先日、岩手県の北上市に、今から20年程前に創設された日本現代詩歌文学館いおいて、林浩平氏のプロデュースによるイベントが催されました。第一部は氏の司会による吉増剛造氏と笠井の対談。二部は吉増氏の詩の朗読と笠井のダンスのDUOパ^フォーマンス.
この時、初めて平成23年3月11日の震災とオイリュトミーの「動き」が結びついたのではないか、と思えました。
流されて
もうないはずの
橋朧(おぼろ) 永瀬十悟さんの句
この縁で、来る3月11日(月曜日)、国分寺天使館において、ささやかな「催しの時」を持ちたいと思います。「未来からの声が聴こえる」と題された日本現代詩歌文学館から出版された俳句と短歌を、「語り」を交えた笠井叡のオイリュトミーとして、皆様に体験していただければと思います。午後7時半ころから始めます。参加は無料ですが、喜捨は感謝。
参加ご希望の方は、本人一名にて、メールでお申し込みください。
info@akirakasai.com まで。
忘備のための夢記述
見知らぬ町の、とある骨董品店。鉄で出来た品物を探している。小さな鉄の壜を買い求めようとする。表に出ると狭い道をトラックが猛スピード飛ばしている。山頂に雪を抱いた山の尾根の麓に、また骨董の店。そこの製品はあの山の頂上から来るらしい。尾根に沿って、空中に浮かびながら、山頂へ。山の上に小さな街がある。二人の暴走族が山頂から、バイクで下って来て、そのまま崖下に突っこみ、バイクは大破。その壊れたバイクに向かってピストルの弾を狂ったように撃ち込んでいる。空は青空。ワタシは山頂から下界まで、空を飛び降りようとするが、、、、、その先どうなったのか不明。
その後、地面から稲穂のように鉄が生えて来る。
このところ鉄に関する夢が続いている。他人の夢ほど、それを知らされた者にとって無意味なものもないが、忘備記として、ここに書いておきます。
目を覚まして、午前中に荷物をまとめ、久子と列車でナントまで行き、タクシーで空港へ。照明のオーギュスティンが同行。そこから一時間ほどで南フランスの都市トゥールーズへ。飛行機は大雨の中を着陸。
芭蕉を踊る
文芸春秋から出ている長部日出雄さんの「古事記の真実」を、こちらに来てから二回読みました。そのなかに印刷術が発明されてからも、ヨーロッパではかなり長い間、書物は黙読ではなく、音読されていた、と書かれています。
今日、CNDCのワークショップの最後は、松尾芭蕉の俳句をフランス語訳で即興的に踊る、と言う課題に取り組んでもらいました。俳句こそ、音読しなければ、言葉の味はでてきませんが、そのフランス語で五七五のリズムをイメージしながら読むと、声明のようなこれまで聞いたことが無い美しさを感じました。アナリサの朗読は母音をぎりぎり延ばせるだけ延ばしてなを、フランス語の語感を保っていると言う感じで、その朗読で動いた参加者の感じがとてもよかったのです。ちなみにテキストは
Viens me voir ici 這出(はいいで)よ
De sous la magnanerie かひがや下の
Une voix de crapaud ひきの声
そのあと、「自身で声を出しながら動く」と「声を抜いて、発声力をカラダに流しながら動く」を交互に何度も行ないながら踊っているうちに、多くの異なった民族の人たちが集まっているこのクラスの中に、言葉とカラダが解け合っていく空気が漂い始めました。
皆、日本に来たがっていましたよ。
スタジオの三階に住んでいる通訳のYUKOが、その後カレーパーティーを開きました。CNDC の五日間のWS,終了。
CNDCでのワークショップ、三日目
今日でCNDCのWS、三日目。フランス人を始め、エジプトのマーメッド、イランのアリ,ポルトガルのリタ、アフリカのアマル等の多国籍20名の参加で、あとイタリアの振付家クラウディアが同席。全員大変熱心で、全く新しい事柄に挑戦している。今日は始めに、一時間ほど全員での話し合い。テーマは「カラダをどうとらえるか?」「動きとは何か?」について。
カラダを五つの観点から、すなはち「カラダと言葉、社会、意識、魂そして物自体」から観るという意見。アマルはちっよと変わっていて、カラダに関してのみ、そのような「問いを立てない」と言うのがいいと。カラダはそのような問いを立てた瞬間から、カラダそのものから遠ざかるから、と言う意見。三谷裕子さんの通訳を交えて、あっというまに一時間半経過。
