昨日、セントナザレ公演が終わりました。公演前はいつもと変らず、その前のアンジェ最後の公演の反省会。
私はその日の観客、場所等に「動き」がかなり左右されるので、それに合わせるのがエマニュエルにとって、大変そう。話し合いで決めたことも、守らないことがしばしば。マチューからは、「kasaiさん、エマニュエルがいること、WASURENAIDEKUDASAI、、、、」とよく言われる。
「よし、今日はすべて決めごとどうりにいくぞ、、、、」と自分に言い聞かせて、舞台に行く。気持ちも彼女の動きに出来るだけ合わせながら。すると、時間た経つにつれ、彼女はしだいに動きに「伸び」が出てきて、大胆になって来るくるではないか。そして遂に彼女は「彼方の世界」にジャンプした。やはり当方はエマニュエルの飛躍の「基」にならないと。。。。
終ってまた,いつもの港の近くのレストランでワイン。久子はなんと静かに、ステーキを食べているではないか。ここのオーナーはかつて、サッカー選手で、ワールドカップの試合で日本に来たことがあるのだそうだ。リットバスキーやルメニゲの時代に。
今朝午前中に、新幹線でアンジェに戻りました。
踊り子人生
昨日の午後、アンジェから新幹線で1時間、大西洋に面した漁港St.Nazaireにやって来た。エステルが用意してくれた1等車の座席には、パリから乗ってきたと思われる上品な老婦人がふたりが既に座っていて、ポニーテールの髪型で、白いフレームの鼻眼鏡をかけたアキラをチラッと横目で見て、二人で目を合わせフフと笑った。パリのモンマルトル辺りならいざ知らず、こんな片田舎のフランスでは、アキラが国籍不明、年齢不詳の人物に思われるのは当然で、私はむしろ、アキラを見るフランス人の反応を見るのが愉しい。
どんよりとした灰色の冬空がどこまでも続き、列車は、溢れる勢いで流れる水嵩の増した川の側を走って行く。30分もするとナントに到着。昔高校生の頃、ナントの公会議なんて教科書に出てきたなぁ、などとぼんやり考えていると、灰色だった遠くの地平線が、白み始めて薄日が射してきた。雨が止んだのだ。
ティー・ファクトリーの平井さんに、鶴屋南北戯曲賞をお受けになった川村毅さんへのお祝いのメールを送ったら、返事を頂いた。そこに、「おふたりとも、旅の人生ですね」とあった。思い返せば、50年前、アキラがキャバレーのショーで、日本各地を旅していた時と今と、さほど変わりはない。
踊り子人生、自由が何より!だ。さて今夜のSt.Nazaireの「Spiel」は・・・・。新しい時がやってくる。
セントナザレ
昨日、フランス西海岸の街、セントナザレに到着。
この街はかつてドイツ軍と連合国軍が激しく戦闘し、市のほとんどが壊滅したので、いま建っている建物は新しいものばかり。最近まで破壊された軍需施設が残っていたそうだが、その後町は、劇場や文化施設を創って、アートの町として甦った。
劇場はすばらしく、20メートルの高さから、スポットライトが落ちてくる。夜は光の中に揺れる、暗い港の前のレストランでステーキと白、赤ワインを飲みました。
話は飛ぶが、劇作家の川村毅さんが鶴屋南北戯曲賞を受賞。こころよりお喜び申し上げます。
久子のとこに来た平井さんのメールによると、この受賞対象となった「フォー」は、「AOI-KOMACHI」とともに川村さんにとって、一番苦しみの中から生まれた作品だそうです。
川村さん。。もう一度「AOIーKOMACHI」が再演出来たらいいですね。
再び夢
「左側に、大きな鉄の棒で形造られたひとの顔。右側に、同じく鉄の棒で形造られれた大きな人体。」
「私の隣に二歳年上の姉がいる。右の人体に向かって、私は姉に説明する。『この鉄で造られた人体においては、ひとつひとつの臓器はそれに対応する神の働きに結びつている。』人体の臓器はひとつひとつ神と結びついていると。そしてさらに、姉に向かってこう言う。『この鉄の人体に”彩色”するために、自分は生きて行きたい』と。」
「次に左側の鉄の棒で造られた顔を見ると、”ボディーサトヴァ”と書かれている。」
「目の前に川が流れている。その川を渡ると、視界が広がり、彼方に三本の樹が立っているのが見える。新緑に輝く豊かな葉に包まれて。葉は風に揺れて美しい。あまりの美しさの故、涙が出る。」
しばらくして目が覚める。何度も今見た夢の光景を、こころの中で反芻する。
最近、夢の中で涙する事が重なる。夢は現実以上の現実で、時に、一生を左右するほどの影響力がある。
今日はOFFfなので、午後久子と散歩にでる。近くのゴチック様式の教会に入ると、パイプオルガンが雷のような轟音を響かせて、石の会堂内に響き渡っている。しばらく木の椅子に座って、皮膚が震えるような音のシャワーのなかで二人とも黙す。それから何度も行ったアンジェ城へ、自然に足が向き、1000年前の中世にワープ。凍えるような空気のなか、部屋へ。
踊り子は自由が何より
昨年暮れ、エマニュエルは、8年間努めたCNDCの芸術監督をめでたく退任した。彼女自身はもう少しCNDCで仕事を続けたかったらしい。留任の運動もあったらしい。でもいいではないか、ダンサーに肩書きは必要ない。踊り子は自由が何より。
そのように自由になったエマニュエルとアキラのデュオ「Spiel」を5月17、18、19日吾妻橋のアサヒ・アートスクエアで公演する。乞うご期待である。
雪まみれ
雪と氷に大地が覆われたアンジェで、最後の公演が終りました。計五回。
カラダの動きは、それを測る測定器というものを必要としている。けれどもダンサーはヴィデオ映像のように、自分のカラダを、外側から見るわけにはいかない。ダンサーはカラダの内側から、「動き」を測定しなければならない。この測定器をどのように持つかは、みな人それぞれだと思うけれど、自分の場合は、やはり「純粋知覚」といか言いようがない。
つまり知覚が働いた時には、すぐにその知覚は記憶と結びつくが、この記憶と対象が結びつく以前のところに留まりつづけ、その状態を意志的に持続することなのだ。
純粋知覚の中では、劇場は劇場以外の何ものかである。空間を照らしている光は光以外の何ものかである。
昨夜は劇場の中に雪を敷き詰めて踊りました。エマニュエルも多分その雪の上で踊っていました。目には見えませんが、二人とも雪まみれいなって動いていたと思います。
雪
今朝、窓に目をやると、雪景色。向いの屋根に、チョコレート菓子にまぶした粉砂糖のような、ふんわりとした雪。ふと、ポール ギャリコの「雪のひとひら」を思い出す。空から舞い降りた雪のひとひらが天に還るまでまでのお話。矢川澄子さんの訳で日本語になった。彼女も、もう天に還って行った。
昨夜のエマニュエルはいままでになく、のびのびしており、即興とユニゾンの振付の案配がとても自然だった。これまで何十回となく行なったDUOのすべての成果がそこに実っていた。そのような翌日の舞台はむつかしい。その時の体験にとらわれてしまうので。
雪は人々のこころに、純粋知覚を齎してくれる。この雪を、舞台のうえに敷き詰めて、アンジェ最後の舞台を乗り切ろう。
アンジェに雪が降る
アンジェに来て1週間経った。昨夜4回目の『Spiel』の公演を済ませた後、バーでワインを一杯と、という若いスタッフたちに、「またあしたね!」と挨拶を交わして、CNDCを後にした。体の中に燠のように残っている今日のパフォーマンスの余韻が、戸外の冷気に触れていっそう鮮明に甦る。
メーヌ川を挟んで、コンクリートで出来た大きな四角形の現代建築物CNDCの対岸に、今日フランスで現存する城で、もっとも古いアンジェ城が、崖の上に微かなイルミネーションに照らされて、夢のように浮かび上がって見える。なんと美しいことか!なんと清楚なことか!・・・・1000年前には、堅牢なこの城塞で、多くの人々が戦い、夥しい血が流され、どんなにか残虐な殺戮が繰り返されてきたかというのに。
静まり返った石畳の道を歩く自分の足音を聴きながら、心の中で、隣で黙々と歩いているアキラに向かって「今日の舞台面白かった」と呟いた。
お互いの探り合いから始まったエマニュエルとアキラの「SPIEL」の作品創りも、もう4年になろうか。不思議なことに、次第に二人の顔が相似形になってきたではないか。夥しい未生の言葉を流しながら、新しい何かが生まれてくるように。
そして今朝、起きてみると雪が降っていた。昨夜帰り際に、通訳のYUKOさんが「明日は雪ですから、5時15分にエマニュエルが車で迎えにいきます」と言っていたっけ。今夜がCNDCでの「SPIEL」最後の公演だ。
純粋知覚
アンジェの街を歩いていると、前世からの記憶が甦ってくるような気分に襲われる。純粋知覚とは、一切の思い込み、記憶を排除して、あるがままの対象を知覚することだが、この純粋知覚で、この街を歩いていると、いまこうしてここを歩いているのは、ダンス公演のために来たのでもなく、フランスから呼ばれたから、ここにいるのでもなく、一種の「運命的必然性」によって、ここにいるとしかいいようがない。純粋知覚のなかにいると、すべての出来事が必然として、生じているのであり、そこには自己の意志なぞ、微塵も入り得ない、「生のままの生」の流れが現れてくる。
アンジェは典型的な中世の城を中心にして造られた町であり、1000年の時間も流れが生き生きしている。城は堅固な城壁に囲まれている。そして城の中には小さな街がある。ここにいると、今の生と前の生がそのまま繋がるのだ。そしてこの純粋知覚のまま、気合いを入れて舞台に飛び込むのだ。
夢
昨夜、ブログを書き終えて眠りに入ると、すぐに夢を見ました。なんと、寺山修司が闇の中から、ぼんやりと出現したのです。何かを言いたげでしたが、言葉にならないもどかしさを感じました。演劇的犯罪を試み続けた寺山のことだから、あのブログに何か言いたかったのかもしれません。(ブログは死者にも通じる)
敢えて言えば、その時の彼の身体には、なんと言うのか、演劇でもダンスでもない中間を感じました。
今日はここフランス、アンジェは午後から雪が降るとの知らせ。でもここから見える空はまだ雪模様をまったく感じさせない。
angers舞台二日目
ダンスと演劇を比べるならば、言葉を中心とする演劇と、行為(動き)を中心にするダンスの違いということになるが、本質的には、「表現」と「現実」の違いという事になろうか。舞台で踊っていて常々感じるのは、なにかを表現しようとしているのではなく、ひとつの現実を創りだそうとしている、ということであり、そしてこの「生み出された現実」が日常的現実よりも、遥かににリアリティーを有しているというという事を確認しようとしている自己自身である。演劇におけるリアリティーが「変身」のリアリティーであるとするなら、ダンスは変身ではなく、ただ真の自己自身であろうとする。「鉄」という素材で何を創りだせるか、ではなく、ただ、「鉄という素材が何か」ということだろう。
ダンス空間は表現と現実、変身と自己、表現と暴力の両極を行き来いしているように思える。犯罪者にとって、しばしば犯罪自体が表現である場合がある。
ダンスが演劇空間に接近するにしたがい、ダンスは弱体する。反対に現実、自己、暴力、犯罪的であればあるにしたがい、ダンスはその強度をます。
という意味で、どうも二日目の舞台は演劇的空間のベクトルへと傾いていたとのではないかな?
