感覚世界ばマーヤである、そして、人間はすでに昔、神聖なバガヴァットによって、殺されたのである、人間は単なる外観上の殺戮者であるに過ぎない、人間が感受する感覚世界はその生においても死においても、「仮象」である、そして、それらの「仮象」はすべて神聖なバガヴァットによって、消滅させられる、カーラの中で、消え去っていく、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
これらの事がもし真実であるとするならば、この真実において人間を殺戮すること、何百万の人間を殺害することが正当化されるとするならば、一体それはどのような存在においてでしょうか。この真実の故に、人間の殺戮がもし許されるとするならば、何をもって、それが可能なのでしょうか。この神聖なバガヴァットのコトバによって、殺人が許されるのでしょうか。否、それは許される、許されないをすでに超えた、それが「仮象」であるがゆえに人間が人間を殺すとするならば、それは、いつの時代のことでしょうか。この神聖なバガヴァットのコトバによって、勇気をもって人を殺戮した人たちとは、一体どんな人物なのでしょうか。すべては虚妄なのでしょうか。神々は、現象世界をすべてマーヤにすることによって、人間がすべてを消滅させるカーラに一体となって、宇宙自我である「梵天」と一つになることを望んでいるのでしょうか。これが神々の望んでいる人間の本来の姿でしょうか。一体これは、古代の戦争に対する神々の言葉でしょうか。それともそれ以来連綿と人類の歴史の中に生じてきた、すべての戦争、植民地戦争や或いはそれに対する抵抗戦争や侵略や、そして現代に、これから生じるかもしれないところの第三次世界大戦も含めて、神々はこの言葉を人類に投げかけ続けるのでしょうか。一体いつの時代の戦争がこの言葉によって、正当化されるのでしょうか。「神が悪を演じている」ということは、人間がその「仮象」を克服することによって、「人間が悪を行う」ということが「人間そのものが悪を演じる」ことになるのでしょうか。その時に人間は「戦争を行っている」のではなくて「戦争を演じている」のでしょうか。すべて地上の出来事において、人間は、「仮象」に目覚めた時に、「演じるもの」として享受しなければならないのでしょうか。そして、「悪が演じられる」ということは、真実も同時に感覚世界においては、「演じられる」ということなのでしょうか。