オイリュトミー公演「牧神の午後」

[最新公演のご案内]

オイリュトミー公演
「牧神の午後」

出演:
浅見裕子 笠井禮示 寺﨑礁 原仁美

笠井叡

ピアノ:島岡多恵子

日時:2026年11月25日(水)
19時開演/18時半開場

会場:たましんRISURUホール
JR中央線立川駅南口より徒歩10~12分

料金:前売4,500円 当日5,000円

予約:
予約フォームもしくはメールにて、お名前・枚数を明記の上お申込み下さい。

予約フォーム:
https://forms.gle/713tfDThsUhG7X8u5

予約メール:
torajagger@gmail.com

制作:torajagger factory

主催:天使館

【ダンスの学校 7期募集】

これまでの六期の学校で学んだ方、さらに今回初回で参加される方、どなたも歓迎です。未知のダンス領域に深く入ります。

 

【告知】ダンスの学校7期募集

天使館
『ダンスの学校』
講師 笠井叡


第7期授業内容

基本になる
「母音と子音の動き」
「コトバとカラダの関わり」
その関わりは次の三つの領域でなされます

第一に 「事物と一体になる意志の力」
第二に 「動きの根源である無限感情の力」
第三は 「コトバとカラダを結ぶ、頭部に宿っている「光の思考力」

意志・感情・思考は
身体運動と共に開花、覚醒する
ダンス力

限りなく 既知なるものではなく
未知の
形に宿るものではなく
爆発的に凝固する

振付と即興を超越する
天から落下してくる
「砕けた虹」


講師 笠井叡
期間 2026年6月6日〜2027年5月22日(毎月2回)
時間 18時〜21時
場所 天使館
東京都国分寺市西元町3-27-9
定員 15名
学費一年間10万円

受講希望の方は
1.お名前
2.生年月日
3.プロフィール
4.応募動機
以上をお書きのうえ
kasai_uemura@yahoo.co.jp
までメールにてお送りください。

応募者多数の場合、書類選考の上こちらからご連絡いたします。
応募締め切り 5月17日(日)


日程
2026年
6月6日(土)
6月20日(土)
7月4日(土)
7月18日(土)
8月8日 (土)
8月22日(土)
9月5日 (土)
9月19日(土)
10月10日(土)
10月24日(土)
11月14日(土)
11月28日(土)
12月12日(土)
12月26日(土)

2027年
1月9日(土)
1月23日(土)
2月13日(土)
2月27日(土)
3月13日(土)
3月27日(土)
4月10日(土)
4月24日(土)
5月8日(土)
5月22日(土)
全24日間


 

笠井叡 プロフィール
モダンダンスを江口隆哉に師事(1962~1965)
即興的舞踏を大野一雄に師事(1963~1966)
土方巽に私淑クラシックバレエ個人レッスンを千葉昭則より受ける((1964~1965)オイリュトミーをシュトゥットガルト・オイリュトメウムにて学ぶ(1979~1985)あらゆるジャンルを超えて、新しいダンスの創出に挺身している。

お問い合わせ
090-8309-5096
kasai_uemura@yahoo.co.jp

主催 天使館
制作 笠井瑞丈×上村なおか
担当 笠井瑞丈

Akira KASAI Post BUTOH 2026 Vol. 2  重心懲罰

2026年1月に中野の小劇場テルプシコール開館45周年を記念して開催された
笠井叡初のテルプシコール公演を年間シリーズ化
2026年内に4回開催を目標に毎回テーマを変えて
笠井流Post BUTOH=”舞踏の今”を展開します

 

Post BUTOH Vol.2「重心懲罰」


京都海宝寺で開催された笠井爾示の写真展で笠井叡が踊った際のドキュメント映像と共に 実態の笠井叡がテルプシコールの舞台上でPost BUTOHする
地球の左眼と右眼とが
身体の淵で 戦争を始めた
処刑は祝祭の場となり
拷問は至福な時間となる
未来は過去において 目覚め
過去は未来で 眠る
その時 地球の損失は
利益に変わるだろう
2026/02 Akira KASAI


 

詳細
https://postbutoh.wordpress.com/

2026/
5/22 19:00開演
5/23 17:00開演

開場は各回開演の30分前
一般/前売¥5000 当日¥5500
学生/前売¥4500 当日¥5000

予約 問合せ/MICAinc.
micainc.info@gmail.com

チケット購入
teket: https://teket.jp/17918/67889
peatex: https://peatix.com/event/4938673/view


 

構成 振付 出演/ 笠井叡
写真寧々密会/ 笠井爾示
映像/ 中瀬俊介
舞台監督/ 七感弥広彰
照明/ ソライロヤ+早川誠司
音響/ サエグサユキオ
広告写真/ 小野田桂子
映像撮影協力/ 中屋敷 南 遠藤正典
制作: 天使館+MICAinc.
主催: 天使館

 


 

「舞踏=BUTOHとは?」
戦後日本で発生したダンスムーブメントで 当時世界中で発生した「それまでのクラッシック様式とは異なる新しいダンス」を模索する世界的潮流の中 日本で発生した 実験的で同時代性を内包したダンスムーブメントのこと。 舞踏の創設は土方巽や大野一雄に因るとされるが 当時多くのニュースタイルを標榜するダンサーが活動しており 笠井叡もその一人で60年のキャリアを有する 日本のダンス界を代表するレジェンドの一人
文/NANAMI Kohshou

初心者のためのダンス オープンクラス 2026年5月~2027年5月

講師 笠井叡
振付:ベートーヴェン作曲 ピアノ変奏曲第32番の振付作品
課題:イマジネーション空間とカラダの接点におけるインプロヴィゼーションの練習

 

2026年

5月31日(日)
6月28日(日)
7月19日(日)
8月9日(日)
9月20日(日)
10月25日(日)
11月29日(日)
12月27日(日)

2027年

1月24日(日)
2月28日(日)
3月28日(日)
4月25日(日)
5月30日(日)

 

天使館
17:00~20:00

参加費 3000円

初めての方は事前にご連絡ください。

080-5530-9168

オイリュトミー初伝講座 天使館 笠井叡 2026年5月~2027年5月

オイリュトミーとは、ルドルフ・シュタイナーによって提唱された、言葉と音楽とともに動くことによって
人間の感覚器官を生命器官に、人間の生命を運動器官に変化させるメソードです。
広く身体全体に人間の内的な可能性を広げる練習です。初めての方もどうぞご参加ください。

スケジュール

2026年

5月17日(日)
6月14日(日)
7月12日(日)
8月16日(日)
9月13日(日)
10月18日(日)
11月22日(日)
12月20日(日)

2027年

1月17日(日)
2月21日(日)
3月21日(日)
4月18日(日)
5月16日(日)

 

時間  18時~21時

場所  天使館 国分寺市西元町3-27-9(JR 国分寺駅南口下車徒歩20分)

電話  042-307-9758

参加費 1回5000円

初めてのご参加の方は、事前にご連絡をくださいますよう。

『金鱗の鰓を取り置く術』WS 2026年5月~2027年5月 講師 笠井叡

「金鱗の鰓を取り置く術」とは、カラダ、コトバ、声、天体と四季、
この四つの領域に共通して存在している「天火水地」の法則を、
天津神算木という道具を通して、体験的に学ぶ時間です。
初めての方もどうぞご参加ください。

2026年

5月16日(土)
6月13日(土)
7月11日(土)
8月15日(土)
9月12日(土)
10月17日(土)
11月21日(土)
12月19日(土)

2027年

1月16日(土)
2月20(土)
3月20日(土)
4月17日(土)
5月15日(土)

時間:午後18時から21時まで。

場所:国分寺天使館

参加費:3000円

笠井叡ポスト舞踏公演 『詩的創造と破壊としての地球』

テルプシコール45周年記念
笠井叡ポスト舞踏公演

『詩的創造と破壊としての地球』

Planet Earth, Creative Catastrophe, Poetic Logos

出演:笠井叡
テキスト:城戸朱理『地球創世説』


2026年1月5日(月)~7日(水)

5日(月)pm7:00開演
6日(火)pm7:00開演
7日(水)pm5:00開演

会場:テルプシコール

〒164-0001 東京都中野区中野3-49-15-1F TEL:03-3383-3719(当日のお問合せ)
※JR.中野駅下車高円寺方向徒歩8分


照明:ソライロヤ
照明アシスト:早川誠司
音響:角田寛生
舞台設定:七感弥広彰
映像記録:髙橋哲也
宣伝美術:H,Yoshiko
企画・制作・主催:テルプシコール
協力:笠井瑞丈×上村なおか


チケット

*お支払いは当日、受付にて現金のみとさせて頂きます。
予約・前売:¥5000(電話予約は前日の20:00迄)
当日:¥5500
学生(要・学生証提示):予約・前売:¥4500 当日:¥5000


予約・問合せ:テルプシコール企画室

Mail:2017terpsichore@gmail.com
Tel. :03-3338-2728

オイリュトミー初伝講座 天使館 笠井叡 2025年4月~2026年4月

オイリュトミーとは、ルドルフ・シュタイナーによって提唱された、言葉と音楽とともに動くことによって
人間の感覚器官を生命器官に、人間の生命を運動器官に変化させるメソードです。
広く身体全体に人間の内的な可能性を広げる練習です。初めての方もどうぞご参加ください。

スケジュール

2025年

4月20日(日)
5月3日(土)
6月28日(土)
7月26日(土)
8月30日(土)
9月27日(土)
10月19日(日)
11月29日(土)
12月21日(日)

2026年

1月18日(日)
2月15日(日)
3月15日(日)
4月19日(日)

 

時間  18時~21時

場所  天使館 国分寺市西元町3-27-9(JR 国分寺駅南口下車徒歩20分)

電話  042-307-9758

参加費 1回5000円

初めてのご参加の方は、事前にご連絡をくださいますよう。

『金鱗の鰓を取り置く術』WS 2025年4月~2026年4月 講師 笠井叡

「金鱗の鰓を取り置く術」とは、カラダ、コトバ、声、天体と四季、
この四つの領域に共通して存在している「天火水地」の法則を、
天津神算木という道具を通して、体験的に学ぶ時間です。
初めての方もどうぞご参加ください。

2025年

4月19日(土)
5月17日(土)
6月21日(土)
7月19日(土)
8月23日(土)
9月20日(土)
10月18日(土)
11月8日(土)
12月27日(土)

2026年

1月17日(土)
2月14日(土)
3月14日(土)
4月18日(日)

時間:午後18時から21時まで。

場所:国分寺天使館

参加費:3000円

初心者のためのダンス オープンクラス 2025年4月~2026年4月

講師 笠井叡
振付:ベートーヴェン作曲 ピアノ変奏曲第32番の振付作品
課題:イマジネーション空間とカラダの接点におけるインプロヴィゼーションの練習

 

2025年

4月27日(日)
5月11日(日)
6月15日(日)
7月27日(日)
8月31日(日)
9月28日(日)
10月26日(日)
11月30日(日)
12月28日(日)

2026年

1月25日(日)
2月8日(日)
3月8日(日)
4月12日(土)

 

天使館
17:00~20:00

参加費 3000円

初めての方は事前にご連絡ください。

080-5530-9168

笠井叡『ダンスの学校』6期募集(2025年5月〜2026年4月)

『ダンスの学校』 講師 笠井叡

今はダンスが積極的に、コトバの力とむすびつく時代です。
ダンスの語源は「爆発的な凝固」。
それをカラダにおいて拡大し、コトバにおいて収縮すると、イメージいたしました。
前5期では、日本語における、母音と子音の身体的形態に集中しました。
今期もそれを引き続き練習いたしますが、
さらに、カラダの中における、3つのダンスエネルギー

イマジネーションエネルギー(思考)
インスピレーションエネルギー(感情)
イントゥイションエネルギー(対象との合一)

を集中的に行います。奮ってご参加ください。

講師 笠井叡
期間 2025年5月〜2026年4月(毎月2回)
時間 18時〜21時
場所 天使館 東京都国分寺市西元町3-27-9

定員 15名
学費 一年間10万円

受講希望の方は

1.お名前
2.生年月日
3.プロフィール
4.応募動機

以上をお書きのうえ
kasai_uemura@yahoo.co.jp
までメールにてお送りください。

応募者多数の場合、書類選考の上こちらからご連絡いたします。
応募締め切り 4月13日(日)

日程
2025年
5/4(日) 5/18(日)
6/7(土) 6/22(日)
7/12(土) 7/20(日)
8/2(土) 8/16(土)
9/13(土) 9/21(日)
10/11(土) 10/25(土)
11/1(土) 11/15(土)
12/13(土) 12/20(土)
2026年
1/10(土) 1/31(土)
2/7(土) 2/28(土)
3/7(土) 3/28(土)
4/11(土) 4/25(土)
全24日間

笠井叡 プロフィール

モダンダンスを江口隆哉に師事(1962~1965)
即興的舞踏を大野一雄に師事(1963~1966)
土方巽に私淑
クラシックバレエ個人レッスンを千葉昭則より受ける(1964~1965)
オイリュトミーをシュトゥットガルト・オイリュトメウムにて学ぶ(1979~1985)
あらゆるジャンルを超えて、新しいダンスの創出に挺身している。

 

お問い合わせ

090-8309-5096
kasai_uemura@yahoo.co.jp

主催 天使館
制作 笠井瑞丈×上村なおか
担当 笠井瑞丈

芸劇dance ポスト舞踏公演 『畑の中の野うさぎの滑走 一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』

芸劇dance ポスト舞踏公演

『畑の中の野うさぎの滑走
一匹のトカゲが焼けた石の上を過った』

A Rabbit Slipping Across a Field, A Lizard Sliding Down a Hot Stone

振付・演出・構成・出演:笠井 叡
出演:KAi MiWA、川村美紀子、小倉 笑

特設サイト→


未来から 記憶の風がふいてくる

『畑の中の野うさぎの滑走』
この笠井久子の著作を出発点に紡がれる、ポスト舞踏新作公演。今回天使館に集ったのは、柔らかな佇まいの中に底知れぬ狂気と大胆さを宿す3人の女性 —— KAi MiWA、川村美紀子、小倉 笑。笠井叡と共に、野うさぎの足跡を追って時空を駆け、遥か未来の人類像を描き出す!


2024年9月6日(金)~9月8日(日)

9月6日(金)19:30
9月7日(土)14:00/18:00
9月8日(日)14:00

会場:東京芸術劇場 シアターイースト

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-8-1 TEL:03-5391-2111
※ JR・東京メトロ・東武東上線・西武池袋線 池袋駅西口より徒歩2分。駅地下通路2b出口と直結

※受付開始は開演の60分前、開場は30分前 ※開演後は入場いただけない場合があります
※8日は終演後にトークあり(詳細は決まり次第告知予定)


前売料金|整理番号付き自由席・税込

一般: 5,000円 U-25:4,000円

※早割りチケット(7月9日~7月22日)は各料金500円引き
※U-25チケットは当日要身分証

チケット取扱い|発売日:2024年7月9日(火)10:00~

​・東京芸術劇場ボックスオフィス

☎ 0570-010-296(休館日を除く10:00~19:00)
🔗 東京芸術劇場ボックスオフィス
https://www.geigeki.jp/t/

・チケットぴあ(Pコード:527848)※7/23発売
http://ticket.pia.jp/pia/event.ds?eventCd=2424180


笠井 叡 Akira Kasai

舞踏家・振付家

1960年代に若くして東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。70年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。79年から85年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」という称賛を浴びる。代表作「花粉革命」は、世界の各都市で上演された。

 

KAi MiWA

ダンサー・振付家

2016年 アニメーションチームUNVISIONに参加。World Of Dance等、世界最高峰の大会にて優勝。2017年より振付演出家MIKIKO氏主宰カンパニー「ELEVENPLAY」に所属。2020年以降、米津玄師、松村沙友理(乃木坂48)、ゲスの極み乙女、羽生結弦、Perfume、三浦大知等の活動に振付やダンサーとして参加。舞台作品ではRhizomatiks × ELEVENPLAY 『Syn 〜身体感覚の新たな地平〜』に出演。2023年12月、私生活を見せる実験的公演『Prv Room Research』を行うなど常にアンダーグラウンドとメジャーシーンを横断し、”表現”を追求している。

 

川村美紀子 Mikiko Kawamura

ダンサー・振付家

1990年生まれ。16ヶ国33都市で活動、20作以上の振付作品を発表。劇場・路上・ライブ・映画出演にとどまらず、自身の書籍やオリジナルソング製作ほか、雑貨屋「川村産業」など多彩な活動を展開。 日本女子体育大学舞踊学専攻卒。受賞歴にトヨタ コレオグラフィーアワード、横浜ダンスコレクション ダブル受賞など多数。近年では「異路派」を始動、都内路上に出没中。https://kawamuramikiko.com/

 

小倉 笑 Emi Ogura

ダンサー・振付家・演出家

1996年、岐阜県生まれ。京都を拠点に活動。Monochrome Circus、康本雅子、大植真太郎、藤本隆行、mama!milk 等の舞台やコンサートに出演。ヨコハマダンスコレクション2022コンペティションⅠにて奨励賞を受賞。2021年より創作団体『SMILE』を立上げ、舞台作品創作やフェスティバル主催などを行っている。バーレスクや声楽の技術を駆使して、ジャンルに捉われず様々な活動を展開中。


振付ノート 笠井叡

この秋、笠井叡新作公演として上演される本作は、笠井久子の同名著作からインスパイアされて生まれたものである。

人類の歴史は、天の川のように、無限空間の中を流れている。この眼には見えない「川」の流れと共に生きる人魚のような人間は、無限時間の中のいったい何処を今、生きているのか。そして何処へ行こうとしているのか。目覚めた宇宙的意識によって、その現在の位置を測り、未来を方向づけるのは、ダンスである。未来の何を?——人間のカラダを、そして宇宙のカラダを、である。
ミクロコスモスとしての人間と、マクロコスモスとしての宇宙は、ともにカラダを持っている。そして人間が、ダンスを通して自身のカラダの中に「新しいカラダ」を生み出そうとするならば、宇宙もまた、植物が自身の中に未来の種を孕んでいるように、新しい惑星を自らの中に生み出そうとするだろう。
地球は今、ダンスとともにこの「新生惑星」を育てつつある。

今、人類が始めてしまった新しい戦争は、単なる破壊のための破壊で終わるだろう。勝者も、新たな領土も、何処にもない。そして地球は、虚無の闇の中を落下し続けるであろう。

 

おお、目覚めたウサギ、
おお、目覚めたウサギ、
お前は地球の破滅以前に、お前のカラダの中に、あの天上に輝く満月の中に、「新生惑星」を発見したのだ。宇宙の川を渡って、新しい惑星に移住するのだ。

おお、屈強なトカゲたち!
この川の岸辺から、何匹梯子のように並べば、あの輝く満月の如き新生惑星の淵に到達することができるか。お前たち並んでご覧。あたしが数えてあげるわ!
ひ ふ み よ い む な や こ と ・・・

一匹の目覚めたウサギが、この新生惑星に飛びついたとき、騙されたことに気付いたトカゲは、白いウサギの皮を全身剥ぎとった。それからウサギは、塩辛い海の水の中に沈められた。

無限の試行錯誤の末に、目覚めたウサギはあの輝く「月」に飛び移るであろうか?

ウサギ!
ウサギ!
何見て
跳ねる
ウサギ!
ウサギ!
何見て
跳ねる
十五夜
お月様
見て
跳ねる!
見て
跳ねる!
ミワ、ミキ子、エミ
見て跳ねる!!
見て跳ねる!!

 


原案:
畑の中の野うさぎの滑走一匹のトカゲが焼けた石の上を過った
―昭和・平成・令和を、笠井叡と共に生きる―

著者:笠井久子
判型:127×188/総頁:378頁/製本:並製
価格:2,800円(税込)

​※公演会場で販売予定


音楽:角田寛生
衣装:北村教子
ドラマトゥルク:呉宮百合香
照明:吉田一弥
音響:稲荷森健
舞台監督:河内 崇
宣伝美術:ヤング荘

企画・製作:髙樹光一郎(一般社団法人ハイウッド)
制作:林 慶一
プロデューサー:笠井久子

主催:一般社団法人 天使館
提携:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京芸術劇場
協力:公益財団法人セゾン文化財団

お問い合わせ:一般社団法人ハイウッド
hiwood.info@gmail.com

速報|新作ポスト舞踏公演上演決定

【速報】<芸劇dance>新作ポスト舞踏公演 上演決定

この、あなたに対する信頼だけが
今、産声を上げている新生惑星への、唯一の食物なのだ。
だから、俺が踊るとき、この新しい星も踊る。

2024年9月6日(金)~9月8日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターイースト

振付・演出・構成・出演:笠井 叡
出演:KAi MiWA、川村美紀子、小倉 笑

主催:一般社団法人 天使館
提携:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京芸術劇場

笠井叡ダンスの学校 2024年4月~2025年3月 月2回(土曜日) 全24回 天使館 

AKIRA KASAI DANCE SCOOL 2024~2025

新規年間ダンス学校

四月開校

カラダという書物を 読み解く まったく未知の 誰もやったことのない なにものかを

創出する あなたはそこで コトバの本源のチカラによって 動きに目覚める カラダから生まれるのではなく

コトバから生まれるダンス

筋肉がコトバに コトバが筋肉になる それは「意味を伝えるコトバ」ではなく 生命に満ちたカオスとコスモス

お申込み・問い合わせは kasai_uemura@yahoo.co.jp

ポスト舞踏派 『魔笛』

その時
秘密結社は消滅し、
すべての人間がフリーメイソンになる。

ポスト舞踏派新作公演
現代日本のダンスシーン最前線で活躍する
森山未來、辻󠄀本知彦、菅原小春、島地保武、大植真太郎が結集
W.A.モーツァルト歌劇『魔笛』に挑む!