angers舞台初日
今夜はアンジェにおける「spiel」公演の初日。
これから本番というときに、また長めのdiscussion.
日本では、そんな時に話し合いなぞ、ほとんどしない。これから清水の舞台から飛び降りようとする時、「この舞台をする意味について」、話し合うということは。
けれども、こう言ってよければ、ヨーロッパ、とくにフランス人はいざという時、お互いがいま何を思っているかを、言葉や動作で確かめあうというのは、とても大事なことなのだ。エマニュエルと舞台を続けていて、つくづくそう感じる。例えば、長く恋人同士であっても、つねに言葉で、自分が相手に対してどう感じているかを、確かめ合おうとする。(むろん彼女とそういう関係ではないですが)
人間にとって、恥と不安というのは、存在に対する原感情のようなものだと思う。この場合、多分「恥」と言うのが、日本人の原感情であるとするなら、「不安」とは、フランス人にとっての原感情なのではないか。。。。自分の気持ちをいちいち言葉にするのが、不得手な私にとって、エマニュエルと踊っていて、このことを、常々勉強させられている気がする。
という訳で、今日も初日、何とか終えました。
アンジェ初日
昨日午前11時半に離陸し、パリ空港にはYuukoさんがわれわれ二人をピックアップ、夜7時頃、アンジェの宿舎に到着しました。
今回はあまり時差を感じず、なにか、国分寺から原宿に来たくらいの感じで、着いた夜の町の風景も、それほど時空の歪みなく視界に入ってきます。今朝6時まで、熟睡。10時過ぎにエマニュエルが車で迎えに来てくれ、CNDCへ。ここには700と言う劇場と400と言う劇場がある。今回は400のほう。14日から18日での5日間、「spiel」を公演します。三方を客席で囲まれた天井の高い、ブラックボックス。
一時間ほど、前回のパリ公演に着いての感想や反省。
「spiel」は私とエマニュエルのDUO作品で、ヨーロッパではすでに4都市で公演されている。今回のCNDCの公演は8年間エマニュエルが務めたCNDCの芸術監督の退任公演なので、アンジェ市でも注目されている。切符も完売。気合いを入れて明日、ゲネプロです。
新しい虹
以前から、思い出したくてなかなか全文が思い出せなかったヘッセの詩を、最近
やっと思い出せたので、忘れないうちにここに書かせてもらいます。
新しい虹
神の息はあちこちに
また上下に吹きただよい
光が歌ういく重の歌
神が光彩の世界に化す
白は黒に
暖は涼に
絶えず新たに
吹き付けられ
湧く混沌のなかから
永久に
清まりなる
新しい虹
世界がいま「新しい虹」を、
欲しているのだろうと思います。それは丁度ノアの大洪水のあとに、世界に初めて虹が
現れたと時のような。一度全てが崩壊したあとに顕われるような。湧く混沌のなかから
清まりなる新しい虹を。
フランスツアー
明後日の11日から、一ヶ月ほどフランスに滞在します。エマニュエル・ユインとのDUO作品を、アンジェ,セントナザレ、トゥールーズの三都市で公演するため。ちなみにこの作品は5月に東京で上演します。私はまったくフランス語が出来ないのですが、このDUO作品は、困難な異言語を、お互いに通訳を介しながら受け取る作業によって、その言語的差異の中から深められていくという体験があり、それが私にとっては新しい未知の身体性を生み出していると、感じられています。たぶん、リハーサルでは踊った時間より,喋りあった時間のほうが、はるかに長かったです。このツアーの間に、一週間ほど、CNDCで授業します。
近江の国
昨夜、近江の国の、とある小さな鄙びた町に行く。新幹線の米原で近江鉄道に乗り換えると、世界が変わる。というより新幹線が関ヶ原を通過するあたりから変わるのだけれど、そこは何というのか、日常の中に忍び込んでいる、幽界の入り口のような、あるいは夢の世界への入り口のようなところ。だから、近江鉄道はただ乗っているだけで、いい。
泊まった宿のおかみさんは観音様のような、微笑を絶やさず、そして欲が無い。
そこは、蒲生郡(がもう、あるいは、かもぐん)と言うが、それは大石凝真須美によれば、『人を醸(かも)す』ところのこと。日本国を一人の人と見立てるならば、そこは日本の「喉」である。
大国魂神社
正月二日
大晦日、御岳山に登ったために、足の関節痛し。情けない。
午前中は新聞を時間かけて読む。年間ほとんど新聞もテレビも
パソコンも見ない生活。ただ直感で、世界の出来事を感じているだけ
の生活なので、新聞活字を通して、回りの出来事に触れるということ
が、新鮮に感じられる。でも何時まで続くことやら。
久子が初詣に行きたいというので、11時車で関東でもっとも古い神社のひとつ
府中の大国魂神社へ行く。ものすごい人出。神前に辿りつくまでに1時間かかる。でもまわりの
出店を眺めているだけでも楽しい。ケバい付け睫毛のテキ屋の姉ちゃんの顔、なんとか焼き、なんとかソバ
の匂い。参拝後、ジャンボたこ焼きを1箱買って、熱いうちに、府中の森美術館の側で食べる。
夜は年賀状の返事を筆で書き、ポストに。外の寒さ、身に滲みる。
たぶん羊羹の食べ過ぎです。
みなさん、初夢は如何でしたか。
明けましておめでとうございます
昨年はいろいろお世話になりました。今年はブログ頑張ります。
久方ぶりに大晦日の晩、明け方二時頃の臨時電車に乗り、一時間半ほどかけて御岳山に登り、初日の出を見ました。同行者はオイリュトミストの禮示です。
今年はうっすらとした雲の間から、赤々とした光の響きを心臓で聴きました。山頂で蕎麦と御汁粉を食べ、午前10時ころに帰宅。それから午後、介護施設に入っている96歳の母のところに元旦の挨拶へ。
家では、朝日新聞の元日号をゆっくりと読みました。今年が皆様にとって、よき年でありますよう、お祈り
申し上げます。
年の終わりから始まりへ
いつの間にか、国分寺の杜から聴こえていた除夜の鐘が、八幡さまの大太鼓の音に変わっている。志村ふくみ先生から頂いた先生の『薔薇のことぶれ』—リルケ書簡ーを読んでいるうちに、ふと気が付くと2012年が過ぎ、新しい年が明けていた。
およそ100年前に書かれたリルケの、妻クララに、タクシス夫人に、ルー・ザロメに、その他詩人が出会った女性たちに宛てたおびただしい数の手紙。どれもこれも驚くほど美しく、深く、正直な言葉の数々。
私は、志村先生の著書からいつも多くのことを学ぶ。『薔薇のことぶれ』の前に出された『晩祷』—リルケを読むーを読みながら、本を読むということは、正直に自分に向うことなんだ、ということを教えて頂いた。あと数年で70歳にならんとする時まで、こんなことがわからなかった自分にあきれる。
「自分の考えを自分の言葉で書け」(吉田秀和)という言葉を引いて「自分の言葉とは自分の生き様そのものだと思った時、そこにリルケがいた」という先生の文章を読んだとき、ふと肩が軽くなったような気がした。
