自爆テロは最終自己表現か 6

けれども、外世界が「虚」の存在であるとしても、家が火事になれば住むところありませんし、怪我をすれば痛いし、自然災害が生じるならば、それは私たちの社会や人生全体にとって膨大な影響力をもたらします。ですから、外的世界は「虚存在」だ、などとは言ってられないのです。人生にとってそんなことは、どうでもいいのです。私たちがこの世に生まれ、生きていくということは、紛れもなく外的世界の中で生じるのです。すべてのリアリティは、この外的世界から私達に与えられるのです。衣食住のすべてのリアリティは、外から私達もたらされるものです。すでに述べたように、もう一方に内的イマジネーションを通しても、リアリティを能動的に生み出すことはできます。今日、人はパソコン内部のバーチャル空間の中で、第二の人生を作ることができ、、そこでも外界と同じような意識のリアリティを作り出すことができます。同じように、私たちは自分の体の内部で イマジネーション だけの内的な、第三番目の世界を有しています。そして今日多くの人々は、むしろこのコンピューター内部のバーチャル世界よりも、自分の内部の イマジネーション世界の方に、より強いリアリティ思ってることも事実です。
ここで次のような問いを立ててみたいのです。
外的世界は、つき詰めならば、虚の世界かもしれないけども、リアリティが外界から来るものによって常に与えられる場合と、同じように外界の中に生きるわけですが、常にその時にそこで生じることが、虚の出来事であるということを意識し続けているている場合、そこにどのような違いがあるのでしょうか。両者において、経験する内容を同じなのですが、一方は「虚」であることを問題視しない場合と、他方では、
常に「虚」であること意識続ける場合です。このことは理屈で考えるよりも、実際に十分間でも、外界が「虚」であることを意識し続ける時に、自分の体の中で何が生じるかを観察してみればいいのです。けれどもそれを始めるには、大きな障害があります。冒頭で述べまたように、「人が歩いているのを見る」ということは、その人が自分のカラダの中を歩いているのではなく、それを表象としてのみ受け取っているにもかかわらず、私たちは、海外の出来事を「虚」とは考えられず、自分の表象と同じものが外界に「在る」に違いないと確信しているからです。ですから「虚」であることを前提にするのではなく、外的な一つの対象が何であるかを、十分間とことん問い続けることをしてみるとき、一体何が生じるでしょうか。その時に、次のことを行う必要があります。そこに一切の前堤となるもの、社会的常識、記憶、思い込み、それが自分の体の外にあるのか、内であるかなどという判断を一切除外して視るみる、という十分間です。とても「虚」の存在には至らないでしょうけれども、一切の「前提」を外して見るときに、そこで何がカラダの中に生じるでしょうか。それは熱です。血液の中を流れる熱です。なぜ、その時、熱が生じるのでしょうか。それは固まった記憶が溶け始めるからです。例えば、人間の体には様々な臓器がありますが、肺は始めから肺として形成されたのではなくて、魚類が両生類をへて、陸上の脊椎動物に変わっていくときに形成されたものです。ですから、人間の肺は、人間の進化の過程をそこに封印した一個の器官です。人間の体のすべての器官、心臓や肺や眼球等の物質的形態の中には、それが形成されるに至るまでのすべてが、エネルギーとして、込められているのです。けれども、それが一つの形態をとってしまった時に、そのエネルギーは硬化した器官に変化してしまいます。同じように、私たちが有している記憶や社会常識や思い込みは、すべて記憶を形成するエネルギーが硬化したものです。それはかつて無限のエネルギー生命力であったものが記憶としての形態化したものです。通常の日常生活において、内部の表象がそのまま対象物として外に実現されていると考えるとき、そのような記憶のエネルギー化は決して生じません。なぜなら、内と外において、完全に平衡が保たれ、外的対象と内的表象が硬く結びついているからです。けれども、外的対象物から一切の記憶思い込み前堤を外していくうちに、外的対象物そのものがそれとともに、限りなく変容するのです。そしてそれはいつしか外的対象物から「虚」の存在にまで変化していきます。その「虚」の存在はその瞬間に、人間の元から有している能動的リアリティ、イマジネーションを通してリアリティを内的に形成する力と融合するのです。そしてこの瞬間に生じていることは、全能なる神が宇宙創造を始める瞬間に、立ち会うことなのです。
この瞬間は「可能態としての悪」が神々の宇宙創造と関わる最重要な瞬間なのです。そして、そのことは、人間の日常生活における対象と表象との関わりを、嘘偽りなく見つめ続けることによって、獲得することができる、人間にとっての最高の認識瞬間なのです。この瞬間をもう一歩深めて、叙述してみたいともいます。