『魔笛』公式ウェブサイト https://www.post-butoh-ha.com/


当日券についてのご案内

ポスト舞踏派『魔笛』では、当日券を公演前日より【ご予約制】にて発売します。
以下、ご注意事項を確認の上、フォームからお申込みください

【ご予約受付期間】
1月7日(日)18:00~ 1月8日12:00

【料金】
当日券(一般)6,500円 当日券(見切れ席) 5,000円
※U-25チケットはありません
※見切れ席は舞台の端や舞台の奥が一部見えないお席となりますのでご了承下さい

【発売枚数】
当日券(一般)15枚程度 当日券(見切れ席)30枚程度
※発売時の状況に応じて発売枚数を決定するため、上記は目安となります
※お申込みは1名様につき1枚までとさせていただきます

【購入方法】
下記フォームにてお申込みいただき、当日会場受付にてお名前を申しつけ下さい。
お支払いは現金のみとさせていただきます。
https://www.quartet-online.net/ticket/mateki2023

【ご注意】
※14:50までに受付にお越しになられない場合はキャンセル扱いとさせていただきます


【振付・演出・構成】笠井叡
【出演】森山未來、辻󠄀本知彦、菅原小春、島地保武、大植真太郎、笠井叡

【日時】
2024年1月8日(月・祝)15:00 開演(14:30 開場)

【会場】
神奈川芸術劇場KAAT <ホール>

【料金】
一般 6,000円 U-25 4,000円


主催:一般社団法人天使館
提携:KAAT 神奈川芸術劇場
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術等総合支援事業(創造団体支援))
独立行政法人日本芸術文化振興会

お問合せ:HiWood(ハイウッド) hiwood.info@gmail.com

「今、ショパン を踊る」

人の内側にめくれた耳の形は
ショパンを聴くためにある

バッハ、モーツァルトの音楽には
動物たちは耳をそばだてない

ベートーヴェンの音楽には
ライオンも耳を傾ける

しかし ショパンのピアノ曲は
蝶たちも踊り始める
暗いポーランドの森の中

瑞丈はショパンに似ている
裕子はショパンの母に
なおかは姉に
そして
美紀子はジョルジュ・サンドを
想わせるではないか

笠井 叡


「今、ショパン を踊る」

構成・演出・振付:笠井叡
出演:笠井瑞丈、上村なおか、浅見裕子、川村美紀子

日時:2023年12月5日(火)19:00開演
6日(水)19:00開演
7日(木)19:00開演
*開場は開演の30分前

会場:国分寺市立いずみホール
(JR西国分寺駅南口 ロータリー前)
https://www.kokubunji-izumihall.jp/access/

チケット:【前売】 一般 ¥3,500 学生 ¥2,500
【当日】 一般 ¥4,000 学生 ¥3,000


チケット購入:

★カンフェティ(セブンイレブン発券)
0120-240-540(平日10:00~18:00)
http://confetti-web.com/chopin-now

★Peatix
https://chopin-now.peatix.com

★当日精算ご予約フォーム
https://www.quartet-online.net/ticket/chopin-now


【公演WEBサイト】
https://www.kasaiuemura.com
お問い合わせ:笠井瑞丈×上村なおか
kasai_uemura@yahoo.co.jp
090-8309-5096

照明:森下泰(ライトシップ)
音響:角田寛生
舞台監督:金子美月
広報デザイン:宮添浩司

主催:笠井瑞丈×上村なおか
助成:芸術文化振興基金


今現在起きている戦争はヨーロッパの時代が終わりゆくことへの抵抗のようにも見える。パンデミックを経て世界の力関係が変化していく中で人間は一体どのような力を持ち得るのだろうか。作曲家フレデリック・ショパンにはその父の影響もあり音楽家というより革命家の血が流れており、その音楽の中には古典派やロマン派とは全く違った革命的な力がある。そして本作品の作者である笠井叡の言によれば、ショパンは「音楽そのものがダンスしている」のである。ここでは、古典とされる音楽が持つ革命的な力が、笠井瑞丈、上村なおか、浅見裕子、川村美紀子という4人の稀有なダンサーの身体と結びつき、ショパンその人の人生の如く燃焼し尽くすことで、ショパンの音楽の持つダンス性をまさに今「ダンスそのもの」として開示したい。古典、近代、現在を貫いてそれが今この時代の革命となり時代の閉塞を突破することで、人間が持っている力の可能性を信じる希望としたい。

笠井叡 名古屋オイリュトミー講座 2023年6月7月

「天の淵駒」とは、天体の外輪のことです。
西洋では、この領域は黄道十二宮、アジア圏では十二支と呼ばれています。
母の胎に受胎する以前の、人間の生きた気形透明体が、この天の淵駒と一体でした。
そして、人間のカラダは、この黄道十二宮にまで、広まっているのです。
これは本当の話です。
いよいよ、宇宙時代が始まるのです。列強諸国はいまや、月の公転軌道内の空間をヴァーチャルな戦場空間として分割統治し始めていますが、ここで言うのはその事ではありません。この「天の淵駒」にまで至る、この神聖空間は、ただ人間一人一人の「個体」と結びついているのです。
黄道十二宮で、今、何が起きているかを、私たちは知らなければなりません。
そのためには一人一人の個体のカラダが、黄道十二宮との結びつきを、新たに作り上げてゆくことが必要です。

 

◆言葉のオイリュトミー

十二宮の十二の力と、その身体感覚
テキスト ルドルフ・シュタイナー作「12の気分」

◆音楽のオイリュトミー

ヨハン・セバスチャン・バッハ作
アンナ・マグダレーナ小曲集「メヌエット」をインターヴァル作品として練習します。

◆講義
一つの宇宙の、その誕生から死滅まで

 

■スケジュール

●2023年6月30日(金)
13:45~16:30 オイリュトミー実習①
17:30~19:00 講義①

●2023年7月1日(土)
09:30~12:15 オイリュトミー実習②
13:45~16:30 オイリュトミー実習③
17:30~19:00 講義②

●2023年7月2日(日)
09:30~12:15 オイリュトミー実習④
13:45~16:30 オイリュトミー実習⑤

■会場

長円寺会館 ホール
名古屋市中区栄 2-4-23 (地図
052-231-0955

■受講料

全参加 30,000円
実習1単位 5,000円
講義1単位 3,000円

■講師

笠井叡

■お問い合わせ/お申し込み

中村 090-2575-1201 E-mail: umiushi-do.mkn@nifty.ne.jp

■主催

名古屋オイリュトミー研究会

平山素子×笠井 叡「フーガの技法」を踊る

Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021の「エリア50代」で初演された、笠井叡振付・平山素子のソロダンス『J.S.バッハ作曲“フーガの技法”1.2.6.9番によるダンス』が、スケールアップして愛知県芸術劇場にて再誕!クラシックからポップスまで様々なフィールドに活躍を広げる片山柊(ピアノ)による生演奏で、笠井と平山の2人が全14曲を踊るノンストップの60分!

 

 

愛知公演

◉2023年6月15日(木)19:30/16日(金)18:30
◉会場:愛知県芸術劇場小ホール
◉チケット発売日|2023年4月14日(金)

チケット料金(全席自由・整理番号付)
一般 4,500円/U25 3,500円/高校生以下 2,500円/ペアチケット 8,000円(枚数限定・公式サイトのみ扱い)
当日 5,000円(一般・U25・高校生以下共通)

・愛知県芸術劇場オンライン・チケットサービス https://www-stage.aac.pref.aichi.jp/event/
・愛知芸術文化センター内プレイガイド(地下2階)
TEL:052-972-0430(10:00〜19:00/土日祝休は18:00まで/月曜定休、祝休日の場合は翌平日)
・alfalfaオンラインチケット https://alfalfalfa.net/fugue2023/#ticket

演出・振付・ダンス:笠井叡
ダンス:平山素子
ピアノ:片山柊
音楽:J.S. バッハ「フーガの技法」

企画制作:NPO alfalfa
主催:愛知県芸術劇場、NPO alfalfa、一般社団法人 天使館

お問い合わせ
NPO alfalfa E-mail info@alfalfalfa.net
愛知県芸術劇場 TEL 052-211-7552(10:00-18:00)/E-mail contact@aaf.or.jp

 

横浜公演

◉2023年9月2日(土)17:00 /3日(日)14:00
◉会場:横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
◉チケット発売日|2023年6月2日(金)

演出・振付・ダンス:笠井叡
ダンス:平山素子
ピアノ:佐藤浩一
音楽:J.S. バッハ「フーガの技法」

企画制作:NPO alfalfa
主催:主催|横浜赤レンガ倉庫1号館(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)、NPO alfalfa、一般社団法人 天使館

お問い合わせ
NPO alfalfa    E-mail info@alfalfalfa.net

 

【出演者情報】

笠井 叡
演出・振付・ダンス

1943年生まれ。60年代に大野一雄、土方巽に出会い、舞踏家として活動を始める。71年天使館を設立。79年〜85年ドイツに留学し、オイリュトミーを研究。帰国後、94年に『セラフィータ』で舞台に復帰。これまでに、「牢獄天使城でカリオストロが見た夢」「桜の樹の下には -笠井叡を踊る-」「高丘親王航海記」など多くの作品を輩出し続け、2001年初演『花粉革命』は代表作として世界各都市での上演を果たす。14年芸術選奨文部科学大臣賞受賞、22年江口隆哉賞受賞。

平山素子
演出・ダンス

静謐さと昂揚を自在に奏でるダンサーとして観客の熱い支持を集め、06年S.ザハロワ(ボリショイ劇場バレエ団)に『Revelation』を提供し振付家として頭角を現す。07年新国立劇場『LIfe Castubg』で朝日舞台芸術賞、08年『春の祭典』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、江口隆哉賞受賞。16年スペイン・バスク地方やアイヌ伝承音楽とのコラボレーション作品『HYBRID』では大規模な欧州ツアーを成功させた。筑波大学体育系准教授。
http://motokohirayama.com

片山 柊
ピアノ( 愛知公演 )

北海道小樽市出身。東京音楽大学大学院修士課程(ピアノ)を修了し、現在東京音楽大学助手、桐朋学園大学作曲科に在籍。ピアニストとしてピティナ特級グランプリおよび聴衆賞ほか受賞多数。作曲家としては第28回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位(2位なし)。2021年世界的舞踊家、イスラエル・ガルバンの日本ツアー「春の祭典」にピアニストとして同行し好評を博した。現在作曲を土田英介、加藤真一郎の各氏に師事。
https://syukatayama3.wixsite.com/syukatayama

佐藤浩一
ピアノ(横浜公演)

ピアニスト/作曲家/編曲家。83年生まれ。神奈川県横浜市出身。バークリー音楽大学卒業。ジャズ/即興/室内楽/ポストクラシカル/ポップス/映画音楽など幅広いフィールドで活動。繊細なタッチで研ぎ澄まされた音色を放つピアニスト。作曲家としても独自のメロディーセンス・ハーモニーセンスを持つ楽曲を多く発表、また編曲家としてもストリングスなどのオーケストレーションを探求。伊藤ゴロー、福盛進也、挾間美帆m_unit、原田知世、象眠舎などにピアニストとして参加。21年、全て自らの作曲による2枚組のアルバム『Embryo』をnagaluからリリースし、唯一無二の音楽世界で聴衆を魅了する。TVドラマ「絶対正義」(2019年)の劇中音楽の作曲・ピアノ演奏を担当。映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(2020年)や映画「ラーゲリより愛を込めて」(2022年)の劇中音楽のピアノ演奏を担当。
http://koichisato.com/

オイリュトミー初伝講座 天使館 笠井叡 2021年10月~2022年9月

オイリュトミーとは、ルドルフ・シュタイナーによって提唱された、言葉と音楽とともに動くことによって
人間の感覚器官を生命器官に、人間の生命を運動器官に変化させるメソードです。
広く身体全体に人間の内的な可能性を広げる練習です。初めての方もどうぞご参加ください。

スケジュール

第1回 2021年10月3日(日)
第2回 2021年11月17日(水)
第3回 2021年12月5日(日)
第4回 2022年1月23日(日)
第5回 2022年2月20日(日)
第6回 2022年3月13日(日)
第7回 2022年4月17日(日)
第8回 2022年5月15日(日)
第9回 2022年6月19日(日)
第10回 2022年7月16日(日)
第11回 2022年8月21日(日)
第12回 2022年9月24日(土)

時間  18時~21時

場所 天使館 国分寺市西元町3の27の9(JR 国分寺駅南口下車徒歩20分)

電話  042 307 9758

参加費 1回5000円

初めてのご参加の方は、事前にご連絡をくださいますよう。

EURYTHMIE WS 12 IN HP akira kasai 5/31

ka
WS 12
今日で5月も、おしまいです。ついに、この2ヶ月、私は家の近辺以外のどこにも出かけることなく過ごしました。明日、6月から少しずつ生活を変えていきたいと思います。天使館関係のダンスやオイリュトミーの講座も、今できる、可能な形態で、少しずつ再開できればと思っております。
今日のオイリュトミーWSは、子声の「K」を取り上げます。
日本語の七十五声の中で「k行」は「天火水地」においては、「天」に分類される子声です。イメージ的には、「神」「輝く」「光」「極」「君」「頭かしら」「金」とかの言葉と結びついていますね。皆さんもご存知でしょうけれども、古代エジプトに「KA」という神話的な動作があります。
マンフレート・ルルカーというドイツのエジプト学者が、この「KA」について、およそ次のように述べています。
  KAは生命を創造し、維持する力を表す言葉である。古代においては、「KA」は生命の根源的な力である。それは一人の人間(アンドロギュヌス)の中の男性的能力のことであり、それは生命の象徴である牛(カー)を意味する言葉の音声を作り上げている。同時にそれはすぐに精神的、霊的な力を意味するようになった。形象文字では、左右の両手に直角にあげている姿である。
神話的には、KAは人間が誕生する以前から存在し、誕生とともにその人間と一体になり、再びその人間が死ぬと、KAはそのまま人間から離れて生き続け、生命の根元に還る。それは人体の根本を生かす力であるが、物質的な食物ではなくて、人間の最も霊的な食物である。そこで、エジプトでは、すべての生産物はまず最初にこのKAにささげられた。
エジプト神話的に言うならば、今の私たち自身の中にも、このKAが働いていて、もし私たちが自分のカラダの中にkAを見いだすことができるならば、人間のカラダはただ単に神々によって作られた体ではなく、人間自身がその力を「身体創造」として用いることができる、ということを意味しているのでしょう。kAは両手を左右にまっすぐに伸ばし、肘のところで手のひらを内側にして直角に曲げた姿勢です。これは子声のK、音階で言うF の音からGのへ移行する、そのちょうど中間のところに当たります。直立に立って、この姿勢をしばらくのあいだ続けていますと、カラダの中に、ある変化が生じてきます。最初に心臓周辺の力が次第に強まっていき、その力が喉を通って上顎と下顎の方に流れるようになります。丁度子声のKを発声しているときの口の形です。
そして左右の両手の十の爪のところに向かって、上下の口の歯の力が流れるようになります。
心臓と歯と十の爪が一つの力の流れの中で結びつけようになりましたら、そこで、声を出さずに全身でKA声を発声します。さらに、吸気発声において、全身に嗅覚の力を流し、その力が心臓と歯と爪の流れと合流するように、繰り返し練習します。
次に子声の「KI」を右手を上に次に左手を上に左右交互にとりながら、無声で子声KIを全身に流します。この時この力は左右の聴覚に結びます。
次にこのKAとKIを嗅覚・聴覚を交えてカラダに変化が生じるまで、交互に繰り返しとります。
次に胸の高さのところで子声のKOを一回づつ、両手を下に下ろしながら十回とります。次に、
KO・KA・KI   KO・KA・KI   KO・KA・KIをKOを喉に、kAを嗅覚に、KI を聴覚に結びながら、耳鼻咽喉が一つに結ばれて、目に「見えないカラダ」の中心点となるまで続けます。

WS コロナの時代からの労働とダンス 笠井叡 2020年5月12日

akira
経済活動は今日、最も重要な課題である。それは現代という歴史的な転換期において、唯一解決しなければならない最大の課題である。この問題を解決しようとしない限り、アート全体の未来的な方向は見えてはこない。今日、人間は総じて、経済活動の本質が何であるかを、明瞭に意識しているとは、言えない。なぜならば、「人間の労働力は, 経済活動に組み込むべきだ」と,いまだに考えているからである。人間の労働力は、経済活動に組み入れるべきものではない。人間の労働力は、賃金契約の対象でもない。労働における「賃金契約」は、現代社会において、最後の奴隷制であるといえる。人間は今もってなお、金融奴隷制の中に甘んじている。人間の労働は、神聖な個人の「精神生活」、それは権利でも義務でもない、「自由」を基調とする、個人の精神生活に属している。ダンサーにとって「舞台公演」は自己の祭壇に載せるせるべき、神聖な供物である。同じように、すべての「労働」は、一人の人間の精神活動が生み出す最高の供物である。それは、賃金契約の中に組み込まれるべきものではない。労働力を経済活動から引き離したとき初めて、多数決を基調としている民権制社会から、真の人権社会への移行が生じる。
神権制という最も高度な精神性を実践しようとする古代社会において、その経済基盤は奴隷制によって、実現されていた。奴隷は売買の対象か、商品以下の存在であった。或いは贈与品として扱われた。動物と同じような扱いを受け、一切の人間の権利を有しなかった。これは古代神権制の最高の矛盾ではある。しかし神権制から王権制に移行していったのは、この奴隷制の矛盾解決のためではなく、神権という精神性を失った者たちによる、肥大化した地上的欲望によって、王権社会の経済活動が成り立っていた。その経済活動とは、人間存在のすべてが「経済活動」の中に組み込まれ、農産物や工業製品や武器産業のための「経済力としてのみ」、人間が存在した。その点において、古代の奴隷制と王権制による農奴制は、変わらない。民権制は人間存在を労働力として扱うことの矛盾から、民主主義という名のもとに、人間を引き離した。
しかし、それに代わって、「商品」という名の「労働力」が現れたのである。民権社会において、もはや古代的な奴隷制や王権制社会の中における農奴制は消滅した。しかし、新たに現れたのは労働力そのものが、「商品」「に変わったのである。いずれにせよ、経済活動における奴隷制は、こうして基本的に民権社会の中においても、存在し続けている。労働の本質を人間がみずからの中からとらえようとせず、自分の労働力が商品化されているということに対する「嫌悪感」を感じながらも、それが当然であるかのごとくに、一種の「催眠にかけられた状態」で、人間は経済活動に組み込まれている。
人間有機体において、頭部の感覚神経系の働きと腹部の新陳代謝系、消化器系の働きは、互いに結びついてはいるけれども、互いに有機的にそれぞれの働きが自立することによって人体は保たれている。もし、頭部の感覚神経系が常に新陳代謝に働きかけて、結果として体がストレスを強く持ったまま代謝系の働きを行うならば、それは、やがて病的な状態に移行しうる。それは社会有機体でも同じである。
立法・司法・行政を行う政府や政治的な働きが強く、経済活動に介入するならば、経済活動は自立して自分の活動を行うことができない。それは政治利用の経済活動、病的な経済活動となる。経済活動は国家や政治的目標から完全に自由になって、経済そのものが自立した働きを有機体の中で行うことができなければならない。経済活動の目標は、富の獲得や資本の蓄積が問題なのではなくて、資本が一つの有機的社会の中で、必要なところに常に流れていく、その流通ができていなければならない。資本が一箇所に集中しすぎたり、人間的活動に供されない富みが、一つの場所に集中して、流通性を失ったり可動性を失ってしまうと、経済は肥満状態に陥ったり、やがて死んでしまう。経済活動によって、個々の必要な利益は得られなければならないが、それは、経済活動の「目標」にはならない。経済活動が健康であるためには、人間はそこから自分に必要な利益を得なければならない。しかし、経済全体の目標は、利潤追求や富の蓄積そのものにあるのではない。経済活動においては、各人が自由に自分に合った労働、仕事を行い、そこから利益を得るわけであるが、その利益は、本来、賃金契約から来るものではない。
一人一人の人間は、自分に合った仕事を見出し、社会の中でそれを分担する。自分は農業のいかなる部分を請け負うか、工業のいかなる部分を行うか、舞台芸術においては、いかなる部分を自分が分担するか、という分担が社会全体の中で承認され、その承認にふさわしい労働を行い、その労働が社会全体の中に組み込まれるような契約が、「賃金契約」に代わって基本になければならない。このような契約を「分担契約」という言葉で表したい。そしてそのことによって労働を賃金契約という制度から、純人間的な「労働の本質」と結びつくような契約へと、移行すべきであろう。
自分がある仕事を「分担しよう」とするのは、基本的に労働を経済活動から分離しているからである。労働は自分にとって自己実現のための唯一の精神活動であり、利潤を目的しているものとは、根本的で異なっている。労働が経済過程の中に組み込まれている限り、労働は必ず「商品の性格」を持たされることになる。そして商品の性格を持つ限り、労働は、商品の生産と商品の消費からなる、経済生活の中に組み込まれる。そこから出てくるものは、商品を通しての「利潤の追求」が、経済活動の目標とならざるを得ない。
労働による生産物 (ダンサーであればダンス作品) は商品として流通するのではなく、カラダの中における栄養素が必要なところに必然的に流れなければならないように、生産物は商品的な価値として流通するのではなくて、社会の中における必要なところに速やかに流れるための社会的な栄養物なのである。人間の生活形態は、生産物が商品として流れるところの利潤を、自分の労働力の当然なるものとして受け取ることによって成り立つのではない。彼が精神活動としての労働を行うのに必要な当然の結果として、すべての生活費は基本的に国家によってすべて、保障されなければならない。すべての生活費は労働によって得られるのではなくて、 「生きるために労働するのではなく、労働するために生きる人間」  の当然の結果として、国家によって完全に保障されなければならない。
すべての利益は人間が「意識の力によって生きている」という事実から、生じるものである。労働する人間は、この世に存在するから生きているのではなく、自分の生きることに全意識の力を投入し、生きることを物質の世界における「単なる物質代謝」としてではなく、自分の肉体と出会うこと、物質的な環境と出会うこと、大自然とという物質の総体と出会うことによって、常にそこに対して最大の意識の力を流し込もうと、努力すべきなのである。そうするならば、全くカラダを動かすことのできない病を持つ人々であろうと、存在してること自体が、すでに精神活動としての労働となりうる。すべての生活に必要な利益は、労働の結果によるものではなくて精神活動を行っていく上での「意識の運動」そのものから生じる。
そして労働を、精神生活として行うことから生じる一切の責任は、個人が担うべきものではなくて、社会全体がそれを担うべきものなのである。