さて、あれこれ思い巡らしているうちに、丑三つ時に家を出て、御岳山にご来光を拝みに向った叡と禮示は、無事に山の頂きに着いたかな。
『犀・Rhinozeros』ワールド・プリミエ
雪が降る
もう直き、1月23日が過ぎ、24日がやってくる。外は雪だ。部屋を暗くすると、私の机の前の窓を通して、お隣の本多さんの広いお庭が、真っ白に浮び上がって見える。窓を開けると、冷たい空気がきもちいい。寒いけど美しい。
昨年の暮れ、人から頂いた、黒川創著・西村伊作伝「きれいな風貌」を読んで、明治43年(1910)に起った大逆事件で検挙された人たちの中のひとり大石誠之助は、西村伊作の叔父さんであると初めて知った。そして、101年前の1月18日に死刑宣告を受けて、そして今日24日12名の被告の刑が執行された。宣告を受けて、たった一週間後のことだ。大寒の寒い日に、今日みたいに雪が降っていただろうか。
言論の自由、思想の自由が無かった時代の言葉の重さを想う。
Generis第2回 新作公演「カルミナ・ブラーナ」
山本さんの言葉
エッセイストの山本ふみこさんから頂いた本「そなえることは、へらすこと。」(メディアファクトリー)を読んだ。日常の暮らしの中で(特に、この度の大震災のあと)著者が、感じたり思ったりしていることが、明快、率直な言葉で綴られている。読んでいるいるうちに「そうね、そうよ、そうそう・・・」と私自身が書いているような気分になっているから不思議だ。そして、毎日の生活の中で、忘れていたり、気がつかないで通りすぎている事柄などを気付かせてくれる。山本さんの言葉がすぅーと私の身体に入ってきて心地いい。
最近、誰かと話していても、心の中でー言葉が届いていないなーと思うようなことが多くなった。もちろんこの状況は一方的な問題ではない。相手の人も同じことを感じているだろう。ますます話す言葉が空虚になり、ひととひとの間が薄れてきて、遠くなって行く。
山本さんの本の中に次のような文章を見つけた。
―けれども東日本大震災のあと・・・・与えられた物をすべて生かすことが、わたしがわが胸のなかで自分相手にした約束なのだった。
そんな山本さんの言葉に触れて、私の心に何時の時か読んだリルケの詩句が浮かんだ。
私は自分を配慮する。すると 私の中に 家が立っている。
私は自分を見張りする、すると私の中に見張りの牧(まき)がある。
愛を受ける者に私が成ると、美しい自然の姿が 私に凭れて憩い、そしてそれが 心ゆくまで泣いて泣き止む。(片山敏彦訳)
山本さんの本の中で、人間に無関心だった物たちが、植物が、自然が、山本さんの言葉に触れて復活する。
石井恭二さんの訃報
11月30日の夕方、現代思潮新社の川辺さんから、現代思潮社元社主の石井恭二さんの訃報が届けられた。享年83歳。特にこの一年叡の心にはいつも石井さんのことが気になっていたようで、「今度一度訪ねようね」と口にしていただけに、思いがけない訃報に接して、最期のお別れも逸してしまい、叡にとってはことのほか無念な思いだろう。
石井恭二さんが出版したマルキ・ド・サド作/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』が、発禁処分になり、石井さんはわいせつ文書販売等の罪に問われ、裁判が始まったのが1961年、69年に最高裁で有罪が決定された。その係争中の8年間は、火山のマグマが噴出し続けるようなエネルギーが、世の中に渦巻いていた。当時まだ20代だった叡は、大野一雄先生の稽古場で踊りの稽古を始め、土方巽さんと出会い、それまでのダンスの概念をひっくり返すような土方さんの舞台を共に体験し、澁澤龍彦さんはじめ多くの芸術家、詩人などと知り合うことができた。
どういう経緯かすっかり忘れたが、多分1970年頃のことだと思う。ある日、当時石井さんがお住まいだった小日向にお宅に招待され伺うと、そこにはすでに、埴谷雄高さん、澁澤龍彦さん、龍子夫人が集まっておられた。石井さんが「本日は平安朝時代の食事を嗜む集いです」との挨拶があり、石井さん自らひとつひとつ供される食事の品々の説明があった。私は、珍しい食べ物にびっくりしたり、戸惑ったりしながら、一方で、その場で交わされる会話のおもしろさに引き込まれ、その場の心地良さは今でも思い出せるが、もったいないことにその時に何が話されていたのかすっかり忘れてしまった。まだまだ未熟な私だった。
数少ない叡の著作のうち、『天使論』1972『聖霊舞踏』1977『神々の黄昏』1979 の3冊は、石井さんの元から生まれた。その後、すでに現代思潮社を退かれておられたが、石井さんの計らいで、写真集『銀河革命』を現代思潮新社から2004年に上梓した。
前を歩いていてくれた人が、いつの間にか消えて行く。その人の存在のぬくもりだけを私の心の中に残して。決して消えない存在のぬくもり。なんと素晴らしいことか。
「ありがとぉ〜」いくら叫んでも、すでに言葉はとどかない。
明日は日本へ。
いよいよ明日は日本に帰る。
今年の春、多くのひとをのみこんだ日本の大地にふる雪を、痛ましいほど白いと感じたのはついこの間のこと。早くも再び雪の季節が巡ってくる。
5月にフランスのアンジェとアネシー、7月にはイタリアのトスカーニャ、9月はハンガリーのブダペスト、そして今回のニューヨークのブルックリン。いつでも何処でも人々の生活があり、様々な意識が重なりあい、混じりあい、やがて、時間が厚い層となっていく。行く先々でその厚い時間の層に身を沈める。生きる源がそこにあるような気がする。
今月25日は叡の68歳の誕生日。ダンスを始めて50年。未来から吹いてくる新しい風を受けながら、叡は今、CAVEのスタジオで今回最後のワークショップをしている。
「NOBODY’S MONEY」
昨夜(18日)DNA(Dancc New Amsterdam)で、叡のソロ作品「NOBODY’MONEY」を上演した。公演後のアーティスト・トークで、インタビュアーのヒメナが、今回の作品に付いて質問し、叡が「お金は、所有するものではなくて、血液のように必要なところに流れるもの・・・」と口にすると、会場から大きな拍手が起こった。
この数日間公演の準備でDNAに来ると、いつも前の舗道をプラカードを掲げた人たちが行進していたり、目まぐるしく行き交う車の流れを警官たちが交通規制をしていたり、物々しい警戒態勢が続いていた、ニューヨーク市民の不満が渦を巻いて至る所に溢れている。
今日は19日(土)。私たちが、BROOKLYNにいるのも残り二日。ベッドフォード・アベニューの街路樹もすっかり落葉して、冬の淡いブルーの空が遠くの方まで広がって見える。空気が冷たい。やがて華やかなクリスマスがやってくる。
でも、冬のニューヨークは毎年凍死者がでるほど寒いとシゲさんが言っていた。孤独に暮らすお年寄りたち、病気の人たち、職を失った人たち、ちいさな子どもたち・・・凍るように冷たい大都会の中で、この格差社会をどのように生きていけばいいのだろうか?
