2009.2.20

1月初のアフリカ系アメリカ大統領オバマ政権誕生という輝かしいニュースから、我が家では三男瑞丈のニューヨークダンス留学、91歳になる叡の母の思いも よらない救急車での入院~転院~退院に続く介護の日々(あの年代特有の凄まじい不屈の精神力で既に快復)、さらに派遣切りやら振込詐欺やら特別給付金問題 やら、どうなっちゃんだろうかと他人事では済まされないテレビニュースとつき合いながら過ごしているうちに、もう二月もあとわずか、気がつくと数年前道路 脇に植えたクロッカスが二つ三つと咲いている。欠食児童みたいな蕾みだが何ともいじらしい。
もともと二月が大好きな私。早春、浅春、春寒、立春。春近し、春の目覚め、萌え出づ、萌葱色、啓蟄、”春よこい、春よこい、あるき始めたミヨチャンが、紅 い鼻緒のじょじょはいて”・・・と、とりとめもなく思い浮んでくる言葉からでも、光と色と匂いの予感をかんじる。まだ冷たく透明な大気の中で何かが蠢きは じめ、冬の間深く内に向かっていた五感が外に向かって開き始める。
かつての私の女学校では、春の修学旅行は奈良と京都だった。東海道本線の夜行で明け方の京都に着くと、直ぐバスで奈良に向かった。まだ吐く息が真っ白に変 わる冷たい外気の中を、高速で走るバスの車窓から見た大和の山々の春の曙のあまりの美しさ神々しさに、思わず「はるはあけぼの。やうやうしろくなり行く。 山ぎわはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と、古文で習った『枕草子』を口の中でもぐもぐ唱えているうちに、奈良に着く頃、密か にワープした私は平安時代の清少納言になっていた。
光の中に春の兆しが感じられる頃、街角の花屋さんに真黄色のラッパ水仙、白や紫のフリージャー、ピンクのスイトピーが揃う頃、いつもあの時の春のあけぼの の空の色合いが脳裏に浮かぶ。何かが生まれて来るという予感。すべてのものが愛おしく思われる瞬間。世の中を憂えることもなく自分の内なる予感にひたすら 耳を傾けていた女学生の頃が懐かしく思い出される。どんな世であったとしても、青春は美しく未知の予感に満たされてあってほしい。