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 05/09

WS 10
皆さんこんにちは。前回のワークショップにおいても、述べたことなのですけれども、進化の出来事は二度と同じことは繰り返されない、という言葉の持つ重みがずしりとのしかかってくるような気がします。厳しい出来事はある意味で人類に向けての、自然界からの鞭である、と思います。皆が一体となって、結びついていかなければ、本当の意味で乗り越えることはできないような出来事だと思います。それに伴って想像を絶するような管理体制や個々の人間に対する内的な領域にまで、外側からの統制意思が入り込んできます。
次の練習は起きたら、すぐに毎朝行うものなのです。ぜひ皆さんも取り組んでください。
これは、超絶微細感覚器官を形成する、最上の方法です。そして、この微細感覚器官にアクセスすることのできるのは、まぁこう言ってよければ、Archangeleu大天使,それから、Archai権天使等だけです。権天使は、人間自我と宇宙自我の仲介者です。
1、 最初に行うことは、一切の日常的な思い、思い出、今日やろうとするプログラム、仕事のプログラム、すべての人間関係から流れてくる思いを、全部消去します。
2、 自分が自分に語りかける言葉もSCH(静まれ)です。
3、 その場所は胸の中の一番深い奥の奥の方です。静けさとともにその深みの中に静かに入ってきます。
4、 心臓と肺の方から流れてくる波が、静かにその静けさの中に打ち寄せています。
5、  その二つの波を静かに、やり過ごしていると、ずっしりでした岩盤のような、本当の静けさが訪れてきます。その静けさに、全身を「聴覚」にして静かに対峙します。自分に由来するものがすべて消滅します。自然界に由来するものがすべて消滅します。すると胸の奥の方から、声も息も伴わない沈黙の母声のような声が忍び寄ってきます。やがて、その母声がはっきりと、体中の毛細血管の中で超極微細な振動を発し始めます。その微細な振動に全身を静かにゆだねます。その時,自然に体が動く場合には、その体の動きを止める必要はなく、その振動を感じ続けます。
6、 ここまで来たらあなたの意思が加わります。I・A・Oの母声を発声することなく、頭部全体にI、両手O, 足にAを流します。
7、 毛細血管の中の微振動と 三母声の流れを保持しながら、水平に横たわっている睡眠姿勢から、ゆっくり立ち上がって、布団の脇に立ちます。そこから垂直に頭から天に向かってI,両足を開いて大地全体の方にA、そして両手で宇宙のすべての空間を包みながら、Oを行います。3回続けて、IAOを行います。毎朝行わなくてもいいと思いますが、週に2回、金曜日の朝と火曜日の朝に2回行えるといいですね。
朝の練習
1、不動心
2、絶対平静
3、沈黙の泉
4、波
5、Archangeleuが心臓の扉をノックする。
6、IAOの母声で、あなたが扉を開ける。
7、IAOも声と一体となる。
IAOはユダヤのJehova(イホヴァ)、古事記では 宇まし あしかび ひこぢ(別天つ神の一柱)

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 6 Mai

WS 9
皆さん、こんばんは。もう、7時半になってしまいました。
コロナの出来事以降、一番感じるのは時間なんて、あるようでいて、ないなあ、という実感です。コロナが奪い取ったのは人間の健康よりも時間かもしれません。ここのところ毎日、進化論的な時間の流れの中から、歴史とか日常とかを眺めてみる時間が多くなりました。時間の流れよりも、その流れを外側から眺めている非時間的視点の方がリアルだからかもしれません。
今日は猿から類人猿アウストラロピテクスへの移行についてイメージし続けておりました。この類人猿が出現したのは今から4百万年年前くらいだそうで、さらに、最古のサルが出現したのは六千五百万年前、と本には書かれていますから、この移行には、ほぼ六千万年以上かかっていることになります。この六千万年かけて、アウストラロピテクスは直立したのです。そして歩いたのです。このことに思いを寄せてみると感動もしますけれども、涙が出るほど、いじらしいともいえます。こうしてはいられない、厳粛な気分にもなります。
どうも進化論の本など読んでみると、進化の中には一つの厳然たる法則というか事実があるように思います。それは、「同じ進化は二度と起きない」ということのような気がいたします。アウストラロピテクスが無事、人類にまで進化したとするならば、そのような進化的事実は人類史の中に1回しか起こらないということではないでしょうか。アレキサンダー大王の東征も1回だけですし。ゴルゴダの丘におけるキリストの十字架も1回だけでしょうし。太平洋戦争も1回だけでしょう。昭和の時代もたった1回でしょう。ポストコロナ時代が過去の人類史に生じなかったような新しい時代であるとするなら、今私たちが経験しているコロナ事象はいつまでかかるかわかりませんけれども、1回だけなのかもしれません。
それが正しい判断かどうかわかりませんけれども、ポストコロナ時代いうのは現在よりもさらに情報文化とAI文化が中心となり、人間の生命圏は情報時空間の中に移行していくのか、さもなければ人間は全く新しい生命圏を自分のカラダの中から生み出し、新エーテル宇宙の中に自分の生存の場所を創っていくか、そのわかれ目にあるのかもしれませんね。
進化において、類人猿とホモサピエンスはともに直立はしているわけですから、体形的にも共通であり、「吠える」だけではなくて、分節化した発声をしたはずです。類人猿は今日いうところのヴォカールやコンゾナンテのような発声を、内的な衝動に従って行っていたのではないでしょうか。それに対して、ホモサピエンスは1音節2音節場合によっては3音節のようだ、単語を形成する力を記憶と結びつけることができたのではないでしょうか。まあ勝手な推測ですけれども。思うに全自然界には「原創造力」とでもいうような力とともに、すべて自然界は進化してるのだろうと思います。ただ、その進化を行わしめる原創造力を「誰が行使するか」ということで考えれば、類人猿もホモサピエンスも自分自身でその原創造力を使用することはなく、それは後の神話形成期においては、神であったり宇宙それ自身であったのかもしれません。ただ、六千万年の間、一瞬も途切れることなく、アウストラロピテクスに働きかけ作用し、衝動を与えたのは原創造力でしょう。
私の中に流れている原創造力とアオストラルピテクス中に流れている原創造力は同じだと思います。何万年もの間この原創造力は大自然全体の中に働きかけていると思います。人間の歴史形成の中にも社会形成の中にも、その力は流れている。けれども、流れることができないのは AI の中です。コンピューターの中です。情報機械の中にはどう頑張っても原創造力は入ることはできません。にもかかわらず、ポストコロナの時代はますますこの原創造力を受け取ることのできない生命圏の中に、人間は生きていかなければならないのです。原創造力が宇宙から消滅することは決してありません。ただ、その力をこの宇宙の中でたった1回だけ使用する、進化論的な言い方をするならば、新しい生命圏を作り上げるよう、その原創造力は地球働きかけているのでしょう。かつて神話の時代には神が、宇宙が使用したこの原創造力を、今人間は何に向けて用いようとしているのでしょうか。何に働きかけているのでしょうか。
練習1  12の子音の進化BMD NRL G CH F SHTを、口腔で発声しながら、両手片足で動く。
練習2  12の子音の進化を発声せずに、口腔と両手片足で動く。
練習3  12の子音の進化を発声せずに、両手両足だけで動く。その時に、動きの力は心臓から両手両足に集中して流す。
練習4  12の子音の進化を両手両足を動かさずに、自分を取り囲む空間全体の中に、原創造力だけを流して、動く。

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 3 Mai

WS 8
皆さんこんにちは。今日は日曜日で、近くの京王ストアまで買い物に出かけました。いちご、キューイ、ブドウジュース等、果物があると、夜なんかお腹すいたときに、ちょいと安心ですね。それでも、レジなんかは空いていて、全体に自粛の雰囲気濃厚です。
さて今日は M声の練習です。
M はゆっくり行いますと、Mの力は、肺の呼吸循環器系から腹部の新陳代謝形を通って、大地の中にまで深く降りていきます。この Mが呼気とともになされると、心を静め、鎮魂的な力がゆっくりと目覚め、謙虚な魂に体が満たされます。ここでMを呼吸循環器系とともに行います。心臓は、肺の中に位置しています。そして、呼吸からの血液循環への流れ、すなわち肺と心臓という二つの臓器の結びつきを、 M で作るのです。。同じ呼吸循環器系でも、肺と心臓は、一体となって作用していますけれども、どちらかっていうと、心臓から送り出される血液は、内臓器官や大腸小腸の新陳代謝の働きに強く結びつきます。人間の身体運動において、動きと呼吸を合わせながら行うというのは、当然です。けれども、同じような意味において、動きを心臓の鼓動に合わせて動くという発想は、あまりありません。なぜなら心臓は、動きに関わりなく、リズムを刻んでいるからです。けれども、この M の力が心臓の中へ流れるようになりますと、鼓動を通って、「心臓力」もいうべき力が動きの中に入り込むのです。
練習1
 まず最初は両手を下から上にあげながら吸気、上から下に下ろしながら、呼気を取ります。その時に肺の呼吸の動きをよく感じながら行います。次に2回目は、上下の両手の動きを少しゆっくり行い、さらに、呼吸もゆっくり行いながら、血液循環とともに心臓を強く感じるようにします。その時に肺と心臓が結びつくように、イメージするのです。これで一つの新しい力の流れが誕生します。これはすごく大きな力があります。これを何度か繰り返し練習しながら、単に呼吸がカラダの動きと結びついている時と、カラダと心臓が結びついてるときの違いを、カラダに刻印づけるのです。
このことは、発声においても同じです。発声は通常、喉と肺で行われると考えられています。けれども、脾臓のような内臓筋肉に働きかける発声は、喉発声 、肺発声以上に心臓力で発声するのです。心臓力と発声が結びつきますと、瞬時に心臓力と動きは結びつきます。これは私たちオイリュトミストの、未来的な課題でもあります。心臓力というのは、声に対しても動きに対しても同時に働きかけるからです。
それでは具体的に M の課題です。これにはLの動きが加わります。
練習2
まず充分に呼吸をとって、ゆっくり足を前方に歩きながら、Mの動きを一度だけ取ります。次は、そのまま吸気に続けて、後方に四歩歩きながら、大きく下からLを上に向かって取ります。この前後の動きにおいて,足の動きは 両手の動きに関わりなく、M の力をを保持し続けます。これを2往復を行います。すなわちML2回ずつです。
練習3
次は同じ動きを両手ではなくて片手で行います。最初の4歩は右手だけでMを後ろから前に
大きくても取ります。左手は手を動かさずに力の流れだけを、前方から後方へ取ります。次に後方に吸気で4歩歩き、その時右手だけでLを行い、左手は動かさずに右手と同じように力の流れだけを作ります。2往復目は、同じことを手を変えて左手で行い、右手は動かさずに力の流れだけを作ります。これをもう一度、2往復行いを行い、全部で4往復です。動かさない方の、手の力の流れだけは丁寧に作ってください。
練習4
もう一度に2往復、前後に歩きます。その時に前方には M、 後方には L の動きです。2往復ともに、両手は動かさずに力の流れだけで、M 、Lを作るのです。
この動きを覚えましたら、練習2練習3練習4を、2回繰り返します。
練習4の動きでは、ただ心の中に両手の動きをイメージするのではなくて、肺から心臓に力を流しながら、その力を空間全体に広げるように行います。1回1回カラダに刻み込むように練習しください。

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 2020 1 MAI

WS 7
今日の練習は,オイリュトミー,タンス,バレエ、日本舞踊だろうが能であろうが、すべての舞踊芸術に有効な練習とは思います。けれども、その単純さの故に、また最も高度でむつかしい練習ともいえます。これと言って、特定のやり形があるわけではありませんし、やることは、あまりに単純です。けれども、この練習に通暁できれば、人間のカラダの最も最奥の扉を開くことになるかもしれません。座脱立亡といいます。私にも出来ないない練習ですから、そのつもりでやっていただければ結構です。ちょっと酷なことですね。
ナニモシナイ ナニモカンジナイ

EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 29 April

WS  6
皆さんこんばんは。
非常事態宣言に入って以来,時間はたっぷりあるはずなのに
一日の時間の流れは,光陰矢の如し、
夢のような時間の流れです。
朝は夢から覚めず、、そのままチベットのラサの北方100キロのところの、とある森の中
そこに無上瑜伽TANTRAの灌頂聖池があり、onmanipadomefumの声で、三度頭頂に
水を受け、それから目を覚ます。
何しろ私がドイツに行ったのは、チベットに入蔵できなくて、
その代わりに6年間訪れた国ですから、今持ってチベットのことは恋しくなるのです。
究竟次第『五次第』の酒井真典氏の日本語訳は素晴らしいのに、
内容理解できずに悶々としていました。
媚喜と受容と歌と  音楽等に依止することと
技芸によく入ることは  水月等と等しくなせ。
色と声と  味と所触そのもの等において
眼等に入るものであろうものは  如幻とよく分別すべし
この金剛乗そのものにおいて  ここに多く釈すべき必要は
瑜伽者が凡そ観縁する処の  おのおのを 如幻と分別せよ
一切を  鏡内の姿と夢と幻化と水泡と
帝釈網と等しく誰か見たるところの  彼は尊主なりと釈さる。
         酒井真典訳 『五次第』
今もってわかるようで、わかりませんけれども・・・・・・・・・・・・・
さて今日はS・H・CH・F・SH・Zの6声です
宇宙が創造されるよりも前にあったのは、この6声です。
要するに六つの吹音です。
言葉を「盗む」ものは悪魔。
声を「盗む」ものも悪魔
なぜなら、言葉は創造以前から、存在したものだからです。
言葉を盗むのは、神殿の床の木を剥がして
自分の家を建てるようなものです。
私は存在しなかった。
声よ 生まれよ!
と語ってはならない。
光よ 生まれよ!
これが最初に語る言葉である。
はじめに声があった。
声が声を発し、声が声を生む。
主体の声と客体の声は一つ。
私が声を発するのではなく、声が声を発している。
生まれよ おお 光の輝き、
生成の本質を捉えよ、
織りなす力を掴み取れ、
 
練習1
青色の空を眺める。
その空は私の眼球の丸い面から、始まっている。
その眼球から始まっている青空で、街の建物を包む。 JR の電車を包む。(歩行しながら)
歩いている人々を包む。植物を包む。そして再び眼球から始まる大空だけに、視線を移す。
練習 2
青い空を眺める。
その空は私の眼球の丸い面から、始まっている。
その眼球から始まっている青空で自分のカラダを包む。
練習3
青空を眺める。
青空で自分のカラダを包む。(ゆっくりと歩きながら)
手を動かずに、心の動きだけで天空いっぱいに吹音のSの動きをする。
大空で自分のカラダを包む。(ゆっくりと歩きながら)
大空いっぱいに吹音のHの動きをする。
大空で自分の体を包む。(ゆっくりと歩きながら)
大空にいっぱいに下方から上方に向けて、chの動きをする。
吹音には「始まり」も「終わり」もないので、すでに、はじめから存在している宇宙のS,H,CH
に乗せるように、動く。
後半のF・SH・Zの三吹音も同様に行う。

EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 26 April

WS 5
Eー、今日は N とMの、二つの声にアプローチしてみたいと思います。この声は単純に N M と発声することも、できるわけですけども、習慣的に母音のEをくっつけて、EN ,EMとも発声します。L,Sも同じですね。これらの声は「取り扱い注意」声です。非常に繊細な側面がある声です。話し始めにE-ーというのは、どのように取り扱ったらいいのかを、注意深く判断し、ここというところを探し出します。ですから、単純に N と発声する場合と、ENと発声する場合の違いがあるわけです。
1  何度もNとENを、交互に繰り返し発声してみてください。
どんな感じでしょうか。EーN と声を出した方が、単純に、Nと出すよりも、Nの声の中にある何者かを準備するような感じがありますね。その方が N の本質的な力が出るような感じがします。このことは M の場合も同じでEーMと発声したほうが、 M の中にある力が浮き上がってくる感じがするわけです。
Hー、S-のように、息が無くても存在している吹音と、K、T、P、Gのような瞬間声、或いは打音は、宇宙において、声が誕生するその時点から異なっています。吹音は作り出された声というよりも、「もともと存在した声」です。宇宙があろうとなかろうと、H-S-は存在しているのです。「hーs、hーs」は宇宙が眠っている時の鼾(いびき)にも聞こえます。ところが、打音は発声されるまでは、どこにも存在していない「創造者の頭の中にしか」ない声です。虚なのです。そして、Kと発声された瞬間に実声になります。打音は「創造された声」です。それではNと M は虚声でしょうか実声でしょうか。ここはむつかしいところですね。息が続く限り発声できるという意味では、実声の側面がありますけども、N、Mと発声される以前は存在していない声なので、虚声的な側面まります。もう一つ重要なことは、この二つの声が鼻を通して発声する 「鼻音」であるということです。この N M という声に接近するためには忍耐強い、また注意深い声の観察が必要になってきます。次の練習は
2  吹音のHを通常の口腔で発声するHーと、鼻だけを通してH-を発声するときの違いを体験してみます。
全然違いますね。同じH-あっても、口を通るH-と鼻を通るH-は、まったく違います。この違いだけでもも身体感覚に変えるならば、すごいエネルギーが出てきます。Hはあるものを消し去ってしまう力であるのに対して、それが鼻を通ると反対に、ないものかを存在させる力に変わります。Hはもともと「修祓」、「祓い」に使う声であるのに、これを鼻で発声したら、「祓い」ではなくて反対に、知らない魔物にとりつかれるみたいですね。或いは退屈なお経を聞いてるように、次第次第に眠り込んでしまいます。
3   M N の発声において、一番大きな違いは N が舌を上顎にくっつけることによって、M は唇で息を遮断することによって、声を鼻の方に持って行きます。
ですから両方とも鼻をつまんでしまえば、声にはなりません。 M を発声する唇と N を発声する舌は違うエネルギーが流れています。唇は、「水」の働きであり、「舌」は火の働きです。ですから。 M N の発声しながら、唇の「水」と舌の「火」を感じながら、その二つの力を鼻腔に流す。そこで4  次の練習はMN、MN、M N と交互に発声しながら、二つの声によって生じる鼻腔内部をよをおーく観察しましょう。声を出さずにゆっくり息を吐きながら、鼻腔の中で N と M を交互に何度も発声します。
ここからの練習はさらに注意深く 行います。
N の場合には鼻腔上部を通って、脳の内部である「脳室」の方に向かって、無声で響かせるのです。まあ、私たちは脳室などを見た事がないので、イメージするしかないのですけども、脳室は脳の真ん中あたりに左右に存在する、脳のふたつの部屋で、そこには人間の生体のリズムのすべてを取り仕切っている、不思議な液体が作られています。医学的にはそれを「脊髄液」と言いますね。この脊髄液には二つの役割があって、一つは、リンパ系に結びついて、人間の体の老廃物を掃除してくれる役割がありますが、もう一方は、ホルモン系と結びついていて、人間の体の中に、宇宙的なエネルギーを受け取るアンテナの役割もあるわけです。
5  脳室に向かって N の力を、発声力を用いて、リズミカルに何度も流す。
鼻腔と脳室が発声力によって繋がるのです。これはは極めて重要な練習です。ここからはさらにダイナミックに、 N の下から上の動き  (声を発っするときは、舌を動かしてその上下の動きを行いますが)  を行うわけですけれども、その上下の幅をすこーしずつ広げていって、最後には尾てい骨から頭のてっぺんまでが一つの頭部となって、その下から上の動きを広げるのです。つまり頭部胸部腹部が全体が一つの頭です。黄道十二宮の宇宙動作においては、 N というのは片足で行います。 N はカラダが背骨とともに一直線になる声です。
6 片足で立って、Nを上下に、尾てい骨から脳室にかけて、繰り返し何度も力を流します。それを右左の足で交互に行います。
7  一歩一歩歩きながら、右足を出した時に次左足と両手で N を取ります。次は左足を出した時には右足とと両手でN を取ります。ゆっくり足の動きと手の動きをともに結びつけて行うのです。その時に両手の Nは、尾てい骨の高さから頭の天辺に向けて、やわらかく跳ね上げるのです。つまり、尾てい骨と脳室が発声力で結びつくようにです。片足の体の状態を、しっかり保ちながら行ってください。(休憩します)
M を鼻腔の中でゆっくりと発声しますと力は N とは反対に、鼻腔の下方に向かって、押し付けるように流れていきます。この下方に流れる力を感じ取ることができるようになったら、さらにそれを心臓の所までおろすのです。ゆっくり鼻腔で M を発声しながら、喉を通って心臓にまで届くようにです。
8  両手で M の動きをゆっくり行いながら、この鼻孔から心臓への流れを何度も繰り返し作るのです。次に歩きながらこれを行います。その時には歩行している足の動きの中にも M の力の流れを作り、全身が M となって動きます。
9  この二つのN Mを、全身で行います。最初の二歩で、Nをゆっくりと2回大きく尾てい骨と脳室の間上下にとります。次の2歩で手足両方でM の動きをゆっくり心臓に向かって流します。
はじめにバラバラであった。上下の N の力と心臓へ流れる M の力が、次第に結びついて行きます。静寂がカラダの中から浮かび上がってきます。その静寂は宇宙的なエネルギーに満ち満ちています。
「マヌの法典」を創ったマヌ。
エジプト第1王朝を造ったったメネス。
人間そのものの中の「MAN」。   AMEN(アーメン)

EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 24 April

WS  4
ギリシャ神話の中で、鉄の鍛治技術を持つ神は「キュクロープス」と呼ばれていますね。ホメロスの「オデュッセウス」の中にも、この神は出てきますけれども、いずれも単眼の巨人です。単眼の人間のイメージは動物から人間へ至る過程を象徴しているようです。
なぜかといいますと、四つ足で歩く動物は、物質的には、両眼の目を備えていますが、内的には単眼だからです。例えば、近くのものは大きく、遠くのもが小さく見える空間遠近法は、両眼によって作られます。「遠い」「近い」のはっきりとしたり意識があり、その遠近感覚に従って、自分の体をその方へ動かします。動物はそのような意味では空間遠近法を有していません。「遠い」「近い」の感覚は、ないのです。周囲の世界の全ての者が、自分のカラダの中にあって、空間は全てカラダ中に出来上がっています。ですから、動物が歩いても、もちろん動物にそのような自覚は全くありませんけれども、言ってみれば自分の脳の中を歩いてるのと同じです。動物は外的には三次元世界に住んでいますが、内的には二次元世界です。ここから早速、練習です。
外側にある物を見る場合に、それは一つの「対象」を見るわけですけれども、その対象は眼という感覚器官を通って目の内側の網膜に映る像ですから、それは内側の「表象」です。
1  部屋の中を最初の4歩では、部屋を「対象」として見ながら歩きます。その時には「お」発声力とともに歩きます。次の4歩は「を」の発声力とともに歩きます。「おーーー」「をーーー「おーーー」「をーーー」と交互に対象、表象、対象、表象として歩くのです。これは一種の眼球による呼吸のようなものです。そしてこの呼吸に合わせて二つの母声を使い分けるのです。これを練習しますと体の感覚がしばらくするうちに変化していきます。そしてその変化をよーく感じ取れるまでほぼ、1、2分持続して歩きます。できるだけリズミカルに。そのうち次第に感動的な気分になっていきます。なぜ感動するかでいますと、動物 から人間存在に進化するからです。また逆を言えば、カラダの中の人間であったものが、カラダの中の動物性に目覚めるからです。
2  次元性でいいますと、対象として見る場合には、三次元性の明るい世界ですが、表象で見る場合には内と外が一つですから、やや暗い二次元世界に移行します。この次元性の変化に合わせて、「おーーーー」「をーーー」とズミカルに結びつけながら歩行します。
それまでの生活の中で、無意識のうちに生じる様々な感覚の変化や、呼吸の変化に対して、意識的に向かっていきますと、それまで融合していたものが一度、分裂して二つにわかれます。これは、母国語でいいますと、それまで意識しなかった文の結びつきや発声に関して、文法や音韻に目覚めることによって、分の結びつき方に対して意識的になります。これは自分の言語的生活に対する一種の「反省」です。自分の体に「反省の気分」を与えますと、体の中に「客観的な静けさ」が生まれてきます。この「を」「お」の交互の歩行においても、それと同じで、これを行ううち、にカラダ中がシーンと静まりかえってくるのです。この「静寂」は体が変化する上では、とても重要な瞬間です。
3 この「静寂」が訪れたら、すかさず第3番目の課題に移ってください。次は対象と表象に分裂した世界をもう一度意識の力で結び合わせるのです。3番目のリズムが入るわけです。四歩リズムは、変わりませんけれども、始めに対象の「お」歩行、次が表象の「を」歩行4歩、次に表象の「を」を、外の対象に重ねて「WAーーー」と強く発声力を流しながら4歩、歩きます。
「おーーー」「をーーー」「WAーーー」、この「WA---」の時には発声力を頭部と両手と両足と五つの方向に向かって強くナースのです。これを何度か繰り返します・・・・・・・・
第2回第3回そして今日の第4回かけて、「を「「お」の練習をいたしました。全体の流れをもう一度箇条書きにいたします。この練習は六つのカテゴリーから成り立っています。
1  「を」と「お」の発声力による力の流れと身体感覚。
2  四つ足でしっかり床を歩き回ることによる動物性の目覚め。
3  「をーー」は膝蓋骨と肩甲骨を通して外へ。「お」は両手及び上部の頭部の方に向けて発声力を流す。
4  「を歩行」と「お歩行」による、リズミカルな表象と対象の分離。
5  静寂。
6  「WA--」による融合歩行。
最後にWA声について一言。フランスの言語学者 エミール・ バーンヴェニスが王権 について面白いことを述べているのです。ヨーロッパの王権には2種類あって、神から実際に王権を授与された王と、王冠や王杖よ持つことによって、「形の上で王」になったものの違いについてです、誠に「王権神授」で王になった者は  WANAKS  の称号を持つと。
W+母声によって作られるコトバ例えば:ドイツ語のDas Wunder  奇跡
                         英語の  wonderfullyワンダフル winner勝利者
日本語では、「WAーーすごい!」とか  「WAーー面白いとか。」要するにW声なのです。W声は「世界」であるとか「我」であるとか、最も根源的な声ですね。

EURYTHMIE WS IN HP akirakasai 3

WS 3   2020 4 22
今日は、空いっぱい雲が広がり、その向こう側の太陽光線によって、地上に流れてくる陽の光は軟らかく、家々や木々の間の空気もさらに静けさをましたような感じがいたします。私は目を覚ますとすぐに、体を動かすくせがあります。今日はイタリアの歌姫マリア・カラスの歌を聴きながら、飛んだり跳ねたり。曲名はCAVALLERIA RUSTICANA。『ゴットファザー3』を思い出しました。このオペラが鳴り響く劇場の中での毒殺シーンです。
では、昨日の続きをいたします。テーマは、「を」と「お」ですね。
この二つの声が、人間の中の動物性と人間に係りがあるというところまで話をいたしました。動物といえばまず形態的に思うのは、「四つ足」で歩く、ということです。このときの、動物発声の母声の代表が、「を」と言っていいでしょう。このHPワークショップはただ、読むだけでも、いいのですけれども、カラダと一緒にやっていただくならば、ここで、次の実習を入れたいと思います。
1   私たちが赤ん坊の時に、ほぼ1年間、やり続けた四つ足歩行です。声は出さなくて結構ですが、「を」を感じながら、部屋のあちこちを歩き回ってください。人間であることを中断して、静かに歩き回るのです。この歩行だけでも、すごい力があるのです。人間を一瞬のうちに、動物状態に変えてくれます。そして、それまで忘れていた本能的な力が黙々とわき上がってきます。例えば疲れた時に、仰向けに体を横にして力を抜いているならば、必ず体の中から、治療的力が出てきます。同じように、この四つ足歩行は、忘れていた本能的な力、「外的な動物」が目覚めるのです。ポイントは、オイリュトミーですから、動いてみるだけではなく、それを常に身体感覚に変え、次にそれを、力の流れに変える、ということですね。この力の流れがはっきりつかめるようになりましたら、それを、いつでも取り出せるように、胸の奥の方に、しまっておいてください。引き続いて・・・・・・・・・・・・
2  単純にこの二つの声 「を 」と「お」を交互にゆっくりと声を出して発声いたします。次は声を抜いて発声力だけの、「声なし発声」します。「を」は肺の方から軽く絞り出すように、「お」の時には、口腔から頭部の方にやわらかく響くようにです。
3   この二つの身体感覚とエネルギーの違いが明瞭に区別できるようになりましら、「を~」の場合には、肺から直接、左右の肩甲骨を通して、それから下方に向かっては、二つの膝のお皿の骨(膝蓋骨)を通して、発声力を、左右と下方に向かって、四方に広げます。「お~」の場合には、オイリュトミーの「お」形をとりながら、両手と頭骨の円さ全体に向かって、発声力を流します。「を」の時のやり方は、肺を絞りますと、すぐにカラダの中の動物的力が流れ出ますので、それを肩甲骨と膝蓋骨に結びつけて外に広げるです。これは人間が「内的な動物」に変わる、エキセントリックな瞬間です。{お」の場合には、この力が上方に向かって流れることによって、人間の中の「至上の人間」が、目覚め始めるのです。1の練習は、四つ足ですが、2、3の練習は、直立して行います。この1、2、3、をセットにして、3回繰り返します。すると、このような二つの力を人間の体の中に、流し込んでくれているものに対する、「畏敬の気分」がわき上がってきます。
この人間のなかにおける動物性と人間の違いは、人間の身体器官、感覚器官や、消化器系あらゆるところに広がっています。これまでこの問題は主として、人間の植物性と結びついている「平滑筋」、動物性と結びついている「横紋筋」、人間性と結びついている「心筋」の領域から考えられてきましたけれども、この三つの領域にオイリュトミー的言語作業を結びつけるということは、これからの、カラダを捉えるうえで、重要な入口です。
次回は、この二つの母声と眼球、視覚との関わりを、体験してみたいと思います。
今日も安らかにお過ごしくださいますよう。

EURYTHMIE WS in TENSHIKAN 2 akira kasai

WS  2
時計を見ると、もうすでに、20時を回っています。で、皆さんこんばんは。今日1日いかがお過ごしでしょうか。私は今日は1回だけ、夕方に近くのポストに郵便物を出しに行っただけ、あとは家でのんびり。でも、外は裏寒い、小雨の降る1日でした。
さて、今日のWSは、日本語の「を」と「お」についてやりたいと思います。日本人にとって、この二声はすっかりカラダの中に入っていて、その違いは、無意識のうちに了解しています。「あなたを」「私を」という言葉を、「あなたお」「私お」、と発声すると、何か変です。声のやわらかさが消えてギスギスします。辞書で調べますと、「大人」は「おとな」で、「幼い」は「をさない」と記されています。「面白い」は「?もしろい」・・・・「おかしい」は」「?かしい」・・・さーて、どちらでしょうか。答えは、「おもしろい」と「をかしい」です。まあ、金田一京助さんはそう言ってるのです。
一般的に「大きいもの」に対しては、「お「を使い、「小さなもの」に対しては「を」使うといっていいと思います。が、動物が吠える時の声はイメージからして、「おーーー」ではなくて、「をーーー」になりますね。「おーーー」と 吠えられると、なんか優しさまで感じ、逃げる気がしません。「を~~~」は本能的で、何されるかわからない恐怖心を感じます。「おー」は空間的には、しだいしだいに、大きく広がっていき、世界を包むような柔らかさ、愛情、優しさを感じますが、「を~」は、外に広がるというよりも、反対に、内にこもり、引き込まれるれるような感じがします。極端な言い方をすれば、ブラックホールの内部の音みたいです。(ちょっと単純ですかね!)
「お」を取る時の腕の形は、できるだけ肘に角度をつけずに、やわらかい曲線で、手の指も観音様のように優しく、指の間をあけずに、親指も離さず、空気のような円形を・・つくり・・ま・す。・・・・・・・・・・・・(眠ってしまいました)
(一夜明けて、)
それでは、(を)の身体動作についてですが、これは、(お)ほど単純ではありません。微妙で、いくつか取り方が細かくいえばあります。
1  「を」をW行の「を」として取りますと、両手を円形にして、両手を下方から上方に、少し腕の力を抜いて、腕の中の空気を抱くように、両手を円形に動かします。(ここで何度か、「お」と「を」を交互に行いながら、「感覚の違い」を、味わってみてください。)
2  次は動物が吠えるような「を~」です。単純に「お」とやわらかく発声するのではなく、少しカラダの奥の方から方から出てくる声です。発声の時に、喉と同時に、肺を絞るように出します。腕の動きとしては、この時、肺を絞るような力とともに腕を持ち上げます。
肺を使った発声は、「お」声には全然、向いていません。つまり、「を」は肺、「お」は喉にむいており、発声において、上下の違いが、ありますね。この「を」と「お」の違いを、カラダの中で、探っていきますと、誠に興味深い人間のカラダの構造に出会うことになるのです。人間のカラダの中には、動物的な部分と人間的な部分の両方がはっきりと、存在します。「を」をカラダとともに、繰り返し繰り返し発声するのです。そうしますと、ゆっくりと、人間のカラダの中に眠っている「動物領域」が目覚め始めるのです。これまで自分でも気がつかなかった動物が、動き始めます。。。反対に「お」を明瞭に明るく発声しますと、「人間領域」が、明確に意識されます。ですから、この違いは、単に人間と動物の違いであるというだけではなくて、カラダの中の「自我」の領域と「アストラル体」(アストラル体 とは、惑星のことです。人間は眠っている間は、無意識感情がだんだん広がっていって、七つの惑星領域まで広がっていきます。この拡大したカラダのことそ、アストラル体と言います) の領域の違いなのです。
自我とアストラル体の違いは、コトバの概念の違いとして、理解するのではなく、身体感覚の違いとして、としてはっきりと、掴む必要があります。もちろん、この違いは、「を」と「お」の違いだけにあるわけではありません。もっと単純化していってしまうならば、自我の力は「喉頭部」に集中し、アストラル体の部分は肺に集中しています。肺と喉から全く異なったエネルギーがカラダに流れ出すのです。このことはさらに深い人間と動物のカラダの違い、ひいては神様が「動物」を造った根拠と、人間を創った根拠の違いにまでさかのぼっていく程、深いのです。
少し時間をかけますので、この先は、明日にいたしましょう。
今日はまだ少し曇っていますが、安らかな1日をお過ごしください。