11月のBROOKLYNつづき5
11月16日夕方4時半。今日は朝から小雨が降っている。ここの部屋は6階にあり、ベランダを通して正面に、マンハッタンに渡る橋が見え、橋に平行して電車が走っている。今すべてが灰色の風景の中で、電車の四角い車窓と車のライトだけがオレンジ色に輝き、忙しく行き交っているのが見える。雪片でも落ちてきそうだ。
昨日の夕方、18日に叡がパフォーマンスをするDNAのスタジオに照明の打ち合わせに行った。打ち合わせが終わり、スタジオの前でシゲさんの車を待ちながら上空を見ると、ヘリコプターの明かりが遠くに動いているのが見えた。10分ほどで来るから、と言ったシゲさんの車を待つこと30分以上。すっかり夜になり、目の前の公園の銀杏の葉がイルミネーションにを受けて、金色に輝いている。どうしたのだろう、といよいよ心配になりだした時、シゲさんの車がやってきた。車に乗ると、シゲさんは「今日は警察が、先月からの反格差のを訴える座り込みの人たちを強制退去させたので、ものすごい交通制限で、なかなか来られなかったんです。心配したでしょう」と言った。それで、ヘリコプターも飛んでいたんだな。
今朝インターネットで朝日新聞を見ると、金色の銀杏の木の前に並んだ警官たちの写真があった。DNAの前の公園に、多くの人がテントを張って座り込みをしていたのだ。200人も逮捕されたという。
ニューヨークに来ると、いつもマンハッタンの繁華街をブラブラ歩いて、本屋を覗いたり、MOMAに行ったり、しゃれた喫茶店に入ったり、何となくニューヨークを楽しむ気分になったものだが、今回はそんな気分になれないのはなぜだろう。
世界が猛スピードで動いているのを感じる。何処に向かっているのだろうか。
11月のBROOKLYN4
今年の8月の末、MacBookAirを買った。海外にでる時、荷物が少しでも軽くあってほしいからだ。と言うと、いかにもパソコンを自由に使いこなしてるように聞こえるが、まったくそうではない。闇の中を行き当たりばったりしていると、偶然に先に進む道にぶつかるといようなものだ。
20年ぐらい前、あるグループの雑誌を独りで編集するはめになった。それより以前、大学卒業後しばらくの間、昭森社という出版社で「本の手帖」や「詩と批評」などの編集に携わっていたことがあるとはいうものの、何から何まで独りで本を作るのは初めて。さて困った。そこで、当時既に一般に広く使われていたワープロを購入し、国分寺北口にあるワープロ塾に入門。夏の暑い盛り、3ヶ月の講習を受けた。やってみると、なかなか面白い。ワープロで原稿を打ち込み、編集から割り付けまでして印刷屋に入稿し、いよいよ印刷屋から第一号の新しい雑誌が手元に届いた時は、ひとり内心ほくほくと嬉しかったのを忘れない。
それから間もなく、ワープロは廃れ、パソコンが取って替わった。今や、どこにいても、どこにいくにも、パソコンは必需品となる。
勿論、ここBROOKLYNにも8月の末に買ったMacBookAirを持ってきた。そして既に「わたしのMac」は大活躍。東京からのメールを受信し、即返信。スケジュールのこと、助成金申請書類のこと、公演やワークショップの問い合わせ等々、「わたしのAirMac」がすべてを記憶していてくれて、何事もリアルタイムに処理してくれ、滞りなく事を進めてくれる。だが、まてよ。突然「わたしのMac」が真っ黒に固まってしまったらどうしよう。
自分で買ったパソコンに自分自身が吸い取られる。ゆゆしきことだ。
人は努力する限り、迷うものだ・・・とは彼のゲーテ先生のお言葉。えい!「わたしのMac」なんか放っといて、美しい冬のベッドフォード・アベニュウを散歩に出よう。
11月のBROOLYNつづき3
私たちに部屋を貸してくれているエミリーのおばあさんは、台湾の人だそうだ。どうりで、シゲさんが初めて彼女を紹介してくれたとき、思わず日本語で挨拶しそうになったほどの親しみを覚えた。確か国分寺のどこかで出会ったことあるような・・・。そのエミリー「日本には、たった一週間だけしか行ったことがないの。東京と北海道の旭川と。北海道は雪が降っていて、とてもすてきだったわ。日本は大好き。食べ物もおいしいし。一週間じゃあ足りないわ。今度は彼と一緒にもっとながく行くわ、ゼッタイに」と最後を強調して言った。
エミリーの彼・ジュリアンは、お母さんがイギリス人。お父さんがケニア人。彼の彫りの深い顔は、浅黒く、黒い瞳が印象的だ。ふたりは、来年の2月にBROOKLYNのどこかにレストランをオープンするという。そのために、今は毎日店の改装をしている。今朝ジュリアンが早く出かけたのは、ニューヨーク中を回って、細かい物を選んでくるためだ。
そうかぁ。それでガッテン!私たちに大きな部屋を貸して、自分たちはリビングルームを簡単に仕切った狭い部屋(しかも、一方がベランダに面していてガラス張りなのに、カーテン無し)を寝室にして、少しでも資金をためよう。夢を実現するためには、少々不自由な思いも厭わない。なんとも頼もしい。
叡がワークショップをしているCAVEでも、コロンビア人のヒメナと日本人のシゲさんが一日中休む暇なく動き回って、スタジオを切り盛りしながら、自分たちの作品創りをしている。
世界的な経済破綻で、お先真っ暗な世の中でも、様々なところで出会いがあり、その出会いが様々な生き方を生み出していく。
11月のBROOKLYNつづき2
次男のれいじから「東京も急に冷え込んで、急遽布団を買いました」というメールが入った。寒いのはニューヨークばかりではない、冬ですものね。
昨日(12日)は、叡のワークショップがお休みなので、午後から散歩に出かけた。前日の寒さを想定して完全装備の態勢で外にでると、案外と寒くない。地下鉄のベッドフォード駅を目指して、ベッドフォード・アベニューを10ブロックほど、のんびりと歩く。初冬の穏やかな日差しのもとで、通りはウイークエンドの昼下がりを楽しむ人たちで賑わっている。11月の最終木曜日が感謝祭だという。それが過ぎると、町は一斉に降誕祭を迎える準備に取りかかるのだろう。途中、露天の古本屋さんで、ブランチ・フィッシャー・ライトの挿絵付きのマザー・グースの絵本を見つけた。
ベッドフォードの駅から地下鉄に乗り、3つ目ユニオン・スクウェアで乗り換え、グランドセントラルを通り越して、59番ストリート駅で降りた。地下鉄の階段を上ると、既に高層ビルの窓ガラスは夕陽を受けて、オレンジ色に輝いている。それから、マンハッタンを南北に走る有名な通り―3rdAve、レキシントンAve、パークAve、マジソンAve、5番街=を横切って、セントラル・パークまで。
実は、その日の朝「ボクは、やはり詩人だからね。セントラル・パークの紅葉がハラハラ散るのがみたいなぁ〜」と叡。「ハハァーン、リルケ張りね・・・」と内心思わず納得する。という訳で、セントラル・パークまでやって来たものの、公園内はどこもかしこも人だらけ。疲れ果て、ベンチに座り、木々の間から空を見上げると、薄紫から灰色そして藍色へと大都会は静かに暮れていく。二人とも寡黙になり目を瞑って、しばらくの間、遠くに響きわたる車のクラクションの音を耳にしていると、嗚呼、再びマンハッタンにいるんだ、と懐かしい思いが湧いてきて、時の流れの不思議が、疲れを忘れさせてくれた。
すっかり陽も落ちて、べッドフォード・アベニュウの帰り道、行きの露天の古本屋で見つけたマザーグースの絵本を7ドルで買い、叡は酒屋でイタリア産ワインを求め、ブロードウエイ・アベニュウ110の、エミリー&ジュリアンとの共同部屋にたどり着いて、無事ニューヨークの休日は終った。
11月のBROOKLYN つづき
11月11日(金)昨晩遅く、雨が降っていようだが、今朝はきれいに晴れ渡っている。私たちの居る部屋から、CAVEまでは7ブロックしか離れていない。パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませ、これまた簡単なお昼のお弁当を作って、外に出ると、ワァ〜寒いではないか。日差しは明るいが、空気は昨日までと打って変わり、グッと冷たい。
さて今回我々のBROOKLYNの滞在先は、前もってシゲさんがネットで探したエミリーさんという若い女性の部屋だ。彼女は我々の滞在中は、上の階に住むボーイフレンドのところで生活する、と聞いていた。まだ新築で、壁も真っ白、大きなリビング、ゆったりとした寝室。彼女はここを買ったそうだ。あの若さで,こんなご時世に、マンションの一室を購入するなんて。ハハァ〜ン、時々部屋を貸して、ローンの返済に充てるのだろう、と思いきや、昨日の昼間、大工さんがやってきて、5時間あまりで、広いリビングにドア付きの真っ白な壁を作り、あっという間に、エミリーの寝室が出来上がり!「今夜は上だけど、明日からここよ。よろしくね。バァ〜イ」とご機嫌で去っていった。「何と言ったか分かる?」と叡に聞いたが、答えはナシ。明日からこの部屋に住むのかしら・・・。
今日になって、事情が判明した。CAVEのワークショップから戻り、バスルームに入ると、何とエミリーの洗濯物がバスタブの上にいっぱい干してあるではないか。しかもボーイフレンドの物まである。これはどういうことか?と思う間もなく、大きな荷物を抱えて、エミリーと彼がやってきて、出来立ての小さな部屋に、すっぽりとふたりで収まってしまった。という訳で、これから日本に帰るまで、私たちのBROOKLYN滞在は、若いカップルと薄い壁を隔てての共同生活となったのである。これもまた愉し!!!
