萩原朔太郎『悲しい新宿』を読んで………。

戦後の新宿歌舞伎町に出来た「喫茶王城」(名前のとおり大型の喫茶店だった)が今は各階の空間を利用してイベントやダンスの公演などの文化交流の場となっている、と土方巽アーカイブの森下隆さんからきいた。もう久しく新宿に行っていない。歌舞伎町もさぞかし変わっただろうな。懐かしいぃ〜。
家族で新宿区西大久保に引越したのは、1951年の秋のこと。直ぐに私は大久保小学校の一年生に編入する。当時は今の新宿区役所も建っておらず、後に区役所通りとなる我が家の前の道は石ころだらけの道だった。引っ越した家から出て左に坂を下ると歌舞伎町内になり、1956年に施行された売春防止法までは赤線地帯で、その後も非合法で売春が行われていた青線地帯。家を出て右にまっすぐに行くと大久保小学校があった。

萩原朔太郎『悲しい新宿』というエッセイが青空文庫にあった!

「世田谷へ移つてから、新宿へ出る機會が多くなつた。新宿を初めて見た時、田圃の中に建設された、一夜作りの大都會を見るやうな氣がした。周圍は眞闇の田舍道で、田圃の中に蛙が鳴いてる。そんな荒寥とした曠野の中に、五階七階のビルヂングがそびえ立つて、悲しい田舍の花火のやうに、赤や青やのネオンサインが點つて居る。さうして眞黒の群衆が、何十萬とも數知れずに押し合ひながら、お玉杓子のやうに行列して居る。悲しい市街の風景である。」(冒頭の文章から)

朔太郎の『小泉八雲の家庭生活』も読み……おもしろい!
小泉八雲は、最晩年の二年間を新宿区の大久保小学校に隣接する屋敷で暮らし、大久保小学校の生徒に長いこと英語を教えていたという。ということは、小学生の私は毎日ラフカディオ・ヘルン(朔太郎の表記)の家の前をとおり学校に通っていたのだ。現在は、此処が八雲の終の住処だ、という立派な碑があるらしい。私が通っていた頃にはなかったけど。
今日の歌舞伎町………大久保小学校界隈はどんなだろう………想像もつかない。また行けるかしら?

子どもの頃に体験した………歌舞伎町や大久保界隈の………あの色………匂い………音………人々………光と闇………過去の記憶が私の内に流れてくる………。