ダンサーによる、批評視座

ダンサー主義と作品主義
ある辞書で「ダンス」という項目を引いてみましたら、「意識された人間の身体運動」、という言葉に出会いました。誰が書いたものかわかりませんが、これほど簡潔に「ダンスとは何か」を言い表した言葉はないかもしれません。ダンスには様々な形態があり、民族舞踊、古典舞踊、伝統芸能、、祝祭ダンス、、即興的な踊り等、そしてさらに歴史的な意味では、古代に戦争を始める前に執り行われた戦争ダンス、死者のためのダンス等、様々な形態があります。それらに共通しているのは、ダンスは何らかの形で「意識された身体運動」という要素があるということです。外側から見た場合に、ダンスは様々な視覚的な形態の違いというものは,明瞭に見て取れるわけですが、そのような感覚的な領域からダンスを考えるのとではなく、ここでは、ダンスに共通している要素として「意識」を挙げているわけです。
このようなダンスのとらえ方は、ダンスを行う側の立場から考えられたものです。それはダンスを成立させる人間の最も根源的なあり方と結びついております。そのようなダンスのとらえ方は、カラダと意識の結びつき、カラダと意識の関わりというところにダンスの本質というものを、捉えます。けれども、このことはダンスを行ってる本人にとっては、重要な問題ですが、意識それ自体は、外側から眼に見えるものではなく、カラダの内側からのみ体験され得ることですから、そのようなダンスの見方は、ダンスを行う側から、生じることになります。そのようなダンスのとらえ方を、ここでは「ダンサー主義」という言い方をしておきたいと思います。
一方、ダンスというものを外側から視覚的に眼に見る対象としてとらえ、そこで生じる様々なダンスの現象的な側面や、民族による違いや、歴史や言語による違い等から、ダンスの本質に迫る捉え方があります。ダンスの動きを外側から創造していく方法は一般的に振付とか様式と呼ばれています。振付や様式はダンスを意識とカラダの結びつきより以上に、目に見える具体的な動きと形を問題にしており、それらを中心として、ダンス全体を作り上げていくようなものを「作品主義」という言葉で表してをおこうと思います。広い意味でヨーロッパの古典バレエや日本の伝統的な舞踊、創作舞踊等は作品主義という範疇に入れることができます。
もちろん、このような分け方は、どこまでも便宜上ものであって、一つのダンスは、ダンサー主義的な側面と作品主義的な二つ側面は、深く結び合って形成されています。意識とカラダの結びつきを観察しながら、動きを形成していくやり方は主として即興的な運動形態をとりやすく、そのような意味において、ダンスは常に即興と振付の二つの要素があるわけですから、両者は常に一体であると、言わなければなりません。たとえどれほど厳密に指先の細かい動きまで、或いは呼吸の取り方、まばたきの仕方においてまで振付られたとしましても、その振付が振付家からダンサーに委ねられた瞬間に、必然的にその振付の中には、ダンサーの即興的な要素が、つまりダンサー主義的な要素が加わって参ります。そしてこのことは、即、ダンスの二つの方向性に関わっていることです。
ダンサーがスタジオの中で、「見せること」を前提にせずに、ひたすら自分自身のために動くと時、観客というものを前提にすることなく、自分自身のため、或いは特定のグループや或いは祭的なダンスにおけるように、「踊ること自体」が重要である時、「見せること」は二次的な要素になります。ここでは第三者的な或いは客観的な批評家的な視点を一切前提にしないで、ひたすら自分自身のために動くわけです。けれどもそこに全く批評的、客観的な第三者的側面がないわけでは決してありません。
踊ることそのものは、常に意識と運動の関わりを形成しているわけです。この結びつきは決して単一のものではなく、無限のバリエーション、結びつきがそこに存在し、この二つのものの、結合のあり方を形成していくことそのものに、ダンスのありようを求めるならば、そこでは全く観客というものを必要としません。ひたすら自分自身がこの結びつきを様々な側面から形成してゆくことが求められているからです。
それに対して、「見せることを前提」にするダンスとは何でしょうか。このことは、即ダンスが作品主義的になるということではなく、「見せること」を前提にしながらも、ダンサー主義という、意識とカラダの結びつきの方向性でダンスを形成し得ます。それでは両者が違いとは、一体何なのでしょうか。見せることを前提にしない場合と見せることを前提にする場合において、その意識とカラダの結びつきにおいて、何が変化するのでしょうか。それは意識の中に、全く別の意識、すなわち10人の他者がいるならは10の異なったり意識が、100人の観客がいるならば、100の異なって意識がそのダンサーの中の「意識と運動」の中に入り込んでくるのです。このことは見せることを前提にする作品主義的踊りにおいても、全く変わりません。ある一つのコンセプトや美意識や時代意識に基づいて、外側から構成され、振付られた作品においても、それが、不特定の他者の前で踊られた場合、必然的にそこに「意識と運動」の中に、他者の意識が介入してきます。
そのとき、ダンサーの中における他者の意識のありようは、ダンサー主義と作品主義における場合においては、全く異なっています。その違いを次のように表すことが出来ます。
ダンサー主義的舞台においては、1人のダンサーは、自分の意識を観客全体に広げていかなければなりません。その時、ダンサーの踊る場は、観客の「心の中」なのです。それに対して、作品主義的舞台においては、すべての観客はダンサーが踊っている舞台の上に引き上げられ、観客という他者が、踊ってるダンサーの心の中に招き入れなければならないのです。ダンサー主義的舞台においては、客席空間が舞台になるのに対して、作品主義的舞台においては、客席が舞台空間に引き上げられるのです。
ダンサー主義的舞台においては、ダンスの主体は次第次第にダンサーから観客という不特定の他者に移行して行き、ついには、ダンスの主体が観客になるのです。作品主義的舞台においては、全観客は、ダンサーの心の中に自分の場所を見出を出しているのです。
今述べたことは、かなり抽象的ですので、次に私の個人的な経験から、このことを述べてみたいと思います。私は自他ともに、かなりダンサー主義的なダンサーである、と言えるのではないかと思うのです。実際、2015年まで多くのダンサーには振付という、作品主義的な関わりを持ってきましたが、自分自身のダンスに関しては、1966年のデビュー・リサイタル以降、振付作品を踊った経験は数度しかなく、この50年間、全く舞台上においても、スタジオ内での即興的な動きの延長として、踊ってきました。ダンサー主義的な即興を徹底した作品においては、事前に決まってるのは劇場と始まる時間だけで、用いる音楽(当時はレコード使用がほとんどでした)を、その当日、出かける直前レコードボックスの中から選び、同じように衣装ケースの中からその日の気分によってに衣裳とそれに合った照明を劇場についてから決めるという具合でした。もちろん、今日の劇場を用いてのダンス公演においてそのような事は全く成立しません。すべて事前に決められた照明プランに従い、舞台監督、音響担当がいて、公演前から何度も繰り返されるランスルーやゲネプロがあり、でたとえそれが即興的な舞台であったとしても、大まかな方向は外側から決定されていなければ、公演そのものが成り立ちません。以前のように徹底した即興によるダンスにおいて、舞台上でダンサーに要求されるのは、自分自身の内的な深みの中からやってくる様々なイメージや直感をカラダと結びつけながら、動きを形成していくということです。そこで観客を前提としてないスタジオや稽古場内の動きと、舞台上の動きの唯一の違いは、どこまで観客意識の中に入り込んでいかれるか、ということです。意識とカラダの結びつきというダンスの原点において、意識がどのように人間の中で生まれるのかということは、深い謎でもありますが、いずれにせよ、舞台上で要求されるのは、自己の内部の意識の糸をたどって、観客の意識の中にまで入っていくことなのです。自分自身が踊る主体であることを止め、観客の意識が踊りの主体であるところにまで、その結びつきを深めていくこと、といえます。コンテンポラリーダンスを「同時代舞踊」というならば、この「同時代の現場」とは、まさに「観客という現場」なのです。ダンサー主義とはこのコンテンポラリーの現場としての観客の心の中に入っていく作業であり、そこで掴み取ったものを動きとして、目に見える形で提出するのです。観客の心の中に生じているものは、すでにコトバを超えた何ものかですが、同時代認識とは、この言葉を超えたものを直感的に掴み取り、それを「動き」にするです。ですからダンサー主義とは、どこまでも観客がダンスの主体です。世阿弥が伝書の中で言う「客席を読む」というのは、ダンサー主義の根本です。
個人的に私はこの方向において、1966年から約50年間、ダンス活動を行ってきたのは事実です。そしてこの方向でダンスが成立することに対して疑いを持ったわけではないのですが、このたび、2016年の2月初めて、「セルフコレオグラフィー」という手法を用いて、ソロ公演を行いました。音楽はフランツ・シューベルト作曲、ヴィルヘル・ムミューラー作詞による歌曲「冬の旅」全24曲です。歌手フィッシャー・デーィスカウの1985年度録音盤。これは私にとって、初めての作品主義的な舞台でした。24曲に対して、自分自身に24のコレオグラフィーを与えるわけですが、そもそもコレオグラフィーというのは、身体運動というものを、「客体」として眺めることができるとき、初めて可能になるものです。振付家がダンサーに動きを与えることによって、外側から初めて「運動」を客体として見ることができることによって、成立するものです。という意味において、セルフコレオグラフィーなどというものが、果たして可能なのかどうかということは、私自身疑わしく、やってみなければわからないという感じで舞台に臨んだわけですが、結果としては、自分自身の中にダンサー主義とは全く異なった空間がそこに生まれた体験がありました。
このことを少し詳しく、ここに述べておきます。
振付が主としてパの組み合わせによってなされるクラシックバレエ以外の場合、振付が生まれる瞬間は即興です。振付家が自分自身で見ることのできない、その即興的な動きを、振付として他のダンサーに移し、そのことによって空間の中に「動き」が客体として固定されることによって、初めて振付空間が現れてきます。ところがセルフコレオグラフィーの場合には、そのような意味で「動き」を客体として空間に固定する事ができないのです。にもかかわらず、作品主義は「動き」というものを外側から形成して行く必要があります。その意味ではセルフこれグラフィーというのは、一つの矛盾した状況を担わなければなりません。即興ダンスは即興で生まれた「動き」をそのたびごとに捨てて行き、新しい動きを生み出すことですが、セルフコレオグラフィーは、即興で生まれた一つの動きを、1回で捨てることなく、2回3回4回と繰り返すことによって、少しずつ動きが空間の中に固定されていきます。けれども、そのことによって動きが、一つの客体になるわけでは決してないのです。セルフコレオグラフィーは、「客体化された動き」とは全く別種の客観性を生み出さなければ成立し得ないのです。今回の場合、セルフコレオグラフィーのために、非常に長い準備期間を必要としました。それは24曲の振付を覚えるということより以上に、この別種の客観性を生み出すという作業のためです。それはダンサー主義的な、自分自身の内面から立ち昇ってくる無意識や記憶や思い出や感情と動き結びつけだけでは、成り立たないからです。ダンサー主義的な意識と動きの結びつきとは、自分の内面の核のようなものから皮膚を突き抜けて身体の外広がっていく、意識と動きの結合です。この遠心的な意識に対して、セルフコレオグラフィー とは徹底的に求心的に外側からやってくる「未知のイマジネーション」を受容しなければなりません。そもそも、ヴィルヘルム・ミューラーの「冬の旅」の詩イメージは浪漫主義的な「冬景色」、「凍結した小川」、「雪や嵐」、「銀色の霜」、「凍れる 涙」、「冷たい水の流れ」等です。ですからフランツ・シューベルトの音楽を通して流れてくるヴィルヘルム・ミューラーの詩的イメージというのは、ある種の日常的な具体性を伴うイマジネーションです。このように他者のイマジネーションと音楽を振付ること自体は、作品主義的な方向に歩み出しているにもかかわらず、その「冬の旅」という具体的なイマジネーションが私個人のイマジネーションと結びついている限り、それらの詩や音楽は、私個人の意識と動きを結びつけるための素材でしかなく、そこから「客体として存在する外的な動き」という客観性にまでには至りません。
すでに知られている事実ですが、このヴィルヘルム・ミューラーの「冬の旅」という詩は、一連の錬金術的なアレゴリーであり、この宇宙によそ者としてやってきた人間が、この物質世界で様々な錬金術的な意識の変容を経験して再びこの宇宙を去っていくという、それは西洋の伝統的な秘教主義的アレゴリーに満ちており、「冬の旅」は単なる叙情的なものであるより以上に、物質の変容を伴う人間の意識の変革を扱っています。その象徴的な言葉は第23歌のこのフレーズです。
Will kein Gott auf Erden sein,
Sind wir selber Goetter.
「この世に神が存在しなければ、我らが自ら神となる。」
このような錬金術的な具体的な生きたイマジネーションが現在の私の体の中に存在するわけではなく、それは未知のものとして外側から、ある一つの可能態として降り注いで来る「光」でしかありません。けれども、振付における「客体化された動き」という外的な客観性に見合う、もう一つの客観性を形成しようとする時に、単なる外的客観性ではなく、すべての人間の主観性を超えたもう一つの客観性に向かわざるを得なくなります。しかもそれは宗教的な次元ではなく、芸術の領域における、このすべての人間の主観性を超えた客観性です。具体的にこの作業を、「冬の旅」において私は次のように方向から、取り組みました。
それは、振付の中を流れる意識といしてのマジネーションを、どのよう私個人の記憶やイマジネーションから解放して形成していくかという点に尽きます。
第1歌の「扉」は、この世とあの世の間の門
第2歌の「旗」は、「魂の風」
第3歌の「涙」は、物質と魂の間の「反物質」
第4歌の「雪」は、「霊化された石」
そして、第23歌の「幻の太陽」では、「太陽処刑」等
半年に及ぶ振り付けの練習とは、動きの練習では、なくこのような個人を超えたイマジネーションと動きの結びつきというところに集中していたと思います。それはダンス作品が、新しい「宇宙の庭」を創造するという感じです。今回の3回の東京芸術劇場シアターイーストでの舞台上での経験は、これまでのダンサー主義的なものとはかなり違ったものでした。それは、自分が客席へ降りていくというより、すべての観客を舞台の上に乗せ、そしてこの新しい「宇宙の庭」を共有したいという想いです。
ダンスにおけるカラダ
ある公演演後のトークにおいて、1人の演出家と演劇におけるカラダと、ダンスにおけるカラダについて語ったことがあります。その時、その演出家はダンスにおいても演劇において、カラダそのものは共通の要素であり、この共通のカラダを基盤として、演劇はカラダがコトバと結びつき、、ダンスにおいては、カラダが「動き」と結びついているという考えを披露しました。このことは、先に述べた作品主義という観点から考えるならば、そう言えるでしょうが、すべてのダンスが作品主義ではないという意味においては、この演出家はダンスを作品主義としてだけ考えているのではないかと、思えたのです。しばしば作品主義や演劇において、カラダを単純に「表現の道具」として捉える傾向あります。それはスタニスラフキー演劇等に顕著な傾向ですが、身体を一つの、最終的には物質と捉え、感情や意識や本能的衝動等は、その物質である身体の中から生じたもの、精妙な神経組織の放電作用の中から生まれたものと捉えています。そのように考える限り、ダンサー主義的な演劇、ダンサー主義的なダンスは決して生まれません。ダンスを「意識された運動」、或いは意識と運動の関係性の中から成り立つと考えましても、そこにおいて意識は運動と関係性を持ち得ません。何故なら、意識そのものが、初めから物質であるカラダから生じているからです。それは、「海の水が辛い」のは、そこに塩分があるからではなくて、「水そのものが辛いのだ」と言っているのと同じでしょう。意識が物質から自律した存在性を有しているという事を感覚しない限り、ダンサー主義或いはカラダの本質には、決して至らないと思います。とはいえ、意識が物質から自律しているという実感に至るのは、それほどたやすいことではないのかもしれません。なぜなら西洋哲学史においても、何百年とこの問題についてけんけんガクガクと討論してきたわけですし、現在の脳科学においてでも事情は全く同じです。けれどもダンサーがダンサー主義の側に立ちますと、単純に次のように発言するでしょう。「私は<カラダで何が出来るか>ということよりも<カラダが何か>ということの方に、どうしても情熱が傾いてしまうのです」と。
<カラダで何が出来るか>を考えるならば、それは生きることのすべてでしょう。社会生活を行い、学校に行き、勉強し、スケート、スキーをし、ダンスをし、スポーツをし、喰いたいもの食べる、これらすべてが<カラダで出来ること>です。けれども<カラダが何か>という問に向かいますと、人間は「脳が脳について考える」「カラダがカラダを感じる」という、途方もない「迷宮」を引き受けなければならなくなります。言葉や思考の領域だけで、この迷宮の中に入り込むと、永遠にさまよい続け、深淵の中に落下して行き、ついには、ニーチェ的な狂気に至ることになります。人間はカラダに外部から関わっているのではなく、その内部から関わっています。つまり自然科学のように、物質に外部から関わっているのではなく、物質そのものの内部に入り込んでいるのです。だからダンサー主義が成り立つのです。意識とカラダの結びつきとしてのダンスが生まれるのです。そしてこの「物質の内部」に入ることのできるものは、決して物質でありません。物質以外の何者かです。それを「意識」と呼んでいます。物質が意識を生み出したのではなく、意識が物質を生み出しているのです。そのような意味では、世界は意識一元論と言っていいはずなのですが、現実には、世界はその逆転した姿を私たちに示しています。このことを痛く感じているのが、ダンサーです。カラダは内側から捉えられた時と、外側から見られたとき、あるいは、世界はその内部から観られた時と、その外側から見られた場合は全く正反対の姿を、人間に見せているからです。世界を内部がら眺めるならば、人間は「肉体」を有してのではなく、「肉体意識」だけを有していると言わなければなりません。ダンサー主義においては意識がどのように、またどのような身体運動を生み出すかというところに、全エネルギー、全感覚が集中します。カラダが意識や諸感覚を、どの様に舞台上で現わすのか、カラダがどのようにダンス生み出すのか、という事にすべて意識を集中します。ダンサー主義は、意識の様々な形態によって変容していく身体のありようを提示しているのです。それはカラダで何かを表現しているのではなく、カラダそれ自身です。
鉄素材を用いて、彫刻家は様々な作品を作り出すこともできますが、その時、鉄という素材を生かすことそのものが作品性を決定しています。その意味ではダンスにおいては、素材性と作品性が完全に融合していて、それを分離することができません。ダンス作品はこのカラダの素材性そのものの内部から常に現れてきます。
このことは、ダンス作品を他の芸術作品から隔てる大きな特徴といえます。素材性と 作品性が融合しているということは、ダンスにおいては、「作家が作品である」ということです。作品を作家から引き離すことができないのです。
クラシックバレエのすべてのダンス技法は、この主体即客体というダンスの原則から、ダンサーを引き離し、ダンスをカラダから自律させるための技法といえます。それにより、クラシックバレエにおいては、振付とダンサーは厳密に区分けされ、ダンサーが作家即作品という方向でダンスにかかわらずに済むように、完全に振付家が外側からダンサーに結びついています。音楽家と振付家とダンサーが完全に分離しているということは、近代バレーの一つの原則でした。そのような時、1人のダンサーに中において、ダンサー主義はどのようなあり方をしていたでしょうか。その時、ダンサー主義は四つの「ドデス」と完全に一つに結びついていました。「ドデス」とは、カソリック教会において、神性と結びついた信者が神から与えられる「四つ聖性」のことです。
光輝性
敏捷性
無重力性
受苦不能性
この四つの ドデスはすべてのバレエダンサーがダンサー主義の極北として、ある時代まで受け止めていたと思います。ですから、作品主義的な近代バレエにおける批評はダンサー主義的な方向には向き得なかった、といえます。作品を支える個々のダンサーがこの四つの「 ドデス」をどのように体現しているか、に向かっているからです。
この四つの「ドデス」と結びついているダンサー主義が崩壊していたのは、大ざっぱに言えば、次のような過程を通してであるといえるでしょう。
*バレエリュスとニジンスキー    バレエの中に作家即作品というダンサー主義の始まり
*イサドラ・ダンカン          バッハ、ベートーベン、ショパン等の純粋音楽とダンスの結び
*ルドロフ・フォン・ラバンとメリー・ヴィグマン  モダン・ダンスと表現主義
*マーサー・グラハム                アメリカのモダン・ダンス
*カニングハム等のポスト・モダン
このような流れの中で極めて重要なのは、土方巽の出現です。彼は1960年代以降、東京中心に活動を始めましたが、彼の行ったことは、ダンサー主義であれ作品主義であれ、ダンスの根源に関わる変革を行った人物です。土方巽が自分の作品の中に障害者、病人、犯罪者、死刑囚、老人等、これまでダンス的なテクニックとは無縁と考えられているカラダから発する動作を、進んで自分のコレオグラフィーの中に取り入れたことです。そのことによって、それまでのタンステクニックの持つ意味が、解体したとも言えるのです。ダンスとダンステクニック、カラダとダンステクニックはそれまで深く結びついていましたが、土方巽の出現によって、ダンスはそのようなダンス技術から解放された、というよりも、それ以前のところに引き戻されたと言わなければなりません。つまり、動きそのものの根元にダンスが立ち戻されたのです。これまでのダンスの前堤が一度、御破算になり、その時ダンス零年が始まったともいえるのです。もちろんそのことによって、それまでの様々なダンスの流れが消滅するわけではありませんし、土方巽の行ったことは、彼自身のダンス個人史に即して考えるならば、その動きの根元から、新しい身体様式が始まったことも事実です。しかし他のダンサーがその動きの根源に戻ることなく、そこで生み出された土方巽の「新しい様式的な動き」だけを受け取るというのは、それほど重要なことではありません。ダンスが前堤なのではなく、「動くことそのもの」が一体何なのかというところに、そして人間のカラダはなぜ動くのか、動きはどこからやってくるのかという、ダンサー主義の根本に今、ダンスが立っているからです。
ダンス・暴力・戦争―時代感覚
美術史家で東京芸術大学教授である伊藤俊治氏が、写真家の高橋恭司氏の写真集である。「津津と・・・異本ザ マッド ブルーム オブ ライフ」に次のような文章を寄せています。
「人間が世界を夢見ているのではなく、世界が人間を夢見ている。
写真は時としてそのような転移と変換を強く感知させるスクリーンになる。もしかしたらカメラは人間が世界からその存在の輪郭をそっとなぞられる道具なのかもしれない。世界が人間という淡い意識を瞬間的に夢見る媒介がカメラであり、その夢見られた印が写真となる。」(2012年)
この文章の「写真」という言葉を「ダンス」に、「カメラ」を「カラダ」に置き換えると、「世界」と「ダンス」と「カラダ」の係わりが、次のように浮き彫りにされてきます。
「人間が世界を夢見ているのではなく、世界が人間を夢見ている。
ダンスは時としてそのような転移と変換を強く感じさせるスクリーンになる。もしかしたら、カラダは人間が世界からその存在の輪郭をそっとなぞられる道具なのかもしれない。世界が人間という淡いに意識を瞬間的に夢見る媒介がカラダであり、その夢見られた印がダンスである。」
「私」という主体がこの世界の中で、「生きている」或いは、ひょっとしたら「夢見ている」という習慣的な感性に対して、世界が人間を夢見ているとするなら、戦争も殺人も社会生活も、すべての歴史の総体は世界が夢見ているスクリーンであると言えます。この時、ダンスが存在する理由は、人間をして、「私」という主体の奥深くに「世界」というもう一つの主体が存在し、それが単なる想像ではなく、「人間の動き」という、ひとつの現実としてそれを掲示することなのかもしれません。世界が歴史の主体であるという考え方は、プラトンのイデア論やヘーゲルのイデア哲学の永遠のテーマですが、この真の現実をリアルに人間が感じ取ることは、ほとんどありません。東日本大震災のような、人間の力を超えた巨大な自然力を前した時、ふと予感されるようなものです。ダンスはしばしばこのような世界意志を、身体運動という「出来事」の中に生じさせます。この「出来事」というのは、単なる現象的表れでなのではなくて、その瞬間に目に見える形で「世界が出現する」ということです。その歴史の主体としての世界が出現するためには、人間を通過するのではなく、カラダを通過し、カラダによって、世界の輪郭がなぞらえられることによってです。
「世界が人間という淡い意識を瞬間的に夢見る媒体がカラダであり、その夢見られた印がダンスである。」
歴史は一つの原因に対する結果が機械的に生じているのではなく、常にこの不可視の世界という主体意志が働いてるとするならば、その現場はカラダなのでしょう。ダンサーはこの言葉にならない世界意志を言葉にならない「「身体運動」という動作言語として語ります。ですから、どんなダンスの内部にも、時代意志というもの存在しており、それは踊っているダンサー本人にも全く気づかない形で空間の中に流れていきます。ダンサーは、人が自分の顔を一生眺めることができないように、自分自身の踊りを外側から眺めることは、決してできないのです。ですから、ダンサー主義的であろうと作品主義的であろうと、どのように世界が人間を夢見ているのかという内実に、ダンサー自身は直接触れることができません。ただそれを提出するだけなのです。野に咲く花がどれほど美しくとも、その美しさを知ることができるのは、人間だけであって、花自身は永遠にその美に触れることができないように。ダンサー自身は世界によって夢見られたその内実に触れることはできません。劇場とは、他者がそれを読み取る場であり、舞踊批評が存在するのは、ただ、この一点につきます。
障害者、病人、犯罪者、老人、子供、幼児そして、動物・植物・鉱物自然界のすべての動作がコレオグラフィーの対象です。つまり、動きの中に美醜、善悪、高等下等が無いのです。病院の中に、介護老人施設の中に、収容所の中に、死体置き場にこの世界意志が流れています。今日一冊の本を「書く」よりも1冊の本を「読む」ことの方がより重要な時代です。著者は常に一方的な想い、一方的なイマジネーション一面的な表出から自由ではありません。けれども、「読む」というのは、そのような個人性から離れて、自由にそれを読むことができるはずです。しばしば、著者にも読み取ることのできないものを、読者は読み取ることができます。このことはダンスにおいても、いえます。今は「踊ること」よりも「観る」ことの方が、ずっと重要です。そしてどんな「動き」からも最高の感動と美と世界意志を読み取ることができるからです。どんなつまらないダンス公演でも、そのカラダは時代意識を呼吸しています。たとえ、そのことを踊ってるダンサー自身が全く無意識であり、気がつかなくても、そのカラダから世界を「読む」ことができます。どんな暗号解読表にも載っていないダンサーの動きを、読み取る意志が必要なのかもしれません。
一方、「沈黙の動作」としてのダンスは、常に暴力に変化する可能態を有しています。そして事実、今日カラダは、たやすく暴力の道具と化しつつあります。戦争や殺人行為が自己表現になっているからです。世界がカラダを通して、暴力を夢見ているのです。その暴力性はいじめや無関心や差別意識や病的な甘えや功名心や不機嫌や虚栄心や独断や迷信や饒舌となって、世界と人間の橋であるカラダの中に浸透しています。この「透明な暴力」はたやすく戦争やテロの方向に流れて行きます。この傾向は単なる教育や道徳性や政治力によって、変えることができません。それは夢見る世界意志の中にまで繋がっているからです。外においては、他者のカラダを読み続けること、内においては、この透明な暴力性に立ち向かう、ダンスにおける個的な視座をもち続けたいと思います。
2016年 3月 17日

自爆テロは最終自己表現か 18

純粋な「祭り」としての太古の神聖戦争、それはほとんど今日文献としては、残っていないでしょう。けれどもそのような神々と人間との結びつきの中において行われた、この純粋な祭りとしての戦争が、まず人類の歴史の黎明に存在していたのです。天界の天火水地の中に占めるそれぞれの神々によって、地上の事柄が方向付けられます。いわゆる「神々の集会」です。けれども、そこにおいて、戦争という現象は生じません。そこにでは、一つの空間の中に無数の矛盾するものが共存し得るからです。けれども、この共存された空間の中にあるものを、地上に実現させようとすると、神々は人間に戦争を託すのです。なぜなら地上においては、決して一つの空間にはひとつの国、ひとつの神殿、一人の女性に対しては一人の男性しか結びつくことができないからです。例えば、これはすでに「キュプリア」等の文献の中で明らかにされているように、トロイア戦争はまず、神々の集会において、次のような決定がなされたことによって生じた、と述べられています。ゼウスの神は地上の人口があまりに増えすぎたために、それを調節しなければならず、そこで秩序の女神であるテミスと話し合いを重ねた結果、地上で戦争を起こさせ、そこで人間の大半を死滅させるに至らしめる決意をした、と述べられています。そこでどのようにこの戦争は地上において生じたかと言いますと、あるオリンポスの神々の婚儀の席に招待されなかった戦いの女神であるエリスは、怒って、この神々の座の中に黄金の林檎を投げいれ、この林檎を最も美しい女神に捧げるといいます。そこで、この林檎をめぐって、三人の女神であるへ―ラー、アテーナ、アフロディーテの間に激しい対立が起こりますが、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかを、地上のトロイアの王子パリスにゆだねるのです。これは神々による「演じられた悪」です。この「演じられた悪」におけるひとつのの林檎が、天上と地上の戦争の接点です。
天上で一つの林檎は神々に共有されますが、地上では、たった一人の人間しかそれを所有することはできないのです。そこでこの三人の女神は、それぞれパリスに「演劇的に」言い寄ります。へ―ラーは、パリスに世界を支配する力を、アテナはいかなる戦争にも勝利することのできる力を、そしてアフロディーテば最も美しい女性を与える、と約束するのです。パリスはこのアフロディーテの誘惑により、スパルタ王メネラーオスの妃ヘレネ―を奪い去って、トロイに戻ります。ギリシャのアカイア軍はヘレネ―を取り戻すために、十万の軍隊をトロイアに集結し、トロイ戦争が生じるのです。この戦争はその意味では、神々の人口調節の意図が戦争となって、地上に現れ、その間に、三人の女神の様々な「台詞」が飛び交います。これは神々と人間の両方において進められた戦争です。トロイ戦争の時代、神と人間は決して二元的に分離した存在ではなく、互いに心の中で、会話しながら生きていました。トロイ戦争は、神々と人間が一体となって行った戦争です。
けれども、このような文献としては残っていない、それ以前の神話的戦争においては、さらにこの神々と人間の結びつきは強く、そこにおいての戦争の勝敗はすべて神々に委ねられ、人間においては、全身でその戦いという行為に没頭するのです。いわば戦争はひとつの神々の意図を受け取るための、壮大な誓約(うけひ)なのです。勝利者には、その地に属する土地や財貨が与えられますが、それらの物的なるものが直接戦争の目的ではありません。結果としてそれを、人間は神からの贈り物として、受け取っているのです。これらの戦争においては両軍ともに、最前線のところで、始めに神声を発する女性軍団が神々からの言葉を受け取って戦争舞踊を舞い、その次に武器をとっての殺害です。この殺害は華々しい衣裳をともない、仰々しく残酷であればあるほど美しいのです。それは単なる殺害ではなく、「芸術化された殺害」です。
このことを考える上で私たちはまず、ジョルジュ・バタイユの戦争論について耳を傾けるべきでしょう。ジョルジュ・バタイユは戦争の本質は、政治的に勝つことのみを第一義的な目的とした暴力では決してなく、それ自身人間の本質であるエロティシズムの「祭りの側面」を有しているというのです。
「「クラウゼヴィッツは騎士道的伝統の軍隊に反対して、敵の力を容赦なく粉砕する必要を力説した。=戦争とは暴力行為であって、この暴力の行使は限界がないのである。=と彼は言う。全体的に見れば、このような傾向は旧派がいまだに郷愁を捨てきれずにいる儀式的な過去の時代から以後、徐々に近代世界において、勝利を占めつつあるといえる。」(ジョルジュ・バタイユ
著「エロティシズム」澁澤龍彦訳 二見書房)
確かに現代人が持つ戦争のイメージはクラウゼヴィッツ以降の政治的経済的な戦争のイメージで覆い尽くされています。そのようなイメージから古代的な、或いはクリシュナアルジェナ語ったような「祭りとしての戦争」は、深い無意識の地平の中に押しやられています。

自爆テロは最終自己表現か 17

祭祀において祀られるのは神であり、祀るのは、人間の側です。なぜならば、「祭り」は天と地との間の取り持ちであり、ここを祭ることができるのは人間だけです。このとき祀られる対象である神と結びついているプルシャと、祭りをとり行う側の人間にとってのプルシャのあり方は全く異なっています。プラクリティーに内在している天火水地の悪の可能態が四ヴァルナ制度によって、事実としての悪の変化し、そのことによって、戦争が無限に肯定された時に、人間はその高まりゆく暴力に対して祭ることのできる、もう一方のプルシャをまた人間の内部において、無現に積み上げていかなければならないからです。神々に結びついているプルシャは祭祀を必要としません。それは、プラクリティーと一体となっているプルシャです。その時、プルシャにとってプラクリティーが存在するかしないかは、問題ではないのです。ただ、そのプラクリティーは、プルシャを必要としています。そこには祭祀が存在しないからです。けれども人間にとって、知識の祭祀とはそのようなプルシャと一体となったプラクリティーを求める事ではなく、プラクリティーから流れ出る人間の殺人、戦争という暴力とプルシャを祭らなければならないのです。これは一体どのような意味でしょうか。
「クリシュナよ私は、判断を得た。私は疑惑を去り、確固としている。卿の言葉を私は実践しよう。」この言葉の具体的な内実は、戦争という暴力に対峙できる、プルシャのための祭祀が行われるということを意味しているのではなく、もはや一切の疑いを越えて戦争という暴力と自己を一体化することを意味しているのです。そしてこの戦争においてはもはや「勝つ」ということが目的ではなく、「戦争すること自体」に目的があるのです。すなわち、殺人や集団殺戮を行うことによって新しい領土を獲得することではなく、一切の行為の結果を捨てて、戦争という行為と自己が一体となることであり、それが祭りなのです。