11月のBROOKLYN
今日は、11月10日(木)。ニューヨークに来て4日目だ。日付け変更線を通過してケネディー空港に向かう機内で、「現地は摂氏7度」というアナウンスがあった。やっぱり想像していた通りの寒さだ、と覚悟を決めて空港に降り立ち、迎えにきてくれたCAVEのシゲさんと外に出ると、ライトブルーの冬空のもと、空気はひんやりと気持ちがいい。それほど寒くなく、ああよかった!
2年前、叡と一緒にCAVEのワークショップに来たのは、確か梅雨の頃だったと思う。その年の初め、オバマさんがアメリカの大統領に就任した。「ブッシュが替わって、ニューヨークの空気も軽くなったよ」と、その時何人かの友人から聞いた。それからわずか2年しか経っていないのに、今や、日本に於いても世界に於いても、解決不可能な政治、経済、文化の諸問題が雪崩の勢いで襲いかかってくる。
そんな状況の中で、BROOKLYINにスタジオを持つシゲさんとヒメナの活動は、2年前よりますますエネルギシュだ。様々な国の若者たちが、CAVEの空間で自由に創造作業を繰り広げている。目まぐるしい時の変化の中にあっても、着々と豊かな空間が育っていく。なんと力強いことか!!
マンハッタン島の隣ブルックリンは、シゲさんが10数年前に住み始めた頃は、無法地帯だったそうだ。今では、摩天楼を誇るマンハッタンとは異なり穏やかな住宅街だ。そんなブルックリンでも、今回新しい高層ビルをいくつか見た。
「旧い建物に囲まれたブルックリンのよさが、だんだんなくなるのはさみしい」ポツリとシゲさんが呟いた。
「いやいやシゲさん、外がどんなに冷えても、内は燃え続けて欲しいわ」とわたしは、心の中で呟いた。
もう、11月!
気がついたら、今日はもう11月1日、霜月だ。
午前中、大森正秀さんから、9月下旬「血は特別のジュースだ」の公演のために訪れた、ハンガリーのブタペストでのスナップ写真が、数葉送られてきた。ドナウ川の岸辺に建つ大きな石像の前で、大森さんが撮ってくれた叡と私のツーショット(あの頃はまだまだ暑く、夏日が続いていた)。メルリン劇場の広間の大テーブルの横で、大野悦子さん、秦宣子さん、大森正秀さんとご一緒に一枚。フェスティバル「Japan is here」の開催中、参加者たちは皆、昼に夜にそのテーブルを囲んで食事を共にした。大市場の屋内にある八百屋さんの前で、禮示と秦さんと私。どれもこれも懐かしい。
あれから、京都、横浜と公演が続き、一昨日やっと九日間のエマニュエル・ユィンと叡の、森下スタジオでの稽古と公開デモンストレーション及び最終日のシンポジュームが終わった。
シンポジュームの席上でパネラーの一人から、「全身ダンサー」と称されたエマニュエルも、翌日の朝早く、二人のお嬢さんが待つフランスのアンジェに向かって飛び立った。「秋休みのほとんど、ママなしで過ごさせてしまったわ。せめて残りの二日間は子どもたちと一緒にいたいの」と言いながら・・・。
そして今夜、天使館では11月4日に国分寺の老人介護施設「すかやか」でのオイリュトミー・デモンストレーションの稽古が行われている。叡を交えてオイリュトミスト数名で、「すこやか」にショートステイしておられるご高齢者の皆さんにオイリュトミーを披露するという訳だ。初めての試み。楽しみでもあり、心配でもあり、緊張する。
大森正秀さんは写真とともに一言付け加えてくれた。「ニューヨークは雪とか。ニューヨークの路上で滑らないように・・・」と。優しいなぁ。来週の今頃は、ニューヨーク。寒いだろうなぁ。
11月は、外の闇が最も深まっていく季節。ひとの優しさが、心に光をともす。
「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」
叡の新作「血は特別のジュースだ」を携えてハンガリーに赴き、ブタペストのメルリン劇場での公演を終えて、東京に戻ったのが10月3日。中2日置いて6日に京都にやってきた。10日、京都造形芸術大学の春秋座で、この作品を本邦初演する。
春秋座公演の後、10月14、15、16日の3日間、笠井瑞丈と横浜赤レンガの企画による、叡の構成・振付・出演の新作「うつろ舟」と続き、更に、20日から30日まで、森下スタジオに於いて、フランスのアンジェ国立振付センターの芸術監督のエマニュエルとの公開稽古を行う。相変わらず、スケジュールは立て込んでいる。
とは言え、「血は特別のジュースだ。」と「うつろ舟」は、同時に産声を上げた、全く似ていない双子。乞うご期待!!
JOUTEプロジェクト 公開デモンストレーションとシンポジューム
アンジェ国立振付センターは二年前から、笠井叡とJOUTEプロジェクトという共同作業を行なってきました。それは当センターのディレクターであり、ダンサーであるエマニュエル・ユインと笠井叡のデュオ作品を制作するプロジェクトです。その第一回は今年の五月にフランスのアネシーにおけるフェスティヴァルで50分の作品として発表され、2012年にはヨーロッパ各地を中心に、さらなる展開が予定されています。それは身体性、ダンス・コンセプト、照明、音響等の総合的観点から、ダンスのコンテンポラリー性を追及する試みです。来年1月のベルギー公演に先立ち、この10月に、4回の公開デモンストレーションと一回のシンポジュームを、森下スタジオで行います。どうぞご参加ください。
デモンストレーション エマニュエル・ユイン&笠井叡
日時 10月20日(木曜日) 18時~20時
10月26日{水曜日} 18時~20時
10月29日{土曜日} 18時~20時
10月30日(日曜日) 17時30分~18時30分
シンポジューム 「エマニュエル・ユインと笠井叡のコラボレーションを通してダンスにおける同時代性について考える」
日時 10月30日(日曜日) 19時~21時30分
パネラー 石井達朗(舞踊評論家)
立木燁子(舞踊評論家)
エマニュエル・ユイン(舞踊家) 笠井叡(舞踊家) 通訳:原真理子
会場 森下スタジオ (地下鉄都営新宿線・都営大江戸線下車5分 tel 03- 5624 -5951)
要予約 info@akirakasai.com(デモンストレーション:無料 シンポジューム参加:500円)
エマニュエル・ユイン( Emmanuelle Huynh)
CNDC(アンジェ国立振付センター)の現在の芸術監督。批評的、哲学的な視座を持ち、さまざまの実験的制作を行な
ている。トリシャ・ブラウンのもとで踊り、オディール・デュポック等との共同作業を長く行なってきた。ボルドー美術館、ポンピドゥー美術館等でもパーフォーマンスを行い、また造形作家、音楽家との共同制作を多数行なっている。
アンジェ国立振付センター(CNDC)
フランスの文化政策として1978年に設立されたダンス・センター。劇場以外に、レジデンス施設、教育機関を有する。フランス文化大臣の招聘を受け、アルビン・ニコライが当初の三年間芸術監督を務めた。エマニュエル・ユインは二年間のダンス・コース以外に、センターでエッセ(Essais)という振付コースを始める。
エマニュエルとの恊働作業の始まり
5月2日の夕方、ANAでドゴール空港に降り、列車に乗り次いでほぼ一時間半アンジェに着いた時、駅にCNDC(国立コンテンポラリー振付センター)のアルノーが、雨の中を車で迎えにきてくれていた。2年振りのアンジェだ。宿舎は前と同じ、窓からゴチック教会の尖塔が見えるアパルトマンの一室。
翌日からCNDCで、叡とエマニュエルの稽古が始まる。思わず叡が「日本に持って行きたくなるような空間だ!」と口走ったほど、素晴らしい大リハーサル室には、叡とエマニュエルの他、音響担当のマチュー、照明のオーギュスティン、映像のカンタンとジュディットと通訳のまり子さんと私の8人。
エマニュエルは、CNDCの芸術監督、ダンサー、コレオグラファー、幼いふたりの娘たちの母親で、ポルトガル人のダンサーの奥さんでもあり、幾つもの顔をもつ、きわめて多忙で、有能な女性ではあるが、実際に会うと、アーティストというより、穏やかな親しみのある主婦というほうがしっくりする。そんな彼女が、一年ほど前から日本に来る度に、僅かな時間を割いて天使館を訪れて、叡との稽古を重ねてきた。
そのきっかけは、2年前の春のCNDCの招聘公演『花粉革命』を観て、叡の動きがどこから出てくるのか強い関心を持った彼女の、持ち前の知りたがりやの性格と物事に一途に向う彼女の意志力が強く働いた結果だ。そのようにしてエマニュエルの要望から、専ら彼女の提唱する『プレイ・バック』という稽古方法を用いて、ふたりの稽古が始まった。
