天界における天火水地の「悪の可能態」が、地上において四ヴァルナ制 という「悪の事実態」に変化するということが、戦争の始まりであり、歴史の展開です。そこから、後世のすべての地上の戦争が生じたのです。アルジェナが述べるように「自分は戦争を欲しない、人を殺したくない」と言いながら、神々は「もう神我としてのプルシャの中においてはー彼らは死んでるーのだから、お前はクシャトリアとしての使命に目覚め、歴史を前に向けて推進させ、勇気をもって人を殺せ」と言うのです。これが戦争の始まりです。この時、アルジェナはやはりクリシュナが言うように、人を殺害しなければならなかったのでしょうか。もし神々の悪の可能態を事実へと推し進め、そこで能動的に戦争への道を切り開いていくとするなら、その時、アルジェナは何をしなければならなかったでしょう。神々の言葉を聞いて、クシャトリアの役割に目覚めることによって、大量殺害としての戦争が彼の中で許されたのでしょうか。バガヴァッド・ギ―タ―の最後において、クリシュナは次のように言うのです。
「知識の祭祀を持って崇められた者と なろうというのが予の考えである。」それに対してアルジェナは次のように答えます。
「迷妄は退散し、卿のお蔭で、 クリシュナよ、私は判断力を得た。私は疑惑を去り、確固としている。卿の言葉を私は実践しよう。」
ここで述べている「知識の祭祀 」とはプルシャとプラクリティーの関わりを完全に知り、意識がすべての物質的なるものから離れているプルシャに存在する限り、どんなにプラクリティーにおける悪に関わっても、悪の事実態に人間が負けることはないというのです。ここでアルジェナが担わなければならないのは、次のことです。神々は、「プルシャからプラクリティーを眺めている」だけです。けれども、アルジェナはプラクリティーから流れる四ヴァルナ制度という地上の原則と、もう一方において、プラクリティーを消滅させる神我に移行しなければならないのです。完全に矛盾した事柄を、彼は引き受けなければならないのです。アルジェナは神々よりももっと困難な道を地上において歩み始めたです。このことを神々は、完全に知り尽くしているにもかかわらず、アルジェナにその困難な道をゆだねざるを得ないのです。
神々 プルシャープラクリティー
アルジェナ プルシャープラクリティーー四ヴァルナ制度(武士)
ここで私たちは、戦争というものは完全に矛盾した「天と地」に引き裂かれているものであるということを、理解しなければならないのです。戦争は「地上に堕ちていく」ほどに、「天上に昇らなければならない」つまり、戦争とは「天と地を祀る」ということに、根ざしているのです。戦争が勝ち負けのことだけを問題にするとするならば、決して殺人する必要はないのです。極端な言い方をするのは、「グーチョキパーのじゃんけん」で決めてもいいし、賭博や、或いはスポーツの勝敗によって決めても構わないことです。けれども戦争は、決して勝ち負けを直接、目的にしているのではありません。少なくとも、クリシュナが語った戦争とは「知識の祭祀」であるということです。