自爆テロは最終自己表現か 16

天界における天火水地の「悪の可能態」が、地上において四ヴァルナ制 という「悪の事実態」に変化するということが、戦争の始まりであり、歴史の展開です。そこから、後世のすべての地上の戦争が生じたのです。アルジェナが述べるように「自分は戦争を欲しない、人を殺したくない」と言いながら、神々は「もう神我としてのプルシャの中においてはー彼らは死んでるーのだから、お前はクシャトリアとしての使命に目覚め、歴史を前に向けて推進させ、勇気をもって人を殺せ」と言うのです。これが戦争の始まりです。この時、アルジェナはやはりクリシュナが言うように、人を殺害しなければならなかったのでしょうか。もし神々の悪の可能態を事実へと推し進め、そこで能動的に戦争への道を切り開いていくとするなら、その時、アルジェナは何をしなければならなかったでしょう。神々の言葉を聞いて、クシャトリアの役割に目覚めることによって、大量殺害としての戦争が彼の中で許されたのでしょうか。バガヴァッド・ギ―タ―の最後において、クリシュナは次のように言うのです。
「知識の祭祀を持って崇められた者と  なろうというのが予の考えである。」それに対してアルジェナは次のように答えます。
「迷妄は退散し、卿のお蔭で、 クリシュナよ、私は判断力を得た。私は疑惑を去り、確固としている。卿の言葉を私は実践しよう。」
ここで述べている「知識の祭祀 」とはプルシャとプラクリティーの関わりを完全に知り、意識がすべての物質的なるものから離れているプルシャに存在する限り、どんなにプラクリティーにおける悪に関わっても、悪の事実態に人間が負けることはないというのです。ここでアルジェナが担わなければならないのは、次のことです。神々は、「プルシャからプラクリティーを眺めている」だけです。けれども、アルジェナはプラクリティーから流れる四ヴァルナ制度という地上の原則と、もう一方において、プラクリティーを消滅させる神我に移行しなければならないのです。完全に矛盾した事柄を、彼は引き受けなければならないのです。アルジェナは神々よりももっと困難な道を地上において歩み始めたです。このことを神々は、完全に知り尽くしているにもかかわらず、アルジェナにその困難な道をゆだねざるを得ないのです。
神々    プルシャープラクリティー
アルジェナ プルシャープラクリティーー四ヴァルナ制度(武士)
ここで私たちは、戦争というものは完全に矛盾した「天と地」に引き裂かれているものであるということを、理解しなければならないのです。戦争は「地上に堕ちていく」ほどに、「天上に昇らなければならない」つまり、戦争とは「天と地を祀る」ということに、根ざしているのです。戦争が勝ち負けのことだけを問題にするとするならば、決して殺人する必要はないのです。極端な言い方をするのは、「グーチョキパーのじゃんけん」で決めてもいいし、賭博や、或いはスポーツの勝敗によって決めても構わないことです。けれども戦争は、決して勝ち負けを直接、目的にしているのではありません。少なくとも、クリシュナが語った戦争とは「知識の祭祀」であるということです。

自爆テロは最終自己表現か 15

地上に四ヴァルナ制度が生まれる以前、すでに霊界において根本原質としてのプラクリティーから天火水地の四つの原理が生じています。けれどもそこでは、「天」からバラモン、「火」からクシャトリア、「水」からヴァ―イシャそして「地」からシュードラという人間的形態が現れる以前であり、その天上の天火水地自体は、「悪の可能態」であって、それが「悪の事実態」として現れるのが地上のヴァルナ制度においてです。けどもなぜ、ここで「悪」は可能態から事実態に変化するでしょうか。このことを一つの例でもって次のように語りたいと思います。天界には一つの空間の中に、ユダヤの教会もキリスト教の教会もイスラム教の教会も全く矛盾することなく、場を占めることが可能です。霊界という場所は、一つの場所に矛盾することなく、互いに対立するものを共存させる力が空間の中にあるのです。ですから、そこにおいて、たとえこの三つ教会における主張が異なっていて、そこに「戦いの可能態」がすでに存在しますが、そこに直接的な戦いが生じる必要性がないのです。それぞれ一つの空間の中で自立して、三つの教会を共存させることができるからです。それは地上においては、一人の人間と他者は別個の存在性を有しますが、霊界においては、他者は自分の内部に存在するということを、意味しているからです。このことは人間において、昼間の生活と夜の睡眠中の意識のあり方にも、反映されているといえます。例えば、二つの国が戦争をして、互いに殺し合ってあっているのは、地上的現実においてです。そこにおいて、戦争は、敵と味方にわかれ、破壊したり殺害するのは味方ではなくて、敵に対してです。けれども、この敵味方の関係は睡眠中は全く異なります。睡眠中は、カラダにおいて、右手が左手を破壊したり、心臓が肝臓を破壊したりするのと同じで、敵味方には分離せず、共存関係の中で生じます。ですからそこにおいて、敵を破壊する事は、自分が自分のカラダを破壊することです。戦争は霊界においては、自分が自分の一部を殺害することです。霊界において、悪がまだ事実態を有する以前においては、戦争という手段を用いることなく共存することが可能なのです。霊界においては対立物が一つの空間の中で共存してるのに対して、地上においては、一つの空間の中には、一つのものしかその場を占めることができない、この空間性の違いが悪を可能態から事実態にするのです。「今」という時間の中に、記憶以外で「昨日」という時間を共存させたり、Aいう場所に Bという場所を共存させたり、自己の中に他者を空間的に存在させることは出来ません。これがすべての悪を生じさせる根源です。霊界においてはユダヤ教寺院とイスラム教寺院が共存し得るのに対して、それと全く同じことを地上において実現しようとする時には、一つのものが他のものを排撃しなければなりません。もしそれを強硬しようとするならば、戦いが生じます。戦争とは霊界において実現しえた空間性を、地上において、直接実現しようとするときに生じる現象です。

自爆テロは最終自己表現か 14

梵天の中に宿る神我は、観照者、傍観者であって、宇宙の基盤をなしている霊体、魂体、肉体の三つの「体」を生み出している根本原質(プラクリティー)には一切、関わりません。三つの成分はプラクリティーから発生します。霊体から純質が、魂体から激質が、そして肉体から翳質が生じるのです。四ヴァルナ制度を生み出す元の力は、霊界においては天火水地ですが、この力は神々もそれに従わなければならない、仮象の根源を生み出しているのです。「原物質(プラクリティー)から生じたこれら三種の成分から解放されるような存在者は、地上にも、或いはまた、天上の神々の間にもいない」このクリシュナの言葉は、天において、神々も仮象に従わなければならない、ということを意味しているのです。梵天と共に働く神我、プラクリティーの変化には全くかかわらない神我から見る時、原物質プラクリティーとの関わりは、仮象との関わりなのです。けれども、それが仮象であるからといって、プラクリティーの活動を停止することは決してできないのです。神々はこのことを「天上の行為」として引き受けているのです。すなわち「悪を演じている」のです。神々が天火水地の働きに関わるのは、演じられた悪としてです。一方、人間がこれに関わる時には、「演じられたもの」ではなくて実体として受け取るのです。クリシュナがアルジェナに戦いを前にして語るのは、このことなのです。仮象であるプラクリティーの活動は、天火水地を生み出し、そしてその力を地上に流し、人間にこの仮象によって生じる悪の力を全部ゆだねようとするのです。

自爆テロは最終自己表現か 13

バガヴァッド・ギ―タ―が述べているのは、ただ次の一点だけです。この世界において「過ぎ去りゆくもの」と「永遠にとどまるもの」、この区別を、人間に立てられるか、という点においてだけです。そして、バガヴァッド・ギ―タ―において語られているのは、仮象の世界、見せかけの世界、演じられた世界は過ぎ去りゆくのであり、「留まるもの」とは、このマーヤを生み出した主体、すなわち神我(プルシャ)の内にあるものだけなのです。十八章で、再びこの仮象を越えるために三種の成分(グナ)について、クリシュナは次のように述べます。
差別されたものの中に無差別のものを認める、その知識を純質性のものと知れ。
他方、一切万物中に  各種さまざまの状態を、、
個別的に認知するその知識、、その知識を激質性のものと知れ。
しかし、根拠なく、一つの結果物に、あたかもそれが全体であるかのように執着し、
真相に関与しない,狭少な「知識」、それは翳質性のものといわれる。
純質性とは、記憶から全く解放された思考、歴史的な中で培われた記憶によって生じるものから全く自由な思考、自らが判断するのではなく、観察対象そのもの中から、認識内容が立ち現れてくる思考のことです。激質性とは、社会常識、記憶、固定した一般的な価値観、習慣的な思考に結びついたり、特定のイデオロギーから生ずるものの考え方です。翳質は、主観的な思考内容だけが絶対であり、他からやってくるところの思考を一切拒絶し、自分の内的な世界の中のみを現実と捉えています。これらの三つの成分は神聖なバガヴァットに由来するものであるけれども、これによって、世界がマーヤ、仮象に変ええられたのです。だから人間は覚醒した時に、この三つの成分を超えよ、とクリシュナはいうのです。けれども、クリシュナの言説の中で最も重要なのは、三種の成分を超えることによって人間が無行為になってはならないと言うのです。人間が地上でなすべきこと、その人間に与えられた行為を遂行しなければならない、たとえ世界がマーヤであっても、そのマーヤの中で身体の根本原質と結びついている義務を遂行しなければならないというのです。人間は抽象的に地上に存在するのではなく、一人一人の人間に与えられた、地上での役割というものがあるというのです。それが、古代インドにおいては、四ヴァルナ制度と呼ばれているものです。この四ヴァルナ制度についてクリシュナは、人間はこの三種の成分から 永遠に解放されなければならないけれども、しかし、この三種の成分は地上の宇宙的根源である「根本原質」から生じたものであって、この根本現実から解放されるものは天上の神々においても、いないというのです。
原物質(プラクリティー)から生じたこれら三種の成分から解放されているような存在者は、地上にも、あるいはまた、天上の神々の間にもいない。
祭官(バラモン)と武士((クシャトリア)と庶民(ヴァ―イシャ)と,並びに奴婢(シュードラ)主の、アルジェナよ、
行為は(おのおのの)の特性に  優勢な成分によって区別される。
ここで述べる根本原質(プラクリティー)とは、宇宙を一つの生命体として考えるならば、その生命の中に作用している生命法則のことです。そしてその法則には神々も支配を受けるというのです。もし宇宙にこの根本原質(プラクリティー)が働かないとするならば、宇宙は抽象的な理念に終わり、そこにに具体的な生命は現れてきません。ちょうど、眼に見えない神々の働きが眼に見える形を取るためには、地上の物質を必要とするように、根本原質は宇宙を一つの生命体に変えるための四つの力なのです。この四つの力とは天火水地(光・熱・水・土)の働きのことです。この四つの力は物質世界が存在しなくても神々の世界の土台をなしている四つの力です。そして、四ヴァルナ制度は、この四つの力から誕生したのです。
天  祭官(バラモン)
火  武士(クシャトリア)
水  庶民(ヴァ―イシャ)
地  奴婢(シュードラ)
天とは、宇宙を一人の人間と考えた場合の、「自我」にあたる存在です。宇宙のすべての運行の目的、方向性を担っている存在です。そしてこの「天」の働きを、具体的に運動に変えるときに、「火」の働きが生じます。その火をさらに具体的な個々の働きに向けて、動かしていくのが「水」の働きであり、「地」とは、それらを地上の世界に向けて、固定しようとする働きです。それらの個々の働きについてバガヴァッド・ギ―タ―では次のように述べています。
理論知、実践知、信仰は、(その)特性から生じた祭官(バラモン)の行為である。
勇敢、活気、堅忍、熟達  また戦闘において退却せぬこと、
施与、および支配的性格は、(その)特性から生じた武士(クシャトリア)の行為である。  
農耕と牧牛と商業とは、  (その)特性から生じた庶民(ヴァ―イシャ)の行為である。
また、奴婢(シュードラ)にとっては、奉仕的行為が、(その)特性から生じたものである。
そしてクリシュナはその根本原質から定められている行為をなすものは、決して罪に陥らないと述べ、そしてこの「生得の行為」はたとえ完全に遂行できす、欠陥があったとしても、放棄してはならないと述べるのです。クリシュナは次のごとく語ります。
アルジェナよ、汝ば「武士クシャトリア」という特性から生じる、自己の行為によって拘束されている。
何時が迷妄の故に、為したくないと思うことを、意志に反しても、汝は為すであろう。
主宰神は一切万物の 心臓の中に、アルジェナ、住まっている。幻術(マーヤ)によって、「人形を操る」器具につけられた(ような)万物を動き回らせつつ。
バガヴァッド・ギ―タ―が述べているのは、ただ次の一点だけです。この世界において「過ぎ去りゆくもの」と「永遠にとどまるもの」、この区別を、人間に立てられるか、という点においてだけです。そして、バガヴァッド・ギ―タ―において語られているのは、仮象の世界、見せかけの世界、演じられた世界は過ぎ去りゆくのであり、「留まるもの」とは、このマーヤを生み出した主体、すなわち神我(プルシャ)の内にあるものだけなのです。十八章で、再びこの仮象を越えるために三種の成分(グナ)について、クリシュナは次のように述べます。
差別されたものの中に無差別のものを認める、その知識を純質性のものと知れ。
他方、一切万物中に  各種さまざまの状態を、、
個別的に認知するその知識、、その知識を激質性のものと知れ。
しかし、根拠なく、一つの結果物に、あたかもそれが全体であるかのように執着し、
真相に関与しない,狭少な「知識」、それは翳質性のものといわれる。
純質性とは、記憶から全く解放された思考、歴史的な中で培われた記憶によって生じるものから全く自由な思考、自らが判断するのではなく、観察対象そのもの中から、認識内容が立ち現れてくる思考のことです。激質性とは、社会常識、記憶、固定した一般的な価値観、習慣的な思考に結びついたり、特定のイデオロギーから生ずるものの考え方です。翳質は、主観的な思考内容だけが絶対であり、他からやってくるところの思考を一切拒絶し、自分の内的な世界の中のみを現実と捉えています。これらの三つの成分は神聖なバガヴァットに由来するものであるけれども、これによって、世界がマーヤ、仮象に変ええられたのです。だから人間は覚醒した時に、この三つの成分を超えよ、とクリシュナはいうのです。けれども、クリシュナの言説の中で最も重要なのは、三種の成分を超えることによって人間が無行為になってはならないと言うのです。人間が地上でなすべきこと、その人間に与えられた行為を遂行しなければならない、たとえ世界がマーヤであっても、そのマーヤの中で身体の根本原質と結びついている義務を遂行しなければならないというのです。人間は抽象的に地上に存在するのではなく、一人一人の人間に与えられた、地上での役割というものがあるというのです。それが、古代インドにおいては、四ヴァルナ制度と呼ばれているものです。この四ヴァルナ制度についてクリシュナは、人間はこの三種の成分から 永遠に解放されなければならないけれども、しかし、この三種の成分は地上の宇宙的根源である「根本原質」から生じたものであって、この根本現実から解放されるものは天上の神々においても、いないというのです。
原物質(プラクリティー)から生じたこれら三種の成分から解放されているような存在者は、地上にも、あるいはまた、天上の神々の間にもいない。
祭官(バラモン)と武士((クシャトリア)と庶民(ヴァ―イシャ)と,並びに奴婢(シュードラ)主の、アルジェナよ、
行為は(おのおのの)の特性に  優勢な成分によって区別される。
ここで述べる根本原質(プラクリティー)とは、宇宙を一つの生命体として考えるならば、その生命の中に作用している生命法則のことです。そしてその法則には神々も支配を受けるというのです。もし宇宙にこの根本原質(プラクリティー)が働かないとするならば、宇宙は抽象的な理念に終わり、そこにに具体的な生命は現れてきません。ちょうど、眼に見えない神々の働きが眼に見える形を取るためには、地上の物質を必要とするように、根本原質は宇宙を一つの生命体に変えるための四つの力なのです。この四つの力とは天火水地(光・熱・水・土)の働きのことです。この四つの力は物質世界が存在しなくても神々の世界の土台をなしている四つの力です。そして、四ヴァルナ制度は、この四つの力から誕生したのです。
天  祭官(バラモン)
火  武士(クシャトリア)
水  庶民(ヴァ―イシャ)
地  奴婢(シュードラ)
天とは、宇宙を一人の人間と考えた場合の、「自我」にあたる存在です。宇宙のすべての運行の目的、方向性を担っている存在です。そしてこの「天」の働きを、具体的に運動に変えるときに、「火」の働きが生じます。その火をさらに具体的な個々の働きに向けて、動かしていくのが「水」の働きであり、「地」とは、それらを地上の世界に向けて、固定しようとする働きです。それらの個々の働きについてバガヴァッド・ギ―タ―では次のように述べています。
理論知、実践知、信仰は、(その)特性から生じた祭官(バラモン)の行為である。
勇敢、活気、堅忍、熟達  また戦闘において退却せぬこと、
施与、および支配的性格は、(その)特性から生じた武士(クシャトリア)の行為である。  
農耕と牧牛と商業とは、  (その)特性から生じた庶民(ヴァ―イシャ)の行為である。
また、奴婢(シュードラ)にとっては、奉仕的行為が、(その)特性から生じたものである。
そしてクリシュナはその根本原質から定められている行為をなすものは、決して罪に陥らないと述べ、そしてこの「生得の行為」はたとえ完全に遂行できす、欠陥があったとしても、放棄してはならないと述べるのです。クリシュナは次のごとく語ります。
アルジェナよ、汝ば「武士クシャトリア」という特性から生じる、自己の行為によって拘束されている。
何時が迷妄の故に、為したくないと思うことを、意志に反しても、汝は為すであろう。
主宰神は一切万物の 心臓の中に、アルジェナ、住まっている。幻術(マーヤ)によって、「人形を操る」器具につけられた(ような)万物を動き回らせつつ。

自爆テロは最終自己表現か 12

感覚世界ばマーヤである、そして、人間はすでに昔、神聖なバガヴァットによって、殺されたのである、人間は単なる外観上の殺戮者であるに過ぎない、人間が感受する感覚世界はその生においても死においても、「仮象」である、そして、それらの「仮象」はすべて神聖なバガヴァットによって、消滅させられる、カーラの中で、消え去っていく、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
これらの事がもし真実であるとするならば、この真実において人間を殺戮すること、何百万の人間を殺害することが正当化されるとするならば、一体それはどのような存在においてでしょうか。この真実の故に、人間の殺戮がもし許されるとするならば、何をもって、それが可能なのでしょうか。この神聖なバガヴァットのコトバによって、殺人が許されるのでしょうか。否、それは許される、許されないをすでに超えた、それが「仮象」であるがゆえに人間が人間を殺すとするならば、それは、いつの時代のことでしょうか。この神聖なバガヴァットのコトバによって、勇気をもって人を殺戮した人たちとは、一体どんな人物なのでしょうか。すべては虚妄なのでしょうか。神々は、現象世界をすべてマーヤにすることによって、人間がすべてを消滅させるカーラに一体となって、宇宙自我である「梵天」と一つになることを望んでいるのでしょうか。これが神々の望んでいる人間の本来の姿でしょうか。一体これは、古代の戦争に対する神々の言葉でしょうか。それともそれ以来連綿と人類の歴史の中に生じてきた、すべての戦争、植民地戦争や或いはそれに対する抵抗戦争や侵略や、そして現代に、これから生じるかもしれないところの第三次世界大戦も含めて、神々はこの言葉を人類に投げかけ続けるのでしょうか。一体いつの時代の戦争がこの言葉によって、正当化されるのでしょうか。「神が悪を演じている」ということは、人間がその「仮象」を克服することによって、「人間が悪を行う」ということが「人間そのものが悪を演じる」ことになるのでしょうか。その時に人間は「戦争を行っている」のではなくて「戦争を演じている」のでしょうか。すべて地上の出来事において、人間は、「仮象」に目覚めた時に、「演じるもの」として享受しなければならないのでしょうか。そして、「悪が演じられる」ということは、真実も同時に感覚世界においては、「演じられる」ということなのでしょうか。

自爆テロは最終自己表現か 11

自ら が幻術を生み出すことによって、人間に悪の事実性を行わせしめた後に、クリシュナは、その根源の姿を現します。
予は世界を滅亡せしめる時(カーラ・死)である。
諸世界を収斂するためにここに出現したのである。
たとえ汝がなくとも、敵陣に並び立つ
戦士らはみな生存し続けることはないであろう。
それ故に、汝は立て、栄誉をかちとれ。
敵を征服し、隆盛な王権を享受すよ。
ほかならぬ予によって、すでに昔、彼らは殺されたのである。
汝は単なる外観「上の殺戮者で」であれ、アルジェナよ、、、、、
またその他の勇士たちを、
汝は殺せ、おびえてばいけない。
戦え  汝は戦闘において敵を征服するであろう。
これらの神の言葉を、悪の事実体を生み出した人間の側から、どのように受け止めることができるであろうか。これらの言葉は妄想、幻術、仮象、鏡像を生じ、「悪を演じた神々」が世界に対する責任の取り方を述べているのである。つまり、神は諸世界を収斂するために存在する時間そのものであり、悪を演じた後に、人間によって作られた後の、実体化された悪のすべてを時間の中で、すくい取って、世界そのものを滅亡させる死である、と述べるのです。