今回私たちがアンジェに来たのは、今週末アネシーのダンスフェスティバルでふたりが踊ることになったからだ。しかし、エマニュエルがCNDCの大リハーサル室で叡と行なった稽古は、フェスティバルのための稽古ではなく、天使館の稽古と全く同じで、『プレイ・バック』、[プレイ・バック』の『プレイ・バック』・・・・。そして、動く時間と同じ時間をかけて、音響、照明、カメラのみんなと話し合い。それぞれが、動き、光、音を分析して言葉にする。それぞれがA4のノートに細かく書き付けて行く。ダンサー、照明、音響、稽古場にいる人が、自由に自分の時間を相手の時間に重ねて行く。初め、エマニュエルの知りたがりやの芽が頭をもたげてから、呼吸するように過去、未来、現在の時間の層が重なり合って、密度の濃い深い時間の流れになって行く。そんな稽古の流れから、アネシーでどんなものが生まれてくるのか、とても楽しみだ。叡にとっても、きっと未知の出会いを楽しみにしているだろう。エマニュエルとの恊働作業はこれからも続いていくだろう。
あの日から一ヶ月
今日は4月11日。東北関東大震災の日から一ヶ月経った。3月11日、私の乗った電車がJR西国分寺の駅に着いて、幸いにもドアが開いた時、地震が起った。電車を一台遅れて乗ったら、駅と駅の間で止まって、暫く待たされて、電車から線路に降り、最寄りの駅まで歩く羽目になっただろう。反対方向に乗った私の友人は、まさしくそうだった,と後で聞いた。
その日から暫くの間は、電車に乗るのが怖かった。中央線の高架線でストップしたらどうしよう、新宿の高層ビル内にいる時だったら・・・・。階段を下りるのも,走ることもままならない身体障害者の私は、きっと多くの人に迷惑をかけるだろう。みんなが逃げる時に,さぞかし邪魔になるだろう。たとえ無事だったとしても,帰宅難民になったら、私の脚で歩けるのは、一区間の半分位がせいぜいだろう。
3月11日、エフェソスオイリュトミーシューレの一学期が終了し、今日4月11日第二学期が始まった。この一ヶ月の間、毎日被災地の様子を知らせる新聞報道を読んで、概ね平常な生活の私の方が、むしろ被災された方々から励まされ、多くを与えられてきた。
今日,35年振りに出す文集「天使館 volⅡ」の見本刷りが届いた。原稿締め切りが3月10日。原稿が集まり、いざ編集割り付けに取りかかろうとした矢先に,震災が起った。「35年間分の日記をつけるつもりで」丁寧に自分とオイリュトミーについて記した原稿を寄せてくれた藤原和子さんは、いち早く「震災後に書いたとしたら、異なった文章になったでしょう」と言った。恐らく文集の大半の筆者が、同じような思いに駆られたに違いない。確かに,一瞬にして信じがたく多くの大切なものが失われてしまった。しかし、藤原さんが真摯に言葉に向った行為は、きっと失われることなく、宇宙の運行の中に組み込まれているだろう。
真摯に行為することが,少しでも光の方向に時を促す力になることを願って、4月27日、国立南口の大学通に面したお菓子屋さん「白十字」で19時から、『オイリュトミー・アーベント』というオイリュトミーの会をすることにした。ピアノ、ヴァイオリン、チェロのライブ演奏で、叡はじめ、7人のオイリュトミストが出演する。(ケーキ・お飲み物付きで2500円)
30年ぶりの手紙
昨日、叡のもとにスイスから一通の手紙が届いた。ドイツの友人クルツ・リヒターからだ。なんと30年ぶり。1980年の春、子どもたちと一緒に、西ドイツ(当時はまだ東西が分裂していた)のシュツットガルトに渡った直後、クルツは私達家族を車で、森の奥にある滝を見に連れて行ってくれた。彫りの深い顔に、あごひげを蓄え、長髪を頭の後ろで縛り、ヒッピーのようなジーンズ姿のカッコいいその青年は、とても優しく、突然コトバも通じない異国に連れてこられてしまった我が三人の息子たちも、おにいちゃんのように慕って、大喜びで、楽しく遊び、和やかで暖かい私達のドイツ生活の始まりをプレゼントしてくれた。私がクルツにあったのはその時一回だけで、叡もそれからは疎遠になり、30年間全く音信不通だった。
便りには「アキラ、元気かい。君の家族は無事か?日本は大変だね。今僕は、スザンネとポールと一緒にスイスの田舎に住んでいる。家はでっかい。君の家族も充分住めるよ」とだけ書いてあった。ポールは、きっとスザンネ(当時からの恋人)との間にできた息子だろう。
3月11日、一瞬にして多くの「いのち」が失われ、多くの方々の生活の根拠が消え去ってしまった。
あまりにも重い悲しい現実。失われていく見知らぬ人々の「いのち」―地球上のすべての「いのち」―が、私の「いのち」とともに在り、つながっているんだと、今になって本当に気づくなんて、なんと愚かで、遅すぎる私なんだろう。
今日は、昨年の秋から計画していた文集『天使館』の後書きを書くのに、コトバをさがして、丸一日かかってしまった。
ありがとう、クルツ。あなたのシンプルなコトバは、イノチのミズだよ。
細江英公先生のお祝いの会
「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」に、叡とともに出席した。会場となった新宿京王プラザホテルのエミネンスホールは、これまでの先生の偉大な功績をたたえて、各方面から集った多くの方々で賑わった。
会場で、詩人の白石かずこさん、故澁澤龍彦氏の夫人龍子さん、大野慶人さん、平凡社の清水壽明さん、溝端俊夫さん、故種村季弘氏のご子息や、故土方巽氏のお嬢さんガラさんなど、懐かしい方々にお目にかかった。
2003年の秋、川崎市岡本太郎美術館で開催された「肉体のシュルレアリスム」―舞踏家土方巽抄―展の、オープニングの日だったと思う。イベント会場に、細江先生が杖をつかれて入ってこられ、膝を庇うようにゆっくりと私の隣の空いている席にお座りになった。
私が膝の具合をおたずねすると、「膝がどうもねぇ。具合よくない」などとおっしゃる。私も経験があるので、きっとお辛いのだろうなぁ・・・と思っているうちに、取り壊されたアスベスト館の稽古場の床板を敷いて作った舞台に、故大野一雄先生が車椅子で登場。すると、前列の桟敷の観客たちが、一斉にカメラを取り出し、あちこちでシャッターを切り始める。その途端、それまで私の隣で、杖の頭に両手をのせて座っていた細江先生が、やおら杖を椅子の下に転がして、鞄から小さなカメラを取り出して、最前列のセンターめがけて、ベースに滑り込みする野球選手のように、その巨体を横滑りさせ、横になったままシャッターを押しはじめた。その敏捷さ、素早さを目の当たりにして、私は、なぜかとても嬉しくなったのを鮮明に覚えている。
お祝いの言葉に応えて、先生は「今私は79歳ですが、2039年までは仕事をして頑張ります」と話された。2039年は写真発明200年にあたるそうだ。
お話を聞きながら、また私はなぜか嬉しくなった。
ゆきがふる
数日前、新聞で死刑囚永田洋子さんが獄中で病死したとの記事を目にした時、こころのどこかが哀しく、また「そうだったの」とどこかが軽くなった。親戚でも友人でもない私が、凄惨なリンチ殺人の犯人の彼女を「洋子サン」と親しげに呼んでしまうのは、ただほぼ同じ時に生まれた二人の女の子が、ある時から一方は死刑囚となり、もう一方は結婚して母親となり、同じ時間を同じ空気を吸って生きてきた、という見えない繋がりを感じるからだと思う。
洋子サンが、1972年2月群馬県の山岳アジトで逮捕されてから、死刑囚となり、留置所の独房の中で病死する今年の2月5日までの40年間を、何を思い、何を見つめ、どのように生きていたか、私には想像できない。
きっと女学生だった頃の彼女は、平和な世界を願って、夢と希望をたくさんもっていたのだろうに。(私もそうだった。)その女の子が、どうしてあのような恐ろしい事件を起こしてしまったのだろうか? 極限状態、権力欲、男女問題、性格、嫉妬、いじめ、弱さ、虚栄心・・・。外側からは、どのようにでも言うことができようが、その当時、事件を新聞で読んだ私は、その事件の首謀者が、自分の年齢とたった2ヶ月しか違わない女性であると知って、何故か哀しみでいっぱいになったのを憶えている。
これから、この人はどうやって生きていくのだろうか? 独房の中で、死刑囚として自分の死に向かいながら、ひたすら犯した罪をカラダの中に深く刻印し、罪の償いをし続ける・・・。果たして罪を償いきれるのだろうか?