人間は外的世界が存在しなくても、神々や死者たちがそうであるように、自分自身の内部から「能動的に存在のリアリティ」を生み出すことができます。この存在の能動性は人間の本質と深く結びついているものです。けれども、この能動性がある一つの「具体的なイマジネーション」を形成するためには、始めに、実体としてのイマジネーションではなくて、その虚体がなければなりません。始めに存在の能動性をイマジネーションにおいて形成するのは、実体ではなく、その「虚」の存在なのです。実体の周囲を「虚」の存在が取り囲み始めることによって、イマジネーションは内部から能動的に立ち現れてきます。日常生活において外側の対象と内側の表彰が完全に結びついている時には、表象は常に受動的に外側から人間に与えられます。けれども、このことが生じるのは、表象と同じものが外界に実体して存在するという人間の習慣的な感性での中でのみ、現れてくるものです。そして、対象についてのすべての思い込み、前堤、記憶を消去することによって、対象そのものもの本来の姿である「虚体」の存在が出現するに従って、イマジネーションは能動的に存在の内部から立ち上がり、そして「虚」の存在と一体となる
です。そしてこのことは神々な宇宙を創造する最初の瞬間の再現なのです。
全能なる神は、宇宙創造以前において、すでにすべての存在を能動的に生み出す力を内部に持っています。けれども、宇宙創造という、一つの運動を始めるということは、全能性の中に存在する「悪へのか可能態」が動き始めるからなのです。完璧な全能であるならば、もはや創造することすらできません。創造するということは、すでに「全能ではないもの」が動き始めることです。全能であることそのものの中に存在する、「非全能への可能態」、すなわち「悪への可能態」が動き始めることによってのみ、神々は創造行為を行うことができるのです。初めに動き始めたのは、「悪の可能態」です。
神々による宇宙創造が始まる以前に、宇宙には、「虚偽の 霊」 と「真実の霊」の二つが存在していました。「真実の霊」はひたすら能動的で創造的力であり、何物にも欠けることなく、自足して宇宙に存在する力です。それに対して「虚偽の霊」とは、空間の中に一本の線を描いて一つの領域を「指示する力」「暗示する力」です。「悪の可能態」が始めに活動を始めるのは、この「虚偽の霊」としてです。宇宙とは、決して何者によっても分断することのできない力に満たされています。ですから、その真実に満たされた空間の中に、分断された空間を生み出すことは本来できないのです。けれども、虚偽の霊 は、宇宙空間の中に、あたかも地球それ自体には緯度経度という線は、存在しないにもかかわらず、世界地図の中にそれを描くような働きをするのです。その線が円を描いたとしますと、本来宇宙には、内も外もないのですが、あたかもその円によって宇宙に内と外が生まれるかのように見える、そういう働きをするのです。この虚偽の霊 は、真実の霊よりもはるかに高次の霊です。なぜなら、このことを「鏡」の譬えで考えてますと、次のように言えます。鏡は本来それを映し出す実体が先にあって、そのあとにその鏡像が生まれるのです。けれども、この高次の虚偽の 霊は逆なのです。初めに鏡像が存在し、その鏡像の力によって、実体が働き始めるのです。全能の神はこの虚偽の霊によって造られたのではありません。けれども、この虚偽の霊が働かないと、全能の神は一切創造を行うことがなく、ただ自足して不動な状態にあるのです。この虚偽の 霊は、「映し出された鏡像」なのではなく、あたかも「自律した鏡像」であるかのように働き、それによって全能なる力が鼓舞されるのです。
この悪の可能態は悪の事実態として働くのではなく、あたかも「悪の実体であるかのごとく」働きます。それはちょうど私たちの日常生活において、外的対象があたかも「実体」としてそこにあるかのごとく、存在するのと全く同じなのです。私たちは外的対象が実体として存在していると習慣的に感じていることを、「悪の可能態」などとは考えません。けれども、外的対象物を実体と考えること自体、すでに人間は悪の可能態の中に没入させられているのです。私たちは日常生活全体が悪の可能態の中にすべて吸収されているとは決して考えません。しかし外界は、「無限に実体のように見える」という仮象の世界なのです。「虚」でありながら、限りなく「実」として存在しているのです。その時、全能なる神は何を行ったのでしょうか。神は何にも依存することのない能動的な創造力と「虚の世界」を結合したのです。どのように、、、。どうしても実体としか見えない仮象に、対峙し続けたのです。一瞬も仮称の世界、虚の世界の中に、神々は吞み込まれなかったのです。虚であることを見続けたのです、感じ続けたのです。その虚の力を、創造の中に永遠に取り組み込み続けたのです。もし、全能の神が悪の可能態である虚を、実と捉えた瞬間に、宇宙は崩壊するでしょう。神の能動的な創造力と虚の世界が結合した時、永劫の熱が生まれたのです。宇宙は熱宇宙となったのです。そしてこの熱が人間の血液の熱、体温の大元を作ったのです。人間がこの結合の中から、出現したのです。