自爆テロは最終自己表現か 10

人間におけるいかねる悪行も、知識によって越えられある、知識は一切の行為を灰に化することを述べた後、クリシュナはこの仮象の世界について次のように語ります。
これらの成分(グナ)からできている  三種の状態によって惑わされた
この全世界は、これらよりすぐれた、  不滅である予を認識しない。
成分(グナ)からできている、この神巧な  予の幻術(マーヤ)は越えがたいからである。
予ののみ帰依する人は、この幻術(マーヤ)をわたり超える。
迷妄に陥った悪行者たち、低劣なものでも予に帰依しない。  
幻術(マーヤ)によって知恵を奪い去られて、悪魔の状態に止住する。
悪は実体として存在するのではなく、悪を必要とする神々の創造において、必然的に生じる幻術、仮象、鏡像、それらを現実とみなすことによって、現実化されるのです。神々はこの世界の仮象化を完全に意識した存在です。世界に存在するいかなる鏡像をも、意図的に存在せしめた存在なのです。悪は神によって演じられたのです。そしてこの演じられた悪を、現実に変化せしめたのが人間です。だから、神々はこの世界の仮象化がに対して全責任を持った存在です。もしこの「演じられた悪」を初めから理解し、世界の仮象化を人間が意識していたとするならば、神々の創造行為は決して完成しません。なぜなら、人間も神々と全く同じ存在として存在するわけですから、その時、悪自体が成り立ちません。宇宙創造がなされるということは、人間によって、この演じられた悪を事実と受け取られなければならないのです。そして神々が背負うべき責任は、人間がこの神々によって「演じられた悪」を、事実と受け止めることによって生じる、すべての事柄に対してです。人間のなすべきことは、この「仮象の世界」という構造に対して人間が意識し、理解することができるのは、もうすでに悪の可能態が完全な事実性になってしまった後のことであり、その時、人間が如何に、この創造の完成としての悪の世界を前にして、それをいかに引き受けるかということです。そして、悪が完成するということは、宇宙が破滅するということです。人間がおかれた状況とは、演じられた悪を理解することなく、仮象の世界の中にとどまるならば、世界創造の完成の瞬間は、同時に世界の破滅であり、また人間がこの演じられた悪の本質を理解するのは、この世界崩壊の寸前である、ということなのです。そしてまさに現代がその瞬間です。

自爆テロは最終自己表現か 9

人性三分説の観点から考えるならば人間は霊と魂と体からなるものであり、純質・激質・翳質の働きは魂の三つの側面を表している。純質は、個的な欲望から解放された共感の働きに満たされています。激質は強い欲望と願望、共感と反感の二つに支配されています。翳質は「智」から離れ、本能と一体になった魂ですが、この三つの働きに支配されている限り、人間において、仮象と実象の区別をつけることは、全くできません。古代インドで発達したサーンキャ哲学は、まずこの三つの働きを人間が認識し、それを乗り越えた時に、その魂は神々の魂に結びつくことができると説くのです。そしてこの三つの成分の消滅は、知識による「祭き」よって完成される、とクリシュナ語るのです。
仮に汝がすべての悪人の中の最も悪業の者であるとしても、
ただ知識の舟によって、汝は、  一切の罪「の大海」を渡りきるであろう。
あたかも点せられた火が、  薪を   灰に化してしまうように、アルジェナ
知識という火も、同様に、一切の行為を灰にする。
何となれば、知識に匹敵する  浄化具はこの世に存在しないから。
人がこの三つの成分を乗り越えるには、布施や信仰や様々な祭儀を通してなされるけれども、それらにもまして「知識の祭き」にほど重要なものはない、と述べ、その一切をバガヴァッド・ギ―タ―は説き明かしています。この知識とは、物質の世界に法則が存在するように、心の世界にも毀つこぼすことのできない法則が存在し、それはコトバと結びついて、人間のすべての行為の中に染み込んでゆき、人間が行為の結果に束縛されることなく、その行為を神々の働きと、一つに結ぶのです。だから、クリシュナは、戦争において、「武士は戦え、殺せ、そして勝利を勝ち取れ」と、アルジェナを鼓舞するのです。戦争という人間の最も悲惨で残虐な行為も、火が薪を燃やすように、知識よって、それを浄化することができると語るのです。
ここでクリシュナは「戦争」という宇宙の現象に対して、最も重要なことを述べています。人間は戦争という出来事に対して、様々な思い、イメージを有しているが、ここで述べているのは、人間から眺められた戦争ではなく、神々から眺められた戦争です。そこでは人間的な感情や思い込みや記憶によってとらえられた戦争についての判断ではなくて、神々の「悪を必要とする創造行為」としての戦争です。それは、「悪の可能態」が「悪の事実態」に変容していく神々の行為が地上歴史の中に入って来る、ということであるとするならば、その具体的な出来事としての戦争は、決して宇宙から消滅しないかもしれません。けれども、その人間が神々の行為の一切の結果から自由になりうるためには、知識が必要であるというのです。
現在の歴史的な過程において、このような神々によって捉えられた戦争へついでの判断が正しいか否か、それを受け入れられるか否かということを、今は脇において、何故クリシュナがそのように語るのかを考えてみたいのです。現在、人間にとって、戦争というのは、人類最大の悲劇ですが、一方それは神々から人間に課せられた最大の挑戦状であり、人間はそれを克服しなければならないものとしてとらえているが、このような人間の判断における戦争は、人類の過去の長年にわたる歴史の中で培われてきた、思いや記憶の中から生じてきたところの判断です。けれども神々は、戦争を通して宇宙を創造するという、もう一方の思いがあります。私が思うに、バガヴァッド・ギ―タ―は、サーンキャ哲学を論じるために、このバタラ族の王位継承問題を取り上げたのではなく、サーンキャ哲学という「智の総体」と悪の結びつきを、このような仕方で述べているのだろう、と思うのです。ここで描かれているのは、バタラ族の王位継承問題という前堤の中で、サーンキャ哲学を語るのではなく、行為と超行為、戦争と超戦争という対立関係、さらに言えば、神の戦争から人間の戦争へ至る過程の中で、神々が人間に何を託しているかを、アルジェナとクリシュナの問答の中に流し込んでいるのです。
ここで最大の問題に突き当たります。確かに戦争は、神話の時代、神々によって始められたのは、事実です。そして、ここでクリシュナが述べているように、神は悪を必要とする創造行為を行っている事も、否定できない事実です。ですから、そのような戦争のとらえ方が正しいか正しくないかよりも、そのような事実がまずあるということに、私たちの目を向けなければならないのでしょう。神話の時代において戦争は、最高の祭儀です。天地は戦争によって開闢したのです。そして今、これら戦争を肯定する神々の言葉に対して、人間の側からいくらでも異議申し立てをすることはできるのですが、悪を必要とする創造の結果、現在の歴史や人間や文化が存在するとするならば、人類そのものは神々の戦争の落とし子といわなければなりません。ですから、今はまず、その事実が与える意味を解き明かし、それが現在の私たちにとって、戦争を如何にに判断し、それをどう方向づけ、それを判断していくかを、考えていかなければならないのです。

自爆テロは最終自己表現か 8

バガヴァット・ギ―タ―
バガヴァッド・ギ―タ―は、紀元前六百年から四百年くらいの間にかけて描かれたと言われている、古代最大の叙事詩マハーバーラタの中の十七章からなる「神の歌」であり、筑摩書房の世界古典文学全集において、辻直四郎の編で出版されました。ここに引用する文章はすべてこの筑摩書房版からです。
古代インドにおいて、バタラ族の王位継承問題に端を発して、戦争が繰り広げられることになり、敵味方にわかれるものの、王位継承問題のために、互いに親兄弟親戚等の、血を分けたもの同士の壮絶きわめる戦争です。
「神の歌」はこの血族同士の戦いを前にして、アルジェナは武士でありながら、戦意を失い、もはや戦うことを断念しようとするのですが、それに対して、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナは、「汝は武士の本分を忘れることなく、たとえ血族であっても勇気を奮って戦え、戦い抜け、そして行為することによってのみ、行為を超えよ」という、神と人間の問答形式で語られています。そこに描かれている内容は、古今東西の哲学的思弁を一挙に超える、神的想像力と叡智に貫かれています。短い問答形式でありながら、神々の創造の秘密、神々の内部から立ち現れてくる能動的な創造力と、それらを取り囲んでいる仮象の世界との関わり、目に見える世界の中で立ち現れてくる、様々な妄想や論理や疑いを、一挙に超える道徳的想像力に満ち満ちています。
ここでは神が人間にコトバの鞭を打ちながら、「戦え・ば殺せ・立て・負けるな・戦争の中で汝は汝を乗り越えよ」と言うのです。まず、アルジェナは武器を取っての戦争を前にしながら、次のようにクリシュナに言います。
「戦おうとして目近くに立つ  この同族を見ては、クリシュナ
わしの手足は力を失い、  口もまた涸れはててしまう。
・・・・・・わしは立っていることができない。  わしの心はよろめくようだ。
そしてわしにはめでたくない  兆しが見える、クリシュナよ。
戦さにおいて同族を  殺して吉祥は予見されない。
わしは勝利を望まない、クリシュナ・・・・・・・・
彼らが(わしを)殺すとも、クリシュナ  彼らをわしは殺したくない。」
ガンジーの「無抵抗主義」にも通じるような、人間的なアルジェナの言葉に対して、クリシュナは、次のように言う。
「難事に際してこの弱気は、  どこからあなたに近づいてきたのか。・・・女々しくなってはいけない、アルジェナ  それはあなたにふさわしくない・・・卑小な心の弱弱いしさを  うち捨て去って、立たれよ  アルジェナ」
こうして二人の問答は始まるのですが、この「神の歌」は歴史的な戦争においてなされた対話ではなく、神々が宇宙創造を始めるた時の「仮象」「悪の可能態」と神の能動的な創造力との戦い と見なければなりません。それは、バガヴァッド・ギ―タ―全体を貫いている神々の 「智」です。この人間的な、「戦争をしたくない」、という心の働きと、「戦い抜け」という神の言葉は、人間のほうが善であり、神々の方が悪なのです。神は徹底的には「悪」を装っているのです。バガヴァッド・ギ―タ―における神は、戦争に関して「悪」の側に立って、人間に人間であることの本分を気づかせようとするのです。クリシュナはさらに続けて次のように言います。
汝は嘆くの要のないものについて嘆いた。  しかも思慮あるような言葉を語る。
死者のことをも生者のことをも、  見識ある人々は嘆きはしない。
しかし、実には、予はかって  存在しなかったことはない。汝も、ここにいる王たちも。
また、我々はみな、これから後  存在しなくなることもない。
クリシュナが始めに語るのは、人間には生も死も始めから存在しない、という一元世界であり、これをバガヴァッド・ギ―タ―では「神我」(プルシャ)と呼んでいます。「神我」というのは、一切の物質的なるもの、感覚的なものから離れた、すべてのものを「観る」だけの働きです。この働きの中には、すでに生も死も存在しないけれども、人間の本質はこの「観照者」の中にあると語ります。さらに、
こ「の個我」は生ずることなく、  あるいはいつか死ぬこともない。一旦存在した後に、  また存在しなくなることもない。
不生、恒存、永遠の、  この太古より存するものは、
たとえ身体が毀損されても、  毀損されはしないのである。不生、不滅のこ「の個我」を  滅びず恒存すると知る人、その人は、アルジェナ  いかにして、  誰に殺さしめ、  誰を殺すか。
このクリシュナが語る「個我」とは、宇宙自我のことです。人間の本質はこの宇宙自我と同じであり、一旦存在するならば、決して消滅することはなく、殺されたり殺したりするという現象は、「限りなくそのように見える」仮象なのだ、アルジェナ、それに気づけ、というのです。クリシュナがここで語るのは、人間よ、その仮象を超えるならば、戦争しつつ戦争を、行為しつつその行為を超える、というのです。クリシュナがアルジェナに語るのは、お前はこの宇宙の「絶対矛盾」を引き受けなければならない、お前が弱気で単なる善の中に引きこもるならば、もっと大いなる悪にお前は引き渡されるであろう、というのです。「万物においては、初めは顕現せず、人間が知っているのは、その中間だけであり、そして終わりもまた、顕現しない、神はその始まりと終わりを知っている。人間はその中間だけしか知らないのだ。けれども、地上において真に生きようとする時には、この始めと終わりの顕現してないところに、至ろうとしなければならない、と言うのです。
それ故に、一切万物について、汝は嘆くべきではない。
さらに、自己の義務を考慮しても、汝ばおののくべきではない。
武士(クッシャトリア)にとっては、義務付けられた  戦争に勝るものは無いからである。
クリシュナが神そのものとして語り始めるのは、十二章以降ですが、すでにここにおいて、述べられている「正統なる戦争」は、現代的な言い方をするならば、国際法によって定められるのではなく、神的な根拠をがあると述べているのです。
この神的な根拠とは、宇宙創造の「根本的な矛盾」の中に、根を下ろしています。悪が存在しなければ宇宙創造、歴史は動かないという矛盾律が前提になっているのです。そしてこの矛盾律を引き受けるのは、 神の側ではなく、人間の側なのです。人間は仮象を実相と捉えており、
それらを乗り越えるものとして、バガヴァッド・ギ―タ―は、ここからサーンキャ哲学の内容に入っていきます。するとバガヴァッド・ギ―タ―全体は、サーンキャ哲学を描写するために描かれた「神の歌」であることがわかります。
ヴェーダは三成分(グナ)から、できているものも対象とする。三成分(グナ)できているものを離れよ  アルジェナ
グナとは仮象を実象に変える三つの成分のことであり、サーンキャ哲学ではそれを純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・翳質(タマス)といいます。クリシュナはこの三つの成分について第十四章で、次のように語るのです。
純質(サトヴァ)は無垢であるから、  照明し、患いのないものである。幸福への執着によって、また、アルジェナ  知識への執着によって束縛する。  
激質(ラジャス)は、欲望を本質とし、 渇愛と執着から生じると知れ。
それは行為への執着によって、アルジェナよ、  個我を束縛する
しかし  翳質(タマス)は、無知から生じ、  一切の個我をまどわすものと知れ。
不注意、怠惰、睡眠によって、  それは束縛する。  アルジェナよ。
純質は幸福に、激質は行為に、執着せしめる、アルジェナよ。
他方、翳質タマス)は、知識を蔽って、不注意に、実に、執着せしめる。
純質(サトヴァ)は、欲望からも記憶からも自由であり、あらゆる行動の根底に認識する力が働いています。激質(ラジャス)は強い共感と強い反感が存在し、認識を破壊するほどの強さがあります。翳質(タマス)は無知と感覚の眠りが強く働いています。アルジェナはこの身体から生じた三成分(グナ)が消滅するとき、個我は出生、死亡、老年、苦悩から解放されて、不死に到達するのだと語るのです。この純質・激質・翳質は人間の魂をひたすら純化することによって、仮象から実体へ移行しようとするのですが、同時に、その正反対の方向から、殺人を肯定する神々の声が宇宙に響き渡るのです。

自爆テロは最終自己表現か 7

マニ教は紀元後三世紀頃ササン朝ペルシャに生じ、ユダヤ教やキリスト教またグノーシス派等の世界観も結びついた二元論的宗教です。それは光と闇、善と悪、霊と物質等の二つの原理によって世界が支えられており、そこでは善と同様に悪そのものに、一つの自律した存在が、与えられています。
キリスト教の玄義である父と子と聖霊の三位一体において、「父」は、古代的な律法の世界との結びつきを、「子」なるイエス・キリストにおいては、信仰の世界と結びつき、「聖霊」はキリストが昇天した後に、世界に与えられたキリストに替わる救済の力を表していますが、マニは自身をこのキリスト亡き後のパラクレートと考えていたのです。このパラクレート存在とは、全く新しい「魂」の力を人類史の中にもたらすという意味を持っていますが、その存在のことをマニは、「寡婦の子」と呼んだのです。すなわち、自分にはもはや父はいない「やもめの子」であるという意味です。ここで言う「父」とは宇宙を導く霊の働きのことですが、パラクレートとしての「寡婦の子」においては、もはや宇宙を導く霊は直接、人間に働くのではなく、魂の中に自分自身の自我と結びついた救済の力が生じるという意味です。この救済の力としての自我は「自律した悪」に向かうことができます。それは悪を自身の内から、消去するのではなく悪と完全に対峙し続ける事によってです。マニ教が語る伝説とは、そのように光の国と闇の国が存在し、対峙しあっているのですが、光の国は満ち足りていて、そこには善だけが存在しています。この光の国に始めに戦争しかけたのは、闇の国ですが、闇の国は光の国を征服することができず、その結果、闇の国は光の国によって罰を受けることになったのです。その罰とは宇宙から闇の国を葬り去ることではなく、光の国はその光の一部分を闇の国に投げ込み、闇が光の中を生きるという無限の試練が与えられたです。この闇にまじった光の中から人類が生じました。ですから、ここで人類が担った課題とは、悪と完全に融合することによって悪を克服するという試練なのです。悪は解放されなければならないのですが、それは闇の国が自身を克服することによってです。そしてこのことがマニ教においては宇宙創造と人間の歴史の無限の過程なのです。
私たちは外的対象を一つの実体として眺め続け、それによって、一切の人生を形成していますが、その限りにおいて、創造は決して始まらないのです。外界のすべてが仮象であって、その仮象に向かって、常に内なる能動的な力が働き続けることによって、そこに宇宙創造の無限の熱が現れるのですが、この無限の「悪の可能態」としての仮象の世界が、悪の事実態にまでもたらされるというのが、宇宙創造の現実です。それに意味において、マニ教の伝説は、過去の伝説ではなくて、現在進行形なのです。
あの人間は限りなく犯人のように思えるが、犯人ではない、、、
これは限りなく生きているように見えるが、死んでいる、、、
神のように美しいが、神ではない、、、
悪の働きの根源とは、この仮象の世界を実体にすりかえる力です。私たちの人生、歴史、文化、自然界の中には限りなくこの仮象が実体として存在し続け、その事を基盤にしてしばし私たちは生きる目的や根拠を作り出しているのです。そして、進んでこの無限に「そのように思える」仮象の中にとどまろうとするのです。そしてこの無限の積み重ねの結果、「悪の可能態」が完全な「悪の事実態」に移行していくことによって、神の創造行為は一つの極へ向かって無限に高められていくのです。これは神々が人間に与えた最高の挑戦状のようなものかもしれません。神々が宇宙創造の始まりに自身を取り囲んでいる「悪の可能態」としての「仮象の世界」に対峙し続けることによって、「創造の熱」を生み出したように、現在、人類が新しい「公転」を始めようとするならば、マニ教的な天地開闢の時間を今、この日常生活の中に持ち込まなければならないのです。もし世界が完全に一元的であるならば、人間は、いかなる悪をも行いうる可能性を有しません。どんな悪も善にしかならないのです。反対に、宇宙が完全に二元的で善悪が対峙し続ける限りにおいて、人間は悪を選ぼうが善を選ぼうが、それはどちらでも同じです。完璧な二元論に絶対的な価値を決定することなどできないからです。
けれどもマニ教が一元論であるか、二元論であるか、三元論であるが、それは、どうでもいのです。人間の「能動的な働き」とは、思想の一切を宇宙的事実から生み出すのではなくて、自分自身の内部から生み出すことができるからです。人間は二元論を一元論にする力があります。一元論であっても反対に二元論として、人間を組み立てることができます。もはや、人間の思想は外界に依存する必要は全くないのです。自身の内部から、何を生み出すかだけです。その意味において、たとえマニ教が完全な二元論を展開しているとしても、人間がその善悪二元論をカラダにどう引き受けるかだけが問題なのです。それは全能なる神が「可能態としての悪」に向かいつつ、その能動性が外界に全く依存していないのと同じです。例えばルドルフ・シュタイナーはマニ教のこの二元論を、次のようにとらえています。もし宇宙が善の一元世界であるならば、破壊も悪も破滅も存在せず、永遠の光だけです。もし人間がその光の王国の中に、そのまま創造されたとするならば、人間に、神が行ったのと同等の言葉の力、宇宙創造力を移転させることなど決してできないのです。そこで神は何を行ったか・・・・・・・・・神は永遠の悪を「演じ続けた」のです。神は永遠に「悪の仮面」をつけ続けたのです。神は悪を演じ続けることによって、人間に宇宙創造の力を伝達した、というのです。「悪の劇場宇宙」・・・これを仕組んだのが神々であるというのです。もし、人間がこの悪の演劇構造に目覚めなかったとするなら、宇宙はそのまま奈落に落ちてゆくでしょう。悪はもともと実体としては存在し得ない「虚」のものです。善は外側に何者も依存しない能動性に満ちた存在です。すべてのものを「内部から」創造するのです。そして悪が善と同じく「能動性」を持ち得るとするならば、それは、「可能態としての悪」なのです。「演じられた悪」なのです。善はそれ自体では停止しています。宇宙の創造においては、「演じられた悪」が先に活動を始めることによってのみ、光は活動することができるからです。光だけでは活動できないのです。その虚構を実の悪に変えてしまってのは、人間です。ですから、マニ教の善悪二元論を、人間のカラダを通して描こうとするならば、「全能」と「演じられた悪」の二つなのです。そして、この事を古代インドにおいて、壮大な叙事詩として描いているのが、「バガヴァッド・ギ―タ―」です。

