バーバラからの手紙

ニューヨークから戻って数日後、フライブルクに住むバーバラからパック郵便が届いた。開けると、中から木綿の大判のハンカチ3枚(淡いブルーと白の格子の地に濃紺の小さな花をあしらったもの。青と白を基調にした幾何学模様のもの。白地にバイエルンの民族衣装を着た子どもの刺繍がしてあるもの)とカードが出てきた。いかにもバーバラ好みの清楚なものばかりだ。カードには、ブルーブラックのインクで、バーバラのおしゃべりがそのまま文字になっているような筆跡のドイツ語がびっしりと並んでいる。やれやれ、私はドイツ人ではないのよ、と心の中で彼女に文句を言いながらも、私はベッドにひっくり返って、文字から聞こえてくる彼女の声に耳を澄まし、文面を何度も何度も眺めていると、まるで曇りガラスが透けてきたように、書いてあることが見えてきた。
「今年の夏フライブルク町は、 die Dirude-Mode(バイエルン地方のファッション)が大流行り。それで首に巻くハンカチを多く見かけたのよ。その度にあなたがいつも首に布を巻いていたのを思い浮かべ、あなたがニューヨークに行く時とか、ローマに来る時に、どんなのがいいかしらと思ってね・・・」書いてある。ニューヨークから帰国した後だから、ちょっと間に合わなかったけど、私がニューヨークに行くことを、バーバラはどうして分かったのかしら? 続いて「夏の間息子家族と一緒に過ごして、少々くたびれて・・・」と愚痴をこぼしながらも「私、去年の秋から今まで、イラン、アフガニスタンから逃れてきたの難民の親子(母と娘と男の子3人)の援助をしたのよ。世界のおおきな課題ですもの。その親子にとっては、ここは全く新しく、無条件に異なった暮らしですからとても大変。その上、母親は36歳、その長女は22歳!!これから、彼女たちはどのように生きて行くのかを思うと、私はとても耐えられなかったわ。でも、母親と娘と3人の男の子たちは、困難にとても勇敢に立ち向かっていったわ。今では、彼らがどこにいるか誰も知らない。難民との接触は禁じられているから。だから私は、全て上手く行きますようにと祈るしかできないの」そして最後に私たち家族に向かって「楽しい時でも、苦しい時でも、いつもしっかりと立っているように—あなたがたがいつもそうであったように—その光は天のためにあり、我々の目はその光のためにある」と結んだ。
1980年4月、私たち一家が国分寺から、当時西ドイツのシュトゥットガルト市イゾルデクルツ通り52番地にやってきた時、お向かい住んでいたのがバーバラだった。私たちがドイツから帰国して30年以上経った今でも、たとへば、国分寺駅前を歩いている時に、突然私の脳裏にピピッとバーバラのことが過ると、その日の晩、リリーンと電話が鳴り「ヒサコ、バーバラよ」と、明るく懐かしい声が飛び込んでくる。不思議なことに、そんなことが度々起こる。
私にとってバーバラは、一番遠くにいて、一番近くにいる友。さあ頑張って、ドイツ語で手紙の返事を書こう。