次に笠井から「対象」としてのカラダと、「表象」としてのカラダについての説明。そばのピアノを鳴らし、その音はカラダの外で鳴っているのか、それともカラダの中で鳴っているのか、と言う問いかけに、「内と外の両方」と言う捉え方が多数でした。
次に実際に一人一人「対象としてのカラダ」と「表象としてのカラダ」を交互に動いてみる。
ほんの僅かな身体感覚の違いを捉える高度な練習。最後にバッハの「フーガに技法」の振付の練習で終了でした。
エマニュエルの飛躍
昨日、セントナザレ公演が終わりました。公演前はいつもと変らず、その前のアンジェ最後の公演の反省会。
私はその日の観客、場所等に「動き」がかなり左右されるので、それに合わせるのがエマニュエルにとって、大変そう。話し合いで決めたことも、守らないことがしばしば。マチューからは、「kasaiさん、エマニュエルがいること、WASURENAIDEKUDASAI、、、、」とよく言われる。
「よし、今日はすべて決めごとどうりにいくぞ、、、、」と自分に言い聞かせて、舞台に行く。気持ちも彼女の動きに出来るだけ合わせながら。すると、時間た経つにつれ、彼女はしだいに動きに「伸び」が出てきて、大胆になって来るくるではないか。そして遂に彼女は「彼方の世界」にジャンプした。やはり当方はエマニュエルの飛躍の「基」にならないと。。。。
終ってまた,いつもの港の近くのレストランでワイン。久子はなんと静かに、ステーキを食べているではないか。ここのオーナーはかつて、サッカー選手で、ワールドカップの試合で日本に来たことがあるのだそうだ。リットバスキーやルメニゲの時代に。
今朝午前中に、新幹線でアンジェに戻りました。
セントナザレ
昨日、フランス西海岸の街、セントナザレに到着。
この街はかつてドイツ軍と連合国軍が激しく戦闘し、市のほとんどが壊滅したので、いま建っている建物は新しいものばかり。最近まで破壊された軍需施設が残っていたそうだが、その後町は、劇場や文化施設を創って、アートの町として甦った。
劇場はすばらしく、20メートルの高さから、スポットライトが落ちてくる。夜は光の中に揺れる、暗い港の前のレストランでステーキと白、赤ワインを飲みました。
話は飛ぶが、劇作家の川村毅さんが鶴屋南北戯曲賞を受賞。こころよりお喜び申し上げます。
久子のとこに来た平井さんのメールによると、この受賞対象となった「フォー」は、「AOI-KOMACHI」とともに川村さんにとって、一番苦しみの中から生まれた作品だそうです。
川村さん。。もう一度「AOIーKOMACHI」が再演出来たらいいですね。
再び夢
「左側に、大きな鉄の棒で形造られたひとの顔。右側に、同じく鉄の棒で形造られれた大きな人体。」
「私の隣に二歳年上の姉がいる。右の人体に向かって、私は姉に説明する。『この鉄で造られた人体においては、ひとつひとつの臓器はそれに対応する神の働きに結びつている。』人体の臓器はひとつひとつ神と結びついていると。そしてさらに、姉に向かってこう言う。『この鉄の人体に”彩色”するために、自分は生きて行きたい』と。」
「次に左側の鉄の棒で造られた顔を見ると、”ボディーサトヴァ”と書かれている。」
「目の前に川が流れている。その川を渡ると、視界が広がり、彼方に三本の樹が立っているのが見える。新緑に輝く豊かな葉に包まれて。葉は風に揺れて美しい。あまりの美しさの故、涙が出る。」
しばらくして目が覚める。何度も今見た夢の光景を、こころの中で反芻する。
最近、夢の中で涙する事が重なる。夢は現実以上の現実で、時に、一生を左右するほどの影響力がある。
今日はOFFfなので、午後久子と散歩にでる。近くのゴチック様式の教会に入ると、パイプオルガンが雷のような轟音を響かせて、石の会堂内に響き渡っている。しばらく木の椅子に座って、皮膚が震えるような音のシャワーのなかで二人とも黙す。それから何度も行ったアンジェ城へ、自然に足が向き、1000年前の中世にワープ。凍えるような空気のなか、部屋へ。
雪まみれ
雪と氷に大地が覆われたアンジェで、最後の公演が終りました。計五回。
カラダの動きは、それを測る測定器というものを必要としている。けれどもダンサーはヴィデオ映像のように、自分のカラダを、外側から見るわけにはいかない。ダンサーはカラダの内側から、「動き」を測定しなければならない。この測定器をどのように持つかは、みな人それぞれだと思うけれど、自分の場合は、やはり「純粋知覚」といか言いようがない。
