『Müßige Gedanken』ー閑な思想ー

ティーファクトリーから来春の一月公演 川村毅 構成・演出「ヘルマン」のお知らせを頂いた。
チラシに「なぜ、今、ヘルマン・ヘッセかー ぼくの魂の、ほんとうの居場所を探してる」とあり、麿赤兒さんが出演………場所は吉祥寺シアター。これは面白そう………観にいきたい………いや観に行こう………あきらの公演『魔笛』も終っているし………ハンディーキャブを予約すればいけないことはない。嬉しい予定!

わたしがヘッセの詩と出会ったのは、昭和37年5月にみすず書房から上梓された片山敏彦訳『ヘッセ詩集』。
『ヘッセ詩集』が本屋に並んだ直後、300円で購入した。当時、詩を読む習慣があまりなかったわたしが、ヘッセの言葉になぜか惹かれ、今でも………そう。

「閑な思想」    

やがていつか、これらはすべてなくなるのだ。
愚かしく天才的な 数々の戦争も
敵の中へ悪魔のように吹きつける毒ガスも コンクリート製の沙漠もそして
荊の刺ではなく針金の緻密な刺を持っている森、数えきれない人間が
苦しみに顫えながら倒れている死の揺籠
たくさんの智能を絞り おびただしい骨折を支払って案出され
無数の卑劣な機智を用いて編み作られた死の大網
地の上に 空中に 海の上に張られた死の大網ーやがてこれらはなくなるのだ。
それらのものがなくなったとき 山々は青空に聳え
星々は 夜毎に光るだろう。
双子座・カシオペア・大熊座
それらは悠々といつまでも運行をくり返し
樹の葉 草の葉 朝露の銀にきらめいて
明けゆく日に向かい 緑の色を増すだろう。
そして永久に吹く風の中で わだつみは
巌と 蒼白い砂丘へと 幾重の波を打ち寄せる。
しかしそのとき 世界歴史はもうすんでいる。
血と痙攣とごまかしとの莫大な大河とともに
ほら吹きの世界歴史は
濁った塵芥の流れのように消え失せて
世界歴史の数々の表情は消え
その限りない貪欲も静まり 人間が忘失される。

われらが心をこめて魅惑的に
われらが倦むことを知らず数多く発明した
心を奪う珍奇ないろいろな代物も その時には 忘れられる。
編み作ったわれらの詩
従順な地球の周りに われらの愛が刻みつけたすべての形象
われらの神々や聖所や清祓の式
そしてABCも「一かける一」も その時にはすでにない。
われらの大オルガンのフーゲが与える神々しい大歓喜も
ほっそりと鋭い塔をもつわれらの堂宇も われらの書籍や絵も
言語も 童話も 夢も 思想も
そのときにはもはやなく 地にはもうどんな光輝もないだろう。
おぞましいすべてのもの 美しいすべてのものの没落を
静かに見まもった創造者は
すっかり空(くう)になった地上を永らく見つめる。
晴れやかに 彼をめぐって星々の
円舞の歌が鳴りひびき 星々の
きららかな光の中を ささやかな
われらの地球は陰鬱な地球として泳ぎつづける。
思いに耽り創造主は そこばくの粘土を取って捏ねる。
再び彼は 一人の人間を造るだろう。
彼に祈る一人の小さな息子
その笑いと仕草と七つの道具とに
創造主は 楽しみを賭ける。
その指は嬉しげに意のままに粘土を捏ねる。彼は喜びながら 形(かたち)を作るのだ。

上記の詩は、「ヘッセ詩集」(みすず書房刊)の冒頭にあげられている。訳者の片山敏彦の「序にかえて」によると、第二次世界大戦たけなわ以前にスイスに住むヘッセから直接に送られてきた「Müßige Gedanken」を訳したものだという。

19歳の私がこの詩を読んだ時、ヘッセの言葉がどれだけ私のこころに響いただろうか。
それから79歳の今もなお、私のこころにヘッセは住んでいる。