EURYTHMIE WS IN HP akira kasai 6 Mai

WS 9
皆さん、こんばんは。もう、7時半になってしまいました。
コロナの出来事以降、一番感じるのは時間なんて、あるようでいて、ないなあ、という実感です。コロナが奪い取ったのは人間の健康よりも時間かもしれません。ここのところ毎日、進化論的な時間の流れの中から、歴史とか日常とかを眺めてみる時間が多くなりました。時間の流れよりも、その流れを外側から眺めている非時間的視点の方がリアルだからかもしれません。
今日は猿から類人猿アウストラロピテクスへの移行についてイメージし続けておりました。この類人猿が出現したのは今から4百万年年前くらいだそうで、さらに、最古のサルが出現したのは六千五百万年前、と本には書かれていますから、この移行には、ほぼ六千万年以上かかっていることになります。この六千万年かけて、アウストラロピテクスは直立したのです。そして歩いたのです。このことに思いを寄せてみると感動もしますけれども、涙が出るほど、いじらしいともいえます。こうしてはいられない、厳粛な気分にもなります。
どうも進化論の本など読んでみると、進化の中には一つの厳然たる法則というか事実があるように思います。それは、「同じ進化は二度と起きない」ということのような気がいたします。アウストラロピテクスが無事、人類にまで進化したとするならば、そのような進化的事実は人類史の中に1回しか起こらないということではないでしょうか。アレキサンダー大王の東征も1回だけですし。ゴルゴダの丘におけるキリストの十字架も1回だけでしょうし。太平洋戦争も1回だけでしょう。昭和の時代もたった1回でしょう。ポストコロナ時代が過去の人類史に生じなかったような新しい時代であるとするなら、今私たちが経験しているコロナ事象はいつまでかかるかわかりませんけれども、1回だけなのかもしれません。
それが正しい判断かどうかわかりませんけれども、ポストコロナ時代いうのは現在よりもさらに情報文化とAI文化が中心となり、人間の生命圏は情報時空間の中に移行していくのか、さもなければ人間は全く新しい生命圏を自分のカラダの中から生み出し、新エーテル宇宙の中に自分の生存の場所を創っていくか、そのわかれ目にあるのかもしれませんね。
進化において、類人猿とホモサピエンスはともに直立はしているわけですから、体形的にも共通であり、「吠える」だけではなくて、分節化した発声をしたはずです。類人猿は今日いうところのヴォカールやコンゾナンテのような発声を、内的な衝動に従って行っていたのではないでしょうか。それに対して、ホモサピエンスは1音節2音節場合によっては3音節のようだ、単語を形成する力を記憶と結びつけることができたのではないでしょうか。まあ勝手な推測ですけれども。思うに全自然界には「原創造力」とでもいうような力とともに、すべて自然界は進化してるのだろうと思います。ただ、その進化を行わしめる原創造力を「誰が行使するか」ということで考えれば、類人猿もホモサピエンスも自分自身でその原創造力を使用することはなく、それは後の神話形成期においては、神であったり宇宙それ自身であったのかもしれません。ただ、六千万年の間、一瞬も途切れることなく、アウストラロピテクスに働きかけ作用し、衝動を与えたのは原創造力でしょう。
私の中に流れている原創造力とアオストラルピテクス中に流れている原創造力は同じだと思います。何万年もの間この原創造力は大自然全体の中に働きかけていると思います。人間の歴史形成の中にも社会形成の中にも、その力は流れている。けれども、流れることができないのは AI の中です。コンピューターの中です。情報機械の中にはどう頑張っても原創造力は入ることはできません。にもかかわらず、ポストコロナの時代はますますこの原創造力を受け取ることのできない生命圏の中に、人間は生きていかなければならないのです。原創造力が宇宙から消滅することは決してありません。ただ、その力をこの宇宙の中でたった1回だけ使用する、進化論的な言い方をするならば、新しい生命圏を作り上げるよう、その原創造力は地球働きかけているのでしょう。かつて神話の時代には神が、宇宙が使用したこの原創造力を、今人間は何に向けて用いようとしているのでしょうか。何に働きかけているのでしょうか。
練習1  12の子音の進化BMD NRL G CH F SHTを、口腔で発声しながら、両手片足で動く。
練習2  12の子音の進化を発声せずに、口腔と両手片足で動く。
練習3  12の子音の進化を発声せずに、両手両足だけで動く。その時に、動きの力は心臓から両手両足に集中して流す。
練習4  12の子音の進化を両手両足を動かさずに、自分を取り囲む空間全体の中に、原創造力だけを流して、動く。