つまり知覚が働いた時には、すぐにその知覚は記憶と結びつくが、この記憶と対象が結びつく以前のところに留まりつづけ、その状態を意志的に持続することなのだ。
純粋知覚の中では、劇場は劇場以外の何ものかである。空間を照らしている光は光以外の何ものかである。
昨夜は劇場の中に雪を敷き詰めて踊りました。エマニュエルも多分その雪の上で踊っていました。目には見えませんが、二人とも雪まみれいなって動いていたと思います。
雪
今朝、窓に目をやると、雪景色。向いの屋根に、チョコレート菓子にまぶした粉砂糖のような、ふんわりとした雪。ふと、ポール ギャリコの「雪のひとひら」を思い出す。空から舞い降りた雪のひとひらが天に還るまでまでのお話。矢川澄子さんの訳で日本語になった。彼女も、もう天に還って行った。
昨夜のエマニュエルはいままでになく、のびのびしており、即興とユニゾンの振付の案配がとても自然だった。これまで何十回となく行なったDUOのすべての成果がそこに実っていた。そのような翌日の舞台はむつかしい。その時の体験にとらわれてしまうので。
雪は人々のこころに、純粋知覚を齎してくれる。この雪を、舞台のうえに敷き詰めて、アンジェ最後の舞台を乗り切ろう。
純粋知覚
アンジェの街を歩いていると、前世からの記憶が甦ってくるような気分に襲われる。純粋知覚とは、一切の思い込み、記憶を排除して、あるがままの対象を知覚することだが、この純粋知覚で、この街を歩いていると、いまこうしてここを歩いているのは、ダンス公演のために来たのでもなく、フランスから呼ばれたから、ここにいるのでもなく、一種の「運命的必然性」によって、ここにいるとしかいいようがない。純粋知覚のなかにいると、すべての出来事が必然として、生じているのであり、そこには自己の意志なぞ、微塵も入り得ない、「生のままの生」の流れが現れてくる。
アンジェは典型的な中世の城を中心にして造られた町であり、1000年の時間も流れが生き生きしている。城は堅固な城壁に囲まれている。そして城の中には小さな街がある。ここにいると、今の生と前の生がそのまま繋がるのだ。そしてこの純粋知覚のまま、気合いを入れて舞台に飛び込むのだ。
夢
昨夜、ブログを書き終えて眠りに入ると、すぐに夢を見ました。なんと、寺山修司が闇の中から、ぼんやりと出現したのです。何かを言いたげでしたが、言葉にならないもどかしさを感じました。演劇的犯罪を試み続けた寺山のことだから、あのブログに何か言いたかったのかもしれません。(ブログは死者にも通じる)
敢えて言えば、その時の彼の身体には、なんと言うのか、演劇でもダンスでもない中間を感じました。
今日はここフランス、アンジェは午後から雪が降るとの知らせ。でもここから見える空はまだ雪模様をまったく感じさせない。
angers舞台二日目
ダンスと演劇を比べるならば、言葉を中心とする演劇と、行為(動き)を中心にするダンスの違いということになるが、本質的には、「表現」と「現実」の違いという事になろうか。舞台で踊っていて常々感じるのは、なにかを表現しようとしているのではなく、ひとつの現実を創りだそうとしている、ということであり、そしてこの「生み出された現実」が日常的現実よりも、遥かににリアリティーを有しているというという事を確認しようとしている自己自身である。演劇におけるリアリティーが「変身」のリアリティーであるとするなら、ダンスは変身ではなく、ただ真の自己自身であろうとする。「鉄」という素材で何を創りだせるか、ではなく、ただ、「鉄という素材が何か」ということだろう。
ダンス空間は表現と現実、変身と自己、表現と暴力の両極を行き来いしているように思える。犯罪者にとって、しばしば犯罪自体が表現である場合がある。
ダンスが演劇空間に接近するにしたがい、ダンスは弱体する。反対に現実、自己、暴力、犯罪的であればあるにしたがい、ダンスはその強度をます。
という意味で、どうも二日目の舞台は演劇的空間のベクトルへと傾いていたとのではないかな?
angers舞台初日
今夜はアンジェにおける「spiel」公演の初日。
これから本番というときに、また長めのdiscussion.