自爆テロは最終自己表現か 6

けれども、外世界が「虚」の存在であるとしても、家が火事になれば住むところありませんし、怪我をすれば痛いし、自然災害が生じるならば、それは私たちの社会や人生全体にとって膨大な影響力をもたらします。ですから、外的世界は「虚存在」だ、などとは言ってられないのです。人生にとってそんなことは、どうでもいいのです。私たちがこの世に生まれ、生きていくということは、紛れもなく外的世界の中で生じるのです。すべてのリアリティは、この外的世界から私達に与えられるのです。衣食住のすべてのリアリティは、外から私達もたらされるものです。すでに述べたように、もう一方に内的イマジネーションを通しても、リアリティを能動的に生み出すことはできます。今日、人はパソコン内部のバーチャル空間の中で、第二の人生を作ることができ、、そこでも外界と同じような意識のリアリティを作り出すことができます。同じように、私たちは自分の体の内部で イマジネーション だけの内的な、第三番目の世界を有しています。そして今日多くの人々は、むしろこのコンピューター内部のバーチャル世界よりも、自分の内部の イマジネーション世界の方に、より強いリアリティ思ってることも事実です。
ここで次のような問いを立ててみたいのです。
外的世界は、つき詰めならば、虚の世界かもしれないけども、リアリティが外界から来るものによって常に与えられる場合と、同じように外界の中に生きるわけですが、常にその時にそこで生じることが、虚の出来事であるということを意識し続けているている場合、そこにどのような違いがあるのでしょうか。両者において、経験する内容を同じなのですが、一方は「虚」であることを問題視しない場合と、他方では、
常に「虚」であること意識続ける場合です。このことは理屈で考えるよりも、実際に十分間でも、外界が「虚」であることを意識し続ける時に、自分の体の中で何が生じるかを観察してみればいいのです。けれどもそれを始めるには、大きな障害があります。冒頭で述べまたように、「人が歩いているのを見る」ということは、その人が自分のカラダの中を歩いているのではなく、それを表象としてのみ受け取っているにもかかわらず、私たちは、海外の出来事を「虚」とは考えられず、自分の表象と同じものが外界に「在る」に違いないと確信しているからです。ですから「虚」であることを前提にするのではなく、外的な一つの対象が何であるかを、十分間とことん問い続けることをしてみるとき、一体何が生じるでしょうか。その時に、次のことを行う必要があります。そこに一切の前堤となるもの、社会的常識、記憶、思い込み、それが自分の体の外にあるのか、内であるかなどという判断を一切除外して視るみる、という十分間です。とても「虚」の存在には至らないでしょうけれども、一切の「前提」を外して見るときに、そこで何がカラダの中に生じるでしょうか。それは熱です。血液の中を流れる熱です。なぜ、その時、熱が生じるのでしょうか。それは固まった記憶が溶け始めるからです。例えば、人間の体には様々な臓器がありますが、肺は始めから肺として形成されたのではなくて、魚類が両生類をへて、陸上の脊椎動物に変わっていくときに形成されたものです。ですから、人間の肺は、人間の進化の過程をそこに封印した一個の器官です。人間の体のすべての器官、心臓や肺や眼球等の物質的形態の中には、それが形成されるに至るまでのすべてが、エネルギーとして、込められているのです。けれども、それが一つの形態をとってしまった時に、そのエネルギーは硬化した器官に変化してしまいます。同じように、私たちが有している記憶や社会常識や思い込みは、すべて記憶を形成するエネルギーが硬化したものです。それはかつて無限のエネルギー生命力であったものが記憶としての形態化したものです。通常の日常生活において、内部の表象がそのまま対象物として外に実現されていると考えるとき、そのような記憶のエネルギー化は決して生じません。なぜなら、内と外において、完全に平衡が保たれ、外的対象と内的表象が硬く結びついているからです。けれども、外的対象物から一切の記憶思い込み前堤を外していくうちに、外的対象物そのものがそれとともに、限りなく変容するのです。そしてそれはいつしか外的対象物から「虚」の存在にまで変化していきます。その「虚」の存在はその瞬間に、人間の元から有している能動的リアリティ、イマジネーションを通してリアリティを内的に形成する力と融合するのです。そしてこの瞬間に生じていることは、全能なる神が宇宙創造を始める瞬間に、立ち会うことなのです。
この瞬間は「可能態としての悪」が神々の宇宙創造と関わる最重要な瞬間なのです。そして、そのことは、人間の日常生活における対象と表象との関わりを、嘘偽りなく見つめ続けることによって、獲得することができる、人間にとっての最高の認識瞬間なのです。この瞬間をもう一歩深めて、叙述してみたいともいます。
人間は外的世界が存在しなくても、神々や死者たちがそうであるように、自分自身の内部から「能動的に存在のリアリティ」を生み出すことができます。この存在の能動性は人間の本質と深く結びついているものです。けれども、この能動性がある一つの「具体的なイマジネーション」を形成するためには、始めに、実体としてのイマジネーションではなくて、その虚体がなければなりません。始めに存在の能動性をイマジネーションにおいて形成するのは、実体ではなく、その「虚」の存在なのです。実体の周囲を「虚」の存在が取り囲み始めることによって、イマジネーションは内部から能動的に立ち現れてきます。日常生活において外側の対象と内側の表彰が完全に結びついている時には、表象は常に受動的に外側から人間に与えられます。けれども、このことが生じるのは、表象と同じものが外界に実体して存在するという人間の習慣的な感性での中でのみ、現れてくるものです。そして、対象についてのすべての思い込み、前堤、記憶を消去することによって、対象そのものもの本来の姿である「虚体」の存在が出現するに従って、イマジネーションは能動的に存在の内部から立ち上がり、そして「虚」の存在と一体となる
です。そしてこのことは神々な宇宙を創造する最初の瞬間の再現なのです。
全能なる神は、宇宙創造以前において、すでにすべての存在を能動的に生み出す力を内部に持っています。けれども、宇宙創造という、一つの運動を始めるということは、全能性の中に存在する「悪へのか可能態」が動き始めるからなのです。完璧な全能であるならば、もはや創造することすらできません。創造するということは、すでに「全能ではないもの」が動き始めることです。全能であることそのものの中に存在する、「非全能への可能態」、すなわち「悪への可能態」が動き始めることによってのみ、神々は創造行為を行うことができるのです。初めに動き始めたのは、「悪の可能態」です。
神々による宇宙創造が始まる以前に、宇宙には、「虚偽の 霊」 と「真実の霊」の二つが存在していました。「真実の霊」はひたすら能動的で創造的力であり、何物にも欠けることなく、自足して宇宙に存在する力です。それに対して「虚偽の霊」とは、空間の中に一本の線を描いて一つの領域を「指示する力」「暗示する力」です。「悪の可能態」が始めに活動を始めるのは、この「虚偽の霊」としてです。宇宙とは、決して何者によっても分断することのできない力に満たされています。ですから、その真実に満たされた空間の中に、分断された空間を生み出すことは本来できないのです。けれども、虚偽の霊 は、宇宙空間の中に、あたかも地球それ自体には緯度経度という線は、存在しないにもかかわらず、世界地図の中にそれを描くような働きをするのです。その線が円を描いたとしますと、本来宇宙には、内も外もないのですが、あたかもその円によって宇宙に内と外が生まれるかのように見える、そういう働きをするのです。この虚偽の霊 は、真実の霊よりもはるかに高次の霊です。なぜなら、このことを「鏡」の譬えで考えてますと、次のように言えます。鏡は本来それを映し出す実体が先にあって、そのあとにその鏡像が生まれるのです。けれども、この高次の虚偽の 霊は逆なのです。初めに鏡像が存在し、その鏡像の力によって、実体が働き始めるのです。全能の神はこの虚偽の霊によって造られたのではありません。けれども、この虚偽の霊が働かないと、全能の神は一切創造を行うことがなく、ただ自足して不動な状態にあるのです。この虚偽の 霊は、「映し出された鏡像」なのではなく、あたかも「自律した鏡像」であるかのように働き、それによって全能なる力が鼓舞されるのです。
この悪の可能態は悪の事実態として働くのではなく、あたかも「悪の実体であるかのごとく」働きます。それはちょうど私たちの日常生活において、外的対象があたかも「実体」としてそこにあるかのごとく、存在するのと全く同じなのです。私たちは外的対象が実体として存在していると習慣的に感じていることを、「悪の可能態」などとは考えません。けれども、外的対象物を実体と考えること自体、すでに人間は悪の可能態の中に没入させられているのです。私たちは日常生活全体が悪の可能態の中にすべて吸収されているとは決して考えません。しかし外界は、「無限に実体のように見える」という仮象の世界なのです。「虚」でありながら、限りなく「実」として存在しているのです。その時、全能なる神は何を行ったのでしょうか。神は何にも依存することのない能動的な創造力と「虚の世界」を結合したのです。どのように、、、。どうしても実体としか見えない仮象に、対峙し続けたのです。一瞬も仮称の世界、虚の世界の中に、神々は吞み込まれなかったのです。虚であることを見続けたのです、感じ続けたのです。その虚の力を、創造の中に永遠に取り組み込み続けたのです。もし、全能の神が悪の可能態である虚を、実と捉えた瞬間に、宇宙は崩壊するでしょう。神の能動的な創造力と虚の世界が結合した時、永劫の熱が生まれたのです。宇宙は熱宇宙となったのです。そしてこの熱が人間の血液の熱、体温の大元を作ったのです。人間がこの結合の中から、出現したのです。

自爆テロは最終自己表現か 5

      鏡像
あなたが今一つの空間の中にいて、眼の前に大勢の人の歩いている姿を見ています。あなたがそれを知覚することができるのは、 眼 という感覚器官を通してです。当たり前のことですが、その大勢の歩いてる人が「生身のまま」で、あなたの体の中を通過することによって、あなたはその大勢の人の姿を、リアルなものとしてとらえているのではありません。あなたが受け取っているのは 、眼という感覚器官を通して、その姿を内的に知覚しているだけです。けれども、あなたが知覚しているものとは別に、具体的に生身の大勢の人間が眼という感覚器官の向こうを歩いている、ということも事実です。こうして感覚器官で知覚するということは、人間を内部と外部に完全に分断し、分裂させてしまいます。実際のところ、私たちは目の向こう側を歩いている、大勢の人たちの「存在そのもの」を、じかに確認しているわけではないのです。たとえそれを確認しようとして、それらの人々を手で触れてみたところで、それは、触角という感覚器官が働くだけであって、それらの人々そのものの存在では決してありません。それらの人々から何がしかが香ってきたとしましても、それは、その存在そのものではなく、嗅覚という感覚器官が働いているに過ぎません。人間は決して「外界それ自体」を、一度も見たことも聞いた事も触れたこともないのです。外界は常に感覚の向こう側に、あたかも永遠の謎かであるかのように、たゆだっているに過ぎません。生まれつき完全な盲目の人が存在するように、もし生まれつき完全に触角が働がない人間がいたとするなら、たとえ、その人は視覚や嗅覚が健全に働いているとしても、決して内界と外界を分けることはできません。目の前にある樹と自分の手を区別する事はできないのです。感覚が働くということは、同時そこに「感覚についての意識」が働きます。ですから、私たちは眼の前の「人の姿」を見ているのか、眼の前で「人の姿という意識」を見ているのか、判別つかないのです。「床」を見ているのか「床という意識」を見ているのか、「星空」を見ているのか、「星空という意識」を見てるのか、わからないのです。にもかかわらず、私たちは感覚を通して、そこにリアルな「床」や「星々」や「人間」という意識を有することができるのです。このようなリアルな意識は具体的な「床」や「星々」や「人間」に基づくものではなく、それらがバーチャル映像であろうと、さして変わりません。非常に精密な映像を通しても、そのようなリアルな意識を生み出すことができるわけですから。さらに、そのようなリアルな意識は、具体的な出来事やバーチャル映像に全く依存しなくても、自律的にカラダの中で生み出すことができます。つまり イマジネーション を通しても、そのようなリアルな意識は体の中に創造されます。このように、リアルな意識は外的な、具体的出来事をとうしても、反対にヴァーチャルなものを通しても、或いは、イマジネーションを通しても、形成されるわけです。そして私たち人間生活をしている時に、この三つの事柄をそれほど明瞭に分離しているわけではありません。
どうかこの三つの出来事を、一切の妥協を排して、徹底的に観察してください。そうすれば、そこに神々の創造の大きな秘密を解き明かすに違いありません。第1の場合は、物質と感覚器官との係りにおいて生じます。第2の場合は、感覚器官と表象を通して生じます。そして第3の場合にはイマジネーションとそれを受け取る自我との間において生じます。そして、そこにおいて共通しているのは、「リアルな意識」ということです。第1の場合のリアルな意識は自分で生み出したものではなくて、常に外界から「受動的」に与えられたものとして生じます。第2の場合には、感覚が表象と一体となって現れてきます。そして第3の場合には、すべて自分自身の内部でイマジネーションを形成することによって、自分の内部そのものから「能動的」に現れてきます。第1の場合には所与のものとして、第2の場合には、自然に生み出されるものとして、第3の場合には、能動的に形成されるものとして生じるのです。この三つのものの結びつきを理解する事を通して、神々の創造行為の核心に触れることができるのです。とりわけ、全能なる神が存在することによって生じる、「可能態としての悪」と、その悪を通して神々がいかに宇宙創造を行い、人間形成にまで至ったのかということが理解されるのです。人間の何気ない日常生活の中の中において、神々の創造行為と同等のものが、常に生じているのです。
これらのことは人間においても、一般動物とりわけ脊椎動物においても生じますが、その違いはそこに自我の働きが介入してるか否かということです。自我はその働きにおいて、非常に微妙であり、多様性に富んでいます。自我は自我そのものに働きかけることによって、「無我」にもなります。また、自我は無我と共存することができ、無我はしばしば自我を非常に強めることができ、反対に、自我そのものが、無我のありようを無限に変容させることができるのです。自我は欲望と結びつくことによって、すぐに利己主義的にもなりますし、その欲望が自分自身のためではなくて他者のために働こうとすると自我は利他主義的にもなります。ライオンや犬のような個々の動物そのものの中には、人間と同等の自我は存在しませんが、けれども、それらの動物は、同じ種の存在として、共通の群れの魂としての群魂を有しています。この群魂を通して通して、一つの種の動物においては、一つの共通の自我が働いているのです。このことは人間においても、共通です。個々の人間はそれぞれ固有の自我を持っていますが、同時に動物が一つの群魂を持っているように、群魂としての全体自我も有しています。違うのは動物においては、群魂だけが働くのに対して、人間は個体自我と群魂を共有することができます。
ここで再び、外界と内界が外的対象と表象に、感覚器官を通して分断され、分離している第一の意識について考えてみます。勿論、人間は、それを決して分離した状態とは考えておらず、ごく自然に表象と外的対象は、一致しているという前提のもとに生活してるわけです。けれども、この分離を明瞭に意識してしまった人間にとっては、ある瞬間から外的世界に生きること生きること全体が、すべて内界の出来事として、引き受けるべきであるという、大きな選択の前に立たされます。そこでは社会も大自然か宇宙もすべて自己の内部世界です。そして人間は決してこの感覚の向こう側の、いわゆる「物自体」をリアルに捕まえようとすると、一つの虚構の世界の中に入り込んでしまいます。その時、その外的対象は、そこに存在しているのではなく、「限りなく存在しているかのように思える虚存在」の姿を現し始めます。汽車が走る二本のメールが彼方のところであたかも、一点に重なっているように思える時に、その点を掴もうと思って走り始める人間のような感覚です。外的対象はそれを掴もうとすれば常に遠のいてゆく存在です。それは青空のブルー色を掴もうとするのと、同じです。あの青空のブルーはどこにも存在していません。ただ、ブルーが実体として空に存在しているかのように思えるのです。人間を取り巻く外界は、それを掴もうとするならば、常にそのような虚存在なのです。

自爆テロは最終自己表現か 4

神々は単に、自己のすべてを人間の中に、歴史の中に、大自然の中に流出することによって、創造行為を行ったのではありません。神は自己の中に、「悪の可能態」を無限に拡大していくことによってのみ、創造行為を実現することができたのです。そこには、悪に対して、神々の最も意識的で、意図的で、意志的な働きが存在しています。天地創造の結果、やむを得ず、悪が生じてしまったのではないのです。まして、悪というものは、神々の中には存在しなかった、悪はただ物質の世界、霊界ではなく、感覚的な世界に人間が存在することによってのみ、現れてきたのだ、というのは、根本的な間違いです。人間が物質的な感性、物質的な満足を追い求める結果、悪が生じたのではないのです。神々は純粋無垢な光だけの存在である、神々は一切の汚れがなく、無垢で悪の可能態に触れた存在ではなく、それは完璧な全能なる存在として、一切の悪を消滅させる力である、その神々の光が地上に射してきたとき、人間が立ったその大地に黒々とその影が生じた、悪とはそのように人間が物質世界に立つことによってのみ、生じたのだと、と考えるとき、悪の根源にまでには決して至りません。悪は地上で生まれたのではなく、霊界において誕生したのです。そもそも、神々の根本的な創造行為そのものは、悪の無限の可能態を事実態に変えることによってのみ、生じたのです。神は自己の全能の中に、眠り続ける存在ではありません。神は全能であることそのものが、すでに「存在が不在を可能態として含む」ように、全能が「非全能の可能態であること」すなわち、悪の可能態を有していることを、自己の全能性以上に知り尽くした存在です。
ですから私たちは、悪の根源に至ろうとするならば、一切の肉体的な存在と物質的な存在を消去させ、感覚を超えた世界に悪そのもの実態をイメージすることができなければならないのです。悪が物質世界から自立した存在であるということを知らなければならないのです。このことは同時に、人間そのものの全体性にいえることです。人間は、決して唯物的な肉体そのものがすべてなのではなく、この肉体の中には、神々がその中に封印した、すべてのものが存在しています。そこでは霊的なるもの、魂的なるも、四大元素霊や物質世界そのものを生み出すことのできる神霊的力が体の中に封印されているのです。宇宙に存在するすべてのもの、庭園、樹の幹や枝枝が、物質的なるものと一体となって肉体を構成しています。ですから、悪が一切の肉体的なものから離れた、超感覚的な世界において自立した存在であるということを認識することは、自分自身の存在そのものが肉体から自由な、霊的、魂的に自立した存在であることを確信できなければならないのです。
神の全能は宇宙に存在するすべての物の内部にあって、一なる存在であること、大宇宙を一つの球形に例えるならば、その一なる球形が全宇宙と融合していることです。一が全なのです。そして神の有する「悪への可能態」とは、この「一が全であること」」の中に存在しています。なぜなら、そこには「一が全でない可能態」生じるからです。この全体から離れた一が利己主義を生じるのです。すべての悪は利己主義から生じます。人との間の、ささいな争いからに、世界大戦に至るまで、すべての破壊的な悪は、利己主義から生じます。そして悪を克服できるのは利己主義を克服することに以外ありません。そして、利己主義と利他主義が一切の矛盾を越えて、完璧に融合した存在が神なのです。神以外にこの利己主義と利他主義を宇宙的に完璧に融合した存在は、ありません。どんな人間といえども、この二つは完全に融合することができないのです。なぜなら、利己主義には、無限の悪を生み出すす力が存在するからです。人間にはこの無限の悪を克服する力はありません。ただ、その克服に向けて、無限に努力し続ける存在でしかないのです。ここで重要なのは、神は利他主義の存在ではないということです。そうではなくて利己主義と利他主義を矛盾なく融合させる無限の力をもった存在であるということです。利己主義なしに、神たり得ることは決してありません。なぜならば利己主義なしには、悪を生み出すことも悪を宇宙創造の力に変えることも決してできないからです。

自爆テロは最終自己表現か 3

もし,神々この完全な光輝、完全な共感、完全な自由、完全な純粋性、破壊することもできないダイヤモンドよりも硬い砦を守り続けたとするなら、罪性は決して生じることなく、神はただ神であり続けたに違いありません。けれども,そこでは決して宇宙創造は行われません。宇宙創造を行うということは、この完璧な神性の中に罪性を担うことであり、更にその罪性を被造物の中に流し込んで封印することなのです。けれども、罪性、悪そのものは一体どのように生じたのでしょうか。このことを考える上で二つの概念を考えなければなりません。それは、「可能態」と「事実態」という概念です。「悪が生じる」ということは、悪が一つの事実として宇宙の中に「働く」ということです。けれども、「可能態」というのは、そこに悪そのものが生じているのではなく、無限に「生じ得る」可能性が存在するという意味です。この可能態としての悪はすでに宇宙を創造する以前の、神の完全性の中に存在しています。この「悪の可能態」を消去することは、神の完全性そのものが消去することを意味しています。可能態はある一つのものが存在すると同時に、生じるのです。「存在する」ということは「不在」ということを可能態としては、すでに有しているのです。そこで「不在という可能態」を消去することは存在そのもの消滅させること、を意味しています。神が創造するということは、この悪の可能態が悪の事実態へと変化していくことでもあります。宇宙が進化発展するということ、歴史が動き始めるということ、人間が誕生し成長するということは、すでにこの悪の可能態が事実態に変化していくことです。宇宙が誕生するということはすでに宇宙が「崩壊する」ということを意味しているのです。事実、天地創造というのは、悪の始まりでもあるのです。母親の胎内に誕生するということは、もうすでに同時に胎児の中で、破壊活動が始まってるのです。

自爆テロは最終自己表現か 2

始めに、どうかこのことを深く認識してください。神々による宇宙創造とは、被造物の中における自己封印であるということを。そして、神々はこの庭園と樹の幹と枝と果実の中に、自己の何一つ残らずすべて封印したということを。闇も光も、暖かさも冷たさも、悪も善も、時間も空間も、高さも低さも、過去も未来も、眠りと目覚めもすべてこの中に封印したのです。しかし何故、神々は創造行為を行わなければならなかったのですか。それは神々も人間と同じく、自己実現を果たさなければならないからです。自己の内部に眠っているものを、外に取り出さなければならないのです。そしてそれは被造物を作り出すことによってのみ、実現されるものです。創造することによってのみ、神は神たりえるのです。神々は決して完全に満ち足りた存在ではなく、創造するということは、覚醒するということであり、その覚醒ば無限覚醒に向かっての飛躍です。そしてこの「無限覚醒」とは、単に、ここに眠っているものを、揺り動かすだけではなく、それは同時に「眠り」を作り出すことであり、その作り出し「眠」の中で、再び新たに覚醒するのです。無限に覚醒を作り出すのです。神々が担ったこの無限覚醒に向けての飛躍。それはいかなるものによっても、償うことのできない宇宙的罪性。目覚めるということは、無限に罪性を引き受けることなのです。
創造物 に自己を封印するということは、被造物がその罪性を引き受けることです。「罪性への目覚め」はすでに大宇宙が生まれた瞬間、庭園全体に流れ込んだのです。そして、それは幹と枝におてさらに深められ、人間であるところの果実の中に入って、その最終形態を生じたのです。その罪性は、幹や枝においては決して実現されない、人間においてのみ生じる「悪の極北」です。この悪の顕現と引き換えに、神々は天地開闢を行いました。もし、この庭園全体を覆っている自己封印が解かれないとするならば、神々は被造物とともに、宇宙の奈落に落ちていくに違いありません。天地開闢は決して、予定調和の世界ではないのです。神々はこの「自己封印」に何かを、賭けたのです。
宇宙創造を始める以前の神は、一万個の太陽よりも光り輝く存在であり、すべてのものに無償の愛を注ぐ、共感共苦の魂であり、それは一万個の太陽よりも暖かく、そしてその運動性において、真空よりもやわらかい自由を有し、その純粋性において、雪よりも純白で、欲求、欲望、エゴイズムの片鱗もなく、そして神々の意志はいかなるものによってもこぼつことのできない、ダイヤモンド以上の硬質さに満ち満ちでいます。太陽よりも光り輝く意識の明瞭さ、いかなる苦しみも、共感に変えることのできる魂の豊かさ、真空よりもやわらかい魂の柔和さ、赤ん坊が 母親によせる雪よりも純白な信頼、悪より身を守るダイヤモンドよりも硬い砦。