今日の日差しは美しい。キッチンからその美しい光を眺めていると、頭の中に「Nobody is here」ということばが浮かんかできた。アキラが三東瑠璃さんと大植真太郎さんに振付たダンス作品のタイトルだ。

今、吉増剛造『詩とは何か』を再読している。初めて読んだ時の新鮮な感動が蘇ってくる。

「詩作とか芸術行為というのは、「わたし」が主役ではないのです。自分が気がつかないことを、ふっと、………そんな仕草の中にこそ、おそらく「詩」というものは、少しだけ感じられるものでしょう。」

前読んだ時に赤線を引いた箇所。また、初めて出会った文章のように緑の色鉛筆で線を引く………少しずつ深く入っていく。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの『終わりと始まり』を本棚から持ってきて開いたら、2012年2月7日の朝日の夕刊の切り抜きがでてきた。ロシア・ポーランド文学者 沼野充義の「ポーランド詩人・シンボルスカを悼む」という追悼記事。詩人は、2012年2月1日八十八歳で肺がんのためクラクフで亡くなった。

「クラクフ」って何処?ネットで調べてみると、東はウクライナ、西はドイツ、南はチェコとスロヴァキア、北はバルト海に囲まれた自然豊かな「平原」(クラクフの意味)で、ポーランドの南に位置していて、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所もあり………。

「詩の好きな人もいる」   ヴィスワヴァ・シンボルスカ/沼野充義訳

そういう人もいる
つまり、みんなではない
みんなの中の大多数ではなく、むしろ少数派
無理やりそれを押しつける学校や
それを書くご当人は勘定に入れなければ
そういう人はたぶん、千人にふたりくらい

好きといってもー
人はヌードル・スープも好きだし
お世辞や空色も好きだし
我を張ることも好きだし
犬をなでることも好きだ

詩が好きといってもー
詩とはいったい何だろう
その問いに対して出されてきた
答えはもう一つやふたつではない
でもわたしは分からないし、分からないことにつかまっている
分からないことが命綱であるかのように

明日は、ドイツの友人ビジョーから貰った、ネシンボルスカと同時代の詩人、ローゼ・アウスレンダー(ドイツ系ユダヤ人)の詩を読んでみよう………ネリー・ザックス………パウル・ツェランの「誰でもないものの薔薇」も……………動乱の時代、他民族国家の中で生きた詩人たちの言葉に触れてみたい。

おやすみなさい…………明日も美しい日でありますように。