そんな風にして、子育てを始めたばかりの当時28歳の私の心の片隅に、洋子サンの存在が住み始めた。
今日、東京は珍しく雪。午後から「ザ・高円寺」に、今村昌平の「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」を観に行く。戦後25年の歴史のドキュメントタリー映画だ。安保闘争、学園紛争、ヘルメットをかぶった学生たちと機動隊とのはげしい攻防戦。火炎瓶が炸裂する。ゲバ棒をもつ洋子サンも、あの渦の中にいたのだ。それから2年も経たない2月、春を待つ冷たい山の中で・・・・。
国分寺に戻ると、雪はみぞれに変わっていた。そうだ!駅の花屋で梅の枝を買っていこう。もうすぐ春がくる。
再びミシマ
明日からシアターコクーンで始まる蜷川演出「ミシマダブル」の一方の芝居三島由紀夫の「我が友ヒットラー」のチケットの最後の一枚を買うことができた。もう一方の「サド公爵夫人」は既に完売。とても残念だが仕方が無い。
私はこの「サド公爵夫人」の初演を、新しく建った新宿紀伊国屋ホールで観た。40数年も前のことだ。もともと演劇が好きだったので、文学座の会員になったりして、信濃町で行なわれる文学座アトリエ公演にしばしば出向いたりしていた頃だが、この紀伊国屋ホールでの「サド公爵夫人」との出会いは、後にも先にも無いほど新鮮で衝撃的なものだった。何がどうして、と言葉では言い表し難い。今でも「サド公爵夫人」と思っただけでも、私のカラダの中に凛とした空気と香りが甦る。
女学生の頃に、この芝居を観ることができて本当によかった。
はるとなり
詩人の高橋睦郎さんが、朝日新聞に書かれた文章を読んで、春隣(はるとなり)ということばを教えて頂き、何かとてもうれしい気分になった。
何故だろう?睦郎さんは「春隣と呟くだけでなんとなく華やいだ気分になる・・・」と書かれている。ほんとうにそうだ。
先日、生協でライラックの苗木を買った。花が咲くまで3年はかかるらしい。我家の、狭くて日当りも悪い庭で、果たしてその苗木は育つのか、3年待てば、私が夢見ているような美しい花が咲くのだろうか?いささか心細い。
でも我が貧しい庭には、既に思いつくまま植えられた十二、三本の木々が、手入れも施されず、栄養も与えられず、負けずに頑張って生きている。そして、寒い冬の日に、そっと芽を膨らませはじめる。まるで、春はもうすぐ隣、と私に密かに教えてくれるかのように。
「はるとなり」の言葉のぬくもりは、目に見えないひかりのぬくもり、いのちのぬくもり。
毎朝、不細工な庭を眺め「世話もしないで、いただくばかり、ゴメンね」と心の中で呟いて、私の一日は始まる。
笠井叡著「カラダという書物」
ダンサーにとって〈カラダ〉とは何か。笠井叡 宇宙の感覚器官としての人間身体を問う。
書肆山田/2011年6月30日初版第一刷 発行 四六変(190×120) 295ページ
定価2940円 (本体2800円) ISBN978-4-87995-821-1 C1373 \2800E
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書肆山田/tel 03-5988-7467 fax 03-3983-5477
I カラダという書物
カラダを読む
カラダという物体
文字とダンス
カラダの原
触覚について
動物と宇宙
内部について
人間は物質をその内部から知覚し、認識する
偏見と誤解に満ちたカラダ
カラダという書物
II 鰓(えら)呼吸するカラダ
民族身体
「感覚の消去」と「感覚の呼吸」
声から生命力を取り出す
発声力によるタンパク合成
他者発声
聴覚発声
胎生期のカラダ
五つの母声の働きについて
十二の父声
鰓(えら)呼吸するカラダ
純粋感覚
日本語における父声、母声、子声
父声について
III カラダについての新しいイメージを自由に作る
虚偽
作者がいるが作品がない
無から有を生む
かごの中のこおろぎはお母さん
IV 可能態としてのカラダ
三人称のカラダ
時間は未来から過去へ流れる
触覚の中のカラダと言葉
天の荒廃――あとがきにかえて
笠井叡舞台情報
7月22日~24日 イタリア・トゥスカーニアのフェスティヴァル「エックスチェンジ」にて作品発表とワークショップ
9月後半~10月前半 ハンガリー・ブダペストのダンス・フェスティヴァルにて公演予定
アイカワサンの明かりは春の光
昨年の暮れ、相川正明さんがお亡くなりになった。それも突然に。まだ還暦を過ぎて間もないのに・・・。
年が明けた3日と4日のお通夜とご葬儀で、大勢の方が相川さんの急逝に驚きと哀しみの表情を隠せず、最期のお別れをした。
純白の棺にすっぽりと納まった相川さんの、だるまさんのように丸く大きなの顔のほっぺは、どう見ても赤ちゃんのように柔かく、可愛らしい。眺めていると滑稽なほど悲しく愛おしい。
「間違えて、死んじゃったんじゃあないの?アイカワクン」私は、心の中で呟いた。
彼は、明かりの人である前に踊る人だった。1973年の夏、TBSの裏にあった国際芸術家センターでの天使館公演『七つの封印』で、彼は踊った。天使館で一緒に稽古もし、舞台を創り、やがて、明かりを創る人になった彼は、叡の公演ではいつも照明を担当して、国内公演、海外ツアーの多くを共に体験してきた。時には厳しい舞台作りの現場にあっても、慶応大学でノヴァーリスをとりあげたという彼の大きな体のなかには、どこかに優しい美しいひかりを求めるロマンティストが住んでいた。
「カサイサン、ゲンキ?」と、会うといつも彼は言った。尻上がりのその言い方には、彼独特のイントネーションがあった。
喪主の挨拶に立たれた奥さまの千里さんは、「相川は闇が好きでした」と言われた。
相川さんの明かりは、あの大きなカラダの深い闇の中から差してくる魂の美しいひかり。
柔らかく温かい春の色。
今頃、あちらで大好きだったノヴァーリスと邂逅して、仲良く軽やかにひかりのダンスしているような気がする。
アイカワクン・・・また遇いましょうね!
オイリュトミー公演:バッハ「フーガの技法」とオイリュトミー
天使館 VOL Ⅱ
先日、国分寺裏の雑木林を散歩している時、ふと「天使館」VOL Ⅱを創ろう、と閃いた。「天使館」とは、天使館に稽古に来ている人たちの文章を集めて、私が編集して発行した小冊子のことだ。とは言うものの、VOL Ⅰが出たのは、今からかれこれ35年前のこと。次号を出そうと閃くまでに随分時間がかかったものだ。このテンポだと「天使館 VOL Ⅲ」を出そうと閃く頃は、私は百歳を超えることになろうか。
VOL Ⅰ の奥付けを見ると、発行日、昭和51年6月、発行部数/200部、分価/500円、発行所/天使館編集室、編集・発行人/笠井久子と記されている。目次には、その頃天使館で稽古していた人たち16人の名前が列んでいる。みんな20代から30代前半の若者たちだ。
わが家の庭に手作りの稽古場を建てて、そこを「天使館」と命名し、当時28歳だった叡が週に4回の舞踏の稽古を始めた時、集まってきた連中は、皆こぞって頑固、野性的、自己主張、自己顕示欲が強く、情熱的、真面目で議論好き、でも涙もろく、善くも悪くも社会に向かって突進していくエネルギーだけは、持ち合わせた熱血漢揃いだった。だから、昼間は樹木に囲まれた静かな天使館も、夜稽古が始まると、踊る人たちの熱気で、暗闇の中で赤くふくれあがっているように思えた。そんな時、閃いたのだ。みんなに文章を、体から紡ぎ出される言葉を書いてもらおう、と。そして、編集後記は、私が書いた。
「以前、ある舞踏家が『動物が自らの死を予感すると、人知れず姿を消す、それはまさしく動物の舞踏ですね』と語ったのを聞いたことがあります。成程、花はその花弁の一ひら一ひらを、与えられた存在そのものの形を十全に顕示しながら開花しますし、地中で時を待つ昆虫の姿にも、それ以外の何ものでもないという完璧な姿勢を見ることができます。(略)天使館が創られてから5年が経ちました。この間、多くの人がこの小さな稽古場で稽古してきました。「何を?」”動き”という簡単で明確な行為に於いて、それ以外何ものでもないという自分を見つけることは、恐らくもっとも簡単であり、且つもっとも困難なことでしょう。ここに収められた全てのエッセイは、各人の魂の記録として読まれるべきものであると信じています」
さて35年経った今、ふたたび「天使館」VOLⅡを創ろうと閃いた。
世の中の状況も、人々の意識も、猛烈なスピードで変化していく。
初めてのパレルモ
10月28日付け朝日新聞夕刊に「マフィアのナンバー2逮捕」という記事を読んだ。見出しの下に、南部シチリアを拠点とする犯罪組織「コーザ・ノストラ」のナンバー2、メッシーナ容疑者の顔写真が載ってる。38歳の彼は、11年の逃亡の末,逮捕直前まで、隠れ家で映画「ゴッドファーザー」を再現したゲームソフトで遊んでいたらしい。
