2008.7.1

30年以上前のことなので、題名はすっかり忘れてしまったが、高椅たか子さんの小説で、自殺をするために三原山の火口に向う親友に同行して友の死を見届け る、というのを読んだことがある。観念小説とでもいうのだろうか、クールで乾いた文体のたか子さんの小説は、その頃子育て真最中の私には、暑い日に冷たい 湧き水を飲んだ時のような気分になったのを憶えている。“なるほど、自殺幇助か・・”現実には考えられないこんな言葉が、育児に追われている私の頭脳の隙 間にすぅーと入ってくると、妙に身体がすっきりして、3人の小さな息子たちにたち向うエネルギーが出て来たものだ。
ところで先日、インターネットで「苦しまずに死ねる薬」の広告を出した男のサイトに、自殺するのを助けて下さい、という女性からの書き込みがあり、その男は出かけて行って本当に助けてあげて、その女性は死んだ、ということを新聞で読んで驚いた。まさしく自殺幇助だ。
世の中に鬱病の人が多いと言われている今日、そういう人たちにとって、自殺幇助人は願ってもない存在だろう。私も経験したことだが、鬱状態になると、生と 死が反転して“生きるために死ななくては”という論理が成り立ってしまう。“死の世界が私の生きる世界”という思い込みが、次第にリアリティーを持ってく る。それは丁度、コンピューターの中のバーチャル世界が次第にリアリティーを持ち始めるのと似ている。すると「死」さえも、とても簡単に、まるで劇場のチ ケットを予約するように、予約でき、代金を払い、実行できる。なにしろ、バーチャルだから言葉が軽い。かつて西欧には、甘美な音楽を奏でて、実は愚かな人 間を死出の旅路に誘ったという“死神”がいたというが、コンピュータと死の関係は、そんなロマンティックなものではない。
やれやれ、コンピュタなんか無くなってしまえ、と怒りつつも、一方で目下調子最悪の我がiBookと格闘しながら、もう古くなったから買い換え時かな、などと思ったりしてしまうのはなぜだろう?