地上に四ヴァルナ制度が生まれる以前、すでに霊界において根本原質としてのプラクリティーから天火水地の四つの原理が生じています。けれどもそこでは、「天」からバラモン、「火」からクシャトリア、「水」からヴァ―イシャそして「地」からシュードラという人間的形態が現れる以前であり、その天上の天火水地自体は、「悪の可能態」であって、それが「悪の事実態」として現れるのが地上のヴァルナ制度においてです。けどもなぜ、ここで「悪」は可能態から事実態に変化するでしょうか。このことを一つの例でもって次のように語りたいと思います。天界には一つの空間の中に、ユダヤの教会もキリスト教の教会もイスラム教の教会も全く矛盾することなく、場を占めることが可能です。霊界という場所は、一つの場所に矛盾することなく、互いに対立するものを共存させる力が空間の中にあるのです。ですから、そこにおいて、たとえこの三つ教会における主張が異なっていて、そこに「戦いの可能態」がすでに存在しますが、そこに直接的な戦いが生じる必要性がないのです。それぞれ一つの空間の中で自立して、三つの教会を共存させることができるからです。それは地上においては、一人の人間と他者は別個の存在性を有しますが、霊界においては、他者は自分の内部に存在するということを、意味しているからです。このことは人間において、昼間の生活と夜の睡眠中の意識のあり方にも、反映されているといえます。例えば、二つの国が戦争をして、互いに殺し合ってあっているのは、地上的現実においてです。そこにおいて、戦争は、敵と味方にわかれ、破壊したり殺害するのは味方ではなくて、敵に対してです。けれども、この敵味方の関係は睡眠中は全く異なります。睡眠中は、カラダにおいて、右手が左手を破壊したり、心臓が肝臓を破壊したりするのと同じで、敵味方には分離せず、共存関係の中で生じます。ですからそこにおいて、敵を破壊する事は、自分が自分のカラダを破壊することです。戦争は霊界においては、自分が自分の一部を殺害することです。霊界において、悪がまだ事実態を有する以前においては、戦争という手段を用いることなく共存することが可能なのです。霊界においては対立物が一つの空間の中で共存してるのに対して、地上においては、一つの空間の中には、一つのものしかその場を占めることができない、この空間性の違いが悪を可能態から事実態にするのです。「今」という時間の中に、記憶以外で「昨日」という時間を共存させたり、Aいう場所に Bという場所を共存させたり、自己の中に他者を空間的に存在させることは出来ません。これがすべての悪を生じさせる根源です。霊界においてはユダヤ教寺院とイスラム教寺院が共存し得るのに対して、それと全く同じことを地上において実現しようとする時には、一つのものが他のものを排撃しなければなりません。もしそれを強硬しようとするならば、戦いが生じます。戦争とは霊界において実現しえた空間性を、地上において、直接実現しようとするときに生じる現象です。