私がこの記事に目を止めたのは、きっとその1ヶ月前の9月の末、パレルモ公演のためにシチリアのパレルモにいたからだ。
ナポリの国立考古学博物館の「ファルネーゼの部屋」での公演を終えてパレルモに向かう機内で、通訳の真人さんが教えてくれた。「パレルモ空港からリムジンバスに乗って暫く走ったら、右側にポールが見えます。そこを通る時、大抵のイタリア人は感情を露にします。ぼくの妻のダニエラなんて涙を流すんですよ」「ヘェ〜。なぜ?」「十数年前に、公然とマフィアと闘う判事さんがいたのですが、ある日彼が空港から市内に向かう途中、道路に埋め込まれた爆弾が炸裂し死んだのです。マフィアたちは、正確に判事の行動を計算して、道路からはるか離れた山間から判事の乗った車を双眼鏡で追跡して、爆弾にスイッチを入れたのです。その現場にポールを立てたんです」彼の話を聴きながら思わず、映画「ゴッドファザー」の、車が爆弾で木っ端みじんにぶっ飛ぶシーンが目に浮かんだ。
以前,イタリア人の友人から「シチリアに行ったら、マフィアという言葉は口にしない方がいいよ」と言われたことがあった。庶民の生活の隅々にまで,マフィアの力が及んでいるのだろう。たとえば、車を盗まれても,その筋の人に頼めば,翌日ちゃんと戻ってくる。そうしない限り、盗難事件は永遠に迷宮入り。しかし頼んだ限りは,永遠にその関係は切れなくなる。切ろうとすれば死を覚悟しなければならない。まさにコッポラの映画そのものだ。ファミリーの内と外の違いは、生きるか死ぬかの違いでもある。
私たちのパレルモ公演の主催者のジョゼッぺ・カニツォ氏は、弁護士という肩書きをもつ一方、「友愛」という標語のシチリア・ジャポネーゼ文化協会の会長を既に5年間も務める、実直で温厚な紳士である。
公演が終わって、ジョゼッぺ氏は、私たちと別れるとき「私は,イタリア人ではなくパレルモ人です。」ときっぱり言った。困難な問題があっても、誇りを持ってパレルモを愛している彼の熱い思いがそこにあった。
ローマ,ナポリ,シチリアと南に行くに従って,トマト,オレンジ,ワインの香りと色が濃くなっていくように,人々のカラダの内に流れる血液も、次第に濃縮されていくのだろうか。
ローマに戻り、「一番の問題は,イタリア人自身の内に、マフィア的要素があるということです」と言ったイタリアの友人の憂いを含んだ顔が、今でも深く印象に残っている。
狂ったように暑かった今年の夏、8月の末の「バッハのフーガの技法とオイリュトミ―」公演、9月10、11、12日の「カルミナ・ブラーナ」公演、引き続きナポリ、パレルモ、ローマ公演と、自然界にまけず劣らず、わたしの夏も熱かった。
国分寺の秋も、美しく深まっていく。やっと静かな時間を得て、これから何が生まれてくるのだろうかなどと思い巡らしている。
ブラヴォー!大野先生
横浜のBank ART Studio NYKで行われた「ブラヴォー!大野一雄の会」で、その実行委員会代表の写真家細江英公先生が、お話の後、ワイングラスを高々と捧げて、「ブラヴォー!」と一声を発すると、会場一杯に埋め尽くしていた参加者たちも一斉に「ブラヴォー、ブラヴォー」声を上げた。その瞬間、不思議な力を頂いたように感じたのは、私だけではないだろう。
大野先生の「ブラヴォー!」には思い出がある。1980年ナンシーの国際演劇祭で、先生が「ラ・アルヘンティーナ頌」を踊られた翌日のことだ。
丁度5月の聖霊降臨祭のころで、美しいナンシーの街角で「ブラヴォー」というどよめきの歓声が上がったのだ。人ごみの後ろから背伸びして見ると、角のカフェの中で、大野先生がコーヒーを飲んでいらした。
きっと昨夜先生の踊りを観た人々だろう。口々に先生の踊りを賞賛する言葉を囁き、笑みを浮かべ、次々と人々が集まってきた。やがて、大きな拍手とともに「ブラヴォー」の声が街中にこだまして、何時までも止まなかった。
そんな熱気の最中、カフェの中で、先生は私に向かって小さい声で話された。
「ワタシはね、キリストの足洗いのダンスをしたいのですよ」
先生がきっと、弟子の足を洗うイエスのことを話されたのだろう。外では、柔らかい新芽をいっぱいつけた街路樹が、春の陽のもとで眩しく輝き、「ブラヴォー」の歓声は、何処までも何処までも、さざ波のように広がっていく、何時までも、何時までも・・・。
昨夜の会では、ナンシーでのことを、昨日のように懐かしく思い出しながら、あらためて大野先生に思いを巡らし、感謝の気持に満たされた。美しい夜だった。
大野先生と月見草
確か、梅雨の頃だったと思う。大野先生のお父様がまだご存命でいらしたのだから、かれこれ40年以上前のことだ。
叡とふたりで、丘の中腹にある上星川の先生のお宅を訪ねた。先生は、大きなバケツに入った水を、庭の南側の斜面に何度も勢いよく撒いていた。その豪快な動きは、荒海に向かって網を投げかける漁師そのものだった。
食堂に戻られた先生は、「川で集めた月見草の種をネ、コウシテ蒔くと・・・」と言いながら、デミタスカップにコーヒーを注いで、ザラメを何杯も何杯も入れて、クゥーと飲み「梅雨が明けたらネ、ワタシは直ぐに山に行ってネ、コウシテ窓を開けて、空気を入れ替え、フトンを全ェ〜部、干してサ、生徒たちの夏休みの林間学校までに、用意スルワケデスヨ」と、長い首を私たちの方に突き出して囁いた。
その年の秋、叡は「丘の麓」という作品で、先生とのデュオをお願いした。先生は快諾してくださったが、当時の私たちは、衣装を用意するお金もなく、プロのデザイナーに頼む方策も持っていなかったので、苦肉の策で、洋裁未経験の私が作るはめになった。叡の希望は、もちろん女のドレスで、限りなくエレガントで・・・。果たして私に作れるだろうか?
紫のチゥール地を何枚も重ね、黒のベルベットを裁断して、どうにか形をこしらえて、仮縫いに上星川の稽古場に出向いた。試し着を何度お願いしただろう。でも、先生は少しも嫌な顔をなさらず、額に汗をにじませ、必死になっている私の横で、お母さんが自分のために明日の遠足の着物を縫ってくれているのを、楽しみに待っている子どものように、針を動かす私の指をいつまでも眺めていた。
長い金髪のカツラをかぶり、つけ睫毛と白粉とルージュで顔をつくり、決して上出来とはいえない私の仕立てた衣装を着込んで、風呂の手桶を小脇に抱えて登場すると、先生は、桶の中のドジョウを掴んで、パッパッと舞台の上にばらまき、踊り出した。勢いよくピチピチ跳ねるドジョウの上で、モーツアルトの嬉遊曲にのって、叡とのデュオが始まった。大野先生は、タンホイザーを恋する清らかな乙女エリザベートであり、彼を誘惑する官能的なヴェーヌスであった。
今宵は梅雨の晴れ間、夜空を流れる天の川の河原で、この世のカラダを脱いで、今、宇宙のカラダとなった大野先生は、パチッと花開く月見草と踊っているだろう。
すべて、何かが新しく生まれる瞬間は、エネルギシュであり、なんと魅惑に満ちていることか!
「舞踏」は、「舞踏」という名を付与される以前からあり、いつも新しく生まれ続けている。
大野一雄先生の死
6月1日18時、ローマのフリオカミロ劇場の二階にあるB&Bの部屋で、インターネットのニュース画面から、大野一雄先生の死を知った。私の中で突然時間がストップする。
先日5月29〜31日の3日間、叡は、ローマ在住の舞踏研究者でありジャーナリストのマリア・ピアと、“ヘリオガバログループ”のダンサーたちと一緒に12年にわたって共に培って来たBUTOHの稽古の集大成として、このグループのための叡の振付作品「ヘリオガバロ」に,自分もダンサーとして加わり、初めて舞台上で彼らとのコラボレーションを実現して、瑞々しい新しい果実が生まれたばかり。
当時大学生だったマリア・ピアは、1986年ローマで大野先生の舞台を観て、強い衝撃を受け、卒業論文に「舞踏家大野一雄」を書いた。以来舞踏のみならず日本文学、日本語、日本文化に深く真摯な情熱を傾け、自身の著作を通して日本の舞踏をイタリアに紹介し、また実際に、ローマで舞踏を志すイタリアのダンサーたちの活動の大きな担い手となった。そして、私たちは、その彼女を通して、“ヘリオガバログループ”(フラビオ、マダレーナ、ピントス、サマンタ、アレキサンドラ・・・)と出会った。
既に目に見えない大きな流れとなった大野一雄先生の舞踏が、国を超えて大洋に向かって広がっていく。
そしてなにより半世紀前、18歳の叡がダンサー大野一雄と出会わなかったら、今のダンサー笠井叡はなかっただろう。
静かに眠るローマの夜空に、今、悲しいほど星々が煌めいている。








