエル・ユインからメールが来た。彼女のお父さんはベトナム人、お母さんはフランス人。メールはドイツ語だ。
愛する ヒサコ アキラ、
げんき? 身体はどう? 子どもたちは?
こちらは みんな オーケーよ。でも、今は とても悲しい時。あなたたちをいつも思ってるわ。
心から愛を込めて! エマ
そして、Foto が3葉。
早速、私も頑張ってドイツ語で返信した。Fotoも一緒に。
ああ、懐かしい、エマ。彼女が、アンジェの国立振付センターのボスだった頃、何度もアンジェに赴いて、アキラとエマのDUO作品「Spiel」を一緒に創った。美しいアンジェの城には、数世紀に渡って織り継がれた黙示録のタペストリーが展示されていた。
あの小さな美しい静かな街の空気も、見えないコロナが拡散している………,⁉️
そう、今は、とても悲しい時、でも、いつか必ず………。
“Keep Calm and Carry on”
一昨年の夏、膝を人工関節に取り替え、一年経ってようやく自分の脚と思えるようになった去年の夏、二十年前に固定した頸椎が、次第に頭部を支えられなくなってきた。骨の専門医に相談すると「まず、頸椎の手術は全身麻酔です。あなたのその細い気道では………?手術が可能かどうか、可能としても高度な技術が必要です。しかし、あなたのリウマチが急に悪くなって、骨がずれるとも限らない。リスクはどちらも同じ」と言われた。要するに、どちらにしても死のリスクがあるというのでしょう!いつもセッカチの私は即座に「手術はしません」と言った。先生は「そうですかぁ……」と心なしかがっかりしたように見えた。以来、私は自分に緊急事態宣言を言い渡し、自分の体は自分で守るべしと心を決めてきたのだが、今回のコロナウイルスの緊急事態宣言は自分だけの問題ではなく、すべての人に共通にもたらされた緊急事態。
内からも外からも緊急事態宣言を言い渡されるとは……。
人間、この世に生まれた瞬間から「死」に向かって歩き出す。この宣言、今更のことではない。
この度のコロナ戦争には、この標語 “Keep Calm and Carry On”(あわてるな いつものとおり)
私に、ぴったり。さあ、庭に出て、今日の春を楽しまなくては❣️

緊急事態宣言
いよいよ、東京に緊急事態宣言が出るそうだ。日頃滅多に連絡をよこさないチカシから、LINEで「国分寺は大丈夫?アキラさんもヒサコさんも年をとっているんだから、絶対に出歩くなよ」というメッセージが来た。フムフム「緊急事態宣言」の効果が現れた! 大丈夫。今日は一日家の中で。
愛情に包まれたまま眠っている過去を
今に生まれかわらせる。
眼の窓をあけたまま
今と今と今を
過去に移し続けることによって。
美しい日々 ひと 出来事を
思い出すことによって。
新しく今を作り続ける
わたしという窓のある世界。 片山令子ー窓のある世界ーから
春が巡ってくると、2年前から空の住人になった令子さんに無性に会いたくなる。
「朝の用事を済ませると、国たちまでバスで行くの。お気に入りの喫茶店のお気に入りの席が空いていたら、とてもしあわせ。小さな窓からレースを通して朝の光が差し込んでくる席。コーヒーを楽しみながら色々思い巡らす時間よ」と、彼女は言っていた。
緊急事態は、いつまで続くのだろうか?
静かな日曜日
雨に打たれると、ラッパ水仙の黄色が一際美しく映える。横に植えたメリーベルの青い小さな花が爽やかで可愛い。日曜日だというのに、外も内も静かだ。お向かいの家の小学生の兄弟は、いつも少しでも晴れ間があるとガレージでボール遊びを始め、勢い余って我が家の庭にまで飛んできたボールを神妙な顔で「すいません、取らしてください」と言って、ぺこんと頭を下げて拾いにくるのに…。
みんな、自粛している。みんな、剥き出しの命に向き合わされている。
雨がとても長く続いて、わたしは思いにふける。
陽光を出し惜しむ毎日に心が重い。
忍冬がその魂を薫せながら雪と散る
申し分ない夜、星降る空は、一体いつ来るのだろうか。
「夜の光」フランシス・ジャム (手塚伸一訳)
外出自粛要請の日々
春爛漫。我が家の庭は今、オランダ鈴蘭、ラッパ水仙、すみれ、マーガレット、クリスマスローズが花盛り。数年前に挿し木したライラックが芽吹いてきたというのに。もうじき復活祭、ウサギたちが卵を探して草叢を忙しく駆け回る頃なのに。
今日はひっそりと静かな土曜日。外出自粛要請の日々……古いノートから。
若草色の箱ヒダスカート
クリーム色のカシミヤセーター(襟元の細いボーがお気に入り)
籐の丸い帽子(幼稚園の子どものような)
春爛漫の4月の陽光の下
郊外の
大学のキャンパスの
裏庭
ムンムンする草生きれ と
家畜の糞の 生暖かい臭い
草むらに 倒れて
秘密の遊び に耽る
おんなのこ
閉じた瞳の裏側は
はるか彼方の
胎児の夢
ニンフを追う
サテュロス
誰もいない
耳許で
豚の鳴き声
春爛漫の4月の陽光の下

目に見えない戦争
4月になって、コロナウイルス感染拡大の勢いは増すばかり。天使館の活動も暫くの間ストップ。汗ばむほどの暖かな陽光を受けて、花のあとの桜の枝に柔らかな若緑の葉っぱが一斉に伸びてきた。鳥が楽しげに飛んでくる。誰も来ない静止した時間。うっとりするような甘美な一瞬、色が色でなくなり全てが反転したような……。
先日の「DUOの會」で、写真家の高橋恭司さんから写真集を頂いた。見開きのページに「写真はいつも世界の終わりを続ける」とあった。不思議な光の色。私の好きな色合い。輪郭が溶け合い、反対側から見ているような………。胎児の目に映った世の中の風景みたい………などなど、と勝手な想像が膨らんでいく。
高校生の時に読み始めて、何度も挫折を繰り返して、いまだに読み続けているトーマス・マンの「魔の山」。今や、ハンス・カストルプ青年と一緒に呼吸しているつもりに…。
目に見えない戦争の只中でも、やっぱり愉しく生きていたい。