日本では、そんな時に話し合いなぞ、ほとんどしない。これから清水の舞台から飛び降りようとする時、「この舞台をする意味について」、話し合うということは。
けれども、こう言ってよければ、ヨーロッパ、とくにフランス人はいざという時、お互いがいま何を思っているかを、言葉や動作で確かめあうというのは、とても大事なことなのだ。エマニュエルと舞台を続けていて、つくづくそう感じる。例えば、長く恋人同士であっても、つねに言葉で、自分が相手に対してどう感じているかを、確かめ合おうとする。(むろん彼女とそういう関係ではないですが)
人間にとって、恥と不安というのは、存在に対する原感情のようなものだと思う。この場合、多分「恥」と言うのが、日本人の原感情であるとするなら、「不安」とは、フランス人にとっての原感情なのではないか。。。。自分の気持ちをいちいち言葉にするのが、不得手な私にとって、エマニュエルと踊っていて、このことを、常々勉強させられている気がする。
という訳で、今日も初日、何とか終えました。
アンジェ初日
昨日午前11時半に離陸し、パリ空港にはYuukoさんがわれわれ二人をピックアップ、夜7時頃、アンジェの宿舎に到着しました。
今回はあまり時差を感じず、なにか、国分寺から原宿に来たくらいの感じで、着いた夜の町の風景も、それほど時空の歪みなく視界に入ってきます。今朝6時まで、熟睡。10時過ぎにエマニュエルが車で迎えに来てくれ、CNDCへ。ここには700と言う劇場と400と言う劇場がある。今回は400のほう。14日から18日での5日間、「spiel」を公演します。三方を客席で囲まれた天井の高い、ブラックボックス。
一時間ほど、前回のパリ公演に着いての感想や反省。
「spiel」は私とエマニュエルのDUO作品で、ヨーロッパではすでに4都市で公演されている。今回のCNDCの公演は8年間エマニュエルが務めたCNDCの芸術監督の退任公演なので、アンジェ市でも注目されている。切符も完売。気合いを入れて明日、ゲネプロです。
新しい虹
以前から、思い出したくてなかなか全文が思い出せなかったヘッセの詩を、最近
やっと思い出せたので、忘れないうちにここに書かせてもらいます。
新しい虹
神の息はあちこちに
また上下に吹きただよい
光が歌ういく重の歌
神が光彩の世界に化す
白は黒に
暖は涼に
絶えず新たに
吹き付けられ
湧く混沌のなかから
永久に
清まりなる
新しい虹
世界がいま「新しい虹」を、
欲しているのだろうと思います。それは丁度ノアの大洪水のあとに、世界に初めて虹が
現れたと時のような。一度全てが崩壊したあとに顕われるような。湧く混沌のなかから
清まりなる新しい虹を。
フランスツアー
明後日の11日から、一ヶ月ほどフランスに滞在します。エマニュエル・ユインとのDUO作品を、アンジェ,セントナザレ、トゥールーズの三都市で公演するため。ちなみにこの作品は5月に東京で上演します。私はまったくフランス語が出来ないのですが、このDUO作品は、困難な異言語を、お互いに通訳を介しながら受け取る作業によって、その言語的差異の中から深められていくという体験があり、それが私にとっては新しい未知の身体性を生み出していると、感じられています。たぶん、リハーサルでは踊った時間より,喋りあった時間のほうが、はるかに長かったです。このツアーの間に、一週間ほど、CNDCで授業します。
近江の国
昨夜、近江の国の、とある小さな鄙びた町に行く。新幹線の米原で近江鉄道に乗り換えると、世界が変わる。というより新幹線が関ヶ原を通過するあたりから変わるのだけれど、そこは何というのか、日常の中に忍び込んでいる、幽界の入り口のような、あるいは夢の世界への入り口のようなところ。だから、近江鉄道はただ乗っているだけで、いい。
泊まった宿のおかみさんは観音様のような、微笑を絶やさず、そして欲が無い。
そこは、蒲生郡(がもう、あるいは、かもぐん)と言うが、それは大石凝真須美によれば、『人を醸(かも)す』ところのこと。日本国を一人の人と見立てるならば、そこは日本の「喉」である。
大国魂神社
正月二日
大晦日、御岳山に登ったために、足の関節痛し。情けない。
午前中は新聞を時間かけて読む。年間ほとんど新聞もテレビも
パソコンも見ない生活。ただ直感で、世界の出来事を感じているだけ
の生活なので、新聞活字を通して、回りの出来事に触れるということ
が、新鮮に感じられる。でも何時まで続くことやら。
久子が初詣に行きたいというので、11時車で関東でもっとも古い神社のひとつ
府中の大国魂神社へ行く。ものすごい人出。神前に辿りつくまでに1時間かかる。でもまわりの
出店を眺めているだけでも楽しい。ケバい付け睫毛のテキ屋の姉ちゃんの顔、なんとか焼き、なんとかソバ
の匂い。参拝後、ジャンボたこ焼きを1箱買って、熱いうちに、府中の森美術館の側で食べる。
夜は年賀状の返事を筆で書き、ポストに。外の寒さ、身に滲みる。
たぶん羊羹の食べ過ぎです。
みなさん、初夢は如何でしたか。
明けましておめでとうございます
昨年はいろいろお世話になりました。今年はブログ頑張ります。
久方ぶりに大晦日の晩、明け方二時頃の臨時電車に乗り、一時間半ほどかけて御岳山に登り、初日の出を見ました。同行者はオイリュトミストの禮示です。
今年はうっすらとした雲の間から、赤々とした光の響きを心臓で聴きました。山頂で蕎麦と御汁粉を食べ、午前10時ころに帰宅。それから午後、介護施設に入っている96歳の母のところに元旦の挨拶へ。
家では、朝日新聞の元日号をゆっくりと読みました。今年が皆様にとって、よき年でありますよう、お祈り
申し上げます。
